廃教会

伊吹八重

廃教会

 どうにかなってしまいそうなほどの熱気が、私をこの世界に閉じ込めていた。

 蒸し暑い日の帰り道、額にじっとりと汗が滲む。なぜ高校から駅までの道がこんなに遠いのか。学校は生徒たちを殺す気なのだろうか。

 日傘を斜め前に差す。足元に照りつける忌々しい日光を睨みながら歩いていると、「優花!」と聞き慣れた声が私の名を呼んだ。

 少し傘をあげてみると、そこには幼馴染の髙垣翔太郎の顔があった。

 自転車通学の結果だろう、浅黒い肌をしている。

「何?」

 ぶっきらぼうに答える私に構わず、彼は続けた。

「おまえのクラスにさあ、鬼淵春臣ってやついる?」

 鬼淵……あまり話題に上がるような人物ではないが、名字が珍しいので覚えている。

「……そいつ、家のヤバい宗教で教祖してるらしいよ」

「なにそれ、教祖って……」

「おまえ、気をつけないと洗脳されるぞ」

 彼は馬鹿らしく笑って、自転車を立ち漕いで去ってしまった。昔からあの男は、色々なことに首を突っ込んでは場を掻き乱す、さながら嵐のような男だった。

 ああ、それにしても暑すぎる。水分補給をしようとして水筒を手に取るが、さっき飲み干してしまったことを思い出す。

 鞄が異様に重い。目に入りそうになった汗を拭いながら、なんだか足取りもおぼつかない。

 いつの間にか私は道に座り込んでいて、途端に意識を失ってしまった。

 しばらくして、顔に吹きつける不規則なそよ風と人の気配に目を開けると、目の前には心配そうな顔でうちわを旗めかせる、知らない中年女性がいた。

「あら、よかったあ。あなた、熱中症で道に倒れてたのよ。体調は大丈夫?」

 はっとして身体を起こすと、ここが教会のような場所だということに気がつく。私は長椅子に寝かされていたようだった。

「あの、ここは……」

「ここは聖セロニカ教会。あなた、近くの高校の生徒さんでしょう? 心配しなくても大丈夫よ。怪しい場所じゃないからねえ」

 聖セロニカ……聞き覚えがあると思えば、駅から高校までの裏道にある小さなあの教会か。辺鄙な場所でないことに安堵する。

「ご迷惑おかけしてすみませんでした。もう体調は大丈夫なので帰ります」

「まあまあ、これも何かのご縁だわ。せっかくだからセロニカ様と面談していきなさいね」

 中年女性は朗らかな笑みを浮かべつつも、強引に私を引き留めた。そして彼女は私が鞄を持とうとする右手を、そっと下ろさせた。

 両開きの大きな扉の中へと半ば強引に入れられる。とても狭い部屋だ。

「……ようこそお越しくださいました。清瀬優花さん」

 小高い段上の豪奢な椅子に座って私を見下ろしていたのは、紛れもなく鬼淵春臣だった。嵐のような幼馴染の言っていたことを思い出す。カルト宗教の教祖……噂は本当だったのか。彼は私が来たことに対して少しも動揺せず、全てを見透かすような眼差しでこちらを見つめている。

