焙煎香のスミス
笠野 緑(仮)
焙煎香のスミス
喫茶店にて
「ご注文はお決まりでしょか?」
喫茶店の夫人が、カウンター席から一番離れた場所に座る、昼食を食べにきた男性に声をかけていた。
私はカウンターで、バターワッフルとコーヒーを飲みながらそれを見ている。
「えっと、ホットドックのセット」
チェック柄のズボン、白いワイシャツの上には黒いパーカーを着た彼は、いつものようにホットドックとコーヒーのセットを注文すると、左腕にしていた時計をテーブルに置いた。
「かしこまりました」
会釈して注文を取ると、厨房にいるマスターに内容を伝える。
綺麗な白髭を蓄えたマスターが、“わかりました”と返していた。
「あー…あの人か。すぐ準備するよ」
コーヒー豆を出していたマスターは、男性に気づくとすぐにコーヒーのドリップ台へと足を進め、セットのコーヒーを淹れ始める。
厨房では、マスター夫人のサナエさんがホットドックの用意を開始。
切り込みの入ったパンをトースターにセット、油のしかれたフライパンに火がとおっているのを確認してウインナーを投入。同時進行でレタスをむいて、続いて刻まれたピクルスを冷蔵庫から出した。
ウインナーの焼き具合を確認していると、トースターが“チーン”と音を立て、パンが焼けたことを知らせる。
パンを取り出して皿に乗せ、切り口に手で裂いたレタス、刻みピクルスを順に挟み、ウインナーが焼けるとその上にのせ、最後にケチャップとマスタードをパンに被らないように波線を描いてかけた。
「できました」
ドリップ代にいるマスターに声をかけると
「こっちも淹れ終わりました、お願いします」
トレイに用意していたホットドックの皿と、淹れたてコーヒーをサナエさんが受け取り、彼の元へとゆっくりと向かっていく。
「お待たせいたしました、セットのホットドックになります」
ブックカバーのかかった本を読んでいた彼に声をかけ、テーブルに注文の品を置くと
「ごゆっくりお過ごしください」
柔らかい声でサナエさんが言った。彼は会釈して読んでいた本を閉じ、静かに手を合わせて“いただきます”と挨拶すると、ホットドックを豪快に食べ始める。
「………」
話をしたことのない彼を見ている私は、彼へ一抹の期待を抱いていた。
何を読んでいるのか、趣味は何か、休日は何をして過ごしているか、勝手に想像している気持ち悪い自分がいた。
すると、私の視線に気がついて彼がこちらを見た。
「!」
私はすぐに視線をカウンターに戻し、コーヒーを口にする。
“…苦い……”
渋い顔をしながら、私は一緒に注文していたバターワッフルを口直しに頬張った。
ため息が出そうな勢いで、私は息を吸って、鼻からはいて深呼吸するように誤魔化す。
声をかけようにも、何か話題があれば話しやすいはずだと思っているけれど、遠くから見ているだけで、声をかける勇気が出なかった。
横目で見てみると、豪快に食べていたホットドックはあっという間になくなり、優雅に本を片手に食後のコーヒーを飲んでいた。
そんな彼を見て、どこか大人の余裕というものを感じた。
彼を初めて見たのは、高校生活最初の中間試験が終わったあとのことだった。
テスト期間中に授業はないので、テストが終わる昼前には下校になり、どこかで昼食を取りつつ、テスト勉強ができないか考えた私は、駅前にあるこの喫茶店に入店。
その時、たまたま彼が席に座っているのを見たのが最初だった。
最初はただかっこいい人だなと思った。
気になってしまった私は、ほんの少しの期待を胸に、昼休みに学校を抜け出して喫茶店へお昼を食べに来ると、当たり前のように彼はホットドックのセットを食べていたのだ。
校則を破ってしまっていることは、私だけの秘密だ。
そこから私は、これはチャンスなのではないかと思いたち、彼とエンカウントする為に、ここへ足繁く通っている。
彼が優雅にコーヒーを飲み始めて、12時20分になった時だった。
天井から下がっている大型テレビに、連続殺人事件のニュース画面が映ると、同時に彼が立ち上がった。
気づいたマスター夫人がレジ前に立つと、彼は“お願いします”と言って伝票を差し出し会計を開始。
その横顔を、私はまじまじと見入ってしまう。いま座る椅子から2メートルはない距離で、腕を伸ばせば届いてしまいそうだった。
「………」
話しかけようと思えば届く距離、心音が高鳴りつつどうしようかと考えた時だった。
「お会計1100円になります」
サナエさんがお食事代を告げると、彼は“ごちそうさまでした”と言いながら、ちょうどの金額をトレイに置いた。
「はい、ちょうどお預かりします」
「失礼します」
「はい、ありがとうございました」
一言添えて、彼は店を後にした。
「ッ………ハァ~…」
今度は大きなため息が出ると、私はカウンターに顔をつけた。
「どうかしましたか?」
カウンターの向かいで作業をしていたマスターから声がかけられ
「いえ…なんでもないです……」
マスターに返事をして、心底声をかけるタイミングを逃したと感じた。
三日月浮かぶとある夜
「おお洋次郎、帰ってたか」
とあるガレージで、ツナギを着ている男性が、半開きのシャッターを潜って言いました。
“洋次郎”と声をかけたのは、制服姿の男子高校生。
昼間、喫茶店でホットドックを食べていた男の子です。彼はその時と変わらない服装で、カウンターのハイチェアに腰掛けています。
声をかけられた男子高校生は、何も言わずに会釈で返します。
癖っ毛の髪は目元を少し隠し、散髪はどうしているのか、髪型はボサボサでした。
手足が長く、ハイチェアに深く座っているにも関わらず、足先が床に少し着いています。
細身の体型はまるでモデルを窺わせるような見た目。そこに滑車をかけるように、人形のように整った顔立ちは、男性が羨むほどの美貌でした。
身長は推定180~190cmあり、ナンパの為に声を掛ければ女性が落ちるには申し分ないほどの容姿でした。
「さて、今日は何用だったかな?」
「車……」
洋次郎と呼ばれた高校生は一言だけ言います。
「おおー、そうだったそうだった」
首に巻いたタオルで手を拭きながら、灰皿に置かれた車の鍵を取ると
「ほいよ」
男性は片手で鍵を高校生に放りました。それに対し、彼は華麗に片手で受け取ります。
「ナイスッ!」
テンションの高い男性です。
ツナギを着た彼の名は、“菊池 十吾郎(きくち とおごろう)”。車とバイクが好きな整備士で、暇あれば何か作ってる機械いじりの好きな人間でした。
短い顎髭を蓄え、髪は高校生の洋次郎よりボサボサで、白髪混じりの中年男性です。
自作の工具は数知れず、近所の子どもにミニ四駆の楽しさを教えたりしています。最近では海外の鉄道や自動車の模型を集めて走らせる趣味が増えたりと、完全に男の趣味を満喫していました。どこかに大きな自作のジオラマまであるとかないとか。
「仕様書に書かれてた整備は済んでる、俺の傑作AIを積んだ車だ! 名前を聞きたいか? なぁ、聞きたいよな!?」
「……別に…」
「そう言うなって洋次郎!」
興味なさそうな少年の肩を思いっきり叩きながら、半ば強引に興味を誘うと、車にかかっていたシートを剥がしました。
「どうだい! な? カッコイイだろ!?」
現れたのはよく見る普通車に伺えました。しかしどうやら違うようで、海外メーカーのエンブレムがついていました。それでも日本車のようにハンドルは右でした。
「シボレーのマリブだ!」
日本では聞きなれない、見慣れない車でした。それでも十吾郎は口を止めません。
「窓とボディは防弾! そこいらのチンピラが持ってる銃の弾丸は通すことはねぇ!」
「…例えば?」
「よくぞ聞いてくれた! 対物ライフルの弾だって耐えられる! 至近距離だとわからんが! 他の弾丸は気にしなくて良い! 砂塵が舞ったとでも思えばいいさ! おおっとそうだそうだ! 肝心の名前がまだだったな!」
「? マリブなんじゃ?」
「ちっげぇよ! それは車の名前だ! こいつにはちゃんと俺がつけた名前があるんだ! なんせ生みの親だからな!」
十吾郎の言う“名前”というのは車の名前ではなく、自分がつけた名前だったようです。
「………」
それを聞いた少年は、カウンターに肘をついてめんどくさそうに話を聞きます。
「ああ! 興味なさそうにするな! ほら洋次郎! 興味を持て興味を!」
態度で心の内がバレた少年。十吾郎は打って変わってかなりのテンションです。
「こいつの名前は“ロビン”! な!? 良い名前だろ!?」
「………」
興味なさげにしましたが
「な?」
それでも言い寄られて、少年は一瞬驚いた顔をしましたが
「………」
「顔そらすなぁ!」
フイッと“めんどくさ”と言いたげに顔をそらしました。
「おおぉい! なんで興味を示さない! お前も男だろ!? 玉ついてんだろ玉ぁ!」
肩を組んで一方的な話が繰り広げられそうになった時でした。
“ジリリリリリリンッ!”というけたたましい電話の音が鳴り響きました。
音の正体は、カウンターの端にある無骨な黒電話で、回転式ではなくボタン式の今では見かけなくなてしまった古い物でした。
「あーいあいっと…」
呑気な声と共に、十吾郎は受話器を本体ごと手に取ります。
「もしもし? ……電話だ」
鼻でため息をしながら、電話の本体からイヤホンを伸ばすと、十吾郎は受話器を洋次郎へと渡し、イヤホンは自身の耳に運びます。
「はい…」
少年が電話の相手に変わったことを声で伝えます。
『菊池は聞いているか?』
「はい」
電話の相手に短く答えると、要件を話し始めます。
『今日も出てもらう。車の走行試験も兼ねて、今日は高速を走ってもらう。連絡が取れるように耳に通信機をつけておくように』
「はい」
『菊池はそのまま車のモニタリングだ、改善点が見つかればすぐに直すように』
「へいへい」
声は届きませんが、イヤホンから届く声に十吾郎は返事をしました。
『直ちに状況を開始。健闘を祈る』
電話相手が最後にそういうと、受話器を置く音と共に電話は切れました。
「傷つけるなよ?」
ガレージ二階にある事務所へ向かう少年に十吾郎が言いますが、声をかけた本人から返事は返ってきませんでした。
二階から降りてくると、少年は制服ではなく、黒いスーツにメガネをかけていました。ネクタイはしていますが、結び目は第一ボタンの下に緩くかけられている程度で、形も綺麗には整っていません。
“ビシッ!”っと着こなしている訳でもなく、明らかに着慣れていない様子でした。
「……孫にもなんとやら、だな。ネクタイくらいしっかり結んだらどうなんだ?」
助言をされましたが、聞く耳は持たずでした。
車のドアノブに手をやり、自動で鍵が開錠されると、少年はノブを引いて運転席に腰を下ろしました。
ドアをしめ、シートベルトを付けた時、窓がノックされました。
ボタンを押してエンジンをかけ、窓を開けます。
「洋次郎、説明がまだだったな」
「? なんの?」
「ロビン」
十吾郎が名前を呼ぶと
「“はい、どう致しましたか?”」
「!?」
突然スピーカーから聞こえてきた女性の声に、少年は驚きのあまり体が少し跳ね上がりました。
エアコンなどの操作スイッチの上にある液晶画面には、光る球体が写し出されており、女性の声がする度に、球体の外側が波打つようエフェクトが映し出されていました。
「今日からお前の“相棒”になる洋次郎だ、互いに自己紹介しとけよ?」
「“相棒?”」
「そうだ! 嬉しい時も! 生ける時も! そして死に絶えるその時まで共にする仲間だ!」
「“……『共に事をするもの、仲間』とありますが、情報を上書きしますか?”」
「そーんなことどうでも良いんだよぉ! とりあえず大切な仲間ってことだけわかっとけばいいんだ!」
十吾郎さん、変なこと教えていますが大丈夫でしょうか?
少年が不安そうに成人男性の十吾郎を見ていた時でした。
「“はい、パパ”」
「ハハっ! それでこそ俺の子だ!」
鵜呑みにするAIもたまったものではないなと、思った洋次郎でした。
「“私の名前はロビン、運転席に座るあなたの名前は?”」
「え? は? え?」
突然聞かれた少年は、いきなりのことで驚き
「“あなたの名前は?”」
再度名前を聞かれ、驚きながらも答えます。
「えっと……ようじ」
「“ヨウちゃん”でいいぞロビン! こいつ名前言いずれぇからそれで良い!」
自身の名前を言おうとしましたが、十吾郎に言葉を切られました。
「え? ちょっと…」
驚きに驚きが重なった声を出しましたが、
「“……ヨウちゃんですね? よろしくお願いします、ヨウちゃん”」
「……はい…」
誤認情報を否定しようとしましたが、諦めたのか、少年は首を縦に降りました。
「運転に関しては今更教えることはないが、デリケートに扱えよ? 俺の可愛い娘にくれぐれも手ェ出すんじゃねぇぞ?」
AIに男も女もないだろうと考えた少年でしたが
「…機械に手をだすほど飢えてない」
皮肉を交えて窓を閉めていきます。
「あぁ!? なんだとおら! 俺の大事なロビンに言いやがるのか!? おい!」
ガラス越しにかなりの怒鳴り声が少年の耳に届きますが、それを無視してジャケットの内ポケットから、小さな片耳のヘッドセットを取り出し左耳にかけて電源を入れました。
それを見てか、十吾郎は呆れる素振りを見せて車から離れると、二階へと上がっていきました。
二階に上がると、ガレージ全体を伺うことのできる一室の電気が灯り、窓からは十吾郎の姿が伺えます。
備え付けのパソコンを起動すると、三つあるモニターに電源が入り、起動する最中、十吾郎もマイクの長い有線ヘッドセットをつけます。
『“聞こえるか洋次郎?”』
左耳から十吾郎の声が届くと、少年はマイクを2回つついて返事をしました。
『“よぉし、あけるぞ?”』
十吾郎の声が聞こえた瞬間、半開きのシャッターがゆっくりと上がっていき、通話にもう一人加わります。
『“先ほど言った通りだ。“ジャック”、まずは高速に進路をとれ”』
黒電話で話した声の主が、少年の耳に届くと
「了解」
洋次郎は短く返事をして、開き切ったシャッターを潜っていきました。
雲のない快晴の夜空に、三日月が浮かんでいる夜でした。
洋次郎こと“ジャック”は、黒電話の主からの指示で、高速道路の入り口に差し掛かっていました。
『“ジャック、そのまま料金所を通過して湾岸方面に向かえ”』
返事を返すことなはく、ジャックは言われた指示にそのまま従い、ハンドルを切って進路を取ります。
黒電話の主は洋次郎を“ジャック”と呼んでおり、本名とは違う、与えられた名前で呼ばれていました。
料金所を何事もなく通過し、片側二車線の高速道路に合流します。
ハンドルを握り、時折サイドミラーとバックミラーを確認して、順調に言われた方向へと進んでいるそんな時でした。
「“ヨウちゃん。パパはそう呼ぶよう言いましたが、本当の名前を教えていただいてもよろしいですか?”」
「……洋次郎…」
聞くなら最初からそんな呼び方するなよと言いたくなったジャックは、ロビンにぶっきらぼうに答えました。
「“ヨウジロウ、ファーストネームもよろしいですか?”」
「聞く必要が?」
「“私はあなたの自立支援AIです。重要情報は保存する必要があります。次の分岐を右方向です”」
カーブを曲がりながら話をしていますが、ロビンは道案内をしながらも会話を続けます。カタコトじゃなければ、まるで普通の人と会話をしているようでした。
「……知らなくていい情報もあるだろ?」
「“あなたをサポートする上で必要な情報です。フルネームの開示を要求します”」
「……多くは語るなと言われている」
「“それでは私が支援できません。私は必要ありませんか?”」
「そういう訳じゃ…」
言葉に詰まった時でした。左耳にしていたヘッドセットから声が届きました。
『“おい洋次郎! ロビンを困らせるな! もっと親身になって答えてはどうかね!”』
声の主は十吾郎です。ロビンのモニタリングをする最中、会話を聞いていたのです。
「そんなこと言われても…」
『“言い訳は聞きたくない!”』
ジャックがバツの悪そうな表情をした時でした。
「“パパ”」
『“お!? ロビンもこんな扱いされると悲しいよな!? ドカンと言ってやれ!”』
「“パパ、うるさいので通話を切ります”」
『“え!? ちょっ!”』
次の瞬間、ヘッドセットから“ブツン”と通話が切れる音がしました。
「………」
「“私は自立支援AIです、洋次郎の障がいになると判断したため、不本意ながらパパとの会話を遮断しました”」
「……そっか…ありがとう…」
十吾郎の話は長いです。気を利かせてくれたお礼を言った洋次郎でしたが
「“一方通信として、会話内容はパパと“室長”へ送信されます”」
頭を抱えて大きなため息が出ました。礼なんて言うんじゃなかったと。
「あと…仕事中は“ジャック”と呼んでほしい。本名を晒すわけにはいかないもんでさ」
洋次郎の言葉に
「“はい、わかりました。ジャック”」
丁寧な言葉が返ってきました。
『“ジャック、仕事だ”』
すると突然、黒電話の相手の声が、ジャックの耳に届きました。
声の主はロビンが“室長”と呼んだ、先ほどからずっと指示をしている男です。
『“その先のサービスエリアで通報が入った。改造車が多数、中には未成年もいるという話だ”』
「………」
車内では静かな時間が流れ、ロビンとジャックは室長の話に耳を傾けていました。
『“カメラで確認できる限り、薬物所持と使用で逮捕歴のある者が確認されている。サービスエリアに入り、監視任務についてくれ”』
「了解」
二つ返事で洋次郎は答えると、アクセルを踏み込み、目的地へと向かいました。
サービスエリアに入ると、普通の利用客は眉を顰(ひそ)め、騒音と騒がしい集団に冷たい目線を向けていました。
視線を向けられる集団は気にする素振りもなく馬鹿騒ぎを続け、時折エンジンの空ぶかしをしています。
「確認しました」
サービズエリア内に入り、徐行を開始しながらジャックは室長へと報告します。
『“状況は?”』
「……車は三台。周囲の駐車スペースは誰も近づきたくないのか空いています」
ジャックは三台がよく見える駐車スペース、対面に車を止めました。集団の視線が集まらないわけありません。
ロビンの車種は外車。マフラーをいじらなくてもいい音が聞こえるので、車好きの彼らにとって、見ないと言う選択肢はないのでしょう。
「“ジャック、暴徒の目の前に止めるのは危険過ぎます。もっと距離を取るべきです”」
ロビンの警告とも取れる助言を無視して、ジャックはヘッドセットに話しかけます。
「…人数は少なくとも五人、車は違法に改造された物とすぐ分かります。趣味が悪いです…タイヤが“ハの字”にされて……なんのためかわからないウィング…テールランプも色が変えられています。車体下に紫のLEDライトをつけています……見るからに無駄に金かけてますね…どこからの資金が出てるかも気になりますが……」
ジャックに車種の識別は難しいですが、サービスエリアの監視カメラにはシルビア、フェアルディZ、白のRX-7の三台が映っていました。RX-7は後期型で、改造には手をつけられていない状態でした。
『“ジャック、監視カメラ映像の解析で、全車種偽造ナンバーとわかった。白の一台は盗難車の可能性が高い、そちらに応援を向かわせる。制圧を許可するが、発砲は極力避けるんだ”』
「了解」
エンジンを止め、シートベルトを外してドアを開けると、ジャックは売店のある建物へと向かっていきました。
「“どこに行くのですか?”」
ジャックのヘットセットにロビンの声が届き、
「コーヒーがあったら買ってこようかと。ついでにトイレ」
「“非推奨。今でなくてはならない理由がありません、直ちに車へ戻ってください”」
呼び止めるロビンの言葉でしたが、ジャックは無視を決め込むとトイレへと踏み入っていきました。
「“対象が移動を開始。ジャック、そちらに向かっているように伺えます”」
「わかった」
立ち便所で用を足すフリをすると、一人の男がポケットに右手を突っ込んで近づいてきました。歳にしてジャックよりも年上の男性です。
ジャックほど背格好はありませんが、体格のがっしりした人物で、ジャック意外誰もいないトイレで、同じ立ち小便の前に立ちますが、不自然にも隣に男は立ちました。
ジャックが小便を終えたと思わせるタイミングで、そこから去ろうとすると、同タイミングで男も便器の前をさり、ジャックを追うようについてきました。
「………」
明らかにおかしな行動でしたが、ジャックは気づく素振りを見せずに洗面台へと向かい、手を洗い始めようとした時でした。
「お兄さん、ちょっといいかな…?」
声をかけられ振り向くと、折りたたみ式のナイフを手に、男はジャックへと刃先をむけていました。
「手荒な真似はしたくねぇ。車の鍵をよこしてくれれば何もしない」
男はナイフで脅しながら左手で小さく手招きし、車のスマートキーをねだりました。
「………」
会話のない時間が一瞬流れた時でした。
ジャックは何も喋ることなく、男のナイフを持つ右手を、自身の右手で逆手に掴みました。
「は?」
思いもよらぬ行動に、短い声を出しましたが、男の声はそれ以降聞くことはありませんでした。
ジャックは瞬時に男の右手を自身の左へ引き寄せると、回転して男に一瞬背をむけ、勢いそのままに左肘を男の溝落ちへと思いっきりい打ち込みました。
鈍い音がしましたが、男は声を出すことなくノックアウト。
そのまま男は前のめりにジャックへと倒れると、慣れた手つきでそのまま左肩で背負いあげ、移動してトイレの洋式個室のドアを開けました。
男を頭から床へ降ろし、体が逆さになったままドアを閉めて、外からコインで鍵をかけて立ち去ります。
時間にして数十秒の間に、男一人を制圧しました。
直後利用客が入ってきましたが、犯行現場は見られていません。
車で待機していた男たちは、トイレから一人悠々とジャックが現れるのを見ると、仲間はどうしたのかと携帯を出して連絡を試みました。
トイレの個室では着信音が流れていましたが、誰も出るものはいません。
「一人を銃刀法違反で制圧。トイレの個室へ放りました」
『“わかった。ジャック、車両に近づくことが可能なら発信機をつけてくるんだ”』
室長へ報告し、短く返事が返ってくると同時にタスクが発生しました。
「“ジャック、暴徒が二人応援に向かいました。残り二人は私に近づいてきます”」
二人の話を聞くと、ジャックはジャケットに入っていたポケットガムを取り出して食べ始め、そのまま店内にあるフードコートでコーヒーを注文しました。
その場で豆を挽いてドリップしてくれるタイプのコーヒーメーカーで、カップをセットして買う仕組みでした。今では支流となった本格的なコーヒーが飲める機械で、コンビニなんかにも置いてあるものです。
スイッチを押して機械が動き始めると、2分もしないで熱々のコーヒーが出来上がり、買い求めたジャックへとコーヒーが提供されました。
「おいどうした!」
その頃、トイレに向かった男二人は、個室から流れてくる聞き慣れた仲間の着信音に、何度も声をかけていました。
「おい返事しろ!」
痺れを切らしたのか、一人が隣の個室から身を乗り出して中を確認しました。
「!? おい! “のびて”やがる!」
「ハァ!? なんで!?」
「知るか! 早く手伝え!」
トイレの騒ぎのせいで、民衆の視線は車ではなくトイレに向けられていました。
「なんだ?」
ロビンの近くにいた一人が異変に気づき、何事だと言いたげにしていました。
ジャックはカップに蓋をつけると、フードコートを出て遠回りで対象の車に近づきます。
車の影に隠れて進み、誰にも気づかれることなく三台の改造車の背後につきました。
「………」
窓越しに様子を伺い、誰も見ていないことを確認すると、ジャックは胸ポケットからケースを取り出しました。中身は小さな発信機が入っており、区切られて中には六つが入っていました。
噛んでいたガムを小さくちぎり、発信機の接着剤代わりに、車体後方のトランク、ハンドルの見えずらい位置につけていきます。
三台全部につけ終わり、室長へ報告した時でした。
「おい! 来てくれ!」
「!? お前はここで待ってろ!」
「は、はい!」
トイレから出てきた仲間の助けを求める声に、ロビンの近くにいた一人が駆けていきました。残された男は、何が起こったんだと理解が追いつかず、そのばに立ち尽くしていた時でした。突然ロビンの鍵が開いたのです。
「!?」
車を見ると、助手席側に洋次郎が立っているのを見つけました。
いつの間にいたんだと、男は驚いたまま固まり、車両の右前で何もできずに立ち尽くしていました。
助手席を開けると、洋次郎はギアハンドルの隣にあるドリンクホルダーに、コーヒーをセットしてドアを閉めました。
後方から運転席へ回り、何事もないように運転席へ乗り込み、エンジンをかけました。
音に気がついたのか、トイレにいた男三人がロビンの車を見るのが、サイドミラーを通して伺えました。
直後、倒れていた男が目を覚ましたのか、ロビンを指差す姿が見えましたが
「そいつを止めろぉ!」
リーダーらしき男が怒鳴る声が聞こえ、ジャックは何事もなかったかのように車を発進させました。
『“ジャック、そのまま高速道路を移動。緊急走行で応援を向かわせているが到着まではまだかかる…到着次第、警察官の指示に従ってくれ”』
ジャックは何も返すことなく、サービスエリアを後にして、本線へと合流しました。
「“戻ってこないかと思いました、お帰りなさい”」
ロビンがジャックを歓迎し、本線を2分ほど走った頃でした。
「“背後に対象車両の接近を確認しました”」
発信機をつけた三台がジャックの車両を追走し始めた報がなされました。まだ見えていませんが、ロビンが位置情報を解析してサポートしてくれます。
『“ジャック、制限速度を維持したまま走行。事故だけは避けるんだ”』
「了解」
「“制限速度80キロ。対象車両、推定120キロで接近中です”」
室長へ返答すると、すぐにロビンから追加情報が開示されました。
複雑な首都高速道路。カーブも多いこともあり、まだミラーに車両は捉えられていません。しかしすぐに姿を現すことでしょう。
追われる身となり、普通の人間ならば焦って危険な運転をするでしょうが、ジャックは平然と運転を続けていました。
「“まもなく視界に捉えます”」
ロビンからその知らせを受けると、背後からうるさいくらいのマフラー音が近づいてくのがわかりました。
ミラーを見ると、後方に発信機をつけた三台の車が、車線を目一杯使って現れました。ジャックの乗る車を見つけるなりパッシングを始めますが、一台はかなりフラフラしており、今にも壁に衝突しそうです。
ジャックはアクセルを踏み込まずに、そのまま走行車線を走り続け、すぐに隣で一台が並走し始めました。
窓を開けて何か怒鳴っていますが、ジャックの耳にはうるさいマフラーの音しか届きません。しかし、室長の指示は普通に届きました。
『“そのまま高速道路を走行。途中のサービスエリアに警官を待機させる、うまいこと陽動するんだ”』
ヘッドセットを突いて返事をすると、危険なドライブの幕が上がりました。
「オラオラ止まれぇ!」
フェアルディZが突然前に出ると、急ブレーキをかけてきます。接触寸前でジャックの操る車は右にハンドルを切り、回避に成功します。
そのまま追越車線を走り、一台の普通車を追い越しました。
「!」
しかし、後方にいた三台は違いました。
「オラオラぁ!」
フェアルディが路肩スレスレを通り抜け、残りは追越車線から勢いよく追い抜いていきました。
普通車のドライバーが驚く様子を見て、ジャックはアクセルを開けて速度を上げます。
「“ジャック、速度違反です。減速してください、カーブに差し掛かります”」
ロビンの忠告を無視すると、速度をさらに上げ、車は左カーブに突っ込んでいきます。
アウトコースから一気に走行車線のインコースを攻め、カーブが終わる頃合いを見てアウトコースの追越車線へ戻ります。
高速は一気に、カーチェイスの舞台となりました。
「!? おい! あの外車かなり速いぞ!」
SNSの通話機能を使って話しながら運転をしていたフェアルディZの男が、驚きながら仲間へと伝えました。
「逃げてるだけだろ!? どうせそこらへんに突っ込んで廃車だよ!」
シルビアの運転手が返答しました。助手席にはシートベルトをつけずに、ドアハンドルに必死になってしがみついている男がいます。
「イッテー…殴ってきた借りぜってぇ返してやる…」
フラフラのRX-7には、ジャックが制圧した男が助手席に座っていました。
「ッ……!」
運転席には涙目でハンドルを握る男がいました。シルビアの助手席に乗っている男と運転しなれていないこの男が、間違いなく情報にあった未成年です。
シルビアの運転手が口を開きます。
「とにかく追え! こっちに手ぇ出したこと後悔させたる!」
