第9話-過去の残骸-

カルバン先生の指先が古地図の一点をなぞった瞬間、教室の床が低くうなった。

 机がかすかに揺れ、ざわめきが広がる。


「……地震?」

「浮遊島でそんな……」


 生徒たちの声が重なる。次の瞬間、教室の窓ガラスがびしりと鳴った。外から重い音。まるで巨石が地に叩きつけられたみたいな衝撃。


 ミリアが目を細める。

「音が違う……これは、足音」


 扉の外で教師が慌ただしく声を張り上げる。

「全員、落ち着いて! 演習場に避難を!」


 俺は立ち上がった。胸の石が、鼓動に合わせて脈打つ。

 トーマが肩を掴む。

「セイン、行く気か?!」

「……行かなきゃ」


 逃げ惑う生徒の流れとは逆に、俺とトーマ、そしてミリアは回廊を駆け抜けた。石畳の振動が足裏から伝わってくる。まるで巨大な心臓が地の下で打っているみたいだ。


 演習場に飛び出した瞬間、息が詰まった。


 そこに立っていたのは――漆黒の巨影。

 かつて王都の兵団が討伐したはずの禁忌の魔獣、《鉄喰竜オルドバル》だった。


 全身を覆うのは金属の鱗。動くたびに軋む音が響き、尾が砂を削るだけで石柱が砕け飛ぶ。

「……なんで、ここに……」

 トーマが声を失った。


 オルドバルの咆哮が響いた。空気が裂け、耳が痛む。空気そのものが重く押し潰されるみたいで、膝が震える。


「逃げろ!」

 教師たちが結界を張るが、竜の一振りで粉々に砕け散った。


 俺は思わず一歩前に出ていた。

「セイン! 無茶だ!」

 トーマの叫びが飛ぶ。

 でも足は止まらない。剣帯から柄を抜き、呼吸を整える。


 その瞬間――風を裂く音と共に、影が巨竜の足元に立った。


「下がれ」


 低く短い声。

 見上げれば、そこに立つのは学院長ヴァルター・グロウル。

 白髭を風に揺らし、巨竜と同じ高さにすら見える圧倒的な威容。


「闘神……!」

 誰かが息を呑む。


 オルドバルが吠え、顎を開いて鋼の牙を剥いた。

 だがヴァルターは一歩も動かない。ただ、拳を握りしめる。


 次の瞬間――拳が空を裂いた。

 竜の首が衝撃に仰け反り、金属の鱗が砕け散る。轟音が空を揺らし、砂が爆ぜる。

 その一撃だけで、巨竜の体勢が崩れた。


「力で勝つな。“芯”を斬れ」

 昼に俺へ言った言葉を、今度は竜へ突きつけるように。


 ヴァルターの体が風そのものになった。竜の尾が地を薙ぐ。彼は半歩沈み込むだけで軌道を外し、拳を叩き込む。砕ける。轟く。圧倒的な力の奔流が、目の前で繰り広げられていた。


 やがて竜は膝を折り、呻くような金属音を響かせて崩れ落ちた。砂煙の中に、巨体が沈黙する。


 演習場全体が息を飲んだ。

 ヴァルターは拳を下ろし、砂を払う。


「学園に巣食う者へ伝わったはずだ。影が何を呼び戻そうと、この地には届かん」


 彼の背中は、落ちた夕陽を浴びて巨大な影を伸ばしていた。

 俺の胸の石が、熱を持って震える。

 その姿を見て、俺ははっきりと理解した。


 ――この人がいる限り、学園は揺るがない。

 けれど同時に。

 俺自身も、いつかこの背中に追いつかなければならない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る