 私は遂に口を開いた。

「鬼淵春臣、でしょ? 何してるの、こんなところで……」

 彼はにこやかに答えた。

「僕はこの教会の教祖をしてるんだ。……噂、聞いたことないかな」

「……聞いた。噂のこと、知ってたの?」

「うちの学年の保護者がたまたま面談に来たんだ。一昨年のクラス写真で見たことがあるって言われてね、」

 学校で見た姿よりも随分大人びているせいか、タメ口で話すのがなんだか落ち着かない。それに、こんなにちゃんと話すのは初めてだ。

 少しずつ背中が湿っぽくなっていく。数センチ後退りしても、この部屋は狭かった。

「なんで、こんなことしてるの……?」

「僕は天の使いなんだ。ずっと昔から」

 彼は神々しい純白の衣服を幾重にも着重ねていながら、額に汗ひとつ浮かばせていなかった。なぜ彼はそんな馬鹿げたことを言うのだろう。

「僕には神の声が……」

 彼はそこまで言うと、突然うつむいて、唇を嚙み締めた。それから徐々に、両目に涙がたまり出す。

 下から仰ぎ見る彼は、ずいぶん不幸そうだった。

「……もういいよ、そういうの。私には言わなくていい、信者でもないんだから。そんなに嫌なら逃げ出せばいいのに」

 彼はゆっくりとこちらを見ると、へたくそに笑った。

 「そうできたらな……」

 私たちは住む世界が違っている。それが痛いほどわかった。思考を巡らせても、背景に何も見えてこない。

 彼は白い衣で涙を拭くと、続けた。

「母親が、ね……仕事でやってるんだ。意外と稼げるんだよ、新興宗教」

 「母親、って……まさかさっきの人?」

 中年女性のことを話すと、彼はぼんやりとした目で少し考えた後、私を再度見た。

 「ああ、あれは信者だよ。彼女、熱心な人でね……でも窃盗癖があるんだ。君は何も取られてないといいけど」

 私はあわてて鞄の中を確認する。なにか盗まれている様子はなかった。

「なんでそんな人が教会にいるの……?」

「さあね……きっと、何かに縋りたくてしょうがないんだろう。彼女のような精神を患っている信者は、他にもたくさんいるんだ」

 中年女性の言葉を思い出す。面談……彼女たちと何を話すのだろう。尋ねると、彼は遠くを見つめて答えた。

「ただ全肯定するだけ。拠り所のない人ばっかりだから、優しくしたらすぐカモれる」

 彼はからっぽに見えた。笑顔も、実体もないようにそこに居る。

「……もう時間みたいだね」

 彼は私の頭の上方を見上げると、わずかに目を細めた。振り返って見上げてみると、扉の上の壁に掛かっていた白い時計が音も無く動いていた。十分ほど経ったようだ。

「じゃあ、またね。学校の皆には、あいつはインチキ宗教の詐欺師だ、とでも言っといてよ」

 彼は頭をもたげてうわべの笑い声をたてる。私はその仕草がどうにも愚かに見えて、苛立った。

「なんでそんなこと言うの、」

 責めるような鋭い視線に、彼は不思議そうに首を傾げる。わからせてやろうとも思わなかったが、語気を荒げてしまった。

「ねえ、誰よりも不幸になりたいんでしょ。だから今よりもっと酷くなろうとする」

 私は畳み掛けた。なぜこんなに饒舌になったんだろう。

「なんかそういうの、気に入らない。世界で一番不幸じゃなくても、不幸そうな顔してればいいじゃん」

 そのとき彼は、複雑な影が差す苦しげな顔をした。

「そんなこと言わないでよ、」

 踏み込んではいけない所に、足を踏み入れてしまったのかもしれない。私たちは互いに見つめあった。なんだか居た堪れなくなり、私は小さくうめいて、その場から走り去ってしまった。

 


 翌日、鬼淵春臣はちゃんと学校に来ていた。私の視線に気がついているのか、いないのか、よくわからないが、彼とは少しも目が合わなかった。

 昼休みの時刻、彼は机で突っ伏していた。私たちの間には透明のヴェールがある。今はこんなにも彼が遠い。それでも、私は意を決して彼の肩を叩いた。

 眠ってはいなかったようで、彼はすぐに顔をあげた。私だと認識すると、少しだけ怯えた色を見せる。指先で軽く前髪を撫でた。昨日はあんなにも堂々としていたはずなのに、その仕草はまるで青年らしかった。彼がなにか言う前に、私は口を開いた。