しかし、一途来(いっとき)見失うと、一行はジャックの運転する車を捉えることはありませんでした。
「………ロビン」
ジャックがミラーを確認すると、運転支援AIの名前を呼びました。
「“はい、なんでしょう”」
「後続との距離は?」
「“現在、推定900メートルです”」
ロビンが告げると、室長から通信が来ました。
『“ジャック、減速開始。サービスエリアへ進路をとれ”』
室長からの指示で、ジャックは速度を落とし走行車線へ戻ります。
ちょうどその頃、サービスエリアまで残り2キロと書かれた看板が現れました。
制限速度まで速度を落とし走っていると、900メートルという距離をあっという間に詰めてきました。ミラーに三台を捉えると、その後ろには赤色灯をつけていない覆面パトカーが二台追走していました。
再度ジャックの車は追いつかれ、真後ろで煽り運転を繰り返されますが、怯むことなくジャックの車は走行し続けます。
サービスエリアの入り口を捉え、ジャックはウインカーを出して中へ進むことを知らせます。強引に三台がジャックの前へと割り込み、中へと入っていきます。
ジャックの後ろでは、入り口を閉鎖するように追走していた車が止まりました。
サービスエリアの中では、車が一台も止まっていない不気味な光景が広がっていました。首都高の中のサービスエリアは、どこも人が多くいますが、入った途端、一台もいないのは、誰でも異変に気づきます。
先に入った三台の車も、その異変には流石に気がつきます。
「……おい、なんだこれ…」
先頭を走っていた一台が異変を察知して、残りの二台へ声をかけましたが、入ってしまったが最後でした。
『“そんなんどうでもいい、早くあいつしめんぞ”』
指示が出され、ジャックは駐車をしようとしますが、その前に三台の車に行手を阻まれました。
「………」
ジャックは運転手を睨むように動きを注視すると、RX-7の助手席からジャックが腹エルボを喰らわせた男が出てきました。
『“ジャック、好きにして構わない。殺さないようにな…”』
室長が大きなため息をついて頭を抱える様子を、ジャックはヘッドセット越しに感じ取っていました。
「出てこいやオラァ!」
威勢だけはいいようで、少しふらつきながらジャックの車に近づいてきます。
その隙に他のメンツが出てきますが、RX-7を運転していた未成年男子は、弱腰に車の影に隠れ、グループのリーダーであろうフェアルディZの運転手は、エンジンをかけたまま降りずに様子を伺っています。
「……ロビンはドアって開けれる?」
ジャックはロビンへそんなことを聞きました。
「“どこでも開閉可能です”」
「…対象がハンドルに手をかけようとしたら勢いよく開けて」
ジャックがロビンへ伝えた時でした。男がハンドルに手をかけようとした時、勢いよくドアが開きました。
「グホッ!」
跳ね飛ばされた勢いで、男は地面に倒れました。
その光景を他の仲間は、何が起きたか理解が追いつかずに見ていました。
「イッテー…」
ドアが開いたタイミングで、ジャックは車外へと姿を表すと、
「ブッ!」
倒れた男の顔目掛け蹴りを繰り出し、男からは短い悲鳴のような声が漏れると、そのまま行動不能となりました。
その場にいた全員が、ジャックの躊躇ない動きを見て恐怖を覚え、それとは別に車を運転していた男二人からは怒りが芽生えました。
「お前ッ…!」
運転手二人は、今にも襲ってきそうな怒りに満ちた顔を向けてきます。
「先輩…?」
助手席に乗っていた男は恐怖に駆られ、弱気な声で今にも泣きそうな顔をしていました。
「………」
フラフラ運転をしていた未成年は、その場に腰が抜けたように尻餅をつきました。
ジャックは車からゆっくり離れ、男二人もジャックを追うように歩いてきます。
「………」
風が三人の間を通り抜けると、それが合図となったのか、男二人は怒りに任せ殴りかかってきます。
最初の一人が、右ストレートをジャックへ向けると、左手で払い退け、カウンターの右拳を腹部へと一発入れます。
「ぐほっ!」
そのまま相手の足を裏から引っ掛けると、勢いそのまま地面へ仰向けで叩きつけました。鈍い音の直後、体勢を立て直しもう一人へジャックは戦闘態勢に移ります。
「!!?」
ジャックが身構えると、殴りかかろうとしていた一人が目を見開きながら動きを止めました。一体何が起こったのかと疑うような視線でした。
慌てながらも、ズボンから隠し持っていたナイフを出し、ジャックへと迷いなく刃先を向けますが、その手は震えていました
「………」
姿勢を低くして身構えていたジャックでしたが、上半身を起こして両手を大きく広げ普通に立つと
「オラァ!」
男は雄叫びのように叫びながら、慣れない手つきでジャックへ向けてナイフを振ります。
左へ振り、右へ振り、突き刺すように前へ向けますが、スーツにかすりもしません。
「りゃあぁ!」
下から突き上げるように振った直後、ジャックはナイフを持つ手を掴み、相手の右肘へ向けて手刀のように振り下ろしました。
「ぎゃああぁぁぁ!」
悲鳴と共に鈍い音が鳴ると、関節が逆になり右手からナイフを落としました。そのまま陰部へと蹴りを入れました。
悲鳴を漏らし、痛みのあまり体を丸めると、待機していた警察車両が赤色灯をつけてサイレンを鳴らしました。
待機していた警察官が総出で容疑者へと走ってきます。
車の近くにいた未成年ともう一人の男は、そのままお縄となり、ジャックが制圧した三人も次々と手錠をかけられていきました。
「動くな!」
ジャックはというと、一人の警官から拳銃を向けられていました。
動揺する素振りを見せることなく、ジャックは警官の制止命令を無視して車であるロビンへ向かって歩き始めました。
「止まれ! 止まらないと撃つぞ!」
警官がそう言った時、装備していた無線に一報が入りました。
『“佐々木! 銃を下ろせ!”』
声の主は現場にいる先輩警官でした。
「!? なんでです! 正当防衛にしてもやりすぎてます! 骨を折るなんて…!」
『“上の命令だ! 素直に従うんだ!”』
「ッ……! …了解」
停められた警官は、銃を皮ホルスターへと戻し、ジャックは何事もなかったかのように車に乗ると、サービスエリアを後にしました。
『“ジャック、ご苦労だった”』
コーヒーを片手に、ジャックはハンドルを握っていました。車の流れはスムーズで、渋滞も起きていません。
『“今日はここまでにする。そのまま菊池のところへ戻るんだ”』
「了解」
ジャックが返事をした時でした。
『“ったくやっと繋がった”』
十吾郎の声が、ジャックの耳に届きました。
『“ロビン、なんで切ったりした……モニタリングはできてたからいいが、もしもの時があったらどうすんだ…”』
「“ごめんなさい、パパ。ジャックをサポートする上で障がいになると判断し、通信を一時的に遮断しました”」
『“生みの親に言う言葉か? それ…”』
「“パパがうるさいのが原因かと。ジャックも迷惑そうでした”」
『“洋次郎ぉ…”』
怒りに満ちた声が聞こえてきましたが、ジャックは何も言いませんでした。
『“……まぁ…無事ならいい。ところで今日はもう“あがり”なんだろう?”』
「“室長からは戻るように伺いました”」
ジャックの代わりに、ロビンが答えました。あまり喋らないジャックからすると、ありがたい限りです。
『“なら、今からロビンがハンドルを握れ”』
「は?」
十吾郎の言葉に、何を言っているんだとジャックは思わず声を出しました。
『“おいおい洋次郎、うちのロビンを侮ってもらっちゃ困るぜ? ロビンは自立支援AIで、生みの親はこの俺だぜ!? 運転なんて朝飯前よ!”』
「………」
不安に駆られ、ジャックは何も返答せずにいました。
『“いいから任せてみろって! ロビンの走行試験でもあるんだから言うこと聞きやがれ!”』
「………わかった…」
洋次郎は信用ならないと言いたげな顔で、アクセルから右足を離し、ハンドルからも手を離しました。
「“運転を開始します”」
ロビンのその一言で、完全に自動運転となった車は、そのまま高速道路を快調に進んでいきました。
高速を問題なくおり、ガレージに着く頃には洋次郎のコーヒーは無くなっていました。
『“どうだぁ、俺のロビンは! いい子だろ? 俺に似て賢いだろ!?”』
十吾郎の言葉に答えるのも面倒だと考え、洋次郎は何も言わずに車を降りました。
「お疲れ〜♡ 愛しのロビーン!」
帰ってくるなり早々、十吾郎はロビンに頬擦りします。
やれやれと首を横に振りながら、洋次郎は二階へと上がっていきました。
ドアを潜ると最初に迎えるのは“元”十吾郎の居住スペース。
寝れるソファあれば大きなテレビもあり、端には使っていない折りたたみのハンモックがあります。エアコンと小さな冷蔵庫も完備され、カセットコンロと電子レンジ、シンクもあるので簡単な料理ならできました。
個室トイレもあり、脱衣所のある風呂にもつながっているので住もうと思えば住めますが、元が工場なので埃っぽく不衛生という理由で住人はいません。風呂だけでしたら、近所の銭湯に行った方がなんだったら早いです。
今では全く使っていませんが、何かと使い勝手がいいと時折洋次郎が使って手入れをしていました。
それなので十吾郎が住んでいた時よりは綺麗です。
隣の部屋は今でも使っている十吾郎の仕事部屋兼趣味部屋で、洋次郎は全然使っていない部屋でした。どんな状況になっているかは不明ですが、大切なものがある場所は綺麗にしている十吾郎でしたので、汚部屋という訳でもありませんでした。現に虫は湧いていません。
そんな居住スペースの端に、普通ならないガンロッカーがありました。洋次郎は扉をあけ、右腰に装備していたハンドガンを抜くと、薬室から弾丸を取り出し、ロッカーへ収め、反対の左腰に装備していた予備マガジンもしまいます。
ロッカーを閉めてジャッケットを脱ぎ、ソファに脱ぎ捨てていた制服に着替えます。着ているのは、ブレザーではなく黒いパーカーでした。
スーツにアイロンをかけ、ガンロッカー隣のワードローブに納めると、鞄を手にガレージへと降りていきました。
「お。着替えてきたか」
ガレージでは十吾郎がロビンに異常がないか確認している最中でした。
「明日もどうせお呼びがかかるんだ。ゆっくり休んどけよ」
振り返らずに、洋次郎はシャッター横のドアを潜って帰路につきました。
三日月に照らされて
「はぁ…はぁ…はぁ…」
男が一人、繁華街の路地を歩いていた。
虫とネズミが行き交い、野良猫が狩場としている場所を、息を荒立てながら歩くその男の足をよく見ると、どこからか血が滴り落ちて、足跡のように血痕が地面に描かれていく。
「はぁ………はぁ……」
段々と息を大きく吸うようになり、あと少しで路地の出口に差し掛かろうとした時、通り過ぎた壁のドアが音もなく開いた。
男は声を発する前に中へ吸い込まれ、直後ドア越しにくぐもった乾いた音が二回、間が開いて一回響いた。
外へは響くことなく、静寂が当たりを包むと、ドアから一人の人間が現れた。
「終わった」
右耳にスマートフォンを当て、誰かと話しながら未成年の少女が現れた。
スレンダーな見た目に、ブレザーの制服に身を包んだ少女は、男が進もうとしていた道へと歩き、路地の出口で待っていた一台の車へと足を進めた。
高級車、マセラティのクーペが少女を迎えると、四つあるドアの後ろを開け、少女は中へと消えた。
乗り込んだ直後、路地には男が五人現れ、少女が現れたドアへと流れて行った。
左の後部座席に足を組んで座ると、胸ポケットからタバコとライターを出して、慣れた手つきで口に咥えタバコへ火をつける。
「ふー…」
窓を少し開け、換気をしながらタバコを味わっていいると、運転席から声がかかった。
「お疲れ“リサ”。どうだった?」
運転席には、同じ年頃の少女が座り、違う制服に袖を通していた。
「最悪だった……あの辺りは臭って仕方ない…“ミサ”みたいに運転してたかった…」
答えた後ろに座る少女の制服は紺で、運転する方はベージュが主色の制服だった。
二人ともモデルのような恵まれた体型と顔立ちで、身長は女性からすると大きい方に当たり、160センチは余裕にある。
“リサ”と呼ばれたタバコを加える少女は黒髪のショート。清楚感ある目鼻立ちは、どこか大人びた雰囲気で、優等生に伺えるが、タバコを吸っている時点でアウト。
運転手をしている“ミサ”と呼ばれた少女は、髪を栗色に染めたショートボブの少女。垂れ目にふっくらとした唇はどこか幼くも伺えるが、アイシャドウなどの化粧のせいで“夜の女”に見えてしまうほど。
「言われた通りそのままにしたけど……気分はいいもんじゃないね…」
「見張られながらやる仕事はキツイもんな。後ろの奴ら…終わったのにまだ尾行続けてるし……」
ミラーには黒塗りの車が写り、中には運転手含めた三人が少女二人を鋭い眼光で見ていた。女を襲う顔ではないのは確か。
「どうする?」
黒髪のリサが運転手のミサに聞くと、運転席のシート裏にかかっていた、カスタマイズされたアサルトライフルを手に取り、T字のチャージングハンドルを引いて薬室へと弾丸を込めた。
「まだ撃つな、ややこしくなる」
ミラー越しと音で行動を察知したミサは、リサへ留まるよう指示。
「わかってる」
一連の動作が終わると、銃に安全装置をかけて背後の警戒へと従事。
そこから高速に乗り、走ること3分ほど経った頃、車と同期していた電話が突然なった。
「もしもし」
ミサがすぐにナビ画面をタップして電話の相手へと言葉をかけた。
『“ミサ、仕事は終わりだ。早く帰ってこい”』
「わかった。ママ、後ろの監視の奴らがずっと追ってくるんだけど、どうする?」
『“貰う物は貰ってる、好きにしてかまわん”』
「わかった、じゃあまた」
ミサが電話を切り、運転席からリサの座席の窓を開けると
「やれ」
ミサのその一言で、リサが窓から体を乗りだして、追跡していた車両へと射撃を開始。
「おい! 撃ってきやがった!」
迎撃しようとハンドガンを取り出しますが、少女は引き金を何度も引いて、マガジンが空になる前に車内を血で染めると、撃たれた車は制御を失いそのまま横転して壁に追突。
終わったとリサが体を車内へ戻し、弾倉を確認して安全装置をかけた。
程なくして、壁に追突した車が爆発すると、
「汚ねぇ花火だこと…」
ミラー越しに爆発を見たミサが少女らしからぬ言葉を吐き、その日の夜、高速道路は閉鎖された。
高級車のマセラティが高級住宅街を、マフラー音を響かせて走っていた。
立地の良い一軒の豪邸の前に差し掛かると、門扉が自動で開かれ、車は中へと入る。
豪邸と隣接するガレージに差し掛かると、重々しいシャッターがここも自動で開いた。地下へと車が降りていくと、もう二台別の車が止まっており、開いているスペースに駐車。
ガレージ内の車は全て高級外車で、サラリーマンが到底手を出せる車ではなかった。
マセラティ、ワインレンドのクーペが止まれば、その隣には真っ赤なフェラーリが止まり、ビンテージカーのアルファロメオ『TZ1』が止まっていた。
エンジンを止め、車からスクール鞄と一人一丁ライフルを手に取ると、隣の部屋へと二人は入っていった。そこは武器庫となっており、壁には何種類何丁と銃がかかり、まるでガンショップのよう。
薬室から弾丸を取り出し、マガジンに弾を込め直すと、壁掛けのガンラックへとライフルをかけ、マガジンを弾薬庫がわりに使っているガンロッカーにしまい、腹部に隠し持っていたハンドガンも同様の所作でしまうと、二人の少女は地上階へ続く階段を上がっていった。
階段先のドアを開けるとエントランスとなっており、正面玄関の隣に出てくる。
二人はそのまま大きな中央階段を上がり2階へと向かっていった。
上がった先の一室、両開きの重厚な扉をノックすると
「入れ」
一言女性の声が部屋から返ってくると、無言で扉を開けて中へと入った。
中は書斎となっており、赤ワイン色のスーツを身に纏っている女性が椅子にもたれかかっていた。
「ただいま、ママ」
栗毛のミサが女性を“ママ”というと、鞄から一つのファイルを差し出して机に置いた。
「ご苦労」
ファイルを開く女性は、長い髪を結い上げている女性。
シャープなメガネをかけ、年齢がわからないほどの美貌は、風俗嬢に伺えてしまうほどだった。少女二人の保護者となれば推定年齢は40〜50だが、見た目からは二十代にしか伺うことができず、豊満な胸元はこれでもかと開け、男を堕とすには十分なほど魅力がある。
この中で誰よりも年上だが、誰よりも男を堕とすことに慣れているようにも伺えた。
一通り書類に目を通すと、顔写真のついた書類にハンコを押して、ファイルをミサへと差し出した。
「今日はもう休め、おやすみ」
渡しながら女性は声をかけ、二人の少女から親へおやすみと言うように部屋を後にした。
黒髪短髪のリサが鞄を投げ捨て、そのままベットへとダイブすると
「ちょっとリサ…」
それを見ていたミサは、机に鞄を置いて靴をスリッパに履き替えていた。女の子らしい、ピンクのフリルのついた可愛らしいスリッパだった。
「わかってる……」
顔をベットに埋めたままリサが答えるが、勢いそのままに寝てしまいそうだった。
「…ほら、明日も早いんだから早くしな」
そういうと、眠りそうになるリサのスカートと共に下着を掴んでずり下ろす。
「ヒッ!?」
思いもよらぬ行動だったのか、可愛らしい悲鳴が漏れた。
「早くしなぁ」
ぬがされて真っ赤な顔で股を押さえていたリサへ、ミサがリサからはいだベージュのパンツとチェック柄のスカートを投げ、呆れつつも声をかけて、ミサは隣の部屋のバスルームへのドアを潜った。
脱がされたリサは、リスみたいにムスッと頬を膨らませると、少し時間をおいてミサの入るバスルームへと入る。
「? どうしたの?」
全裸の二人が相見えると、椅子に座り頭を洗っている途中のミサが何事かと声をかけ、リサはボディソープを手につけると
「ヤァ!」
「ヒャン!」
泡のついた両手をミサの乳房に狙いをつけて鷲掴みにした。
「ちょ! な、何よ!」
背後から乳房を揉まれながら、ミサは手を振り払おうと動いたが
「さっきパンツ脱がしてきたお返し……洗ってあげる…」
「ちょ!? 待ッ! あ…」
泡のついた手で剥がすこと難しく、お返しと互いに乳繰りあって夜は更けていった。
光に包まれて
午前6時。デジタル時計がけたたましく鳴り響き、起きる時間だと知らせてくる。
「………」
重い体を起こしながら瞼を擦り、大きなあくびをしてから体を伸ばす。
外は日が登り始めた時間。鳥が鳴き始めていた。
特注したダブルベットから足を下ろし、冷たい床に一瞬素足をつけて、すぐにサンダルを履いてリビングへ降りていく。
冷たい空気が部屋を包み、ダイニングキッチンの電気ケトルに水を注いでスイッチを押して起動させると、玄関のポストに向かう。
「!」
玄関を開けるとそこには綺麗な毛並みの白猫が一匹、何かを待っている様子で座って待っていた。
「…待ってな」
猫にそう告げて、私はポストから取り出した新聞をテーブルに放り、煮干しの入った袋を持って玄関に向かった。
愛らしい声で猫が食事をねだると、玄関横にある皿に一掴みしていつものようによそった。粉々になっていたが、おおよそ七尾分くらいだった。
「じゃあな」
猫にわかるわけない言葉をかけて、家の中に戻った。
キッチンに再度立ち、冷蔵庫の冷凍から店のロゴが書かれた袋を出して、重々しいハンドミルを棚から取り出す。
シルバー類の入った引き出しから“メジャースプーン”と使い込んだ“木製攪拌スティック”を出し、道具類の入った下の棚からドリップポットとコーヒードリッパー、ガラスコップのある棚からサーバーを出す。
ミルに豆をメジャースプーンで測りながら入れ、ハンドルを回して豆を挽いていく。
ハンドルが軽くなった頃、電気ケトルのスイッチが音を立てて切れ、お湯が沸いたことを知らせた。
サーバー、ドリップポット、マグカップに沸いたお湯を適量入れて温め、コーヒードリッパーにフィルターをセットして、中へ挽きたての豆を投入する。約三人前の量だ。
サーバーのお湯を捨てて保温機にセット、ドリップポットのお湯も新しく入れ直す。
サーバーの上にドリッパーをセットし、600mlのコーヒー抽出を始める。ドリップポットから細い線のお湯を垂らし、豆全体に行き渡らせると、一度お湯をとめて蒸らす。
約1分、挽き立ての豆の中からガスが抜けるのを確認して、抽出を再開。中心から外側へ右回りで渦を描いて綺麗な“丸”を描く。描いたら今度は湯量そのまま、外側から中心に戻していく。
2秒ほど中心にお湯を垂らすと、再度同サイズほどまでまた渦を描いていく。
それを3回繰り返し、最後の一滴まで抽出を終えると、ドリッパーをサーバーから離して小さなガラスカップに残りを落とす。
木製スティックで攪拌すれば、ハンドドリップコーヒーの完成。
出涸(でが)らしのコーヒーを飲み、抽出具合を確認して薄ければ上出来、濃ければ失敗という目安を立てている。今日は上出来だった。
一度水を飲み、温められたマグカップのお湯を捨て、水をしっかり切ってコーヒーを注いだ。残りは保温機にかける。
テーブルに投げた新聞を手に取り、二階へ上がりベランダにでる。
「………」
天気は曇り。朝霧のでる街は、少しずつ目覚めを見せる。遠くで電車の音、車が走り、虫の囀りは消えて、代わりに鳥が囀り始める。
ベランダに置いた椅子に腰掛け、テーブルに新聞をおいて、湯気のたつコーヒーを口にと飲んだ。
「はぁ…」
大きく息を吐き、朝の空気を全身で浴びる。二口目を飲んで、新聞を手に取り、ニュース記事に目もくれずに最後の方に載っている“お悔やみ”に目を通す。
「………」
片足を椅子に引っ掛けて座り直し、コーヒーをまた一口。
今日のお悔やみに載っている人は、五十代手前のまだ若い人が多い印象で、老衰という二文字はたった二人だけだった。100歳と102歳の夫婦と記されていた。
あとは気になるニュースはないかと探してみる。すると街中の繁華街で変死体が見つかったという記事に目が止まった。
被害者は成人男性。四肢がバラバラにされてゴミ捨て場に捨てられていたという。警察は殺人事件として捜査しているという内容だった。
もう一つは深夜、高速道路で爆発炎上した車の記事だった。中には男性三名がおり、事故原因を調査しているとのことだった。
そのほかのニュースには目を止めることはなく流し見ると、新聞をたたんでテーブルに置いて少し冷めたコーヒーを飲んだ。
シャワーを浴び、寝巻きをベットに一旦放り投げて、クローゼットから制服を出した。
白いワイシャツに袖を通し、チェック柄のグレーのスラックスを履いて、緑色のネクタイを結び、二つボタンの紺色ブレザーを羽織った。
寝巻きをハンガーにかけ、スクール鞄の中身を確認し、忘れ物がないことを確かめて肩にかけ玄関へと向かった。
ニャー…
「…お見送り?」
玄関の鍵を閉めながら、餌付けしている白猫へ返事をするように声をかけ
「行ってくる」
猫の頭を撫でて、新聞を片手に家を後にすると、白猫は途中までついてきた。
カランコロン
「いらっしゃいませ」
駅近にある喫茶店のドアを潜ると、鈴の音と共に一人の男子高校生が入店しました。
高校生は会釈すると、慣れた様子で窓際のテーブル席に、一人腰掛けました。
喫茶店の開店は朝7時。現時刻は開店から30分過ぎた頃でした。
「おはようございます、ご注文はお決まりですか?」
「えっと……モーニングのオムレツトーストに……あとブレンドで…」
「はい、今日は“テイクアウト”のホットドックはどうなさいますか?」
「……じゃあ、お願いします」
オーナー夫人の提案を受け入れると、“お包みしますね”と言って、夫人のサナエさんは厨房へと向かっていきました。
サナエさんがマスターに注文内容を告げようとした時、店のドアが開く鈴が鳴りました。
「おはようございます」
会釈して入ってきたのは、男の子と同じ年頃の女の子。綺麗な黒髪をなびかせて、少し息の切れた様子でした。
「おはようございます、お好きな席へどうぞ」
サナエさんは挨拶を返して、マスターへ注文内容を告げると、慣れぬ様子でカウンターへ座る新規のお客へ、お冷やを出しに向かいます。
おはようございますと言いながら、男子高校生に言ったセリフをそのまま言います。
「えっと……」
少女はサナエさんに耳打ちでもするように注文すると
「はい、かしこまりました」
笑顔でサナエさんは答えてくれました。
男子高校生は、畳まれた新聞をそのままに、鞄から黄緑色のブックカバーがかけられた本を出して読み始めます。
女子高生はその様子を、横目で見ていました。
「………」
男子高校生は、彼女の視線に気がついていました。気になってしまいページを進めずにいますが、何度も読んでいる本だったのか、何事もないかのように次へ次へとページをめくっていきます。
そんな状況が数分続いた時でした。
「お待たせ致しました」
マスターがトレイにモーニングのセットを持って、男子高校生の前に現れました。
セットの内容は、注文したオムレツトーストとブレンドコーヒー、サービスのゆで卵一つでした。テイクアウト用で注文したホットドックは紙袋に入れられており、そのままテーブルにおかれます。
直後、カウンターでは女子高生が注文したものを受け取っていました。
甘い香り漂うカフェモカが、彼女を包みます。
慣れた様子の男子高校生が、モーニングセットを頬張る様子は見応えあるもので、熱々のカフェモカに猫舌ながらも苦戦する女子高生は、どこか愛らしくも見えました。
カフェモカをなんとか半分飲み切る頃には、オムレツトーストを頬張っていた高校生はゆで卵までたいらげ、優雅にコーヒーを飲んでいました。
「………」
その様子を見た女子高生でしたが、まだ見ていたのかと視線に気がついた男の子が、彼女へと視線を向けると、不意にも目があいました。
「ッ……!」
顔をそらし、カフェモカを口へ運んで少し飲みます。
「“目があった……! 目があった! 目があった!”」
思わぬ出来事に、高ぶる鼓動と同時に、女子高生の思考はオーバーヒート寸前。
「“どうしようどうしようどうしよう…!”」
好意がバレていまったのではないかと焦る彼女に、追い討ちをかけるように男子高校生が荷物を持たずに立ち上がって近づいてきます。
「“!? ど……どどどどどうすれば! どうすれば!”」
焦る彼女を通り過ぎ、男子高校生はトイレのドアを潜っていきました。
「……ハァ…」
安堵のため息を出すと、マスターがカウンターを挟んで女子高生に声をかけました。
「大丈夫ですか?」
「え? あ…はい……」
愛想笑いを向ける女の子でしたが、マスターは多くを語ることなく
「彼…お昼をテイクアウトしましたので、今日のお昼はお目見えにはならないかもしれませんね」
心中を察してのことなのか、女の子へと告げました。
「え? な、なんのことです?」
しかし、動揺しながらも誤魔化そうとします。ですが隠すことは不可能のようで
「これは独り言なんですが…」
マスターは“独り言”と題し、話を始めました。
「恐らく視線には気がついているでしょう、一度逃げられれば…警戒心の強い彼のことです、見つけることさえ困難になるでしょう」
「………」
その独り言に、女子高生は少し落ち込んだ様子でマグカップのフチをなぞります。
「けど…ここは彼がご贔屓(ひいき)にしていただいている場所です。焦らずに、お嬢さんのペースでかまいません。私たちはこの場所とコーヒーしか提供できませんが、落ち込まないでください」
「………」
「あと、彼の好きなものはコーヒーです。豆にもこだわりがある様子なので、何かのお役に立ててください」
「……ありがとうございます…」
「いえいえ…こちらこそ、老耄(おいぼれ)の独り言に付き合っていただきありがとうございます。それでは、ごゆっくりお過ごしください」
そう言ってマスターはカウンターの奥へ消えると、少女は少し冷めたカフェモカを飲むと、トイレから彼が出てきました。
音のする方を見るのは、動物の習性と言えるので何も変ではありませんが
「………」
頬を赤くする彼女は、洋次郎からは疑念を抱かれていました。
残りのコーヒーを飲み干し、会計を済ませると、洋次郎は喫茶店を後にしました。
片思い少女も、タイミングをずらして店を出ます。
「若いですね…」
「ええ、昔を思い出します」
喫茶店では、サナエさんが二人を見てそんなことを言うと、マスターもサナエさんの言葉に答えました。
「あら? マスターはあの様な甘酸っぱい経験があるのですか?」
「ええ。人生の最初で最後でしたけどね、今でも時折…隣に居れることが夢ではないかと思ってしまうほどです」
隣に立つ女性を見ながら言葉にすると、サナエさんは“フフッ”と微笑みました。
「おはよーっ」
「はよー…」
元気な女子生徒が、眠そうにしている女子生徒に挨拶をしたり
「おっすー」
「おすー」
「おすおす〜」
呑気に挨拶かわす三人組いれば
「………」
一人黙々と歩く男子生徒もいたりと、通学路には多種多様な人種がいました。
朝から機嫌が悪そうに歩いている不良みたいなのもいれば、群れをなしている不良もいます。今時珍しく、わざとズボンを腰骨より下に履いて、靴の踵を踏んで歩いています。
そんな中、洋次郎は身長だけは恵まれていたので、周りに同じ学校へ向かっている生徒がいる中、頭が物理的に一つ出ていました。
悪目立ちこそしませんが、容姿は周りの生徒よりもズバ抜けて良かったので、女子生徒からの黄色い声と視線で、目立たないと言うことはありませんでした。
しかしあまり前に出て発言するタイプの人間ではなかったので、いたって平凡な高校生活を送っています。
「おはよ」
「!」
洋次郎の鞄を叩いたのは、男子にしてはあまり身長に恵まれなかった生徒でした。
「おう」
洋次郎は挨拶を返しながら、鞄に入れていた新聞を差し出しました。
「サンキュー」
新聞を受け取ると、手に持ったまま二人は歩き始めます。
洋次郎へ声をかけた彼の名前は、“沼島 蛙(ヌマジマ カワズ)”。同年同校の男子高校生で、洋次郎は彼を“カズ”と呼んでいました。
身長は普通の男子と同じかと思いきや、ちょっと小さい“チビ”とも言えない、何とも明記しずらい背丈の男の子でした。童顔なこともあり、あと10センチ小さかったら中学生と勘違いされていたことでしょう。
女子生徒からはウケがいいようで、同学年で知らない女生徒はいないとされています。
洋次郎と同じ細身の体型ですが、登山で鍛えた筋肉質の体つきは、決して裏切りません。細すぎて体脂肪が心配になるところですが、至って健康なので心配はいらないでしょう。
「ふあぁ…」
眠そうにカワズがあくびをすると
「…また夜更かし?」
「まぁな」
洋次郎の問にあっさりと答えました。
そしてカワズは辺りを一瞬見て
「昨日の件で調査があってな。お前が昨日捕まえた“ホシ”のSNSアカウントの追跡をしてたんだ」
この場で、洋次郎しか知り得ないだろう話を始めたのでした。
洋次郎が“へぇ、それで?”と返すと、カワズは他言無用であろう昨晩の話を続けます。
「捕まった一人から、闇バイトの痕跡が見つかってな……新作やってた途中だったから気分ガタ落ちだ…」
「そりゃ運がなかったな。……新作って?」
まるで日常会話でもするように、昨夜のジャックとして行動していた洋次郎の話を続けるのでした。
「前から欲しかったゲーム。まぁその後しっかりやるとこまでやったんだがな」
「寝とけよ…」
カワズの言う新作とは、今月発売されたばかりの新作ゲームのことでした。大型タイトルなだけあって、テレビのCMも当たり前に流れています。
「お前みたいな“スキル”がほしいもんだけどな」
「……前にも言ったけど、あっても何もいいことないよ…」
「そうかい。まぁそれはそれとしてなんだが……昨日の奴ら、闇バイト意外にも何か臭ってな……」
洋次郎も重要な話だと察したのか、辺りを見渡して流石に人が多くなったとこを背中を突いて合図すると
「……キナ臭い話は後にするか」
そうして会話は途中で止まると、学校の校門を潜りました。
ジャックこと洋次郎の通う高校は、普通の県立高校でした。
普通科しかありませんでしたが、芸術高校として名の知れている学校で、有名な画家や作家、漫画家の出身校として知られ、吹奏楽では全国でも名の知れている名門校でした。
最近ではイラストレーターなども輩出していますが、これと言って美術や音楽の授業は一般教養ほどのことしか取り入れていませんでしたので、そのうち美術・芸術学科ができるのではないかと話されていました。
下駄箱でサンダルに履き替え、二人は四階へ向かい、洋次郎は何も言わずに教室へ入りますが
「おはよっす〜」
同じクラスのカワズは室内にいるクラスメイトへ挨拶をすると、当たり前のように返事が返されます。
「また昼な」
最後にカワズから声をかけられると、洋次郎は教室の端の席に向かいます。くじ引きで決まった席ではなく、“デカすぎるから後ろ”という指定席でした。
洋次郎は腰掛けて本を出し、カワズは荷物を中腹の自分の席へ置くと、クラスでいつもつるんでいる連中の溜まり場となっていた教卓へと向かい、新作ゲームの話で盛り上がりを見せます。
「………」
「あ…あの……」
静かに本を読んでいる時でした。隣の席に鞄を置いて、後から登校してきたクラスメイトの女子に声をかけられました。
「いつも気になってるんだけど……何読んでるの?」
緊張した様子で話しかけてくる彼女を見て、
「何を読んでると思う?」
「え!?」
微笑みを向けて、洋次郎は質問に問題で答えました。
「えー…っと……」
恥ずかしそうにする彼女でしたが、自身も鞄から本を取り出します。
「こ……こんなのとか…?」
赤くなった顔を本で隠しながら言うと
「……ハズレ」
少し悩んで答えました。
彼女の示した本は恋愛小説。今期のベストセラー小説でした。
「え? じゃ、じゃあ…」
彼女が聞こうとした時、ホームルームの予鈴がなり
「あ…」
会話がそこで途切れると、洋次郎は本をしまい
「…また今度ね」
洋次郎の“また今度”という返し言葉に少し嬉しそうな顔をして、隣に小さな背中の少女が座りました。
昼休みになり洋次郎は屋上にいました。
立ち入り禁止になっていましたが、鍵は内鍵になっていたので、誰でも容易に入ることができてしまう場所でした。
空は雲ひとつない快晴。風は冷たいですが、心地いい陽射しのおかげで過ごしやすくなっています。
洋次郎はそんな屋上の入り口に背中を預けていました。
「待たせたな」
そう言って屋上に現れたのはカワズでした。
手には二つのプラ容器の他に、包み紙に入った揚げたてギトギトの唐揚げと冷えたコーラ、洋次郎からもらった新聞を脇に抱えていました。プラ容器の正体は、食堂で販売している『カラアサ』と呼ばれているお弁当セットでした。
容器一杯に白いご飯が入り、もうひとつの容器におかずとして、唐揚げと青のり風味の揚げちくわが入っていました。
「…珍しく追い唐揚げか」
「まあな」
小さな包み紙に収まっているのは、これも大きな唐揚げ。お弁当に入った唐揚げでも十分足りるのですが、醤油味効いてサクサクの唐揚げは、単品で食べたくなる味でしたので、追い唐揚げをする生徒は多くいました。
女子生徒からは脂っこいとあまり好まれていませんが、食べ盛りの高校男児には好かれていました。
「お前は相変わらずホットドックか」
「まぁね」
立ち上がって、校舎裏側の人目につかない方へと向かい、二人してフェンスに背を預けて座ります。
「じゃあまあ」
カワズがそういうと
「「いただきます」」
手を合わせて食べ物に感謝を捧げ、二人は昼食をとり始めます。
お腹を空かせた男子高校生二人は、喋ることなく早々に平らげました。
「そういや、今朝の話の続きだ」
カワズが追い唐揚げに手をつけようとした時でした。飛ばないようにと尻で抑えていた新聞を洋次郎へ差し出します。
洋次郎が受け取ると、既にページが指定されており、別のページを開かぬようにと織り込まれていました。
「今朝の話はその記事の件につながる」
カワズは新聞を指して言いました。
開くと見出しには、“高速道路で車が炎上 道路を一時閉鎖”と大文字で書かれている記事でした。
「中の人間は全員火に巻かれて死亡になってる、新聞の通りな。確かにそうだったんだが、鑑識からの話で遺体から弾痕らしいものが見つかったと話が上がった。報道規制がかかって表には出ないが、道路には空薬莢も見つかってる。身元も割れて、被害者は反社の奴ら……暴力団員だってのもわかった」
真実とは違う記事を目で追う洋次郎に、カワズは淡々と話続けます。
「まぁそれはいいとしてだ。問題はそいつらが死んだのが厄介だってことだ」
“なんでだ?”と言いたそうに洋次郎はカワズを見ると
「お前が捕まえたチンピラ共は闇バイトの形跡があるって今朝話したよな? 疑惑が上がった指示役と目論んでいた男が炎上した車の中にいたんだ……情報源でもある携帯は焼失……かろうじで残ってた同乗者の携帯データも解析をしようとしてるらしいんだが、望みは薄いだろうな」
「……闇バイトって、どんな?」
洋次郎は、昨晩自身が捕まえたチンピラの話題に話をふりました。
「特殊詐欺ってよく言われるやつだ。オレオレ詐欺電話の受け子もすれば車の窃盗にも絡んでる。チンピラの一人は強盗殺人未遂も起こしていて、“俺らくらい”の奴もいたから捜査もかなり慎重に動いてる」
カワズの言う“俺らくらい”とは、洋次郎やカワズたちと同じ年頃の未成年もいたということを示していました。
「なんでそんなことに頭使うのか……理解に苦しむがな」
カワズは追い唐揚げに手をつけながら話を進めます。
「いや……考えてないのか…」
自己解決すると、たった二口で唐揚げを平らげ、包み紙を丸めてゴミをまとめます。
「いや…」
しかし、洋次郎はカワズの自己解決を否定しました。
「生き方を間違ったんだ」
彼なりの解釈を示しつつ、新聞を持ち主へ差し出します。
「……それもあるか…」
カワズが受け取ると、ページを変えてまた洋次郎へ差し出しました。
「その記事なんだが、今回の事件と関連している可能性のある記事なんだ」
マジックで記された見出しには、“幼児行方不明事件、全貌未だ掴めず。親族は我が子の帰りを待つばかり”と記載されていました。
記事の内容は、ここ二ヶ月で6歳〜9歳の子どもが行方不明になっているという記事でした。被害届の件数は、新聞に記載されているだけで17件にのぼり、人数にして二十人と驚異の数が記載されていました。
ニュースで大々的に特集が組まれ、行方不明となった子どもの顔と名前も公開され、いなくなった子どもの親御さんがモザイクと音声を変えて映っている番組でした。
警視庁は“連続誘拐事件”と視野に入れて、注意喚起をしているほどでした。
なぜ“連続誘拐事件”として断定しないのかという話ですが、始まりは四ヶ月前まで遡ります。
始まりは六月中旬。家族との旅行中に目を離したら子どもがいなくなってしまったという内容でした。すぐに捜索願が出され、二日経って無事見つかり、以降の20以上寄せられた事件はほとんどが二日以内に無事見つかって解決していたのです。
しかし八月に入ると自体は急変。
都心から近いとある大型商業施設で同様の事案が発生し、一ヶ月経っても見つからなくなったのです。
施設や街にはカメラがあるので痕跡を追いましたが、足取りすら掴めずにいると、やがてその数は徐々に増え続け、二件だった捜索願は20件、人数は二十三人にまで増えていたのです。
今月に入り三人が見つかり17件、人数は二十人になりましたが、それでもまだ多く家に帰れていない子どもがいました。
記事を見て、洋次郎は首を傾げました。昨日の事件となんの関係があるのかと。
「四ヶ月続いてる行方不明事件なのは俺にもわかる。だが先月からは明らかにおかしな条件になっているんだ」
「と言うと…?」
「先月の時点で20件、見つかって17に減ったが、人数だけならまだ二十人が行方不明なのは知ってるな?」
洋次郎は記事を見ながら頷くと、カワズはそのまま話を続けます。
「この二ヶ月の行方不明事件には共通点があるんだ。一つは小学一年生から三年生。二つ目は、全員が登下校の際、最後に見たのは登校班の友達ということ。そして三つ目が“女の子”ということだ」
話を聞きながら、洋次郎は新聞を読み進めると、確かに新聞に載っているのは全員女の子でした。男の子の名前や性別、写真は載っていません。
「四ヶ月前の六月時点では、行方不明者の年齢や性別はバラバラ。それが一ヶ月経った七月には女の子の割合が増え、先月の時点で行方不明者は全員女の子になった。それもまだ学校に慣れていない小学生になったばかりの子と、日の浅い子ばかりなんだ…」
「それと昨日のチンピラ、何と繋がってるって思うんだ?」
洋次郎が聞くと、カワズからは恐ろしい推測がなされました。
「闇バイト連中の犯行場所と、行方不明になった場所は推測される現場の近くなんだ。誘拐する下見もかねて、犯行に及んでいた可能性が高い…」
「……もし高校生が誘拐に関与してたとして、精神が保てると思うのか? 幼児愛好者や小児性愛者ならわからないが…」
カワズの推測に、洋次郎は可能性は少なくともあると確信はしましたが、疑念が残ることを示しました。
「恐らく直接的な指示はされてなかったんだろう。無自覚に関与させるのさ…」
「どうやって……?」
洋次郎の問いと疑問に、カワズは答えます。
「“次の“仕事”のために下見で近所の家に誰がいるかリサーチしろ”って命令すれば簡単なことだ。情報を元に徹底的に調べ上げ、計画を練れば不可能なことじゃない……それに幼い子ども一人だったら大人一人でも十分連れ去ることは可能だ」
「………」
話を聞いていると、洋次郎には彼の推測が真相に聞こえてきました。
カワズ自身もまるで、自分の推測が真実だと言いたげに話をしているので余計です。
彼の正体は、表には言えない洋次郎のサポートが仕事の分析官でした。情報収集が主な仕事で、広大なネットの海へ放り投げれば、彼に敵う者は現れません。
業界ではハッカーを死へ追いやる死神と言われるほどで、容姿は明かしていない謎多き人物とされていました。
そんな分析官の言うことです。間違いなく何かありました。
「そんで、これは国際問題になりそうな話でもあるんだ……」
「? この一件で?」
思いもよらないカワズの分析と言葉に、洋次郎はまだ振り回されます。
「裏が取れればなんだが……今停泊している隣国を経由する大型タンカーなんだが、この国で人の輸出が行われるかもしれないんだ」
洋次郎はその言葉を聞いて、なんとなく察しがつきました。
「誘拐された子どもを国外へ連れ出すってことか……」
「まだ可能性がって言う段階なだけだ。それを裏付ける為に…何軒かの風俗店を捜査しなくちゃならん」
「は…?」
急にディープな話に話題が変わったと思い、洋次郎は思わず声を出します。
洋次郎の聞いたことない声に、カワズも驚きますが、普通の人ならこんな反応でしょう。
「……お前がまだ“人”だってわかってよかったよ、洋次郎」
「……何が言いたいんだ」
眉を寄せて、洋次郎はカワズを見ます。
「……とりあえず、今日はここまでにしよう」
カワズが立ち上がり、“なんで?”と洋次郎が思った時、ふと自分のしている腕時計を見ると、昼休み終了の5分前で、予鈴がなりました。
ロスト・チルドレン
『“聞こえるか? ジャック”』
洋次郎改め、ジャックはとある繁華街の一角、風俗店が立ち並ぶエリアにいました。
スーツに身を包み、片手には仕事などに使うリクルートバックを持ち、耳に届く声に、ヘッドセットを突ついて答えます。
飲食店や居酒屋のある繁華街の陰に隠れるように、何色ものネオンが輝き、昼間では見られないような露出の多い服を身に纏う女性が、店の前にはキャッチとして立っていました。
風俗店へ続く路地の周りでも、似たような女性達が獲物でも探しているような素振りで徘徊していました。
普通でしたら、すれ違う男に見境なく声をかけ、しつこくついて行き客を店へと呼びますが、繁盛している店ほど、繁華街の飲食店にキャッチの女性を座らせ、客を装い店へと誘っていました。
繁華街を一歩外れた通りでは、壁越しに女性の喘ぎ声が耳に届き、生々しい音も同時に聞こえていました。
『“血気盛んな猿が多いこった…”』
ジャックの左耳には、チンピラ退治に付けていた時と同じ通信機をかけていました。話し相手は室長ではなくカワズです。
『“私語は慎め“リッパー”。作戦行動中と言うことを忘れるな”』
『“…了解”』
しかし、会話の中には室長もいました。室長はカワズのことを“リッパー”と呼んでおり、これがカワズの現場でのコールサインでした。
『“昨日はリッパーを解析に集中させていたが、今回はまた二人で動いてもらう。リッパーの調査した結果、そこの風俗街のどこかに“監禁部屋”があると睨んでいる。今日はその部屋の特定が任務になる、行動は二人に任せる”』
リッパーの“了解”の言葉を聞くと
「………」
ジャックは何も返しませんでした。
『“どうした?”』
不審に思ったリッパーの言葉に、ジャックは一人の女子高生が一軒の飲食店に入っていくのを見て
「…なんでもない」
そう言って建物屋上から姿を消しました。
「………」
なんでこんなところに来てしまったのだろう、これからどうすればいいか……地下一階のバーに入って考えていた。
バーの名刺裏に書かれたメモ、“学校の制服を着てこい カウンター席に座って歌いにきたと言え”という指示に従って、足の長い丸椅子に腰掛けた。
「いらっしゃいませ、お決まりになりましたらお声をかけてください」
カウンターにいたバーテンダーらしき人から声がかかり、私は何も言えずに会釈すると、何も言わずにコルクソーサーが置かれた。
「あ……あの…」
「お決まりになりましたか?」
「う……歌いに…来ました……」
恐る恐る言うと、バーテンダーはすぐに青いカクテルを作ってソーサーに置くと
「どうぞ良い夜を」
それだけ言って、バーテンダーは仕事に戻っていった。
母の負担を少しでも減らそうと、高校に通いながらバイトをしようと考え、手取りのいいコンビニバイトを選んだ。街では有名な風俗街の近くで、重労働だからという理由で手取りがいいと店長からは聞いていた。
酒で酔った人の接客は当たり前。
夜になると派手な女の人と男の人が一緒に入店するようになる。
私は体を売る女にはなりたくないと思いながら仕事をしていた。
今日もいつものように仕事をするのだなと思っていたある日の夜、ゴミ箱の袋を入れ替えていた時、小学生くらいの女の子が一人で外を歩いているのを見つけて、心配になって声をかけた。
汚れた服を身にまとい、靴を履かないまま涙を流して“助けて”と小声で言われた。
放っておける訳がなかった。
とりあえず保護しなくてはならないと考えた私は、店の事務所に連れて行き、名前を聞いてどこからきたか尋ねようとした。
それが、間違いだったのかもしれない。
“ミオ”ちゃんという珍しい名前を聞いたところで、黒いミニバンに乗った男性客が団体で来店した。人数は五人で、他のお客さんはいなかった。
店の奥に女の子を残して、私がレジに立つと、男性客から話を振られた。
「…店長さんいる?」
「申し訳ありません…ただいま店長は出払っておりまして……」
店長はまだ戻ってきていないことを告げると、
「ちょいと“奥”見させてもらうわ」
男から考えても見なかった言葉が出てくると、他の四人がレジに流れ込んできた。
「え!? ちょっと!」
男たちは慣れた様子で店の奥へと向かうと、一番大柄の男に、私は強引に腕を引かれて中へと引き込まれ、疑いたくなる光景が目に飛び込んできた。
椅子に座っていたミオちゃんへ、男が何も言わずに腹部を蹴り上げた光景。
「ッ!?」
私は何事か理解できず、声が出せないでいると、ミオちゃんはそのまま壁に体を打ち付けられ、普通では考えられないような声と共に、口から大量の胃液を出して体を丸くするのを見た。
「ったく…これだからガキは嫌いなんだ……」
「なっ!? 何を……!」
すぐに一人が口と目をガムテープで塞いだのを見ると、私はことの重大さに気がついて
「やめてッ!」
止めに入ろうとした。しかし私の腕を掴んでいた大男が腕を引くと、腹目掛けて拳を向けてきた。
痛みで声が殺され、その場で体を丸めると、男が私の後ろに回り、両腕を背後で押さえ込んできた。声をかけてきた男がポケットからハンカチのような布を出すと、私の髪を掴んで口に無理矢理ねじ込んできた。
吐きそうになりながらも、なんとか声を出そうと争った。けれど布を押し込んできた男からも腹を殴られ、痛みに耐えることしかできなかった。
体を捕縛から解こうにも、痛みに耐えきれず動くことは叶わなかった。
視線を前へ向けると、声を出そうと力を振り絞り暴れるミオちゃんを、男が二人がかりで押さえ込んでいるのを見た。
ガムテープをされながらも、必死に声を張ろうとしている子の元へ、一人が手に大きな麻袋を持って車から戻り、その袋にまるで“物”みたいに押し入れると、何事もなかったかのように担いで外へ出ていった。
私は動きを封じられ、意識が混乱する中、目の前で見物していた男が突然、着ていたコンビニの制服を破ってきた。
「ッ!?」
下着も剥がれ襲われると覚悟すると、携帯を出して写真を二枚撮られ、私に画面を突きつけてきた。
「今日あったことは忘れろ」
画面には、見られたくない場所が露わになった自分が映り、背後にいる男の顔は肩から上が画角に収まらないように撮られていた。
「こいつ、かなりの上物だぜ? どうするよ?」
背後で私を捕縛する男が口を開くと、写真を持った男は“まぁ待て”となだめて話を続けた。
「この写真をバラ撒かれたくなかったら……ここへ来い。 もちろん“一人”でだ」
そうしてジャケットから名刺を出すと、ズボンに押し込んできた。
「ッ……!」
恐怖に震え、何もできないでいると、ズボンにしまっていた私の携帯を取り、顔認証でロックを解除すると私の電話番号を控えた。
「もし今日のことを誰かに言ってみろ……写真を晒すだけじゃすまない、さっきのガキと同じ未来を歩ませてやる。“サオリ”ちゃん」
耳元で脅すように囁くと、口に押し込んだ布を強引に引っ張り出された。
「うおぇ…」
喉元に一瞬引っかかった布で吐き気を催し、胃液が一気に排出されて床を汚した。
「電話する、言っとくけど逃げても無駄だからな」
携帯を指しながらいうと
「……拭いとけよ」
最後に一言だけ言って捕縛が解かれ、男たちが店を出ていった。店の奥から駐車場を見ると、ミニバンが揺れながらコンビニの駐車場を出て行くのを見た。
「はー…はー…はー…」
恐怖のあまり、震えが止まらないまま腰が抜けると、私はズボンに押し込まれた名刺を見てみる。
その名刺には、繁華街にあるバーの名前が記され、背面にはメモが記されていた。
次の日、学校が始まる前だった。襲ってきたリーダーと思われる男から電話を受けると、男は次のように話した。
「渡した名刺の場所に今晩10時に来い。昨日のガキだが、お前が身代わりになるなら危害は加えない。時間になっても来ないなら…ガキの命はないと思え」
一方的にそれだけ言われると、電話は切れた。
『“それじゃあまず、この子を探せ。“一緒に歌って”って合言葉を言って連れ出せば店に入店できるはずだ”』
ジャックのかけていたメガネに写し出されたのは、一人の女子高校生の顔写真でした。
メガネには、暗視装置・熱源探知装置・スキャナー・目線カメラといった多機能スマートグラスとなっていました。メガネの耳掛けには骨髄スピーカーも内臓され、耳に通信機をつけていなくても通話が可能でした。情報共有やナビ機能も付いている優れもので、任務時は原則かけることを指示されていました。
そんなメガネに映し出されたのは、カワズことリッパーが得た情報でした。
女子高生の証明写真の他に、学校行事で撮影された写真や、街のカメラで捉えられた静止画像が数枚映し出されていました。
証明写真では肩ほどの長い髪をおろしていますが、それ以外は青いシュシュでサイドテールにまとめ、とても可愛らしく仕上げていました。とても真面目そうな面持ちとは裏腹のスタイルの良さは、健全な男子が容易く恋に落ちるほどでした。
元のスカートが短く、夏制服を少し着崩して着ている写真を見ると、胸元を普通より開けているため、素行の悪い男も好みそうな容姿でした。
成績優秀、真面目な性格の彼女を大切にする、一途な男と結ばれて欲しいなと考えてしまいます。
『“その子の名前は“二条(ニジョウ) サオリ”。俺らと同じ歳の高校生だ”』
その写真を見て、ジャックは眉を細めていました。
『“まずはこの子を探してくれ。三日前にバイト先のコンビニで何かあったようでな…証拠を抑えようとしたんだが、店内カメラの記録が何者かによって消された痕跡があった。怪しいとみて携帯の位置情報で探りを入れてみたんだが、カメラの記録がない時間帯に五人の人間が入店していたのがわかった。アカウントの持ち主は偽造だろうが、携帯の中に入っている写真フォルダにアクセスしたら…こんなのが出てきやがった……”』
スマートグラスに映し出されたのは、乱暴されて争うことのできな二条サオリの、見るも耐えない二枚の写真。犯行の際に撮られた写真でした。
『“他にもやばい写真が大量に……まだ中学生にならない子たちの写真もあれば、俺らくらいの子たちの写真もあった。全部がゆする為のネタなのはわかりきってる…”』
人通りの多い繁華街をジャックは歩きながら、リッパーの話に耳を傾けます。
『“繁華街の監視カメラと位置情報を照らし合わせて、誰が襲ったのかおおよそのアタリはつけることはできた。犯行はとある詐欺集団の一団で、奴らがその辺りを拠点に活動している可能性が浮上、監視カメラにはリーダーの“龍崎”らしき人物も確認した”』
スマートグラスに映し出される写真は、明らかに違法な薬でもやってそうな顔つきの男が映った静止画像でした。
奇抜な髪型の短髪に鋭い目つき、車が好きそうな印象を与える雰囲気で、オーバーサイズに着崩した服装は見るからにオシャレを気にする若者ですが、腕からチラッと見えるタトゥーは話しかけずらいことこの上ないでしょう。
『“この龍崎は警視庁の逮捕履歴を漁っても出てこないんだが、10年前から捜査対象にされてきた男でな……尻尾を掴んでも切り離して逃げて、巧妙に証拠を隠す奴なんだ。最近の詐欺事件で捕まるやつのほとんどは、龍崎の名前を出すが証拠不十分で逮捕にまでは至ってない……”』
「…トカゲみたいだな……」
『“まさにその通りだ”』
ジャックの言葉にリッパーが同意すると、ジャックは3階建てのとある雑居ビルの前で立ち止まります。
『“ジャック?”』
“ここだ”といって、ジャックは地下に続く階段を降りようと中へ入った時でした。
『“待て”』
その途中で、リッパーが制止させます。
『“確認するから待て。ズカズカ行くのは俺が見ていないとこで頼む”』
リッパーからそう言われると、ジャックは壁に背を預けて携帯をいじるフリをします。
『“確かに中に一人で入店する二条サオリを確認した、店内にカメラはないからお前のスマートグラスからの映像だけが頼りになる、慎重にいけよ…”』
「わかった」
本当にわかっているのか、疑いたくなるほど軽やかに階段を降りて行きました。
地下一階。ジャックがバーの店内に入りました。
「ッ!」
ドアを開けると、怯えた様子でサオリがジャックへと視線を向けました。
すぐに視線を戻しますが、ジャックは目が合ったことを理由に、彼女へと近づき
「お一人ですか?」
躊躇なく声をかけました。
「……はい…」
怯えた様子でサオリは答えると、ジャックは左隣の椅子に腰掛けます。店唯一の出口方向に座ることで、心理的に退路を塞がれたと思わせました。
閉じた膝に拳を作り、肩に力が入りうつむく姿は、緊張よりも恐怖している様子でした。
「……もう飲みました?」
今にも泣きそうなサオリに声をかけると、言葉が出ないのか、顔を小さく横に振るだけでした。
よくみると、カウンターに名刺がそのままになっているのをジャックは見つけます。
手に取り裏表を確認してすぐに戻すと、スマートグラス越しに状況の解析をしていたリッパーがジャックが見つけた名刺のことで声をかけます。
『“歌いにきたってことは隠語……その子が置いてる飲み物は“抱かれる男”を待っている合図だ。その飲み物は催眠薬か媚薬(びやく)入りの可能性があるな……”』
それを聞いて、ジャックは隣に座る怯えた彼女へ鎌をかけます。
「…“歌いにきた”……相手を探してるって感じですか」
「ッ!」
体を震わせ、彼女の不安を煽ると、確信に至ったジャックは彼女へ手を伸ばします。
「あの…その、私……」
目元に涙を滲ませ、身を引きながら何か言おうとした時、ジャックの片手が左肩に届き、恐る恐るサオリは視線を向けます。
「………」
理解できない状況が目に飛び込んできました。肩に右手を添えられているのは確かでした。しかし、もう片手はバーテンダーに差し出された青いカクテルグラスへと伸びていたのです。
「まだ呑むには早い」
そういって、バーテンダーへと手のつけていないグラスを戻して声をかけます。
「ノンアルコールでカシス系の飲み物を二つお願いします。薬と酒に頼るほど老いぼれていないもんでね」
「……しょ、承知致しました…ただいまお作りします」
バーテンダーは少し驚いた様子でカクテルグラスを受け取ると、すぐに注文されたドリンクの調合に取り掛かります。
「………」
涙目のサオリを見て、ジャックは内ポケットから予備のハンカチを出して彼女へ差し出します。
「綺麗な顔が台無しだ」
「………お借りします…」
「あげる、だから案内は頼んだ」