「あの、昨日は……ごめんね」

「……君が謝ることなんてないよ」

 彼にそう言われると、全てを赦されたような気分になる。もう純白の衣装を纏っていないというのに。

 少しの間、静寂が流れた。窓の外には葉桜が茂っている。まだ新しい艶やかな葉を、陽の光が照らした。

「あの、なにか用かな」

 困惑した様子で、彼は迷惑そうに笑った。

「……今日の放課後、少し時間ある?」

 とっさに口をついて出た言葉は、自分でもよくわからない。それでも、この糸を絶ってしまいたくなかった。

 意外にも彼は承諾してくれた。私を怖がっているのだろうかと思ったが、そういう印象は受けられなかった。

 六限が終わり、生徒たちはまばらに教室から消えゆく。下駄箱の真横に設置されたアイスの自動販売機で二つの味を買うと、私は教室へ戻る階段を登っていった。

 教室のベランダで、彼は風を受けて華やいでいた。

 「ごめん、お待たせ」

 私は焦って、味も選ばせずに片方のアイスを押し付けてしまった。

 彼は少しも気にしていない様子で、嬉しそうに目を細めている。

 「あのさ、」

 私は声を上げた。

 「……辞めたら、宗教」

 口にしてから、今あえて言う必要のない話題だったなと後悔する。彼は瞳を丸くして、それから砕けたように笑った。

 「まだその話、終わってなかったんだ」

 彼は微笑みを浮かべていながらも、その瞳の色は哀しげに見えた。何と返して良いのかわからず、遠くに目を向けてしまう。

 「心配してくれてありがとう、優花さん」

 不意に名前を呼ばれ、反射的に彼を振り返った。

 また、春臣は泣いていた。

 そして私は、二度とその話題を口にはしなかった。



 それから私たちは、幾度かの邂逅を果たした。あの教会に行くことはもうなかったけれど、教祖の役目がない日には、学校帰りに歩きながら話した。

 春臣は、教会の収益が沢山出ているらしく、私に何か高い物を買ったり奢ったりすることをよくしてくれた。でも、私はその為に一緒にいるとは思われたくなかった。

 彼は不思議で、別世界で、物の見方が大人っぽくて、でも性格は子供っぽくて、不均衡。馬鹿な同級生と話すより、よっぽど楽しい。

 そして彼はよく、母親の話をした。美人だとか、頭が良いだとか、彼は常時母親のことを褒めていた。自分を無理に働かせているのは母親だろうに、彼は全てを忘れたように語っていた。私は訳がわからず、愛を渇望している春臣がただ可哀想で、寂しくて、悲しかった。話の内容から、彼には父親がいないことは明白だった。

 彼となら、どこまでも歩いていけた。四十分歩きっぱなしの時もあったくらいだ。

 日の暮れた学校帰りの薄ら涼しさが、私たちの密会を助長させた。

 


 盛夏のとある日。また私は春臣と歩き回って、人気のない公園に辿り着いた。

 彼とベンチに座り、憂いを帯びた横顔を密かに眺める。毒に耐性がつくように、彼は何度泣いても瞼腫らさなかった。学校ではいつでも、何も知らない顔をできる。でも、彼は私の前だけでは素顔を明かせるらしかった。

 春臣は私に寄りかかる代わりに、金で物を与える。二人でいると、考えたくもないのに互いの対価について考えてしまうことが多くなった。

 彼は、あの場所に囚われ続けている。それでも、私にできることなど……。

 「……ねえ、優花さん。蚊がいる」

 春臣は睫毛を伏せて、微睡んだような瞳で私の剥き出しの腕を見つめていた。視線を蚊に移すと、私は手首を振り乱してそれを追い払う。その蚊は、やがて彼の元へと飛んで行き、手先に留まった。私は彼の手を取った。

 「何、どうするの?」

 「殺すのよ」

 「でも……」

 「じゃなきゃ、春臣が嫌な目に遭うの」

 私は彼の手を弾いた。

 私たちの手には、飛虫の欠片と赤い鮮血がこびり付いている。

 「こ、殺すなんて……」

 彼は幼い子供のような声で言った。

 「怖いよ……」

 私ははっとして顔を上げた。彼は泣きそうな顔で私を見つめている。

 どんどん、幼くなる。出会った時よりも、遥かにそう感じさせた。そう感じずにはいられなかった。身に纏っていた鎧が、経年劣化で剥がれ落ちていくように。

 「……大丈夫だから」

 私はそのまま、水道まで彼を連れて行った。蛇口を捻ってやり、水を出す。私たちの手に涼やかな風が流れた。二人は黙ったままで、水流の音だけが聞こえている。

 「……優花さんが最初に会った信者、覚えてる?中年の女性で、精神疾患の盗癖がある……」

 熱中症気味だった私を、教会まで運んでくれた女性のことだろう。春臣は深刻そうに告げた。

 「あの人……盗みがバレたとか言って……」

 彼はずっと、俯いたままだ。

 「だ、誰かを殺したって……」

 春臣は泣き出した。

 あまりにも現実味のない言葉。

 人を、殺した?あの女性が……?

 「ねえ、君の言う通りなんだ。僕は神の声なんか聞こえやしない。なのに、なんで僕に助けを乞うんだよ……」

 彼の目には、私はどんなふうに写っているのだろう。私に打ち明けて、何を望んでいるの。どうされたいの。

 私には何もわからなかった。どうすればいいのか。



 その日の帰り、薬局に居た私は、あの女性の信者と出会ってしまった。

 彼女がちょうど、未会計の商品を鞄の底に押し詰めていた時だった。

 「あらぁ、あなた、もう体調は大丈夫なの? これもセロニカ様のおかげねえ」

 彼女は何も無かったかのように振る舞った。この人が、人を殺したなんてありえない。

 だって彼女は、ただの精神疾患なだけ……。

 「あの、今……――」

 「あのね」

 私が鞄を指差した瞬間、彼女は目を見開いた。濁った白目が血走り、瞳が私の姿を捉える。

 怖い……。

 さっきとはまるで別人のように、彼女は気味悪く顔を歪めた。笑みを浮かべているつもりだろうか。

 「わたしは何でもして良いのよ。盗んでも、殺しても、ぜーんぶセロニカ様がお赦しをくださるんだもの!」

 痛みを感じるほど強く、私の両腕を掴む。彼女の両手首には、幾つもの数珠が嵌められていた。

 恐怖で、私は金縛りみたいに動けなくなってしまう。

 「ねえ、本当にわたしに言ったのよ。わたしは狂ってなんかいない、わたしは正しいって! ねえ、本当ですよねえ! ね、セロニカ様あッ!」

 突然叫び声をあげた女に、店内は騒然とした。その場にいる全員の視線が、この女性と、哀れな女子高生に向けられる。

 暫く呆然としていると店長のような人が現れ、彼女を裏に連れて行った。この店では常習犯なのだろうか。私は棒立ちのままで、ただ呼吸を浅くした。

 この日私は、人が偶像に狂う姿を、目の当たりにした。



 次の日、春臣は学校に来なかった。窓の外には大粒の雨が降り注いでいる。予報によると、これからさらに激しくなるらしかった。一刻もはやく帰るしかない。

 下駄箱で靴を履き替えながら、重要なことに気がつく。しまった、折りたたみの小さな日傘しかない。仕方ない、多少濡れるのは我慢しなくては。

 折りたたみの留め具を外していると、いつのまにか隣にはカッパを着た高垣翔太郎がいた。

「おまえ、最近鬼淵と仲良いらしいな」

 急な話題に狼狽えていると、彼は不敵な笑みを浮かべた。

「……もしかして、洗脳されちゃったか」

 その言葉を聞いた瞬間、苛立ちと悲しみが募って、唇を噛み締めた。ずかずかと脳内に入り込んでくるガサついた声は、聞き逃れできない。

 ああ、私とあの女を一緒にするな!