震えた声で答えた彼女に、追い討ちでもかけるようにジャックは言います。
まだバレるわけにもいかないジャックは、“彼女を抱こうとする客”として振る舞うしか方法がありませんでした。
「……わ、私…ここにいるよう指示された、だけで……何をしていいのか…わからなくて……」
そういう彼女とジャックの元に、カクテルグラスに入ったドリンクが差し出されます。
「そっか、初めてなのか」
「ッ……!」
恥ずかしそうに耳を赤くそめ、ジャックはグラスを持つよう言います。震えた手でグラスを持ち上げ、片手を添えてジャックへ差し出します。
「こっちを見て」
そういって震える彼女の手に右手を添えて言うと、サオリはジャックを見上げます。
「初めての夜に乾杯」
そういって、ジャックはグラスを鳴らします。
カシス香るドリンクを口にすると、サオリも震えるグラスに口をつけて、一気に飲み干しました。
口に含んで飲み込むことを一瞬拒み、リスみたいに膨れた頬はすぐに萎みました。
「はーっ…はーっ……」
それを見て
「……そんな慌てないでいい、ちゃんとアルコールは入っていないようで安心だ」
落ち着いた様子でジャックは答えると
「バーテンダーさん、会計を。それとこの近くで一晩休めるいい店はありますか?」
ジャックがカードを差し出してバーテンダーへ言うと、少々お待ちくださいと言って会計が済まされました。カードの返却と共に“こちらをどうぞ”と言い、バーテンダーは一枚の名刺を差し出します。
「この名刺は紹介状としてお使いいただけます」
名刺に一瞬目をやると、“マジか…”というリッパーの声がジャックの耳に届きます。
リッパーが書かれた内容を、スマートグラスを通して瞬時に解析をしていました。
名刺はとある風俗店の物で、利用割引対象と書かれた高額の料金表の他に、住所と電話番号が記載されている物でした。店は捜査対象となっており、今回の潜入先候補でした。
これで怪しまれることなく、正面から堂々と中へ入ることができます。
「ありがとう」
カードを財布へ、名刺を内ポケットへしまい、グラスの残りを飲み干して鞄を左肩に掛け立ち上がります。
「行きましょうか? お嬢様」
椅子から立ち上がって、左肩にバックをかけると、二条サオリへ左手を差し出して声をかけます。
「……はい…」
彼女は恐る恐るジャックの手を取り、二人はゆっくりとした足取りでドアへ向かいます。
「お客様」
ドアに手をかけた時、バーテンダーから声がかかりました。
「どうぞ、よい夜を。おやすみなさい」
深々と頭を下げるバーテンダーに会釈すると、ジャックはサオリの手を引いてドアを潜りました。
『“女の口説き方なんてお前どこで知った…?”』
地上に出ると、耳元の通信機にはリッパーの声が届いていました。
『“けど、その様子じゃ口説いたとは言えないか。むしろ誘拐に近いかもな”』
手を引くサオリを見ると、男性慣れしていないというより、恐怖のあまり握られる手を心なしか離そうとしているように伺えます。
その様子を見てジャックは手を離し、サオリはなんだと言いたげにジャックをみました。
左腕を無言で差し出し、視線を送ると、サオリは震える手でジャックの腕を掴みました。
「……男としては、もたれてくれるとありがたいんだけど…」
「………はい…」
力無くジャックの言葉に答え、彼女は差し出された腕を抱くように隣へつきます。
「…行こう」
「はい……」
暗く小さな声でサオリが答えると、バーで紹介された店へゆっくりと向かいます。ジャックの腕を掴んでいる小さな手は、震えが止まりません。
『“しかし…こんなあっさり紹介状が出てくるとは……驚いたもんだ。合言葉はいらなくなったが……言葉を選ばないと消される覚悟はしておいてくれ…”』
ジャックは、リッパーの声に小さく首を縦に振って答えました。
繁華街を外れ、路地から繁華街の裏手へと進みます。道には何もかも失った男が数人飢え、壁にもたれ掛かり、地面で寝転がる人の姿もあります。
「あ……あの……」
その光景を見て、道の中腹あたりに差し掛かると、小さな声でサオリがジャックを呼び止め、二人は歩みを止めました。
「………」
一瞬目を見て話そうとしたサオリでしたが、後退りをして少し離れると、無言で見下ろすジャックを見て恐怖を覚え視線をすぐに下へと向けます。
「や……やっぱり…私………無理…」
静かにスカートを握り、拒否の意思を見せました。
「………」
ジャックは無言でサオリを見ていると、話はまだ続きますが
「せ、せめて……好きな人と……その…」
うまく話せないでいました。そんな彼女とは裏腹に
「……別にいいよ」
ジャックは淡々と答えます。
「え……?」
『“はぁ!? おいジャック! それはまずいって! いくら紹介状があっても一人で正面からは入れない! それにその子は保護対象なんだぞ!?”』
思いもよらぬジャックの発言に、サオリは彼に半泣きの顔を見せて、リッパーはこれまでになく焦っていました。
リッパーの言葉を無視して、ジャックはサオリと話を続けます。
「振り向いてごらん」
「え?」
二人が来た道、繁華街の入り口へ振り向くと、狭い路地に三人の男が立っていました。そして周囲の人間は獲物が来たと動き出し、全員がハイエナのように彼女を見ていました
「ッ!」
驚きのあまり、両手で口元を覆い、三人の男が行手を阻むように立っているのをしっかりと見ました。そのうちの一人は、コンビニで襲ってきた大男。周囲の人間は我先にと襲う準備でもしているのか、続々と動き始めます。
「多分だが、戻ればあいつら三人の相手をするのは確実……事が済んだらまたここへ戻される。一体今日だけで何人の相手をするんだろうな…」
「………」
ジャックの言葉に力無く立ち尽くし、頭が真っ白になってしまった彼女に
「…一人の相手か、三人かそれ以上の相手か……」
ジャックは心無い声をかけます。
決断を迫られ、男たちが彼女へ詰め寄ろうと一歩進んだ時、サオリはジャックへと振り返り、ジャケットの裾を掴みます。
「……助けて…」
ほぼ泣いた状態で救いを求めてきました。
「………」
無言で腕を出すと、サオリは覚悟を決めたのか、来た時と同じようにして寄り添いながらジャックと路地を進み、ネオン輝く派手な通りに出ました。
「お待ちを」
バーで渡された名刺の風俗店入り口で、黒いスーツに身を包んだ男二人に呼び止められました。日が落ちているにも関わらず、二人ともサングラスをかけています。一人はスキンヘッド、もう一人は派手なモヒカンです。
外にいるにも関わらず、周囲の風俗店からは生々しい音と共に喘ぎ声が聞こえてきます。しかし目の前にある店からは、聞こえてきませんでした。7階建ての大きなビルで、元はビジネスホテルだったのか、外からはロビーの様子を伺うことができれば、“ビジネス”という英文字を消してただホテルと書かれた看板が見受けられました。
サオリは本能なのか、恐怖でジャックの影に身を寄せます。
「お二人でご入店ですか?」
聞かれると、ジャックはバーテンダーから渡された名刺を出します。
「! 失礼致しました……どうぞごゆっくり…」
そうして巨漢の門番二人はジャックへ道を開け、サオリを連れて自動ドアを潜ります。
「いらっしゃいませ、プランはお決まりでしょうか?」
何の怪しげもなく、柔らかい声で受付の男性がジャックに聞きました。
それもそのはず、ジャックは店前に立つ巨漢が通した客です。無礼がないように接客しなければ、店にお金を落としてくれないからです。
「一番いい部屋を頼む、予算は気にしないでもらって構わない。もし私が満足のいくサービスを受けられたらそれ相応のチップも用意しよう」
ジャックは迷いなく自身の要求を口にすると、財布からカードを出して提示しました。
「! 承知致しました」
丁重にカードを受け取ると、男の声色が少し変わった気がします。
「当店のご利用は初めてでしょうか? よろしければ簡単に説明を…」
「頼む」
ジャックは即答し、サオリの不安を煽る中、支配人の男からの説明が始まりました。
『“いいぞジャック……二条さんには悪いけど…そのままうまく潜ってくれ…”』
リッパーは心配そうにジャックから送られてくる映像を見ながら、わかる限りで館内の情報を集めていました。
見取り図はビジネスホテルだった頃の物がありましたので、部屋数はかなりの数ありますが、そんな数はいらないはずなので、壁を一枚抜いて広いスペースを確保していると、ジャックとリッパーは推測しています。
推測できる限りでは、ホテルには元々3階に大浴場があったようです、現在はどうなっているかは不明ですが、何も手をつけられていないことを祈ります。
支配人の説明では2階がパブになっており、気に入った娘と夜這いをしたい時は追加料金を払えば4階から上階の部屋を案内するとのことでした。
最上階にはダンスホールとバーがあり、ジャックが装っているような普通の客も利用ができるとのことで、パブを利用しなくてもホテル自体は使えるそう。
夜這いの追加料金を払っていれば、パブでの料金は割引してくれるとのこと。
支配人からの説明が終わりを迎え、偽装のためだけに持っていたリクルートバックを預かってもらえるとのことで差し出した頃、2階に続くカーブを描いた大階段から、男が降りてきました。ボディガードなのか、体格のいい男が二人、後ろに続いています。
「ッ!」
降りてくる男を見て、サオリはすぐにジャックの影へ身を隠します。
ジャックは降りてくる三人を見て誰だか気がつきましたが、“なんだ人か”と言いたげな自然な顔で、すぐに支配人に視線を戻します。
『“マジかよ…”』
リッパーは驚きで言葉を漏らします。
「支配人」
屈強な男二人を従え、先頭を歩く男が口を開きました。
「! 龍崎様、お疲れ様でございます」
深々と頭を下げると
「お客様、こちら当店オーナーの龍崎にございます」
ジャックへと龍崎を紹介しました。
「こんばんは。おや、お客様はお目が高いようだ」
背後に隠れ、顔を合わせないようしているサオリを、龍崎は覗き込むように見て言いました。顔は笑うこともなくポーカーフェイスを保っているようにも見えました。
彼女が龍崎から隠れる訳は、奴がサオリがここにくる理由を作った本人だからです。龍崎の持っている携帯端末からは、ジャックが見た写真が保存されています。
「かなりご出費なさってくださっているのですね、ありがとうございます」
カウンターのパソコン画面を見て、微笑みを見せながらジャックと話をします。
「その娘に粗相はありませんでしたか?」
「……何も」
龍崎の言葉に、ジャックは首を傾げる仕草も交え淡々と答えました。
「……左耳のハンズフリーなのですが、通話と録音はご遠慮ください。娘たちのプライバシーもありますので…」
「ん? ああすいません」
左耳につけていた通信機に気がつき、龍崎は外すよう促すと、ジャックは付けていたことを忘れていたかのように、なんの躊躇もなくジャケットのポケットへしまいます。
「それと……お目が高いお客様にお伺いしたいのですが、本日のお相手はお一人ですか?」
「支配人には…私が満足のいくサービスを提供してくれればそれ相応にチップを出すと話をしました……何かご提案がありそうですね?」
「ふふ…お話できて光栄です」
ジャックの言葉に不気味な笑みを浮かべると、龍崎は提案します。
「どうでしょう? ご予算を惜しみなく使っていただけるのでしたら、その娘をあなたに服従させるというのは…」
「ッ!?」
そのことを聞くと、サオリは龍崎の方を見ました。
「……そんな簡単にできると?」
ノリ気に話を進めます。
「ええもちろん、あっという間です」
「…提供したのちに考えよう……“時は金なり”というからな」
「はい、ご準備させていただきます」
龍崎の言葉に震えが止まらず、サオリはジャックにも疑いの目を向け離れようとしましたが、付き人の一人がそれを止めるように背後に立ち塞がりました。
「準備を始めろ」
龍崎は、自身の背後にいる付き人に指示を出すと、付き人は二つあるエレベーターの片方を使って上へと向かいました。
「おい支配人」
そしてすぐに支配人を呼びました。
「はい、こちらをどうぞ」
龍崎が呼ぶと、支配人からはカードが差し出されます。
「お部屋のカードキーになります、6階の最高級グレードのお部屋をご用意させていただきました。窓からは綺麗に夜景も楽しめますので、どうぞお楽しみください」
白地に模様があしらわれたカードを受け取り、ジャックは小さく会釈して胸ポケットへとしまいました。
「いくぞ」
「!? イヤッ!」
もう一人の付き人が、サオリを強引に連れて行こうと両肩を持った直後でした。
「!?」
ジャックがサオリを引き寄せました。というより抱き寄せました。
「!? ど、どうなさいましたか?」
男はジャックの行動に驚くと
「手荒にされると困る…エスコートは私がするので、手を出さないでいただこうか?」
サオリの肩に優しく手を添えて言い、“大丈夫?”と声をかけます。
それでも、彼女の恐怖心を拭うことはありません。
「……お客様、部下の無礼をお許しください」
すると、龍崎がジャックへ頭を下げました。映像越しに見ているリッパーはその行動に驚き、部下である付き人はかなり動揺してました。
「準備ができたようなので私がお部屋にご案内します」
「! 龍崎さん、それなら私が…」
付き人は名誉挽回しようと、自分から業務に就こうとしますが
「今後…この店をご贔屓にしてくださるお客様だ……無礼があってはならない…」
付き人へ警告するように言いました。
「す、すみません……」
その形相は、強面で体格の良い付き人が素直に従うほどでした。
「それではご案内致します、どうぞこちらへ」
「…どうも」
笑顔に変わる龍崎に誘われて、一行は二つあるエレベーターの“付き人が乗らなかった方”へ乗り込みました。
龍崎と付き人の接客を受けながら、エレベーターのドアが閉まった時でした。
「改めまして…本日は当店をご利用いただき、ありがとうございます」
「いえ…」
「その娘も、ご期待に答えられると思いますので、今晩はお楽しみください」
視線を向けられるサオリは恐怖に震え、ジャックの添えていた左手からは、体の震えが伝わっていました。
するとジャックが口を開きます。
「隣のエレベーター…従業員用ですか?」
「ええ。ホテルの清潔を保つために清掃用具などを上階へあげるのにどうしても必要な物でして……元々はお客様にも使っていただいていたのですが、見栄えがあまりよろしくはないので貸し切らせていただいています」
何気ない会話に龍崎も淡々と答えると、エレベーターはあっという間に、部屋のある6階に到着しました。
降り立つと、人がいるのかわからないほど静かな階層で、暗い落ち着きのある照明でも、不気味に感じてしまうほどでした。
不気味と感じているのはジャックだけではなくサオリも同様で、足取りはとても重く、彼女に寄り添うようにジャックは歩幅を合わせてゆっくり進んでいきます。
龍崎が案内で少し前を歩き、背後には付き人が続き、左腕でジャックに抱き寄せられるようにしてサオリは歩きます。
彼女の視界と思考には、“逃げ道”という言葉はありませんでした。
「フー…フー…フー…」
呼吸の荒いまま、サオリを誘うジャックの顔色は何も変わりません。
長い通路を進み、突き当たりの角部屋の入り口に着いた時でした。
「本日のお部屋になります、どうぞ入室ください」
ジャックはサオリを抱き寄せたまま、ドアノブ上にある端末にカードキーをかざして、ドアロックを開錠すると、サオリを誘うようにして入室します。
「ッ!」
「………」
サオリは飛び込んできた光景に絶句し、同じものを見たジャックは表情を一切変えることなく立っていましたが、腹の虫は怒りと殺意で燃えたぎっていました。
室内は、ビジネスホテルの部屋の壁を取り払い、二部屋分のスペースを確保した部屋になっていました。
大きく綺麗なベットの前には壁掛けの大型モニターがあり、ガラス張りの浴槽付きの大きなバスルームもあり、浴場からは街の夜景が一望できました。
これだけでしたら良いホテルでした。しかし今二人のいるホテルはただのホテルではありません。大人が性行為をするためのホテルでしたので、大人の玩具が当たり前のようにあります。
SMプレイ用の道具が当たり前のように設置されており、壁には手枷・足枷が吊り下がれば、ムチなどの拷問道具まで多種多用でした。
そんな多くの行為道具の一つ、エックス型の拘束具に
「ミオ…ちゃん」
サオリが助けようとした幼い女の子が、四肢を鎖に繋がれている状態でいました。
首には首輪が繋がれ、そこから伸びている鎖の先を、ロビーで龍崎に指示されていた付き人が持っていました。
服は何も着ておらず、全身に何かで叩かれた痛々しい傷がありました。目を黒い目隠しで、口を猿轡で覆われていました。
体が熱を帯びているのか全身からはゆげが立ち込め、口からは唾液が、股からは雫が滴っています。
「どうです? お気に召していただけましたか?」
ドアが閉じ、龍崎がミオと呼ばれた女の子へ近づきガニ股に腰を降ろすと、ぐったりする女の子へ手を伸ばしました。
「ッ!? やめてッ!」
龍崎を止めようとしたサオリを、背後にいた付き人が押さえ込みます。
「離してえ!」
床に撃ちつけられ、暴れるサオリですが、跨いで押さえ込まれ振り解くことは叶いません。
「安心せぇ、生きとるか確認するだけや」
そう言って顎を持ち上げて確認します。
「……なんだ、“のばしちまった”のか?」
「暴れるもんで。けどご安心ください」
龍崎の問いに、付き人はポケットから不気味な音のする鈴を出して、少女の耳に運んで聴かせます。
「ングッ!」
声を出そうとしますが抑えられた状態で、体を音の反対へ翻して目を覚ましました。
「おー…意気のいいもんやなぁ」
「“ンーーッ”! “ンーーッ!”」
捕縛を解こうと暴れ始める少女を見て、龍崎は言葉を漏らしました。
声を無理やり出して暴れる中、付き人が鈴を鳴らしながらたば状のムチを頬へ突き付けると、少女から短い声が出た直後大人しくなります。
「叩かれたいンか?」
ドスの効いた声で耳元で言います。
「やめて! 手を出さないで!」
サオリは顔を上げ争いますが、頭を床に押さえつけられます。
「痛っ…!」
「安心せぇ、相手するんはワイらとちゃう」
サオリの前に龍崎が立つと、付き人を顎で使います。
「イヤアア! 離して!」
暴れるサオリから鞄を剥いで、二人がかりで隣の部屋だった場所へ連れて行くと、天井から吊るされた手枷をかけようと口をガムテープで塞ぎます。
サオリはこれでもかと暴れ、腹部に一発拳が飛び込み、おとなしくなったところを付き人達は慣れた手つきで手枷をはめて宙吊りにしようとします。
「………」
衣装ケースに腰掛けて待っていたジャックに、龍崎が声をかけます。
「申し訳ございません、まだ躾がなっていないものでして」
その言葉に、ジャックが口を開きます。
「男二人でその体たらくか…」
「……と、言いますと?」
龍崎が少し睨んだ様子でジャックを見ると、ジャックは付き人一人へ近寄り長い足一本の回し蹴りで吹き飛ばしました。
「楽しみをとってもらっては困ると言う意味だ」
行動と言葉で示したのでした。
手枷に鍵をかけた付き人の一人が頭を壁に打ち付けると、そのまま動きを止めました。鍵は手から離れそのまま床へ転がります。
「従業員の躾もなっていないようだな……」
「ッ……!」
部屋の端で鎖を引っ張って固定していた一人が、驚いた様子でジャックを見ていました。
「……これはこれは…お見事です…」
龍崎はポーカーフェイスを装っていますが、額からは一滴の汗が滲んでいました。
「それ相応の金額を積んでいるんだ……これ以上私の好きにできないのなら、払えるものもないぞ?」
「…申し訳ございませんでした、それでは……この辺りで我々は失礼します……あとはお楽しみください…」
そう言って龍崎は付き人へ指示を出し、行動不能となった一人を連れて部屋を後にしようとします。
「それでは…これで……」
「ちょっと待て」
ジャックは退室しようとした龍崎を止めました。
「これだとすぐ終わる、代わりを用意しておいてくれ」
「…わかりました、その時はお電話ください」
「わかった、選ばせてくれれば報酬ははずもう。よろしく頼んだ」
龍崎は頭を下げて部屋を後にすると、部屋にはジャック、サオリ、ミオの三人だけとなり、静かになった時間が少し流れました。
「……さて」
部屋を見渡し、ジャックはしまっていた通信機を耳にかけると
『“ヒヤヒヤさせやがって……でも、これで確定だな。間違いなくここだ”』
すぐにリッパーから声が届きます。
サオリは怯え、なんとかジャックの目を盗んで手枷が外せないか考え、同時に心配そうに少女を見ています。
『“行動開始といきたいところだが……まずはここのネットワーク制御をどうにかせんとならんな。部屋の至る所にカメラがある、お前もグラスに写っているからわかっただろうが…この部屋の隠しカメラの数だけでかなりだ、他も尋常じゃないぞ…”』
ジャックのかけていたスキャングラスには、隠しカメラの反応がいくつも映し出されており、部屋に入ってから数を数えていました。現在いる部屋だけで10以上の反応があり、下手に不審な動きができずにいます。
聞き耳を立てながら、ジャックはドアに寄りかかり背を預けて座ると、リッパーの指示を待ちます。
座った理由としては、完全な死角ではありませんが、行動がカメラに捉えづらい場所と推測してのことでした。
「………」
動きを止めるサオリに、ジャックは人差し指を自身の口元へ立てて、静かにするようジェスチャーします。
『“そうだな、まずはこの部屋を完全封鎖する。お前のスマホにカードキーをかざせ”』
指示されるがまま、ジャックは携帯にカードキーを重ねるように手に持ちます。すると画面が勝手に起動しました。動きがあるわけではありませんが、リッパーからは声が聞こえてきます。
『“おぉマジか。このカード発信機もかねてやがる……ただの鍵じゃないってこった…”』
驚いた様子でしたが
『“ん!? おいおいマジか!”』
さらに驚いた声がジャックに届きました。何事だと言いたくなった時、リッパーから状況が話されます。
『“独自サーバーで動いてやがる、サーバールームもあるって……一体どんなセキュリティ詰んでやがる…”』
「………」
ジャックが指示を待った時でした。
『“よし、カードキーの情報を書き換えた。試してみてくれ”』
リッパーに指示され、ジャックは座ったままドアノブ上の端末にカードキーをかざします。渡されたカードキーで開錠できなくなっていることを確認しました。
『“よし、次にそのままドアの端末にスマホをかざしておいてくれ。ドアのコードを独自のに変えて、部屋を完全施錠する”』
指示の通り行動していると、サオリはなんとか手枷を解こうと動き始めました。
口が塞がれているのでジャックは問題ないだろと流そうとしましたが
『“ジャック、多分二条さんがどうにかしないとやばい……コードは変えたから、まずは彼女をどうにか説得してくれ。サーバーへは何とかアクセスを試みる”』
コード書き換えを終えたリッパーの言葉で、ジャックは行動することになりました。
静かにサオリへ近づくと、ギリギリつま先立ちの状態のまま、サオリは身構えます。
数秒、互いに言葉を返さずにいる時間が過ぎると、ジャックは彼女の横に立ちます。
「ッ……!」
「……静かに」
身構えるサオリに触れることなく、囁くように声をかけました。
「静かにしていれば何もしない……」
疑う視線を向けられますが、サオリから離れると、大人しくなります。
『“多分、今も監視されてるはずだ……ハッキングまで時間がかかるから、どうにか偽装できないか?”』
「………」
リッパーの注文に、ジャックはバスルームに目線が動きました。
サオリや少女へ何も言うことなく、そのままガラス張りのバスルームへと向かいます。
「………」
土足で中に入ると、アメリカン式の背の高いシャワーが迎え、隣室に大きな丸型バスルームがあります。体を洗うためのスペースもあり、別途でシャワーがありました。
換気扇が回っていましたが、スイッチを切ってジャックは浴槽に栓をすると、“シャワーで”お湯を張り始め、隣の背の高いシャワーも、湯温を最高まで上げて栓を開け、バスルームのドアを閉めずに出てきます。
浴室でどんどん湯気が立っていくと、やがて湯けむりが室内を包み始めました。
『“…なるほど、それでカメラに死角を作るわけか……”』
ジャックの意図を理解したリッパーが口にすると、湯けむりはさらに濃くなっていきます。部屋の換気扇も止めたので、湯気の逃げ場はありません。数分経った頃、隠しカメラには水滴がつき始め、鮮明だった視界を塞いでいきました。
そんな中、ドアに背を預けて待っていると、リッパーから声がかかります。
『“よし! ハック成功…ジャック、換気扇つけていいぞ”』
「………」
本当に大丈夫かと、躊躇しているジャックに、リッパーが声をかけます。
『“大丈夫だ、今相手方のカメラにはお前が湯けむり越しに乱交している映像が流れてる”』
「はぁ!?」
思わず声が出ました。
その声に何事かとサオリが驚くと、全く状況が理解できない少女も驚いて体を震わせました。
『“大丈夫だって。AIが生成してる映像だからマジでやってるわけじゃない。けど、怪しまれないためにも、その映像が終わる間は外に出るなよ。二人はもう自由にして構わない”』
「……わかった」
部屋の換気扇をつけ直し、シャワーを止めて、同じくバスルームの換気扇をつけます。
湯けむりが晴れ、ジャックは行動に移ります。
「話がある」
吊り上げられたサオリに声をかけ、口に貼られたガムテープを剥がそうとします。
「ッ!」
「………」
しかし、信頼のない男の言葉など聞く耳を持つはずなく、触られることすら拒みました。
「……わかった」
会話を諦め、ジャックは一方的に話し始めます。
「オレは部屋を出る」
「!」
ベットに腰掛けながらネクタイを外してジャケットへしまうと、サオリは“なぜ?”と言う視線を送ります。
「二人をそのままにして行っても構わない、いずれ他の男どもがこの部屋に来るだろう。 そいつらが助けてくれるわけでもないし、丁重にもてなされることもないだろうな」
「ッ……!」
「どうする? オレの話を聞いて自由を手に取るか……お先真っ暗な人生と裏社会で生きて朽ちるか……」
サオリはジャックを、疑心を拭えないまま見ていました。
「出ていく時…最後に聞くからそれまでに答えを決めといてくれ」
携帯を出してジャックが告げると、リッパーから声がかかります。
『“ちなみに言うと“お前のビデオ”はあと5分くらいで終わる、その時になったらまた声かけるから、そのあとならいつでも出ていいぞ”』
「……はぁ…」
大きなため息と共に頭を抱えました。
『“よし、うまく誤魔化せてる。お前のことを警戒しているやつはいない”』
5分と少しが経過すると、リッパーから声が届きました。
すでにホテル内のシステムを掌握しており、リッパーは施設内の全カメラ映像を把握していました。
しかしいくつかのカメラ映像が、まだ映し出されれいませんでした。リッパーの見ている画面にはアクセス中となっていましたが、手元にはアクセス権がないことを示すアラートが表示されていました。
『“電話をかけるんだったよな? いつでもいいぞ”』
リッパーは解析を進めながら、ジャックから目を離すことなく、次へと促すように声をかけました。
ジャックは座ったまま動くと、ベット脇にあった受話器に手を伸ばし、受付へ連絡をしました。
『“はい受付カウンターです、ご用件を申し付けください”』
受付にいた支配人が内線電話に出ました。
「代わりは用意できているか?」
『“龍崎様が二階の“ホール”でお待ちしております、いつでもお越しいただいて問題ありません”』
「わかった、楽しみにしておくと伝えといてくれ」
受話器を置き、ジャックはサオリへ声をかけます。
「……さて、どうする? お嬢さん」
先ほどまで下着が見えてしまうことなどお構いなしに、手枷を外そうと奮闘していたサオリでしたが、力尽きたのか鼻息荒く汗まみれで、ジャックを睨んでいました。
「…返事を聞こう」
立ち上がりながらサオリへ言うと、襲われまいと宙ずりになりながら、無理やり声を出して足を振り回します。
「……まぁ、決まってるんだけど…」
そう言って、ジャックは鎖が固定されている壁の金具を外すと、宙吊り状態のサオリをゆっくりと下ろします。
「?」
しかし完全に腕が降り切らない位置で再度鎖を固定しました。どういう意図でジャックが行動しているのか訳がわからないまま、とりあえずサオリは口元に貼られているガムテープを剥がします。
「痛…」
顔には剥がした跡が少し残っていました。そんな彼女の行動に気に留めることなく、ジャックは床に落ちていた手枷の鍵を取りサオリを見ました。
「………ど…どうする気ですか…?」
震える彼女へ答えを返します。
「……ここを出る、あの子とここで身を隠せ」
ミオを示し鍵を渡すと
「…え?」
サオリの呼び止めた言葉を聞かずに、ジャックは部屋を出ていきました。
『“ミオちゃん!”』
片耳のヘッドセットからは、手枷を解いたサオリがミオへと声をかけているのが聞こえてきました。メガネに映し出された監視カメラ映像からは、サオリがミオの捕縛を解き、裸の少女をタオルで包んで介抱する姿を捉えていました。
『“よし…さっさとカタをつけるか”』
ジャックがエレベーターに乗り込み
「ああ。ヘッドセットを外す」
ジャックは至極同意してヘッドセットを外しドアが閉まりました。
程なくしてジャックの乗るエレベーターは、ロビーのある一階へと降り立ちました。
銃をホルスターへ収めロビーへと向かいます。受付に姿をみせ、支配人が会釈するのを横目で確認すると、龍崎が現れたパブへと続く階段を登っていきます。
「………」
扉の前に立つと防音でも漏れているのか、重低音の音楽が流れているのがわかりました。
センスのない音だと目を細めながらも、ジャックは扉にある端末にカードキーをかざし、両開きの扉を押して中へ入りました。
耳を塞ぎたくなるほどの大きなBGMに、ジャックは驚きを隠せません。よく外まで響かないものだと思っていました。
中では男女が踊り狂い、男はスーツ、女は裸族のような格好でダンスを楽しんでいました。デリケートゾーンを隠すのは薄い布一枚です。上階には服を着て上品に楽しんでいる人もいますが、ほとんどはネジが飛んだように狂い踊り、酒を水のように飲んでいます。
布地の少ない裸同然の女性がポールダンスをしていれば、周りの観客はそれを見てチップを投げていきます。
ジャックはホールを進み龍崎を探しますが、人でごった返しているので見つかりません。
「! お待ちを」
ホールの上階、3階に上がろうとした時でした。
入り口に立っている同じ背丈ほどの男に止められます。耳には無線機に伸びるイヤーピースが下がっていました。
「3階はVIP(ビップ)専用スペースとなっております、どうかお引き取りください」
そう言われて、ジャックは無言でカードキーを出しました。
「!! も、申し訳ありません! どうぞお進みください!」
深々と頭を下げると、男は道を開けました。
3階に上がると、下のホール全体を見渡すように上階が設けられていました。下にいれば大きいパブのBGMに長時間やられ、間違いなく難聴になるでしょう。
酒類を提供するカウンター、下ではバーテンダーのような男性がいるだけですが、今いる階はカウンターにバーテンダーがおり、スーツを着るホールスタッフの代わりのようにバニーガールが堂々と歩いていました。
階を周ると、テーブルを囲ったソファにカーテンのかかった個室が幾つもあるスペースを見つけました。龍崎を探して彷徨い、もう一度個室の前を通ると、部屋の半分が埋まり中から生々しい肌を擦り合わせる音と共に薄っすら白い液体が外へ漏れ出ていました。
プライベートスペースということだとジャックは考えてましたが、こういったホテルです、どうやら乱交スペースか何かも兼ねているのでしょう。
「いやぁ!」
立ち去ろうとした時、一室から声をあげてバニーガールが出ようとしていました。片腕はまだ部屋の中だったので、室内にはもう一人いるようです。
容姿からはジャックとさほど変わらない歳に伺え、スマートグラスが勝手に解析を始めます。
「離して!」
「おい暴れるな!」
大暴れするバニーガールに負けて、腕を掴んでいる男が個室から出てきました。
どうなってそんな丸い体形になったか疑うほどで、ズボンは半分ほどずり落ち、クリームパンみたいな手にはごちゃごちゃと指輪をつけていました。
金色にひかるネックレスは首輪をしているようにも見え、バーコードの髪も相成り、残念極まりない容姿でした。
財力があれど、普通の女性は抱くことを拒否するのだろうなと、ジャックは遠い目で見ていました。
やがてバニーガールは、掴まれていた腕を振り解き、前を見ないで走り出します。
「!」
「キャッ!」
避けようとしましたが、彼女の退避進路とは反対に避けようとしたジャックに気づかず、正面からぶつかります。身構えていたので、ジャックは倒れませんでしたが、バニーガールは違いました。ブタ男の方へと倒れそうになりますが
「へッ!?」
ジャックは彼女の左手を引いて抱き寄せたのです。抱かれて驚きの声が出ると
「…前を見て」
それだけ言って、抱擁をときました。
そのまま立ち去ろうとしましたが
「!」
バニーガールはそのままジャックを盾にしました。
「……おい…」
ジャックが怪訝そうな顔を向けますが
「おいスタッフ! 女をよこせ!」
ジャックを従業員と勘違いしているようで、言われた本人の顔はさらに嫌そうな形相に変わり、声を張る男の方へと視線が向きました。
ブタ男が言い寄ってきますが、男性器を出したまま言われても何の説得力がなければ、むしろ見せてほしくないものです。
「………」
ものすごい嫌そうな面持ちのジャックは、関係ないからそのまま無言で立ち去ろうと思い、二人の間から抜けようとした時でした。
「ちょっと待って!」
「いぃ!?」
背後からバニーガールに抱きつかれました。
「ちょっ!? なになに!」
「暇なら盾になって!」
プライドも恥じらいも捨てたのか、乳房を思いっきり押し付けながら、バニーガールが助けを求めて来ました。
「はぁ!?」
思わない言葉に声を出してジャックが驚くと、ブタ男がキレたのか襲いかかってきます。
「オレの女だ! いいからよこせ!」
ジャックへと両手が伸びましたが、奪い返すことはできず、むしろ反撃の機会をジャックへ与えてしまいました。
「へ?」
男から短い声が漏れましたが、ジャックは腕を引き寄せて右足の踵(かかと)で男の顎を前蹴りしました。
一瞬の動作で、男はそのまま力無く倒れました。
「………」
まさかの早業に絶句しているバニーガールに
「…離れてもらっても?」
ジャックが声をかけました。
「え? ……あ、……はい…」
生々しい音がなる中で、何がどうなったか理解できないまま、バニーガールはジャックから離れました。
男が気絶したことを確認すると、ジャックは何も言わずその場から立ち去ろうと、ジャケットを整えて歩き出そうとしました。
「あ! あの!」
「!」
しかしジャケットの裾を掴まれて、またバニーガールに呼び止められます。
「あ……ありがとう…ございました……」
「………」
軽く会釈して早々に去ろうとしましたが、まだ裾を掴んだまま離す気配はなく、どうしたものかとジャックが考えていた時、解析が終わり、彼女の正体が判明しました。
「……あ…あの……わ、私を…」
裾を持ったまま、バニーガールが何か言おうとした時でした。
「おや、お目が高い」
突然隣の個室のカーテンが開かれると、中から龍崎が現れて言葉を被せてきました。
「ッ!」
女性はすぐに龍崎の方へ振り返ると、恐怖した様子で目線を向けます。
個室から出てきた龍崎はズボンは履いていますが、ベルトとチャックは開けっぱなしでパンツが見えていました。入っていた個室には服を着ていない豊満な体の女性が鼻息荒く、ぐったりとソファに転がっていました。
龍崎に汗は見えませんが、女性は大量の汗と湯気に包まれ、股と体の至る所に粘り気のある液体が掛かっていました。
「ッッ……!」
あらぬ光景を目の当たりにして、バニーガールがたたじろぐと、ジャックに背中が当たり、龍崎から声がかかります。
「どうでした? 二人の“デュエット”はお気に召していただけましたか?」
龍崎の言葉に、ジャックはバニーガールの背後で首を横に振り答えます。
「そうでしたか。して…今度はそちらの“ウサギ”で楽しもうと?」
「!?」
龍崎がバニーガールの女性を指すと、その言葉に驚いた女性はジャックから距離をとると、壁に背をつけました。
「いや、要件があって来た」
「……と、言いますと?」
ニヤつく龍崎に
「“選ばせては”もらえないのか?」
ジャックは淡々と答えました。
「……いいでしょう…ここでは話ずらいでしょうし、場所を移しましょう。そのウサギはどうなさいます?」
「ヒッ!」
二人の男から目を向けられ、恐怖で涙目になり汗を流し始めた女性に
「………」
ジャックは少し悩みました。スマートグラスが解析した結果、ジャックの一つ年上の高校生だったと判明していたのです。現在の見た目からは想像もできませんが、彼女も安全に保護しなければなりません。
「……少し二人だけで話せるかな?」
「オーディションというわけですね? いいでしょう、そこの個室をお使いください。 伸びているお客様は私の方で片付けておきますので…」
先ほどまでバニーガールとブタ男がいただろう部屋を龍崎が指すと
「……ここでもいいかな? 連れは必要ない」
ジャックは別の場所を指しました。
「ええ、お好きなように」
キーカードを見せながらいうと、龍崎は従業員を呼んでブタ男をどこかへ連れて行くと、個室にまた戻っていきました。
「フーッ……フーッ……」
バニーガールの高校生は、床に力無く腰を下ろしました。
「……立てるか?」
片膝を立てジャックは声をかけると、彼女は首を横へ振りました。
「こ……腰が………」
恐怖のあまり立てなくなっていました。龍崎は人の弱みを握るのが相当上手いのでしょう。その証拠が部屋にいるサオリやミオで、彼女も同じだと察しが行きます。
「……失礼する」
「へ?」
ジャックは彼女へ告げると
「ひゃ!?」
姫様抱っこで軽々と持ち上げると、
「安心しろ、手は出させないさ」
そのまま声をかけ部屋へ歩き出しました。
室内を映すカメラには、サオリとミオの姿はなくなっていました。
リッパーの指示で、クローゼットの中に息を潜めているのでしょう。
部屋に連れて行こうと考えていたジャックでしたが、部屋は完全閉鎖されています。カード情報を書き換えてしまっているので、こちらから開けることも難しいです。
しかし、リッパーがシステムを掌握しているので、遠隔操作で解錠してもらいました。
「あ……あの私…」
腰の抜けたバニーガールを、そのままベットへ乗せると、覚悟を決めたのか滲む瞳を閉じて身構えました。
しかし、何もしてこないで物音だけするので、細目でジャックを見ると、片耳にヘッドセットをかけて部屋を出ていきました。
「………へ?」
あっけに取られていると
「あ…あの〜……」
クローゼットから出てきたサオリとミオに驚き、声を上げました。
「……早いですね…」
「デザートにすることにしたよ、メインディッシュにしようかとも思ったんだけど……物足りなさが勝ってね……やはり選ばせて頂きたい」
ジャックが早々に龍崎の元へ帰ってくると、まだ楽しんでいる最中だったようで、生々しい叩く音を一瞬止めたと思うと、ジャックの言葉の後にまた再開しました。
喘ぎ声と湿った肌が擦れる音と共に、人肌同士がぶつかり合うような音が数分流れると、終わったのか龍崎は何事もなかったかのように個室から現れました。
「ふぅ……お待たせしました、こちらへ」
個室の中を見ると、細身で筋肉質の女性が一人増えており、丸テーブルに仰向けになっていました。もう一人は先ほどよりも息を荒立てているので、どうやらニ対一でハッスルしていたようです。
少し遅れて龍崎の後を追い、下階が一望できる特等席へ招かれました。付き人が周りに五人配置につき、二つある牛革の椅子の一つへ、ジャックを腰掛けるよう促します。
テーブルには高級ワインが氷に沈められており、一人が二つのグラスに注ぐと、龍崎が手に持ちます。
「さて…メインディッシュと仰せになっておりましたが、お好みはどのような?」
椅子に背中を預け、龍崎はジャックへと問いました。
「……好みは先ほどと同じ年頃の生娘(きむすめ)…」
ジャックは足を組んで、龍崎と興味深そうに話を始めます。
「前菜に頂いた一人は絶品だった、私が連れてきたのには到底及ばなかったが、総じて言えばいい前菜だった」
「さようでございますか。しかし…デザートまで用意して、まだ足りぬと…」
「ああ。全く足りない……おかげでまだ充実した時を過ごしてはいない…」
不審に思ったのか、龍崎はテーブルに置かれていたタブレット端末を持つと、何か操作をして、有線のイヤホンをつけて画面を凝視します。
動画を見ているのか、顔に光が反射するだけではなく、時折顔の表面を色が移動するのがわかります。時折画面をタップ、スワイプして操作しています。
「シャワーでカメラを曇らせ、見えないようにしていましたね? ……随分と見られたくないようだが、これだけハードなことしていれば…音声までは隠せませんよ? 終わってからシャワーを止め、ペットボトルの水を一気飲み、これで退室……さっきの娘は鎖に繋いできてましたか……かなり暴れているようですが大丈夫ですか?」
シャワーまでは覚えていますが、その後のハードな行為に関しては何も知りません。リッパーはどんな映像流してたのかと気になります。
「…やはりカメラがあったか……まぁ目的はそこではなく、視界を奪って楽しんでいただけだよ。すぐに終わってしまったので残念でならなかったが…」
「………確かに、娘のダウンが早いですな…」
「ええ。それなので、ここで育てている意気のいいものを見せていただきたい…一つではつまらないので……先ほどのオーナーのように食べ比べが好ましい」
「なるほど……選びたいのは受け止められるだけの容量があるか心配だと……“食べ比べ”という訳はそこからですね?」
まだ少し疑いはあるようですが、話は続きます。
ジャックが龍崎の言葉に頷くと、ワインを一口飲んで、龍崎は少し唸りました。
「う〜む……参りましたなぁ……お客様が最初にいただいた前菜、数に限りがありましてかなり値が弾んでしまいますが……それでもよろしいですか?」
「支配人に伝えた通りだ、同じことを言うのは嫌いなんだ」
「………」
もう一度タブレットの画面を見て龍崎が少し悩むと、タブレットを付き人に差し出し、持っていたワインを飲み干しました。
「いいでしょう、ご案内いたします。ですがくれぐれも……ここからのサービスは他言無用でお願い致します…」
「もとい…ここでの行い自体、他言無用だろう? 売春以外にも“薬”を取り扱ってるみたいだしな」
「! ……どこでそれを?」
睨む龍崎を見て、ジャックは顔色を一切変えずに答えます。
「鼻が効くもんでね。その赤ワイン…“ロマネ・コンティ”では? 500万はくだらないんじゃないかい?」
二人からパッケージは見えていませんが、ワインのラベルにはしっかりと“ロマネ・コンティ”と書かれていました。
「………! これは驚いた…」
ラベルを見て、龍崎もこれには驚きました。
しかし、実際ジャックは匂いでこのお酒を当てたのではなく、スマートグラスの解析による結果でした。
しかしなぜ薬を取り扱っていると見抜いたのか、店員や客の挙動と言動により疑いを持ち、コーヒーで鍛えた嗅覚によりわかったことでした。
麻薬探知犬ほどではありませんが、普通の人よりはいい鼻を持っていたため、部屋や廊下に染みついた炙った薬の匂いに気がついたのでした。
部屋もそうでしたが、このパブが一番臭いが濃いことには間違いない様子です。
「それでは……今後ともお客様はこの店をご贔屓にしてくださると言うことでよろしいでしょか?」
「サービスにはそれ相応に払わせてもらう、そう聞いているから来た」
「……承知致しました、疑ってしまい申し訳ございません。今回の件、このホテル最大のサービスを持ってご対応させて頂きます。どうぞこちらへ」
そう言って立ち上がると、龍崎はジャックを誘います。
そこからは付き人が三人付き添い、下階のバーカウンターへ向かいました。
「特上品を紹介する」
バーテンダーへ耳打ちすると、カウンターのバックヤードへ通されます。
立派な厨房を通り過ぎ、さらに奥へと進むと、ワインなど多くのお酒を保管しているスペースがありました。
そこからさらに奥、食材や酒などを運び入れるための搬入口がありました。
業務用のかなり大きなエレベーターで、付き人の一人がスイッチを押すと、自動で両開きにドアが開き、さらに安全装置で格子ドアが付いていました。
全てを付き人が操作し、格子ドアを閉め、中にある操作パネルを付き人が動かす最中、龍崎が携帯端末をパネルの下にかざしました。
これだけですと、外面は元ビジネスホテルの風俗店にしか見えません。
「ここから先は限られたお客様しかお招きしないエリアです。お静かに願うのと、先ほども申したように他言しないようお願い致します」
特殊コードなのか、龍崎がジャックに再度忠告すると、1階から3階まであるスイッチを“1”から順に押します。全部の階が点灯するのを確認して、“運転”と書かれた緑のスイッチを押すと、格子の先にあるエレベーターのドアが閉まりました。
静かに降りるエレベーターの中はかなり広く、普通車一台分は余裕にありそうです。
1階へと降りた時でした。デジタル画面の表示では1階に到着していましたが、エレベーターはまだ下へと降りていました。
1階を通り過ぎて数秒、エレベーターはインターホンでも鳴らしたような音を奏でて止まりました。
ドアが自動で開くと、格子の先には疑いたくなるような光景が飛び込んできました。
どうやって作ったのか、立派な地下階層がありました。
しかし、普通の地下ではありません。
エレベーターを出ると、四方を壁に覆われた機関銃を添える要塞のような受付カウンターが迎え、その先に続く通路には鉄格子があり、とても人が普通に通り抜けられるようにはなっていませんでした。間違いなく鍵が必要です。
格子を抜けた先から通路が始まっているようで、わかる限りでは三方に分かれていました。直線にも一つ同じ鉄格子が見えるので、各通路の途中に鉄格子が設けられているのでしょう。
そして地下には、何かの薬品の臭いと異臭が漂っていました。
「…ここは?」
「そうですね……保管庫とでも言っておきましょう…」
龍崎に招かれて先へ進もうとすると、スキャングラスに何か受信したのか、視界の左上に文字が表示されました。
“そこは情報にない場所だ くれぐれも注意してくれ”
リッパーからのメッセージでした。
龍崎と接触する前、ヘッドセットでリッパーと会話をしていましたが、またつけていると怪しまれるという話になり、外してジャケットへとしまっていました。
通話ができないので、ジャックのかけているスマートグラスに連絡をするという話になり、現在に至っています。
そのおかげで、まだ敵の誰にも警戒されていませんでした。
リッパーからのメッセージを読んでいると、龍崎は受付に声をかけ何かを受け取っており、それをジャックへ渡しました。
「これはこの階だけで使えるカードキーになります、無くさないよう注意してください」
渡されたのは首掛けのついたネームタグで、中には白字のナンバーが描かれた黒いカードが入っていました。
「無くすとどうなる?」
「永遠に出られないでしょう…」
「……肝に銘じでおこう」
首にかけ、龍崎を含む護衛と共に先へ進み、一行は鉄格子を潜ります。
潜った先は、やはり三方に分かれており、全方向には当たり前のように鉄格子がありました。まるで牢獄のような作りをしており、中に入った人間を誰も出さないと言いたげな作りでした。
至る所にカメラがあり、かなり厳重警戒しているとわかり、アクセス中となっていたカメラ映像は、ここだとはっきりしました。
まだ地下のセキュリティへアクセスできていないのか、リッパーからのメッセージでは“不審な動きをするな”と追伸されています。
左右の通路は明るく綺麗な通路ですが、視界に見える直進通路の先は、途中から薄暗くなっており、突き当たりがうまく見えませんでした。
一行はそんな薄暗い直進の通路を進みます。入り口と廊下途中の鉄格子を二つ潜ると、その先に階段が現れました。ちょうど受付の位置からは死角になっていた場所でした。
その先には鉄扉があり、レバー式のロックを外し中へと入ると、通路の明かりは殆どなくなり薄暗い場所になりました。
“牢獄だなこりゃ”
スマートグラスに、リッパーからのメッセージが届きました。ジャックの視界にも、そう思わせる光景が飛び込んできます。
湿ったどんよりした空気に、下水のような臭いが充満しているそこは、現代では考えられない牢獄でした。
入ってすぐに大きな両開きの鉄扉が迎えると、上には赤いランプが点灯していました。
左右に別れる通路には、鉄扉がいくつもあり、通路の片方だけで20部屋はあり、ドアは全て両開きの鉄扉側にありました。
現在は使っていないのか、全ての鉄扉が開いていました。
通路には監視所があり、入ってきた入口から少し離れて左右に一つずつありました。
巡回しているのは、ガスマスクを被って剣棒型のショックスティックを持った男たち。
片方の監視所に集まっている人員だけで7人おり、警備の人数は見えるだけで14人はいます。内二人は目の前の鉄扉を警備しており、扉はその男たちにより開かれました。
「それでは、参りましょう」
龍崎に導かれて、扉の中へ入りました。
「!」
そこには目を疑うような光景が広がると同時に、ドアは内側から鍵をかけて締め切られました。
室内は拷問部屋のようになっており、さまざまな拷問器具が置いてありました。中には大人の玩具も多くあり、中には五人の子どもがいました。
ミオと同じくらいの年齢で、同じような状態で鎖に繋がれ、見るも耐えない姿になっています。
三人が壁に繋がれ恐怖に怯える中、二人は見たことない椅子に固定され、股と尻を玩具に侵されて身を捩って暴れていました。全員目隠しに猿轡をつけられ、体には痛々しい傷と注射痕が見受けられました。
「どうです? お気に召していただけましたか?」
スマートグラスが起動し、声帯や外見などから解析が始まると、全員の身元が判明し、捜索願が出され行方不明となっている子どもたちとわかりました。
「ここは新しい“商品”を作る為の“調整室”と読んでいる場所です」
龍崎の説明に、ジャックは疑問を振ります。
「これはこれは。しかし部屋の数に対して随分と少ないようだが……?」
「先日まで潤っていたのですが、大量発注がありまして。20いましたが現在はこれだけです。ほとんどが調整済みでしたので、無事に出荷できた次第になります。ここからでしたらご自由に選んでいただいて構いません。選んでいただけたらお部屋にお運びします」
そういう龍崎に、ジャックは玩具の置かれたテーブルを指して聞きました。
「使って選んでも?」
「ええ。構いません」
龍崎も頷いて答え、ジャックが手にしたのは使い込まれた跡が伺える長いムチで、よく見ると先に血痕がついていました。
「……随分使い込んでいるようで…」
「ええ。音を聞くだけでおとなしくなりますよ、試してみるのもオススメです」
「そうか」
そうして構えると、容赦なくムチを振りました。
“スパァン!”と空気を切り裂く鋭い音の直後に、弾かれるような強烈な音が響くと、子ども達は短い悲鳴を出して体を震わせ、暴れる二人も一瞬動きを止めました。
「があぁッ!」
しかし他に声を上げた人間がいました。太い男の悲鳴で、子どもではありません。
「!?」
龍崎の隣の男めがけた攻撃は、男の両目を捉え、その場で顔を抑え悶絶します。
龍崎は目を見開いて何が起こっているのか、一瞬困惑しますが、近くにいた二人が即座に理解し行動に移します。
一人が懐から隠し持っていた銃を引き抜き、もう一人が龍崎を庇うように動きます。
しかしそれは、先手を取ったジャックには無意味なことで、銃を持つ手にムチを向けると、その指を弾くように命中します。
「ぎゃっ!」
指が裂けるような痛みで銃が吹き飛び、顔目掛けて再攻撃をします。攻撃を受け大きな悲鳴と共に膝が崩れました。
すぐに龍崎を庇っていた男へ攻撃をむけますが
「くっ!」
腕でガードされました。しかしジャックは、股へと狙いを変えて攻撃。
「あがあぁ!」
クリンヒットして両手で股を押さえたところへ、顔へ回し蹴りを一発入れ、行動不能にさせます。
「なっ!?」
全員が行動不能となり、龍崎が一人残されると、ジャックは容赦なくムチを向けます。
狙いを首に定めて振り、絡んだところを強引に引き寄せました。
「ング!」
バランスを崩しながら体がジャックの方へ傾くと
「ゴウッ!」
情け容赦なくボディブローを腹部へと向けました。鈍い音を立て、龍崎は意識を失ったようにその場に倒れました。
うずくまっている残り二人を一人、また一人と行動不能にすると、部屋は生々しい機械音と叫び声が響く時間が流れました。
龍崎と護衛三人の意識が飛び、ジャックが外にいた仲間に気づかれていない事を確認すると、ジャケットからヘッドセットを出して左耳にかけました。
『“よくやったジャック、状況を開始と行こうか。突入部隊が着く前に情報を集めたいが…先に子ども達の安全確保だ。ドアをロックするから、携帯を端末にかざしてくれ”』
リッパーからすぐに、次の指示がなされると、警報音が地下を一瞬包みました。
「!? おいどうした! 何事だ!」
監視所にいたリーダーの一人が、無線機に向けて声を荒げていました。
そんなことを気にすることなく、ジャックは室内にあったビニール手袋を取りはめると、入ってきたドアにロックをかけます。
『“サツどもだ! パブに押し寄せて来やがった!”』
「なっ!?」
無線のスピーカーとドア越しに驚きの声が返ってきました。
『“売春がバレた! 早く証拠をぎゃッ!”』
しかし、その声は途中で切られてしまい、不安は一気につのります。
「おい! 応答しろ! おい!」
地上の仲間へ声をかけましたが、誰も答えられませんでした。
地下が一瞬沈黙すると、無線を受けていた一人が口を開きました。
「……だ、大丈夫だ…この地下に警察は来ない…いや来れない。なんせ増設した地下だ…龍崎さんだっているんだし……大丈夫に決まっている…」
震えた声になりながらも、仲間を鼓舞していましたが、不安は拭えていませんでした。
「そ、そういや…さっき見たことねぇやつと一緒に中入ってったよな?」
そんな声が聞こえてきましたが、ジャックは必死に固定されている椅子から抜け出そうと暴れていた二人を四肢以外を捕縛から解き、生々しい小さな機械を取り除いていきます。
『“まだ子どもなのに……人のやることじゃねぇよ…”』
撤去作業をするジャックの耳には、リッパーから怒りにも似た言葉が届きました。
悶え苦しんでいる幼い子どもを見れば、誰だってそうなります。
『“地下のセキュリティを掌握した、機動隊が突入したタイミングで行動に出てくれ。 それまではそこで待機だ”』
二人の玩具取り外しが終わり、暴れていた二人は呼吸荒く、椅子にもたれかかります。
ジャックが返事をしようと手袋を取ろうとすると
『“それから、あまりよろしくない情報だ”』
リッパーから不安になりそうな言葉が出てきました。
『“停泊していた大型タンカーなんだが、勘づかれたのか緊急出航しようとしている。税関に止めさせるが…さっきの龍崎の言葉、“先日まで潤っていた”って話は…恐らくタンカーで間違いない。港を封鎖して税関が向かってるところだが……素直に応じるとは思えない。ホテルを制圧したらすぐに港に向かうつもりでいてくれ”』
ヘッドセットを突いて返事をすると、新しい手袋をつけて、五人の口を塞いでいる猿轡を外していきました。
「………」
機動隊が突入してから、10分が経とうとしていました。
地下は迎撃体制を敷いているのか、ドアの向こうで急かす声と物音が聞こえてきます。
ジャックのいる部屋は静かなもので、猿轡を外した子ども達でさえも、外が異常事態ということを察しているのか、怯えて声を潜めていました。
ジャック自身、姿を見られないよう言われているので、まだ子ども達が繋がれた鎖を全て外すことができないでいました。
「きたぞ!」
そんな時でした。外にいた一人が声をはり、機動隊が地下へときたことを知らせました。
「武器を持て!」
そう聞こえてくると、外では駆け足が聞こえてきます。
「………」
静かに身を潜めていると、リッパーから声がかかります。
『“始まった、外に出て背後から奇襲をかけてくれ”』
そう言われ、ジャックはヘッドセットに返事をすると
『“? ジャック?”』
壁に四肢を繋がれている一人に、歩み寄り
「もうすぐ助けがくる。人を呼んでくるから、もうしばらく待ってて」
耳打ちで語りかけました。
目隠し越しに何か言いたげな表情をしますが、視界が塞がれている以上、どうすればいいか呆気に取られていました。
ジャックはことを済ませると、開錠された鉄扉を開けて部屋を後にしました。
『“さて…行こうか”』