 急いで傘を開いて、外に飛び込む。正門まで駆けながら、私は足元の水たまりを踏み躙ることしかできなかった。



 家に帰って、自室に入る。濡れた腕や足をタオルで拭っていると、携帯から着信音がした。

 画面に表示されていたのは、紛れもなく春臣の名前だ。恐る恐る電話に出ると、すぐに彼の声がした。

 『あ……ゆ、優花さん……』

 「どうしたの?」

 雨がまた一段と強く降った。

 『もう、俺は……』

 涙ぐんだ声だった。悪い予感がして手が震えてしまう。

「なにかあったの? 大丈夫なの?」

 そう問いただしても、春臣は激しい呼吸を繰り返すばかりで、何も言わない。そのうち、電話は切れてしまった。

 瞬間的にドアまで走って、部屋を飛び出す。傘も持たずに、私は家を飛び出した。

 剥き出しの手足に雨が打ち付ける。

 なんで私は、走ってるんだろう。

 ああもう、本当に嵐ってのは憎らしい。それでいて無神経で、激しい。

 最寄り駅に飛び込むと、ちょうど学校方面行きの電車が来た。電車に乗り込むと、私はびしゃびしゃに濡れたまま、肩で息をした。電車内のまばらな人々たちは、異物混入を察知して水浸しの憂鬱な少女を観察している。

 そんなこと、今はどうだって良い。視界には、睫毛に滴る雨粒と皮膚に張り付く黒い髪の束だけだった。身体の芯が熱くなってくる。汗も混じり出して気持ち悪い。

 それでも、これからの道を思えばどうってことなかった。

 すべて、無慈悲な雨が洗い流してくれる。

 


 息が詰まりそうになりながらも激しい豪雨の中を駆け抜け、やっと教会にたどり着いた。教会にはまだ明かりがついている。乱雑に扉を開けて中に入り込むと、そこには白い床に這いつくばる、ただひとりの青年がいた。

 白い衣に身を包む彼は、嗚咽をあげて子どものように泣きじゃくっている。思わず駆け寄って片膝をつくと、春臣は濡れた瞳で私を睨め付けた。

「お、俺を、半端な場所に居させないでくれよ……君と僕は、違うんだから……」

 彼はしゃくりあげながらも、強く言葉を発した。

 「春臣……」

 「どうして君は、手に入れられない光を見せてくるんだ」

 なだめようとする手を恐ろしいほどの力で振り払われ、私は茫然とした。これは春臣なのか?いつもの病弱そうな様子とは到底結び付かない。

 私はなんだか怖くなって、泣きそうになってしまった。どうしてこんなことになってしまったんだろう。

 彼は、私が怯えていることに全く気が付かないままで、泣き叫び続けた。激しく泣きすぎて呼吸がおぼつかなくなると、彼はこちらに手を伸ばした。制服のプリーツスカートに爪を立てる。私は彼の様子を見守った。彼は両手を私に寄こし、まるで懺悔するように床に頭を打ち付けた。

 「俺と一緒に地獄にいてくれ、頼むから……」

 外の雨は勢いを増し、雷鳴まで伴わせる。私は、彼に手を差し伸べられなかった。傍から見たら、私と彼、どっちが教祖に見えるんだろう。

 「春臣……もう、辞めよう。こんなの、おかしいから」

 「わかってるんだ! おかしいことくらい!」

 春臣の泣き叫ぶ声が、ひしゃげた。

 「どうやって辞めろって言うんだ。母親に言えばいいのか辞めさせてくれって! もう何度も言った! 俺はもう諦めたんだよ!」

 私は春臣に胸ぐらを掴まれ、強く揺さぶられた。彼の濡れた瞳には、戦慄きが宿っていた。

 どうしようもなく怖くなって、私の視界が霞んできた。私が声を上げて泣き出すと、春臣は私の身体を抱き寄せた。雨粒で冷えた肌に、彼の手のひらの熱が伝わる。彼もまた、とめどなく涙を流していた。

 もう何度、春臣の涙を見たことだろう。

 あなたにわかってほしい。ただ、私があなたを助けたがっていることを。

 でも、それさえ受け入れられないほど世界の淵に立たされてしまったというのなら、私はきっと、春臣のために何でもしてあげたくなってしまう。

 私もあなたも、宗教に狂ったあの女性と何ら変わりない。きっと、そうに違いない。

 私はやっと、自分のことがわかってきた。

 なぜ、春臣を否定されて悲しいのか。なぜ、彼と一緒に居ようと思ったのか。

 彼を奮い立たせ引きずり歩くのは、きっと私には向いていない。どうか、他の人を見つけて幸せになって。あなたと、私のために。

 この感情は愛情でも、友情でもない。

 同情だ……。

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