遠隔操作で扉が閉まると、リッパーの声が届きました。
誰もいない牢獄の通路を横切り、来た道を戻りつつ、ジャックは右腰に隠し持っていた銃を取り出します。
海外の海兵隊御用達のハンドガン、『SIG P226』でした。
銃口に筒状の消音器をつけると、スライドを引いて薬室へ弾丸を装填しました。
『“生け捕りだ。“許可”はもらってるから、いざとなったら生死は問わんとさ。心臓と頭は撃ち抜くなよ?”』
銃を腹部の位置で構え、いつものように返事をすると、音のならないようにドアを開けました。
通路最初の階段には、男が二人いました。
左側の片方は銃座付きの機関銃を階段に身を隠して構え、もう一人は補助要員で長いベルトリンクに繋がれた弾丸を持っていました。
世界大戦時に“電動ノコギリ”と異名が付いた機関銃でした。
機動隊が突入したと同時に攻撃を開始するためか、引き金には指がかかっています。
奥ではエレベーターが動いており、ちょうど一階を通り過ぎた頃でした。
「何事ですか?」
ジャックは体の後ろで手を組んでいるように見せかけ、銃を背後に隠し客を装い二人に声をかけました。
「! 龍崎さんといた方ですか! 警察にここの存在がバレました、龍崎さんはどうなさいましたか?」
返答をした機関銃補助の一人に首を傾げて答えると、ジャックは容赦なく引き金を引きました。
「え?」
機関銃を持っていた一人がジャックの行動に驚いていると
「ぎゃあああああ!」
補助の一人が、撃たれた右肩を押さえて叫びました。
「な!? 何を!」
機関銃を構えていた一人が、反撃しようと動きましたが、ジャックは容赦なく右足と左肩を撃ち抜きます。
二人の悲鳴に気がついて、無線で仲間が状況を知らせるよう声をかけましたが、それどころではありませんでした。
すぐに二人を殴殺する勢いで殴り、蹴り飛ばし制圧、通路を進もうとした時にちょうどエレベーターが到着しました。
ドアが開くと、中には完全武装した機動隊がいました。
前線に立つ盾を持ったポイントマン以外は、全員ハンドガードにライトをつけた『MP5』というサブマシンガンを構えていました。
全員ガスマスクとナイトビジョンを装備しており、ジャックが片手をあげて挨拶すると、マスク越しに全員が“誰だ?”と言いたげな目線を向けてきました。
『“オペレーターから現場にいる隊員、又地下機動隊へ一方通信。メガネをかけ黒いスーツを着ているのは潜入調査官だ、誤射に注意”』
リッパーからの通信を受けると、全員がジャックへと挨拶するように手を上げ、味方だと合図を送りました。
それを見て、ジャックは機関銃を手に取りました。
一瞬機動隊員がギョッとして身構えますが、ジャックがバレルを引き抜いて機関銃から弾丸を取り出すのを伺うと、ほっと一息ついていました。
『“ジャック、それが終わったらすぐに上へ。“いつもの”婦警さんと一緒に部屋へ向かってくれ”』
リッパーの指示で鉄格子のドアを開けていくと、最後に機動隊員の一人に、首にかけていたカードキーを渡し、一人大きなエレベーターで上へと向かいました。
地上一階、大きなシャッターのある荷物の入荷口に出てきます。
すでに多くの警察官が出動しており、男性警官が多くいる中、女性警官が一際目立っていました。
外に五台もある護送車両へどんどん人を連行しますが、半分が女性を占めていました。
服を着ていない、肌の露出が多い、着ていてもアウトゾーンが丸出しと言った女性で、タオルに身を包んで、手錠をかけられ連行されて行きます。
しかし女性警官の同伴で、救急隊に運ばれていく女性の方が、逮捕者よりも多くいました。救急隊の大型救急車の他に、出動している救急車のほとんどが埋まりそうになっており、このホテルの巨悪の実態が露わになっているように伺えます。
まだジャックのような未成年も見受けられ、心身ともにケアが必要になっているように伺えました。
その横を通り過ぎ、ジャックは厨房へと足を進めました。
「?」
すると一人の警官が、ジャックを疑う視線を送りました。
「……あれ、誰ですか?」
隣で見ていたもう一人が口を開きました。
二人がアイコンタクトで、刑事ではないと意思疎通したのか、ジャックの後を追います。
床に食材や割れたガラスの散乱した厨房を通り、さっきまで大音量で流れていたダンスホールのBGMはなくなり、室内は閑散としていますが、上階ではまだ何人か暴れているのか、騒がしい物音と声が聞こえてきていました。
パブを通り過ぎ、支配人のいた受付フロアに出ると、客だったのでしょうか、性欲まみれの多くの男が手錠をかけられ膝をついていました。支配人の姿は見受けられず、カウンター周辺にいる警官の視線はジャックへと向きました。
館内にいる全員が誰だという視線を向ける中、エレベーター前にいた一人の女性警官が声を上げました。
「あ! こっちこっち!」
手を振られるジャックは、声をかけられた女性警官の待つ階段を降りて行きました。
彼女の名前は『新倉(にいくら)ホタル』。周りの警官よりもはるかに童顔な見た目で、リッパーの言っていたいつもの婦警さんです。
垂れ目の小顔で、色白のせいで首元のホクロが目立っていました。第一印象は間違いなく、小顔で可愛い警察官でした。
外見からは華奢な体格に伺えましたが、防弾ベストなどの装備に隠れてその容姿は全然わかりません。しかし装備品からでも、豊満な体つきは伺うことができてしまうほどで、防弾ベストでは隠せていない箇所が見受けられました。
身長は女性警官からすればあまり恵まれてはおらず、警察官の格好をしていなければ成人だと判別できないほどで、私服だったら職質間違いないことでしょう。なぜ警察官なのか疑問に思うほどでした。
「お疲れ様です」
しかし敬礼などの所作、言動全てが、れっきとした警察官そのもので、男性警官に引けをとらないほどでした。
そんな新倉さんを挟むように、女性の機動隊員が待っていました。二人もジャックへと敬礼をします。
周りにいた警察官は何者だという視線を向けつつ、後を追っていた警官二人は、呆気に取られていました。
ジャックが会釈し、エレベーターのボタンを押すと、三人を部屋へと案内します。
ジャックが扉から一番近い操作パネル前にたち、機動隊員の二人は各々壁に背中を預けますが、新倉さんは違いました。
「またご一緒できて光栄です」
右手を差し出し握手を求められると、ジャックはキョトンとした顔で握手に応じました。
「ところで…上には何が? まさか三対一で相手しようなんて思ってるわけじゃないんでしょう?」
一人の機動隊員が冗談混じりに口を開くと、それに答えたのはジャックではなく
『“一時保護している人たちの護送だ”』
会話を聞いていたリッパーでした。
『“詳細を伝えると…6階のVIPルームに高校生二名、小学生一名を匿っている。完全閉鎖しているから、こちらから操作して扉を開ける”』
「え!? 全員未成年じゃないですか!」
新倉さんが無線を繋げず驚きの声をあげ、機動隊員も驚いた表情で互いを見ました。
『“一人は囮捜査の協力者で、あと2人は被害者になる。囮捜査は状況説明なしに強行した形になるから、捜査官である“彼”を連れて誤解を解かないといけない”』
リッパーはジャックを彼と言って誤魔化すように説明をしました。
「……また大役だったんですね…お疲れ様です…」
新倉さんが頭を下げると、ジャックは会釈して答えました。
機動隊員の二人には会ってから一度も言葉を発していないので、疑いの目を向けられますが、ジャックは普通に無視していました。
そして程なくして6階に到着すると、ドアノブから音を立てている部屋がありました。
「……もしかしてあそこですか?」
新倉さんの問いに、ジャックは頷きます。
『“部屋を締め切ったから、中でどうやって外に出ようかやってるみたいだ……”』
頭を抱えるリッパーの声が届きました。
『“外の状況はわからないはずなので、目の前に警察がいると分かれば落ち着くはず”』
新倉さん先頭、機動隊員二人、最後尾にジャックと並び、代表で新倉さんがドアノブを何度も捻っている部屋をノックしました。
するとドアから離れたのか、急足でどこかへ隠れるような物音が聞こえて、一気に静かになりました。
一瞬の沈黙の後に、リッパーからドアを開けたと連絡が入り、新倉さんはドアノブに手をかけました。
「こ…こんばんは〜……警察ですぅ…」
後ろでみていた機動隊員、ジャック三名は、彼女の後ろ姿をみて心底警察に見えないと思ってしまいました。
しかし、室内で隠れていた3人には、別の視点で写りました。
「…へ?」
ウサ耳を外したバニーガールが呆気にとられ
「…警察?」
新倉さんを視界に入れて、何事かとサオリは驚いていました。
ミオはというと、サオリから離れまいとドアが開かれた瞬間しがみついていました。
新倉さんに続いて機動隊員が中へ乗り込みますが、脅威はないので身構えることなく堂々と部屋へと入室します。
その後ろにジャックが続き入室します。
「機動隊の者です、あなた達を保護します。もう安心ですよ」
寄り添うように言葉をかけた隊員の声を聞き、室内では安堵の声が飛び交っていました。
『“ここでのお前の仕事は終わりだ。あとは他の者にまかせて港へ向かってくれ”』
ジャックはリッパーからの通信を受けて、リッパーから室内にいる3人に向けて声がかかりました。
『“捜査官はこれより別件に当たる、現場を任せる”』
「あ! お疲れ様です!」
新倉さんがジャックへ敬礼して、ジャックが頭を下げると
「「………」」
二人のやりとりを、ジャックに襲われると思っていたサオリとバニーガールが見ていましたが、ジャックは視線を二人へ一瞬向けると、部屋を後にしました。
「あ、あの…」
「はい、どうしましたか?」
ジャックが部屋を去り、外へと連れられている最中、ミオを母のように抱き抱えているサオリは警官の新倉へ疑問を投げました。
「さっきの男の人は一体……ヤクザの人…じゃないんですか?」
「ええ。あの人はヤクザじゃないですよ」
新倉の即答に、バニーガールの高校生が口を開きました。
「え? じゃ、じゃあ誰なんですか? お客さんみたいな会話をオーナーとしてましたけど…」
「あー…それはですね……秘密ですよ?」
新倉が言葉を濁しながら言うと
「彼、探偵なんですよ。被害にあった女の子の親御さんから依頼があったようで…」
うまく誤魔化して、ジャックの存在を伏せました。
「へぇ…そうなんですね、探偵なんて初めて見ました…」
ミオを抱きかかえているサオリが、俯きながら言葉を返すと
「まさか…何かされましたか?」
機動隊員の一人が気にかけて、サオリの顔を見て聞きました。
「え!? いや、別に何も……」
「本当ですか?」
隊員は念押して再度聞きますが
「はい…ただ……」
サオリは否定しながらも、少し悲しそうにして言いました。
「体の関係を求めてきたのも…演技だったのかなと思って……」
「……演技だったとしても、辛いですよね…」
「はい……で、でも! 決して触られたとか…服脱がされそうになったとかそう言うのはなくて……むしろ…守ってくれてたのかなって……」
「あ! はいはい! わ、私も!」
サオリの言葉に、耳のないバニーガールが追って口を開きました。
「襲われそうになったとこ! 助けてもらいました! 部屋に連れて来られた時は焦りましたけど……そのあとは何もなかったです!」
「……そうでしたか…それが聞けてよかったです」
新倉が笑顔で答えると、呼んでいたエレベーターが6階へ到着しました。
港湾での攻防:安い仕事
「フー……」
甲板の上。手すりに寄りかかり、ベージュ色の制服姿でタバコを吸い、制服と同じ髪色のボブカット女子高生がいました。
「なぁ…ミサ」
ミサと呼ばれた少女が、煙を空へひと吹きすると、残りを声をかけてき黒髪たショートカットの相棒に差し出します。
差し出された方は無言で受け取り、残りを遠慮なく吸い始めます。
「どうした?」
「この仕事、ミサ的にどう思う?」
煙をひと吹きしながら聞くリサに
「そうだな…」
聞かれたミサは、横目に海を見て答えます。
「クソ食らえだ」
女性らしからぬ言葉を選びました。
二人のいるところは、現在国内に停泊している大型タンカー船の上。二人の目の前には、大量のコンテナが積まれており、色とりどりのコンテナが壁のように立っていました。
「そう言うことを聞きたいんじゃない……どうするつもり?」
タバコを咥えたまま、リサが相棒に聞きます。
「前金(まえきん)もらってるからやることはやる、乗り込んでくるやつには容赦しない。けど…時間の問題だな。欲張らないでとっとと出てればこんなことになってなかったのに…」
ポケットからイチゴ味の棒付きキャンディを出して咥え、船の反対側へ歩いて行きます。
「コンテナ満載にして証拠を出さないようにしたかったんだろうけど、それだけだと爪が甘い」
ミサは相棒にそう言いながら、港湾が見渡せる船の反対側に向かいます。
コンテナ積み入れの現場、ミサ達の足元では船の乗組員と港の税関職員が言い争っている光景が見えました。
早く荷物を積み込んで出航したい乗組員側と、積み込みを止めて出航を止めている税関職員の攻防でした。
聞こえてくる声のニュアンス的に、殴り合いが起きてもおかしくない状況でした。
そんな時、ミサの携帯に誰かから着信がありました。
「もしもし?」
すぐに出ると
「“何しテル! 早くヤツら追イ払ウ! コレ契約!”」
カタコトの日本語を話す男が電話に出ました。
言い争っている連中から少し離れ、コンテナクレーンの足元に身を隠し、男が電話をしながら二人を見ていました。
10月になると港の海風は寒いもので、男は結構な厚着に伺えます。
「そら無理な注文だなぁ」
毅然とした態度で、ミサは電話相手に答えます。
「“契約! マモラナイ! 信用ナイ!”」
「契約は乗り込んでくる奴の迎撃だけだ。乗り込もうとしてないんだからこっちの仕事じゃない、仕事して欲しかったら連中を中に招き入れな」
「“マネ……ナンて!?”」
「わかりやすく言ってやろう、船に連れ込めってことだ。それに…ここでドンパチしたらすぐにサツどものお縄だ。もっと周り見てからまともな指示をしてくれよ、そんじゃ」
話にならないと踏んだのか、ミサは電話を切り、下で睨んで何か言っている男に中指を立てました。
「……いいのか?」
リサの言葉に
「話が通じないんじゃ仕方ないだろう?」
キャンディーを口に咥えながら、ミサは笑みを浮かべて答えます。
「でもさ、ママにはなんて言うのさ」
「ママには身の安全を優先するよう言われてる。それにこの仕事は、ママも失敗するってわかってて受けたんじゃないかな…」
ミサの予測に、リサは“なぜ?”と首を傾げて聞きました。
「最近、ウチらの“シマ”にちょっとずつ足踏み入れてる外国人いるだろ?」
「いるけど……確かバカ高い契約結んで、ある程度の商売に目を瞑ってるんだよな? 結構過激だからママ悩んでたけど…」
「この船持ってるのは、その契約相手なんだわ」
「つまり……失敗するってわかってるから、依頼の前金貰ってずらかる話なの?」
リサの推測に、ミサは頷きながら答えます。
「それもある。でも一番は…貸してるシマの取り立てと、こいつらが得たシマと金を搾り尽くすってのが目的なんじゃないかなって…私は思ってる」
「……どうやって…」
「そうだね……多分だけどこの船、全部やつらがこの国で吸って貯めた蜜なんだよ。そんで一番甘くて濃い蜜が…多分“あれ”」
ミサは手すりに両手を広げて寄りかかり、顔でコンテナ船の前を指して言いました。
ミサが指す船の前には一隻の小型船が止まっていました。ナンバープレートの付いていない車の他に、六つのコンテナが積まれ、隣のタンカーと比べるとかなり小さな船です。
船首はクワの先を逆さにしたような形をしており、大きなゲートがあり貨物の搬入がとてもしやすそうな船でした。
積まれている車のほとんどは、今では手にすることが難しいとされている車ばかりで、新型の近年人気のある高額なミニバンも積まれていました。
それらは全て盗難車で、コンテナの中には盗んだパーツと海外市場で高値が付くバイクも積み込まれていました。
「……確かに、あれは隠す気ないもんな…」
リサもコレには納得です。港の管理センターからは見ずらくなっていましたが、二人のいる甲板からはよく見えています。
「港の検査官がこんだけ多いんじゃ……こっちが帰るのも時間の問題か…」
吸い終えたタバコを足元に放り、ローハーで火種を踏みつけて鎮火させると、ミサの携帯にまた着信音が流れます。
「もしもし」
画面を見て、ミサはすぐに電話をとります。
『“状況は?”』
相手は二人がママと呼ぶ女性。カタコトの日本語を話す男ではありません。
「下で検査官と言いあってる。乗り込まれるのも時間の問題だよ」
飴を舐めながら、悠々とミサは答えていました。
『“そうか、最悪だな……それに加え悪い知らせだ”』
状況をママに伝えると、ミサは相棒リサを呼び、左耳に当てていた携帯に聞き耳を立てるようジェスチャーして伝えます。
今度はママから情報開示がなされます。
『“龍崎が消される、サツにバレたらしい。どっから情報が漏れたか知らないが…“犬”が嗅ぎ付けてるってことは、龍崎が扱っていた“商品”が積まれてるのも漏洩してるだろうな』
「……まぁ、ママ的にあそこが潰れるのは好都合でしょ? 元々私たちが潰そうって動こうとしてたんだし」
『“そうだな……だがそっちに本職のサツが増援に向かってる”』
「マジか…」
聞き耳を立てていたリサがポツリと漏らしました。
『“それと…これは情報屋からの話なんだが…”』
ママが頭を抱えるようなニュアンスで、二人に話を続けます。
『“あのヤロウ…薬だけじゃなくガキにまで手ぇ出してたらしい。お前たちと変わらない奴にまで手を出しているって情報は掴んでたんだが……追加情報だと、それよりも下の子らまで巻き込んでる…”』
二人はその事を聞くと、静かに拳を握りました。
二人の年齢は、洋次郎やカワズと同じ16。同年代が売春行為の道具にされているという事実だけでも、怒りが込み上げてくると言うのに、自分たちよりも幼い子どもにまで手を下したとなれば、怒りを通り越して殺意が芽生えるのも無理ありません。
『“まぁ国内ならいくらでも手は下せる。とりあえず、あいつの商品をいただくとしよう。二人にはこれから商品になってる子ども達を探してもらう、ヤクのことは考えなくていい。身の安全が最優先なのは変わらない、無理だけはするな。こっちも忙しくなりそうだ……全く面倒なこった…”』
「…わかったよ、ママ」
最後にそう告げて、ミサは電話を切りました。
「………」
「……どうする? 相棒…」
リサの言葉に
「……情報を集める、その後は皆殺しだ…」
ミサが答えを出し、ブリッジの方へ甲板を進み始めました。
雨雲が近づき、遠くの空では稲光が時折姿を現し、小雨が降り始める中、女二人が持っていたライフルのチャージングハンドルを引いて、狩りの始まる合図がなされました。
『“外に出た途端雨か、雨雲も近づいてるから不運だな”』
「…余計なお世話だ」
ミサとリサが薬室へ弾丸を込めた頃、ジャックの運転していた車がちょうど港に到着しました。
「“雨で足元が滑りやすくなっています、気をつけて”」
車内積載AIのロビンに声をかけられ、ジャックは画面上のカバーをポンポンと撫でるように叩きます。
いつ無理に出航するかわかりません、多くのコンテナが置かれた港湾を走り、言い争いの聞こえてくる船の方へ向かうかと思われました。
『“コンテナの積載名簿がいる、まずは管理センターへ”』
スマートグラスに進む先を示すナビゲーションが起動すると、“わかった”と短く返事をしてジャックは車から離れると、視界に灯りのついた管理センターを捉えました。
トラックが行き交う道路に出ると、ジャックは飛び出さずに、左右の行き交うトラックを見ます。
ほとんどは港内を徐行しており、何も積んでいないトラックと、コンテナを積載したトラックが何台も行き交っていました。
そんな中、一台のコンテナに目が止まると、ナビゲーションがそのコンテナへ乗り込むよにと促しました。
それを見て、ジャックはトラックの列が途切れたタイミングで、躊躇なく道路へ飛び出し、指定されたコンテナトラックへ飛びつきます。
「ん?」
ジャックが乗り込む際に生じた一瞬の物音に気がついた運転手が、ミラーを確認して異常がないかと目線を向けますが、何もないことを確認すると、気にすることなくそのままトラックを走らせます。
牽引するタイプのトラックだったため、ボディとコンテナの間へ身を隠し、最短ルートで管理センターの搬入口に到着しました。
あのまま走って向かっていたら、積まれたコンテナを乗り越えて向かうしかありませんでしたので、リッパーから送られてくる情報の正確性は本当に頼りになります。
トラックが搬入口にバックで止めると、ジャックは人が来る前にトラックから離れ、身を隠し入り口を探します。
コンテナの搬入口はビニールシャッターが張られており、センサーで開くタイプだったので、中に入ろうと思えばすぐに入れました。しかし、センター内の職員に見つかれば怪しまれてしまうのは目に見えていました。
『“ジャック、そのままシャッター近くのドアから中へ。今ならコンテナの検査で目を盗める”』
言われるがまま、搬入用に高くなっている床に上がり、検査場端のビニールシャッターの隣にあったドアを潜ります。
中ではコンテナの中身を検査する人間が多く行き交い、ほとんどが検査場に到着するトラックに目を向けていました。緑に区切られた安全通路を堂々と進むと、誰も気にする様子はなく、物流の管理室へと向かうドアを潜りました。
左右に別れた通路に出ると、職員がまばらにいましたが、ほとんどが仕事に追われてジャックに目もくれていません。
『“案内板の指示に書いてある“管理センター”へ向かってくれ”』
リッパーの声でドア前の壁を見ると、『管理センター 2F』と表記され、右の矢印が表記されていました。
順路を進み、階段を見つけて上へと向かおうとした時でした。
「聞いた? タンカーの貨物の誤りが見つかって立ち入りが入ったって…」
2階から話し声が聞こえてきました。
「え? 本当ですか? それってかなりマズいんじゃ…」
「そうなんだよ、警察沙汰にならなきゃいいんだけど……一体何積んでるんだが…」
先輩と後輩なのでしょうか、そんな会話が聞こえてきました。
ジャックは聞き耳を立てつつ2階へ上がり、二人の向かった先は従業員用の更衣室と確認すると、壁に描かれた表記に従って管理センターを目指し、二人の反対へと進みました。
『“よし、着いたな”』
目的地に到着しました。しかし部屋の中は人とパソコンの置かれたデスクで溢れていました。“ここに入るのか?”と疑問に思っていると
『“…入るのは隣のサーバールームな”』
送られてくる目線映像から察したのか、リッパーがジャックへと声をかけました。
危うく室内に入るところでした。
「あぁ、うん…」
ジャックからは思わず返事が返され、管理センター隣の部屋、サーバールームへと入室します。
『“よし、作業開始と行こう。前に持たせたUSBメモリーを端末に指してくれ”』
そう言われ、ジャックは可愛い犬のキーホルダーのついたピンク色のUSBメモリーをジャケットから出します。
黒いスーツに身を包んだ男から、こんな可愛いものが出てくると、誰が想像できたでしょう。はたから見るとコントをしているように伺えてしまいます。
『“ちなみにいうと、これは俺の趣味じゃないからな。支給されたんがそれだっただけだからな”』
リッパー、必死でした。
「どうでもいいよ、それよりどうすれば?」
『“どこでもいい、刺せるとこにセットしてくれ。目の前にあるモニター隣にあるPCのタワーなんかに刺せないか?”』
リッパーの助言を聞いて、ジャックはソケットがないか見てみると、カバーに隠れて二つの差し込み口を見つけました。
向きを確認して差し込むと
『“よし、近くにスマホを置いてくれ”』
「?」
言われるがまま、ジャックは持っていた携帯を近くに置きました。
何をする気なのだろうと思っていると、携帯の画面が勝手に点灯して、見たことない文字列が並び、遠隔操作でモニターの画面が動き始めました。
いくつもあるファイルを高速で解析していくと、タンカーに積み込まれたコンテナのリストが出てきました。
申請しているものと、監視カメラ映像とを瞬時に照らし合わせ、実際に積まれているコンテナが同じか確認していきます。
『“おやおや、何台もの車が出国停止になってるなぁ……それなのに迷いなく積んでるのはなんでだかなぁ…”』
悪い顔をしていそうなリッパーの声と共に、キーボードの高速タイピングの音がジャックの耳に届いていました。
声がなければいい“ASMR”になりそうです。
『“……ジャック、生鮮食品コンテナがタンカー前に停泊している小型のコンテナ船に積み込まれているのを確認した。しかも12個あるコンテナで一つだけだ。残りは全部“工業部品”と名目で打たれてる。恐らくだが…乗ってる車は全部盗難車で、部品も盗難品の可能性が高い。それに生鮮食品だっていうのにコンテナの中身が記載された名簿が見つからない、封書で出されたってことになってたとしてもデータにされていないのはおかしい”』
「………」
ジャックは黙ってリッパーの声に耳を傾けたまま、遠隔操作されたモニターを注視していました。
『“大型タンカーには特に怪しいもんはないんだが…コーヒー豆が異常なほど多い……日本産のコーヒー豆なんてないよな?”』
疑問は残りますが、モニターが最初の画面に戻り、携帯の画面がシャットアウトすると、ジャックはUSBを抜き、携帯と共にジャケットへしまいました。
『“とりあえず、タンカーの方は検察に任せて、俺たちは小型船を確認しに行こう。何かあるとしたらそこだ”』
リッパーの指示で、ジャックは外へと向かいます。
「……コーヒー豆なんだけど…」
廊下に出て外へと向かう道中、珍しくジャックの方から話があがりました。
『“ん? どうした? 何か豆知識でも? 豆だけに”』
緊張を和らげるためにジョークを言いますが、ジャックは華麗にスルーすると続きを話し始めます。
「昔、コカインとかの麻薬の密輸に使われたことがあるんだ」
『“はぁ? どうやってそんなこと……今の麻薬犬はほぼ100%見つけられるんだぞ? それにそんなこと…現代でできる訳ないだろう?”』
「確かにね……最近じゃ聞かないけど、コーヒーの嫌な歴史でさ……強い香りでコカインを隠して運んでたっていうんだ、それも大量に。香りが濃すぎて当時の麻薬犬ですら見つけられないくらいだったって聞いたことがある。高級品のコーヒーですら、そんな密輸が続いて信頼が落ちて大変だった時期もあるって……」
それを聞いたリッパーは、珍しくジャックに何も返さずに、沈黙を保っていました。
外に出ても、ジャックの話は止まりません。
「コカインの輸入方法がわからないまま5年が過ぎた頃に、とあるコーヒー好きの検査官が不審に思って検査に同行したんだ。終始驚きを隠せない中、中身を見て思わず叫んだらしいよ」
『“コカインが見つかってか?”』
「それにも驚いたろうけど…」
“違うのか!?”というリッパーの問いに、コンテナを乗り越えながら、ジャックは答えます。
「焙煎されてたことに驚愕したらしい。他の人はポカンだったらしいよ」
『“……ん? 焙煎されてることがそんなにマズいのか?”』
話をしながら、ジャックは順調に船へと近づいていきます。
「普通、輸入は焙煎前の“生豆(きまめ)”でくるんだよ。終始驚いてたのも、焙煎された香りでわかったからなんだ。焙煎してからの豆の賞味期限は豆のままで約二ヶ月、挽いた状態だと一ヶ月って言われてるんだ。その検査官かなり驚いてたって話だよ」
『“……確認はしてみるか…何があるかわからんし…”』
そう言って、リッパーは管理センターへコーヒーの入ったコンテナの再検査を申請します。数にして、積載されたコンテナの半分にも至りました。
「な……何スル………ハ、話…違ウ……」
コンテナ船のブリッジでは、船を仕切っていただろう男の顔が腫れ上がり、インシュロックで四肢を椅子に固定されていました。よくみると、左足の腿(もも)を撃ち抜かれています。
「んー……ミサ、そいつの言ってること本当に合ってんのか?」
再度タバコに火をつけ咥えているリサが、紙の資料に目を通して、男の前で銃をいつでも撃てる相棒に言います。
「そうか」
それを聞いたミサは、持っていたハンドガンを片手で構えると、男の右足つま先を撃ち抜きます。
部屋に響く銃声に続いて叫び散らかして椅子で悶絶する男の腹を殴り、棒付きキャンディーを咥えたまま、ミサは近くの椅子を手繰り寄せて跨いで腰掛け声をかけます。
「さて……名簿はどこだ? それともこうか? コンテナ、データ、プリーズ」
リサは関係ないとわかった書類を置くと、まだある書類を物色します。
「ノ……ノーセンキュー…」
答える男の右の脛(スネ)を容赦なく撃ちました。
「ぎゃああああぁぁ!」
立ち上がると、男の周囲を歩き始めます。
「なぁ……時間は有限って言葉知ってるか?」
帽子がずり落ち、バーコードの頭をペチペチ叩いて、肩から始まり男の左手へとミサは手を滑らせ、手の甲に右膝を勢いよく乗せます。
「ああぁあっ!」
ミシミシと鈍い音が鳴る中、ミサは男の左手小指を握ると
「ぅあぁい」
太い声と共に、関節を反対へと倒します。
男からは苦痛の叫びが放たれ、もう一本、またもう一本と、左手の指を折っていきます。
3本目の中指を折っている途中、
「マ! 待テ! 話! アル! 言ッテナイ事! アル!」
男が必死でミサを止めようと声を張ります。
「ほう……何を話てくれるのかな?」
腰の後ろに忍ばせていたナイフを出して、指を切る合図なのか、男の指にナイフの腹を当てて聞きます。
「コ…コ、ココノ船! 麻薬シカ無イィ! 探シテル荷物! ココニ無イィ!」
「じゃあどこにあるんだぁ?」
ミサは男を覗き込み、指にナイフの刃を滑らせ、切り落とす合図をします。
「シッ! 知ラナイ! ホントッ! 何モ知ラナイッ!」
「そうか」
いよいよ切り落とそうと、男の指へ刃を立てた時
「マッ! 待ッテ! 他ノナラ知ッテル! 知ッテルカラ!」
必死に止めようと男は声を張ります。
「時間は有限……早く話せ」
中指を折り、追い討ちをかけます。
「ぎゃああああああああ! ワッ! ワカッタ! 話ス! 話スカラ!」
「うるせぇな…」
リサの声に男が反応すると、男が持っていた銃『コピー品のトカレフ』を取り、チャンバーの中に弾丸が込められていることを確認します。
「ナ……何スル……」
半泣きの男の口内に、銃の先端である“バレル”を突っ込みました。
「ングッ!」
引き金に指をかけたまま、男へ話します。
「知ってること以外話すな。もう知らないなら撃ち抜く」
男が必死に頷き、バレルを口から出すと、リサは銃口を向けたまま男から離れました。
「さて…」
ミサが背後に周り、男の後ろから語りかけます。
「人の入ったコンテナの場所と、その情報が書かれた書類、それか空白のないちゃんとした積載名簿……どこにある? まぁまずは知ってることを話してもらおうか……一つ間違えば指を切る、二度目はあの世。オーケー?」
「オ……オーッ…ケー……」
男がミサに答えると、椅子を伝って床が濡れ始めていることに二人は気がつくと、眉を寄せて男から離れました。
ジャックが管理センターから外へと出た頃、ミサとリサは男から話を聞き終わったのか、書類に目を通していました。
「……よくこんなことできたな…それもかなりの量を……」
ミサは操作板に腰をかけて書類を見ていました。データ管理されたコンテナ積載名簿の一覧があり、ほとんどが赤字で修正されています。
元はコーヒー豆が積まれていることを記していましたが、印刷された文字に、上から赤字でさまざまな麻薬の隠語が書き記されていました。
「マジで“ヤク”しかないのな……頭どうかしてるわ…」
それを見ていたリサも、目を細めてコメントを残します。
「…他に知っていることは?」
ミサが書類を叩きながら、椅子の下に異臭のする水溜りを作った男に尋ね、半泣きの状態で男は顔を横に振りました。
「シ…知ラナイ……ソレ以上ハ何モ…」
必死に訴えていました。さらに暴行を受けたのか、よく見ると左手の指は全て折られたのか、普通なら見ないだろう方向へと向いていました。
ミサはそれを聞いて大きなため息をつくと
「ん」
右手を差し出して、ミサはトカレフを指すと
「ん」
持っていたトカレフをリサは差し出し、受け取りマガジンの装弾数を確認します
「七発に……中に一発か……」
確認が終わり、マガジンを再度差し込んで男へと銃口を向けました。
「なッ! 何スル! 知ッテル事! 話シタ!」
「それはお前の知ってる事だ……人の入ったコンテナ…その情報……私らの要求はまだ飲まれていない」
「知ラナイ言ッテル! “コノ船”ニハ無イ! 嘘ツカナイ!」
「…嘘ねぇ……“隠し事”は嘘にならないからなぁ」
そういうとミサは“トカレフで”左膝を撃ち抜きました。
悲鳴が操舵室に響き、さらに追い討ちをかけます。
「隠し事はあるか?」
「ナ、無イ! ソンナ事! シナイ!」
自身に向けられる銃口を逸らそうと、男は必死に訴え、争っていました。
「そうか」
そういうとミサはまた引き金を絞りました。今度は右肩にあたり、関節を砕くように弾丸が通過します。
両肩の骨は完全に砕けてしまっているでしょう。
「ヤ、ヤメロ……嘘ツカナイ……隠シ事、シナイ……」
男は必死に訴えますが、ミサには関係ありませんでした。しっかりと狙いを定めては撃ち、また撃ち、ミサは両肩の他に、肘、膝、耳の計六箇所を撃ち抜きました。
耳を撃ち抜いたところで、持っていたトカレフのスライドが後退して止まり、使えないと分かると投げ捨てます。
「フー…! フー…! フー…!」
撃たれてから男は威勢を無くし、息を荒げて必死にもがき苦しんでいました。
「さて…」
「ナ…何スル……」
ミサが自身のホルスターからハンドガンを抜いて、男の額へと銃口を突き立てました。
「ヤッ! ヤダッ! 死ヌノ! ヤダッ!」
「最後に10秒やる。 ゼロになったらさよならだ」
ミサはそういうと、ゆっくりと時間を刻み始めました。
「ヤダ! 死ニタクナイ! 何モ知ラナイ!」
男はそういうと、できる限りの力を尽くして、椅子からの脱出を試みますが、ボロボロの体は本人の意思に従うことはありませんでした。
「3……2……1……」
男の最後が近づき、ミサが引き金に指をかけた時でした。
「マッ! 待ッテ! アル! 探シテル物! アル!」
男がやっと、二人の欲しかった情報を吐き始めました。
「隣ノ船! 女乗セタ! 金ノ代ワリニ“ヒトツ”分ケテモラッタ!」
首を傾げ、引き金を引こうとします。
「コノ船ノ下! 分ケテモラッタ女! イル!」
それを聞いたミサは、向けていた銃口を下ろし、ホルスターへと銃を戻しました。
「よかったなぁ、寿命が延びて」
そう言ってミサは男の肩を叩いて励ますように語りかけ、男の背後に置かれていた手榴弾を一つ手に取ると、リサにハンドサインを送ります。
送られたハンドサインを理解したリサは、部屋の端にあった燃料缶の中身を周りに撒き始めました。
操舵室に転がる死体、床、最後に拷問にかけた男にかけます。
「ヤダ……」
死期を悟ったのか、男から声が漏れます。
「寿命は伸びたが、それはお前次第だ」
「フグっ!」
男の口へ手榴弾を捩じ込むと、安全ピンを外しました。
しかしピンを外しても、口で押さえられたレバーが外れないので、起爆はしません。
「それじゃあな、健闘を祈るよ」
男の悲鳴にも似た訴える声をよそに、二人は操舵室をあとにしました。
部屋の外に出ると、彼女たちが作った屍の道を通って甲板へと戻っていきます。
「どれくらい持つと思う?」
階段踊り場の手すり、引っかかって邪魔になった死体を海へ落としながらミサは相棒に問うと“ありゃ長くはないな”と、その後ろでリサは相棒に答えました。
港湾での攻防:小型船強奪
操舵室からミサとリサが出てきた頃。
ジャックは小型船の手前、コンテナを船へ積み込むための大型クレーンの影にいました。
目の前には停泊しているクワを逆さにしたような形の小型船の舳先が良く見えていました。操舵室のあるブリッジも伺うことができ、背後には大型船が黒幕のように停泊しているせいか、不気味な雰囲気を醸(かも)し出していました。
『“着いたな、まずま操舵室確保に向かおう。ウエポンフリーで脅威の射殺許可は降りているが、情報を持っている船長と副船長は生け取りにしてくれ”』
甲板では男たちが慌てて出航準備をしているのか、訳のわからない外国語が聞こえてきます。税関の目が大型船に向いている隙に海へ出てしまおうと目論んでいるのか、忙しなく物音も聞こえてきます。
『“しかしまいったな……どう乗り込むか…”』
リッパーの言う通り、出航は時間の問題で、急いで船へと“バレずに”潜り込まなければなりません。しかし船へ渡るための橋脚はすでに格納されており、展開すれば音でばれ、飛び移るにも陸と船の間は割と距離があるため、そう簡単に乗り込むことはできません。
しかし、出航の準備をしているとはいえ、まだ港と船を繋いでるロープが外されていない事に気がつきました。
ジャックはそれを見て小型船前方とへと向かうと、誰に言われるでもなく、ロープを伝って船へと潜入を開始します。
『“やっぱそうなるか、落ちるなよ”』
予測はしていたものの、目線カメラをただ見てるだけのリッパーは、声をかけることしかできませんでした。
最初はロープの上に体を預けてゆっくり進もうとしていましたが、嫌になったのか、途中から公園なんかにある雲梯(うんてい)を悠々と進むような感覚で、腕だけを使って船へと軽々と渡っていきました。
乗船している敵に見つかるかと思われましたが、危なげなく船へと渡りきり、手すりを乗り越えて何事もなく甲板へと降り立ちました。場所にして船の左前方、クワの先端でした。
『“よし、仕事だ。ドローン到着まではまだかかる、行動の開始は構わないが…周囲の索敵ができない以上、慎重に動け”』
ジャックは耳だけ向けていると、右腰に隠していたホルスターからサプレッサーの付いたP226を抜き、薬室に弾丸が込められていることを確認します。
車で弾倉に新しい弾を込めたので、現在の総弾数は変えマガジン三つを含めた61発となっていました。
マガジンホルスターはジャケットの内側に収納されているので、外見からはどこにあるかはわかりません。
銃を構えて音を立てずにコンテナの間を通り、操舵室へ向かおうとした時でした。
「“早くしろ!”」
外国の言葉でコンテナ越しに男の声が聞こえてきました。ジャックにはなんと言っているのかわかりませんが、スマートグラスには翻訳された言葉が映し出されます。
走っているのか、渡ってきたロープの方へと向かっているのがわかり、ジャックは足音を追うように戻ります。
船と港を繋いでいたロープを、一人の男が引っ張っている姿を見つけました。武器は一見見受けられませんでしたが、ロープを切るためだったのか、使おうとして使わなかった斧が手すりにかけられていました。
ロープをまとめ終わると、仲間がいるのでしょうか、港へ手を振り斧を片手に甲板を走ってブリッジ方向へと向かいます。
そこへ容赦なくジャックは銃口を向けて引き金を引きました。後頭部に命中し、男は勢いよく地面に倒れ込みました。
しかし港にいる仲間は愚か、船に乗る他の人間も、波の音と騒がしい隣のタンカーの揉め事により気がつきませんでした。
ジャックはそのまま、港からの死角になるように反対へと迂回して、ブリッジへと進路をとります。
その直後、船の煙突から黒煙が噴き出すのを見ました、船が動き出したのか大きなエンジン音が響き始め、船が揺れ始めました。
『“! 動き出したか”』
リッパーが独り言のように呟くと、港ではけたたましいサイレンが鳴り響き始めました。
『“ジャック、沖に出られたら止めるのは難しい。港湾から出る前に止めるんだ”』
船が港から離れ始めると、ジャックは“トントン”とヘッドセットを突いて返事をして、歩速を上げてブリッジに向かいます。
しかしその直後でした。突然乾いた銃声が鳴り響きます。それも一回ではなく、リズミカルにつながって響き始めました。
「!?」
ジャックは聞こえてきた銃声から隠れるように、コンテナの影に身を移すと
『“!? ジャック!”』
リッパーは状況を理解するために、ジャックを呼び状況の報告を求めました。
「ライフルだ! 誰かが撃ってる! けど…」
銃声はハンドガンではなく、サプレッサーで抑制されたライフルの音ということを、リッパーに小声ながらも力強く答えました。
『“なんだ? どうした?”』
「…こっちに気がついて撃ってる訳じゃないようだ……ブリッジの方から聞こえてくるけど、弾丸が飛んでこない」
『“は? どういうことだ?”』
甲板にいた男たちは、音の聞こえてくるブリッジへと向かう者もいれば、その場を警戒する者で別れました。ほとんどが軽装で、手にはトカレフ、または『M1911』というハンドガンのコピー品を持っていました。
リズミカルに聞こえてくるライフルの音に続き、抑制されていない破裂音が鳴り響き始めます。銃撃戦が始まった合図です。
銃声の正体、それは『AR-15』と言うライフルでした。
使いやすいようにとカスタマイズされており、小型船に乗っている人間は誰も持っていないライフルです。
「“女だ! 二人が”」
ブリッジの近くで警備をしていた男が、そのライフルを持った少女二人を見て、無線で仲間に伝えようとしていた直後
「“ぎゃああああ!”」
一人に壁から出ていたつま先を撃ち抜かれて、声をあげました。
直後、男の頭に弾丸が撃ち込まれ、男は死体へと変わりました。
無線には仲間の呼ぶ声が聞こえてきますが、答える人はいません。
「ミサ! このままだと出ちまう!」
「クソッ!」
大型船の舳先にいるミサが悪態をつき、リサは焦った様子でミサへと声をかけていました。二人は小型船へと銃口を向けており、無線を使っていた男を撃ち抜いたのはリサでした。ミサは近くにいるもう一人を撃ち抜いて致命傷を負わせます。
小型船を撃ち下ろす形になっていましたが、乗り移るのはかなり難しい状況です。
「リサ! そのまま撃ちまくれ!」
ミサは相棒に言うと、コンテナ隣に転がっていたロープを手に取ります。
「!? 何する気だよ!」
リサが相棒の行動に問いかけながらも船へと射撃を続けると、ミサは近くにあったロープを柱に結び、まとめたロープをそのまま海へと放りました。
「リサ! カバーッ!」
「!?」
射撃を繰り返す中、ミサは柱から助走をつけて、離れゆく小型船へと飛び降りました。
「ミサ!」
相棒の思わぬ行動に驚き、リサは援護射撃を思わず止めてしまいました。
大型船の甲板から飛び移り、ミサは見事小型船のブリッジへと
「んぎっ!」
その下の階。手すりになんとかしがみついて、乗り移ることができました。
投げたロープはというと、もし海に落っこちた時の保険に過ぎませんでした。
それとは別に、リサを次の行動へと誘うためでもありました。
「何してんの! 無茶すんな!」
ミサの繋がっていた無線には相棒の声が届き、援護射撃が再度開始されます。
その甲斐あって、ミサは無事によじ登ると、焦った声に無線を返しました。
「ごめん! リサは急いで“足”を用意して!」
ミサが操舵室のあるブリッジへと向かいながら、無線をつなげてリサへと言いました。
彼女の言う足とは、船を奇襲して目的達成したあとの逃走手段のことでした。
「お前はどうすんのさ!」
「私はこのまま女の子たちを助けに行く! サツがくる前になんとかする!」
「なんとかって!? ヤバッ!」
ミサが自身の行動を示した直後、小型船からリサへと反撃がされました。
「!? リサ!」
「大丈夫! それよりミサ! 早くしないと沖に出ちまう! なんとか用意するから、それまでに終わらせて!」
「わかった頼んだ!」
スリングにかけていたライフルを構えると、ミサは階段を上がって行き
「よし! 任されたぁ!」
リサは物陰に隠れてマガジンを新しい物に差し直して答えると、船外に投げられたロープを降りていく算段を立てるために、数発小型船へ向け発砲、迎撃がないことを確認してからロープを降りました。
「誰だ?」
ジャックの視界には、大型船からライフルを撃つ二人が見えていました。
『“ダメだ…この距離での解析は流石に無理だな……”』
ジャックからは顔こそよくは見えていませんでしたが、制服に武装した年頃の女の子という異彩を放っているというのだけは見えていました。リッパーはどうにかして二人が誰なのか解析を試みましたが、届く映像からでは解析は不可能でした。
『“誰であろうと…障害になりうるのなら排除して構わないが……もし生きてたらあの二人からも情報はえられるだろう。ヘイトがあの二人に向いてるうちにどうにかブリッジの制圧に向かうんだ”』
リッパーからの指示を受けた時、リサが甲板の奥に向かい、ロープを船外へと投げるのが見えました。
「おいマジか…」
直後小型船へ飛び移った光景を見ると、ジャックは思わず声を漏らしました。
「一人がこっちに飛び移った…」
『“……そこまで駆り立てる物がその船にあるって言うのか……どちらにしろ、急いだ方が良さそうだ。もしあの二人が生きてたら、手荒くなってもいいから情報を聞き出してくれ。正体がわからない以上は殺さないように”』
「そのつもりだ」
ジャックがリッパーへ返事をすると、コンテナからコンテナへ、やがて車の陰へと身を隠して操舵室のあるブリッジへと向かっていきます。
「“裏切りだ! 女を殺せ!”」
甲板にいた男たちは、周囲を警戒することなく銃をブリッジの方へと向けて撃ち続けていました。
そんな無防備な男に音を立てることなく忍び寄り、後頭部に一発撃ち込み、倒れそうになるところを受け止めて音を立てないように静かに降ろします。
また別の男にジャックは撃ち込み、同じように音を立てないように倒れる体を抑えてゆっくりと降ろし、ある男は背後から勢いよく締め殺し、またある男は首の骨を外します。
「ハァ…ハァ…ハァ……」
甲板の手すり近くで、一人周囲を警戒している男がいました。手に持ったハンドガンは震え、狙いは定まっていません。
どうすればいいのかわからず、辺りを右往左往し始めると、静かになる甲板に違和感を覚えた時、ジャックに背後を取られました。
男の股間目掛けて、ジャックは容赦ない蹴りを向けます。
思いっきり金的に入ると、男は痛みのあまり声を張ろうとしましたが、その場で静かに崩れ落ち、手からハンドガンがこぼれ落ちたその一瞬を、ジャックは逃しません。
男の首根っこと腰裏のベルトを掴むと、男は声なく海へと放り投げられました。大きな水柱と音が届きますが、波音と混ざり、何が落ちたかを知る者は現れませんでした。
そんな最中、ブリッジでは激しい銃撃戦が繰り広げられていました。
ブリッジへと上がろうとしていたミサが、迎撃に向かってくる敵に容赦なく引き金を引いていきます。
差していたマガジンが空になると、目にも止まらぬ速さでマガジンチェンジを行い、すぐにまた引き金を引いていきます。
敵も頭が回らないのか、狭い階段を列になって上がってきます。ミサは先頭の人間を撃ってしまえば、後続は倒れてくる仲間に邪魔されて反撃ができなくなります。
そこに容赦なく銃口を向けるのです。彼女からすると、反撃のない動く的を簡単に撃ち抜いているようにしかなりませんでした。
追ってきた敵を何事もなく排除し、甲板に残っているだろう敵へ銃口を向けた時
「………」
誰からも撃たれませんでした。まだ敵がいると思っていましたが、転がる死体こそあれど、忙しない足音はありませんでした。
静かに降る雨音が不気味に感じつつも、ミサは脱出準備をしているだろうリサへ無線を繋げます。
「外の敵を排除……これより中へ入る」
そうして相棒へと告げましたが、返答を待たないまま船の重々しいドアを開けると、船内へと消えていきました。
長い廊下を突き当たりまで進む道中、各部屋に敵が潜んでいないか確認していきます。
会議室、食堂、船長室、トイレ。突き当たりの部屋を最後に確認して、中央階段を上がりさらに上へ。
壁を背に階段をゆっくりと上り、敵の存在を確認しようとしますが
“………音がしない…”
ミサは疑問に思っていました。
先ほどまで、ブリッジの外では銃撃戦が繰り広げられていました。船内でも迎撃準備のために走る物音や、小声が聞こえてきてもおかしくありません。
しかし聞こえてくるのは、ミサの足音と、装備品が擦れる小さな音だけです。
一つ上の階へ上がりきった時でした。
「!? ……なんで…」
ミサは予想もしなかった光景に出会いました。
階段を上がっている途中、船員と思われる男が、壁を背に血を流して倒れていました。首を切られたのか、洋服の前面は赤く染まり、滴る液体は緑色の床を染めていきます。
息を整え、意を決して廊下へと銃を構えて突入します。しかし廊下を確認しますが、転がるのは多くの無惨な死体だけ。
数えるのに時間を要する光景は、まるでこの場で争ったようにも伺えましたが、確実に第三者による殺しとわかりました。
頭を撃ち抜かれていれば、最初に見つけた男のように首が切られている男もおり、他にも何発も銃弾を受けたような死体があれば、目立った外傷がない締め殺されたような死体もあり、どんな殺し方をしたのかミサには検討がつきませんでした。
人を何人も殺めてきたミサでしたが、こんな光景は初めてです。
「なんなんだ…一体……」
階層に敵がいないことがわかり、最上階の操舵室へと向かおうかと思った時でした。
天井からものすごい物音が聞こえました。銃声と何かが物に当たった音でした。
「!」
身構えて音に反応すると、船が動きを止めたのか、急に船の揺れが穏やかになったのに気がつきました。
状況が掴めないミサは、急いで階段を駆け上がり、操舵室のある最上階へと向かいます。その道中でも多くの死体が転がっていました。
「何人死んでやがる…!」
悪態をつきながら、船を動かす中枢である、操舵室のドアの前に到着して、躊躇なくドアを開けました。
それが間違いだったと、ミサは後悔することになりました。
ミサが船内に潜入した頃でした。
『“ドローン到着。遅くなった…”』
ちょうどリッパーが用意していた小型のドローンが到着しました。四つのプロペラで回るオーソドックスな形のドローンで、機体の下には特殊な小型カメラが付いており、索敵や情報収集に活躍する代物でした。
しかし、強くなった雨足のせいで到着が遅くなりました。
「“お前! タダじゃおかない! 同胞を殺し! 我らから何もかも奪う! 地獄に落ちろ!”」
操舵室では、一人の男が喚(わめ)いていました。
もう一人隣にいますが、意識が朦朧としているのか、身動きをとれないでいました。
「……なんて言ってるかさっぱりだな…」
ジャックはというと、喚き散らす男を操作版に押さえつけていました。
『“早いこと制圧しろ、中に“例の女”が一人入ったぞ”』
「わかった」
リッパーの指示に返事をすると、ジャックは押さえつけていた男の右脇腹を殴打します。
続けて拳は腹部へと向けられ、鈍い音と共に男は気を失って倒れました。近くにあったロープで男二人を縛り上げ、ゴミ袋を頭に被せてとれないように袋の口を縛って完了です。
意識が朦朧としていた男が銃を構えてジャックへ発砲しましたが、すぐに気がついたジャックは、銃口が向く前に銃を持つ手へ蹴りを入れました。
暴発するように銃が男の手から離れると、ジャックは顎へと蹴りを向けて制圧をします。
男が蹴られた勢いで壁に頭をぶつけ、物音に気がついて誰かが階段を駆け上がる音が部屋の外から響いてきました。
ジャックはドアの影に身を隠すと、部屋の角を確認することなく、少女が部屋へエントリーしました。
制圧された男二人に気がつきましたが、死角にいたジャックに気がつくことができずに
「うぐっ!」
体の右側にジャックの蹴りが入りました。先手を取られた挙句、背後も取られます。
そのまま壁へ頭を打ちつけると、ミサは脳震盪を起こしその場で力無く動きを止めます。
「カハッ! ハァ! ハァ!」
しかし気を失ったわけではありませんでした。ですが、手に持っていたライフルを離していまい、揺らぐ視界の中なんとか体を起こして、反撃をしようとホルスターへ右手を伸ばしましたが
「いぎッ!」
短い声を出して、腕を背後で固められました。
ジャックはそうはさせんぞと彼女のホルスターへと伸びる手を持つと、ミサの腕を背後に回しながら腹這いにさせ、振り払おうと試みるミサをものともせず制圧します。
腹這い状態でミサが暴れる中、ジャックがホルスターから銃を抜いて放ると、視界にミサのベルト装備の中にバンドカフを見つけました、ジャックは躊躇なく彼女の両手にかけて動きを封じました。
「くそっ! 離せ変態っ!」
意識が朦朧としているミサですが、関係ないと言わんばかりに抵抗を見せます。
しかしジャックよりも体格と技術に劣っていた彼女は、状況を優位に進めることはかないませんでした。
ジャックはミサを片膝で抑えると、ライフルとハンドガンのマガジンを一旦外し、続けて薬室から弾丸を取り除いていきます。
『“そいつが降りてきた女か”』
ジャックがライフルへと手を伸ばした時、リッパーが口を開きました。
「おい! 汚ねぇ手で触んじゃねぇ!」
同時にミサも吠えます。リッパーの見ている映像には、解析したミサの情報が閲覧されました。
『“バウンティハンターのリストと照合……出てこない。どこかにカードがないか?”』
リッパーの問いに、ミサの武装解除を終えたジャックは、予告なしにスカートのポケットに手を突っ込みました。
「いぃッ!?」
思わぬ行動にミサは声を上げ、顔を赤くして驚きました。
「あっ! ちょっ!?」
デリケートゾーンに当たりながらも、右、左とポケットを確認すると、中から二つ折りの手帳が出てきました。高級ブランドのマークが刻印された、物騒な場所には似合わないパスケースです。中にはバウンティハンターのライセンスカードの他に、学生証が入れられていました。
『“それだな、探してみる”』
リッパーの声を聞いてとりあえず投げ捨てると、ベストの背面を掴んでミサを一度起こします。
バンドカフを踏みつけ、“痛ッ!”という声を漏らしますが、お構いなしにジャックはミサの背後からベストなどを物色します。
「おい…お前この船のやつじゃないだろ……」
声をかけられましたが、ジャックは無視しました。と言うより聞き流していました。
ベスト前面、マガジンとの間に隠すように収められていた、カーブを描いた刃の短いナイフ、“カランビットナイフ”を右手に取ります。
「……ずいぶんいい装備をしているんだな…」
研がれたナイフを右手に眺め、慣れた手つきでナイフを回し始めると、空気を切り裂くような鋭い音が鳴りました。
ジャックはミサに応えるように言うと、背後から首筋を掴み
「いたッ!」
片手でナイフの“フリップアクション”を済ませ逆手に構え、尖らせた親指の関節を喉元へと勢いよく突き立てました。
「カハッ…!」
突き立てられたミサは痛みに耐えましたが、体は正直で唾液を垂らします。
「刃先を突き立ててないこと……何かあればいつでも殺せることを忘れるな…」
「ッ………!」
喉元深くへと関節を押し当てながらジャックは耳元で囁くと、流石のミサも人間の急所をつかれては呼吸が乱れ、なす術なく床へと倒されます。
ミサが争うことのできなくなった隙にジャックは彼女から離れると
「ガハッ! ゴホゴホッ! ウオェ! ゴホッ!」
仰向けに倒れるミサは、苦しそうに体を横に翻し咳をしました。
心配する素振りもせず、ジャックはすぐに投げ捨てた銃、奪ったナイフをテーブルに置き、パスケースから二枚のカードを出します。
「………」
一度よく見ると、突然カードの匂いを嗅ぎました。
革の香りとカード独特のプラスチックの匂いがしますが、ジャックにはもう一つ匂いがあるのを見逃しませんでした。
「…気持ち悪いことしやがる……そんなに女に飢えてんのか……?」
今にも気を失いそうな口調でミサが罵倒すると
「ゴウッ!」
防弾プレートの入ったプレートキャリアをフルスイングで右足で蹴り飛ばしました。
「がはっ!」
吹き飛ばされて、そのまま壁に全身を打ちつけると、ミサの意識の限界は近くなります。
息を荒げる彼女へジャックは近づき、トドメをさすと言わんばかりに手を伸ばしました。
「ッ…!」
覚悟を決めたミサでしたが、ジャックは持っていたライセンスカードを胃液で濡れた彼女の右頬に擦り付けたのでした。
『“? おい何してんだ? 匂い嗅いで今度は唾液をオカズにでもする気か?”』
リッパーにも理解が追いつかなかったジャックの行動は
「な……何…を……」
薄れゆく意識のミサにも理解できませんでした。
無言ままジャックは、唾液まみれになったライセンスカードと学生証を擦り合わせ始めました。
リッパーとミサの二人がジャックの行動を理解できないまま、カード同士を擦っていると、パッとカードの擦り合わせ面を広げ、画面越しの相棒が理解を示しました。
『“なるほど、偽造ライセンスと学生証か……”』
二枚のカードは文字と写真が滲み、粗悪な偽造されたカードと判明しました。
“どこで気がついた?”と聞くリッパーに、ジャックはスンスンと鼻を鳴らして答え、ミサの前に二枚のカードを投げ捨てます。
「ハハ……お前…一体………」
偽造カードを見破られ、どんどん追い詰められるミサの元に
『“ミサ! 港湾のサツ共が動いてる! 早く出て来い!”』
逃げる足を用意しただろうリサの声が届きました。
“チキショウ…”
何もできないことに怒りを覚え、バンドカフを外そうと力を振り絞り動いた時、
「ゴフッ!」
プレートキャリアへの一撃を最後に、リサは気を失いました。
壁を背にして、勢いが殺されない状態で腹を蹴られれば、内臓破裂で死に至るでしょうが、ジャックはプレートの入ったベストへと蹴りを向けたので、死に至ることはありませんが、悶絶するほどの痛みが襲うのは間違いありませんでした。
『“……プレートを狙ったのは良心か?”』
その様子を見てリッパーは声をかけますが、無言のままジャックは脱出の準備に取り掛かります。
薬室へ弾が込められていないミサのハンドガンを彼女のホルスターに収め、ライフルを背中と腕の間に通すと、スリングでミサの腕を縛り上げ、バンドカフを足にも通します。
運んでいる途中に目覚めて反撃されてはまずいとジャックは考え、捕縛をさらに強固にした形です。
念には念を。保険でもありました。
『“まぁこっちも“そいつら”の情報は欲しい。そっちにボートが一隻向かってるのを確認した、仲間だろうから殺さないようにな”』
“ああ”と返事を返すと、ジャックはミサの着ているベストの左側にあった無線機とヘッドセットを繋いでいたコードを外しました。
『“おいミサ! 返事をしろ!”』
ボートに乗っているだろう仲間の声が、スピーカーとなって室内に響き始めます。
聞き耳を立てつつ、無線機を右後ろ側のベルトに引っ掛けて携行し、ミサを左肩に担ぎ上げ、カランビットナイフを右手に持って部屋を後にします。
『“片腕でよく……俺とあまり変わらないはずなのになんで……”』
リッパーはドローンから見える映像を見て、ジャックのマンパワーに驚きつつも、皮肉を漏らします。
バンドカフを持って前後のバランスを保ち、体を横向きにして船内の階段を降りてミサが入って来た道を、ジャックは戻り始めました。
『“ミサ! ……ミサ!”』
階段が終わり廊下に出ると、ミサの相棒からの声はどんどん大きくなっていきます。開いたままになったドアから外へと出て、ジャックが無線を取りました。
「…冷たい雨だな」
外に出て、雨足が強くなった空を見て無線機にコメントします。
『“!? 誰だテメェ!”』
気の抜けた言葉に相棒ではないとわかると、容赦なくジャックへ噛みつきます。
当たり前です。
「会いたかったらそうだな……」
雨に打たれながら、ジャックはどうやって船を出ようか周囲を見渡し、船の前方に目線がいきました。
「船の前で“タイタニック”でもしながら待ってるよ」
『“は?”』
「もし俺のことを撃てば、相棒につけた手綱が“死”へと誘うことを忘れるな。その時はお前にも同じ手綱をつけて送り出してやる」
『“おい! 待て!”』
無視してジャックは無線機をベルトに引っ掛けます。
雨足が強くなる中、甲板を歩いて前へと向かうと、荷物の搬入口として使えるスロープの前につきました。
船で言うと船首にあたり、クワの刃先部分に当たります。
クワの刃先の正体はスロープを支えている柱と思ってもらうとわかりやすいでしょう。
船首にはスロープを操作するための制御盤があり、電源と開閉スイッチの他に、緊急停止スイッチがありました。
ジャックは電源レバーをあげて、“OPEN”と書かれているボタンを押すと、ブザーと共にスロープの鎖を格納する柱の先端にある黄色い回転灯が回り始め、ゆっくりとスロープが降りていきます。
港湾の中は波がいたって穏やかで、ジャックは躊躇なくスロープの先が海水に着くところまで下ろして止めました。
するとリッパーの話の通り、港の方から一台のゴムボートが接近してくるのを見つけました。
「!? ミサ…!」
甲板の上で、担ぎ上げられている相棒を見て、リサは驚愕します。
裏社会の仕事をいくつも乗り越えてきた二人にとって、どちらかが完全制圧されたのは初めてでした。
「ッ………」
降りたスロープへとボートの舵を切り、エンジンを止めてライフルを構えました。ゆっくりと船へ近づいてくるのが見えると、ジャックは無線を取りました。
「安心してくれ。君の相方は死んではいない、ただこちらの要求を飲んでくれなければ…二人は確実に死を迎えることになる」
「……なんだ?」
リサはジャックへとライフルを向けたまま、無線機で要求を聞きます。
「オレも陸へ戻る足がないんだ。申し訳ないが同行してもいいかな?」
ボートはやがて、そのままスロープの上に乗り上げて止まり、ボートが揺れる中、リサは銃口をジャックから外すことなく構えていました。
素晴らしい体感だとジャックは思っていましたが、口には出しません。ベルトに無線機を戻して、リサへと直接声をかけます。
「名前を聞いても?」
「………」
リサは無言のままスロープへ降り立ち、ライフルのレールに取り付けていたライトで担ぎ上げられたミサに外傷がないか確認をします。そんな中ジャックは一方的に話しかけます。
「相方の名前はわかってる、“ミサ”って言うんだろう?」
「………」
「船の連中はほとんど彼女の手柄だ。けどこの船は抑えさせてもらう」
「………」
リサはジャックを撃ち殺そうと、引き金に指をかけました。しかし
「残念だが、話はここまでだ」
ジャックがリサの背後を指差した時でした。
「ガハッ!?」
突然、背後から頭を殴打されました。衝撃で引き金を引いたリサでしたが、弾丸はジャックとミサに当たることなく、二人の右にそれて船の手すりに跳ねて飛んで行きました。
リサは何が起きたのか理解できないまま、スロープに前から力無く倒れ、気がついた頃には後ろ手にバンドカフをかけられていました。
「な……何…が…?」
ジャックへと立ちあがろうとしたリサを、背後から奇襲してきた何者かが抑えると、バンドカフを続けて足にかけ、四肢の自由を完全に塞がれました。
「まぁ、聞きたいことはまだあるんだけどね」
ジャックが余裕そうに話た直後、スロープへ向けてライトが照らされました。
高速戦闘艇によるライト照射でしたが、やがて周囲の空には轟音が響き始め、武装したヘリコプターと戦闘艇が小型船舶を包囲するようにライト照射を開始していきます。
港湾には巡洋艦も三隻入港し、大型タンカーとジャックたちのいる小型コンテナ船を完全に包囲しました。
「…どうなってやがる……」
リサは状況が全く理解できないでいると、ジャックが悠々とスロープを降りてリサの横を通り過ぎ、乗ってきたゴムボートにミサと乗り込んだのを見ました。
「! おい! ミサをどうするつもりだ!」
リサはどうにかして捕縛を解こうとしますが、屈強な男二人に抑え込まれては、どうにもできません。
するとリサを抑えていた一人が彼女の顔に袋を被せ、二人がかりでリサを持ち上げます。
「ちょ!? おい!」
ジャックがボートにミサを乗せると、暴れるリサの武装解除をしていきます。
「触んなこの変態!」
「……相棒も言動は同じ…か」
呆れた様子で、ジャックはライフルとハンドガンから弾丸を取り除き、タクティカルベルトをそのまま外しました。
「いっ!? まさかこんなとこで“おっぱじめる”気か!? どうかしてる!」
暴れるリサを無視して、ジャックはずぶ濡れの男二人に無言で指示を出すと
「あッ!」
リサは一瞬声を出すと、魂が抜けたように動きを止めました。
彼女を持ち上げていた男の一人が、リサの首元へと何かを指すと、パタリと動きがなくなったのです。まるで死体になったかのように。
男二人はボートに乗ったミサの隣にリサを放ると、ジャックがリサの武装を持ってゴムボートに乗り込みました。
ドライスーツに武装している男二人は、ジャックがボートへ乗り込むと、三人が乗ったボートを海へと放し、ヘリから降下してくる味方の援護へと向かっていくと、スロープの格納を始めました。
『“薬は効いてるみたいだな”』
リッパーからそんな声が聞こえてくると
『“よし、目的地をマーカー指定した。とりあえずそこへ”』
ジャックのスマートグラスには行き先が指定され、エンジンをかけるとボートを目的地へと向けました。
港湾の一角に、小型船を格納できる舟屋がありました。
舟屋といっても、大型倉庫を海へと無理やり拡張した建造物で、今では廃墟同然となっている、人目を避けるにはもってこいの場所でした。
陸からも海からも、中を伺うことは難しく、港湾側には目隠しのための大きな扉がありました。しかし鍵もなければ簡単に開閉ができるようになっているため、開けるのは容易にできます。
ジャックはボートを走らせると、リッパーに導かれるまま、海から建物の中へと入りました。港から伸ばした建物なので、中まで海水が来ており、満潮干潮関係なく荷物の搬入ができるような構造をしていました。
天井クレーンもあるので、密輸の拠点として使うにはかなり設備の整った場所です。しかしここはそもそも密輸の拠点で、ジャックとリッパーの調査で摘発が行われた場所でした。
今は何に使っているかというと、使い勝手がいいから残しているというところはありましたが、実際はただの廃墟でした。
「……このスティックみたいなの…一体なんだ?」
ジャックの手には、船でリサを取り押さえた男が彼女へ使った得体の知れないスティックが握られていました。
袋を被り、体が痺れでもしているようなリサを見て、何かと不審に思っていました。
『“そいつは注射器、“スティム”なんて呼ばれてる代物だ。レスキュー道具の一つで、元の中身はモルヒネだ”』
「元? じゃあ今は何が入ってる?」
『“なぁに、麻痺させるだけの薬だ。病人に打ったら間違いなく死ぬがな”』
ジャックは岸にボートを着けると、降りてそのままボートを岸へと引きずりあげました。
『“すぐにロビンが来る。今持ってるスティムをもう一人にも使っておけ、目を覚まされたらややこしくなる”』
「……どこに打てば?」
『“どこでもいい、薬の回りが早いで言えば…太い血管の通る場所がいいのは確かだ”』
だから首元だったのかと、ジャックは船でリサが打たれた所に納得しました。
言われるがまま、ジャックはスティムを逆手に持ってミサの首元へ押し当てると、後端のボタンを押して薬を注射しました。
圧縮されたバネが一気に薬品を送り込むと、中身はすぐに空となり、押し当てた先端を離すと針はすぐに中へと引っ込みました。
どうやら先端を押し当てないとボタンが押せず、薬品投与も始まらない仕組みのようで、安全と誤投与に配慮しているのだなと、ジャックは関心しました。
ジャケットへと使い切りのスティムをしまうと、リッパーへと指示を仰ぎます。
「この後は?」
『“二人の指紋、髪の毛を一本ずつ取ってきてくれ。そのあとは捕縛をといてそこから離脱、情報の解析で二人の情報を集める。ロビンが来たら気づかれないように発信機を取り付けてくれ”』
リッパーから指示を受けると、ジャックはとりあえずガラス窓のある両扉を開けて部屋へと入りました。
元は倉庫として使われていただろう建物、室内にはパレットの残骸と使われていた棚が端に寄せられて置いてありました。
隣の部屋は会議室か休憩所として使われていたのか、長机は畳まれて壁際に寄せられ、パイプ椅子も隣に立てかけられた状態で埃をかぶっているのが見えました。
ドアを潜ると、ロビンが向かってきているのが見えました。
運転席に人が乗っているわけでもなく、車はジャックの元へと到着します。
「“お帰りなさい、ジャック”」
スピーカーからロビンの声がジャックに届きました。
『“物はトランクにある”』
言われてトランクを開けると、中には“メディックバック”という大きな救急バックの他に、鑑識官が現場で使うメディックバックと同等サイズの“鑑識カバン”がありました。
メディックバックの中身は、名前から推測できるように負傷した人間を治療するための道具が敷き詰められていました。もちろんモルヒネなどの薬品が入ったスティムも入っています。鑑識カバンには、事件現場の捜査をするための道具が入っており、現場で得た証拠品を保管する為の器具、証拠を見つけ出す為の薬品や機材なども入っていました。
ジャックは鑑識カバンを肩にかけ、ミサとリサのDNA採取、並びに発信機の取り付けを行いに倉庫へと戻りました。
ボート上で眠るように倒れている二人を見ながら、水色のゴム手袋をはめながらふと考えました。
“犯罪意識のある人間ならばこの状況になれば襲うのだろうか”と考えたり、“意識の問題?”など、結果的に“いや自制心か。変態はそんなのないし、女に飢えてるだろうしな”という考えに至りました。
ジャックはそんなことを考えつつも、二人がつけていたタクティカルグローブを外して指紋を採取します。と言っても、指にセロテープをつけて剥がし、保管用のプレートに貼り付けているだけです。あとで解析に回すにはこれで十分なので、次はDNAの採取です。
髪の毛を一本採取して、ケースで割れないように保護されたプラ容器に保管して持ち帰れはいいだけです。
最後にミサのカランビットナイフでバンドカフを切り離して捕縛を解き、ジャックは倉庫を後にしました。
鑑識カバンをトランクに戻し、エンジンのかかった車に乗り込んで、ジャックはロビンに告げます。
「ロビン、運転を頼む」
「“承知しました”」
ロビンは即答すると、車はゆっくりと動き始めました。
ジャックは運転席のシートを倒し、ポケットからハンカチを出して、アイマスクがわりに顔にかけます。
『“ん? どうしたジャック?”』
ジャックの行動に不審に思ったリッパーは、何事だと声をかけました。
「寝れそうだから寝る…」
『“……そうか…何かあったら起こす、ヘッドセットは外さないようにな”』
「了解」
ジャックは返事を返すと、十吾郎のガレージまで起きることはありませんでした。
時刻は既に、朝四時を回ろうとしていました。
ジャックにはとっては不幸な、人によっては喉から手が出るほど欲しくなるような能力を持ち合わせていました。その一つは不眠症です。
ほとんどの人は夜の決まった時間に寝て、体を休める構造になっているのは、一般常識というもの。先祖のホモサピエンスが誕生した時の生存本能による物で、現代では夜に働き昼に睡眠を取るという人もいます。
時代に合わせての変化という物です。
しかしジャックは違いました。昼に寝れなければ、夜も眠りにつくことができない体質だったのです。しかし稀に、急激な睡魔に襲われて“自然に”眠りにつくことがありましたが、それは一年にあるかないか。
なぜ今は夢の中かというと、仕事終わりだからということだけ。それでも眠りの浅い今も、ガレージに着けば目を覚まして普通の人と同じように活動するのです。
しかし、決して悪い能力とは言えない現状もありました。ジャックのように24時間動き通せる兵士は限られてきます。というより普通は交代で24時間の警戒体制を取ります。ジャックにはその必要がないとなれば、今回のような特殊作戦も可能になるという物です。
結果、ジャックはここ何日か起きていることになっていましたが、車内でそれがリセットされます。
他にも鼻が効く、耳が良いなどの身体的能力も並の人間よりありました。
仕事ではそれらのアビリティの他に、人間の五感をフルで使います、疲労もかなりのものなのは間違いありません。ですが眠れないときは本当に永遠と起きているしかありませんでした。
寝れるかもしれないと考え、中学の頃に始めた読書と新聞でしたが、体感できる効果は未だわからないまま。
しかしそんな彼も、やはり人間です。仕事の後は疲れて寝ることがあり、それは決まって人を葬ったときでした。
浅いですがジャックが眠りについて30分ほど。ロビンの運転する車は十吾郎のガレージへと到着しました。
中はライトで明るく照らされ、十吾郎が出迎えました。
「おかえりロビーン! どこか傷つけられたりしてないか? 洋次郎に乱暴されなかったか?」
いえ、出迎えを受けたのはロビンだけだったようです。ふて寝していたのか、片側の頬が赤く、少し眠そうな面持ちでした。
洋次郎も浅い眠りから目を覚まし、運転席から出てきます。
「お? お前ロビンに運転させたのか!?」
十吾郎の言葉を無視して、カウンターに腰掛け、黒電話が鳴るのを待ちます。
「……お父さんは悲しいぞ…」
同一人物のそんなボケも華麗に無視します。
ボケの直後、ガレージに黒電話の音が鳴り響き、洋次郎がすぐに受話器を取りました。
『“ご苦労ジャック”』
電話の相手は室長でした。
『“朝までご苦労だった。追って情報をリッパーに持たせる、ゆっくり休んでくれ”』
それだけ聞くと、電話はプツンと切れました。
「…室長もご苦労だこった……このまま仕事だろ? 俺なら休むね」
ジャックが受話器を置くと、十吾郎からはそんな言葉を投げながらタバコに火をつけ、朝日を浴びながら煙を吐きしました。
「……シャワー浴びる」
洋次郎は十吾郎に告げると、二階へと上がりました。
ソファに服を脱ぎ捨て、浴室へと入って行きました。中には彼が持ち込んだシャンプーなどのサニタリーが収められた小さなバスルームバックが置かれ、内容物は洗顔もあればボディソープとアカスリも入り、用意周到なお風呂セットと言えるでしょう。
浴槽にお湯を溜めずに、洋次郎はシャワーだけで体を流していきます。頭、体、最後に顔を洗い、少し熱めのお湯を2分ほど浴びて風呂から上がりました。
手早く身体を拭いて制服をブレザー無しで着ると、放り投げたスーツをハンガーに掛けてしまいました。
ブレザーをスクールカバンに押し込んで、入れ替わりに黒いパーカーを出して着ると、部屋を出て階段を降りて行きます。
ガレージでは、十吾郎がロビンに異常がないか確認している最中でした。
「お、早ぇな。またな洋次郎」
下から洋次郎を覗き込みながら声をかけると、声をかけられた洋次郎は頭を少し下げて答え、朝霧の出始めた街に消えて行きました。
敗北と日常 “迷える娘たちのブルースを添えて”
時刻は午前9時を周り、タンカーでの戦闘が終わり、5時間が経っていました。
学校は既に授業が始まっている時間でしたが
「ハッ! ハッハァ!」
ボクシンググローブをつけたリサは、天井から吊るされていたサンドバックを殴り
「フンッ! フッ! フンッ! フッ!」
ミサはバタフライマシンを使って筋力トレーニングに励んでいました。
既にトレーニングを始めて一時間が経過し、何かに駆り立てられるかのように二人は休まずトレーニングを続けています。ミサは続けてランニングマシンへと上がり走り込みを開始。リサはサンドバックに飛び掛かると、足の力だけで逆さ吊り体勢から上体起こしのトレーニングにシフト。左右に拳を向けてのシャドウボクシングを付けます。二人して既にものすごい運動量で、頭から水でも浴びたかのように汗を流していました。
「………」
そんな二人を、同じトレーニングルームで、優雅にヨガをしながらママが見ていました。
二人がなぜこんな必死にトレーニングしているかというと、昨夜の大敗にあったことをママは電話越しに察しました。
屈強な男にも決して敗北することなく、過酷な環境下でも順応するための知識を得て、鋼のような肉体と精神をママのもとで育てた二人が初めて負けたのです。二人の意力もとい殺意は、二人から勝利を勝ち取った男を殺すまで治らないでしょう。
ママはそのことを見越すと、情報屋と同業者に情報共有を開始。同時に情報提供も求めました。しかし何も手掛かりがないのが現実でした。
唯一わかっていることは、虫も殺さないような顔をしたとても良い男だったということ。痩せ型の体つきにも関わらず、フル装備のミサを片腕で軽々と持っていたというリサからの信じ難い供述もあり、ママ自身も娘二人がここまで興味を示す男は誰なのかと、知りたくもなっていました。
元々はタンカーの護衛という依頼でしたが、ミサの予測通り顧客は後先考えずに前金を支払っての仕事だったため、見切りをつけて途中からは子ども達の救出へと乗り出すこととなりました。
しかし計画は一人の男により完全破綻。名前は愚か、顔だけしかわからない男の情報を握り、二人は何も残さず港から帰宅すると、待っていたのは敗北感という名の悔しさでした。
結果、帰ってきて早々憂さ晴らしでもするかのようにトレーニングに励んでいるわけです。車に装備を一式放ったまま部屋へと入ると、邪魔だと制服を脱ぎ捨て、下着姿のまま筋肉に負荷をかけていました。
男を誘惑する奇抜な下着は、トレーニングウェアとしては適さないでしょうが、年頃の女子が身にまとうにはまだ早いかもしれません。
「ハァ! ハァ…ハァ! ハァ!」
やがて、裸足で全速力のままランニングマシンに乗っていたミサの息が切れ始め
「ハァ…ハァ…ハァ…」
リサも汗の影響もあり、サンドバックから少しずつ下へと落ちて行きます。既に身体を起こせるだけの体力はなく、腕も床へとダランと下がってしまいます。
そこから二人の限界が来るのはすぐで、リサは柔らかい床へ身体を預けるように落ち、ミサはランニングマシンからフラフラになって降りると、リサの近くに倒れ込みました。
間違いなく今屈強な男に襲われでもしたら、太刀打ちできないでしょう。
「……身体冷えるよ? 早く風呂入って汗流しな…」
ママの言葉になんとか返事をして立ち上がり、二人は部屋へと戻って行きました。
一人残されたママもヨガを済ませると、彼女もシャワーを浴びて書斎へと戻りました。
バスローブのまま椅子に腰掛け、タブレットを片手にタバコに火をつけると、マダムは二人の娘から受け取った走り書きのメモデータへ目を向けます。
書き手は後部座席に座っていたリサでした。
タンカーの警護改め、密輸品の捜索。
ブリッジにいたやつから話を聞いて、メインは小型船に積まれていると判明。それとは別に少数がタンカー下層にいる模様。
小型船が緊急出航。ミサ単身で制圧を開始、私は帰りの足を確保のために動く。
止められていた小型ボートを奪取し小型船へ。
ミサへと通信をし、3回目に知らない男が出た。
ミサからの応答はなく、男から指示された通り船の前へと向かうと、降りてくる船のスロープを見てボートを走らせた。
船には男が一人立っていた。フル装備のミサを片方の肩に軽々背負った黒いスーツの男。ボサボサの髪に、メガネをかけていたらしい。ミサは顔を見たようだが、私からは髪型と黒いスーツしか伺うことができなかった。
水面に下がり切ったスロープにボートを上げて、そのまま男を殺そうと引き金を引いたが、背後から何者かに襲撃を受けた。当てられなかった。
手足を縛られ、麻袋を頭に被されると首元に何かを押し付けられて気を失った。気がついた頃には倉庫に運ばれ、誰がいるわけでもなく装備も損傷なく手元に残されて、捕縛も解かれていた。
めまいと吐き気、体の痺れがあったが、日が上り切る前に行動を始めた。
奴らが何をしたかったのかわからないまま、車を回して装備を運び入れた。その際、港湾の警備隊の奴らと目があったが、何も声をかけられることはなかった。
見たことのない量のサツの車両に救急車、帰り道にバリケードは愚か、検問や規制線もなく、とにかく不気味でならなかった。
ミサに話を聞くと、謎の男は私たちとあまり変わらぬ年齢に見えたとのこと。マンパワーは外見からは想像もつかない程強く、触られた手は死人みたいに冷たかったとのこと。
唯一会敵したミサ曰く、只者ではないのは明白とのことだった。
「………」
メモデータを眺め、マダムは煙をひと吹きすると
「…坊っちゃん……何もんだぁ?」
天を仰ぎ、男が何者なのか頭を抱えました。火のついたタバコを灰皿へと乗せると、電話を取りどこかへダイヤルします。
「……私だ…調べて欲しいことがある。……そうだ、昨日あった港湾でのこと…それから龍崎のこと、警察の内部情報…何か動きがあれば欲しい。わかってる、サツの情報は良い値で買い取る、その代わり情報に色をつけて欲しい。それからわかることでいい、探してる子たちの行方も頼む。国内にいるはずだ」
相手はママがよく使っている情報屋でした。
「ただいま」
洋次郎が家に着くと、白猫がいつものように餌をくれる人間を待っていました。寒さを凌ぐ為か、家の影から出てくるのを見つけると、洋次郎は姿勢を低くして猫の頭を撫で、片手に新聞を持って声をかけました。
鍵を開けて中へ入ると、二階の寝室ではアラームがけたたましく鳴り響いていました。テーブルに新聞を投げ、部屋にかかった時計を見ると、既に朝7時を回っていました。
アラームを消しに二階へと上がり、下着を着替えてまた制服に袖を通し、スクールカバンに今日使う教本類を入れました。それが終わると、すぐに下へと降りて煮干しの袋を手に取り玄関を潜りました。
待っていましたと愛らしく鳴く白猫へ、玄関脇に置いていた皿へと煮干しを移し、頭を撫でて家内に戻りますが、煮干しの袋を戻してカバンを肩にかけると
「行ってきます」
朝食にかぶりつく猫と静かな家に告げて、洋次郎は家を出ました。
「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」
鈴の音の後に続くサナエさんの声色を聞いて、私は振り返ってしまう。
「いらっしゃいませ」
厨房で作業していたマスターも、来店する常連客へと挨拶をします。
無言で会釈するといつもの席へと着席、すぐにサナエさんがお冷を持っていきました。
「ご注文はお決まりですか?」
「えっと、オムレツトーストにブレンドを」
決まったメニューを頼みます。黒いパーカーを着た、いつもの彼でした。
「お待たせいたしました」
「! ありがとうございます」
カウンター席に座る私は、マスターへ感謝の言葉を添えて、注文したブレンドコーヒーをいただきます。店にも慣れ、ここの店のカフェモカの虜になったのは間違いなかった。けれど、コーヒーの苦さには未だに慣れない。我慢して喉を通すけれど、マスターとサナエさんは心配する様子で時々私を見ている。
これも…彼に意識してもらうため……彼が好きなものを私も好きになるため。
自分にそう言い聞かせてはいるものの、やはり大量の砂糖とミルクとは今日も隣人です。
彼へと視線を向けると、新聞を読んでいる横顔に見惚れてしまいます。あの隣…それか正面に私が座ったことを想像し、勝手に胸躍らせている自分がいました。
一緒に新聞を読む? 昨日見たテレビの話題になるかな? それとも時々読んでる本の話題になったり……休日の過ごし方だったり…デート……いやいやいや! あー…でも……
一瞬我に返ったけれど、もし自分の好意を受け入れてもらえるならと、真剣な眼差しの彼を見てる間、想像…もとい欲望が絶えることはありませんでした。
そんなお花畑のような甘い妄想をしていると、彼の席へコーヒーとオムレツサンドのトースト、紙袋に入れられたテイクアウトのホットドックが運ばれていきます。
「お待たせいたしました」
サナエさんがコーヒーとサンドイッチをテーブルに置き、紙袋を彼へと手渡します。
“ごゆっくりお過ごしください”というサナエさんの言葉に彼は会釈して、新聞を脇に置いて手を合わせ、小声で“いただきます”と言いました。
躊躇なくブラックコーヒーに手をつけて、オムレツサンドを豪快に食べ始めます。
「………」
それを見て、もし彼と家庭を持ったらと私は考え始め、恥ずかしくなってコーヒーを口へと運び
「アッチ…!」
見事に口の中を火傷しました。恐る恐る振りむくと、サンドイッチを頬張ったまま驚いた顔を、彼は私に向けていました。
死にたい……
体が熱を帯び、汗が噴き出てくるのが、自分でもわかるほどでした。
やがて彼は店をあとにして、私も残りのコーヒーを飲み切って店を出て、学校への道を歩いていきます。
「ハァ…」
何も進展できなかったと、学校の通学路に差し掛かって重いため息をつくと
「おうおう! そんなんじゃ幸せを逃しますよお嬢さん!」
後ろから声をかけられました。
「おはよう新倉さん…」
同じ学校に通う新倉 舞(ニイクラ マイ)さんが、元気に声をかけてきてくれます。
背丈は私と同じ160センチ前後、もしかすると私が少し大きいかもしれません。長い髪は一本の三つ編みにして結い上げていました。
女の子としては珍しく、男気のあるまっすぐな性格は、同学年の女子生徒から圧倒的な信頼、時折好意を抱かれていますが、男子生徒の好意の方が多い事は間違いありませんでした。鍛え上げられた細身の筋肉質の体は、女子が羨むほどで、お盛んな男子は我が物にしたいと考えるほどでした。
入学したての時は綺麗な黒髪を靡かせており、今でも時々ヘアセットをせずに学校へ来ることがありました。
髪を結い上げるようになった理由は、邪魔だからということだけで、“短くすればいいのでは?”や、“ショートでも似合う、いや見てみたい”という周囲の男子の意見もあり、一度は候補に挙げたそうですが、恵まれた彼女の友人と私がそれを止め、いまに至ります。
せっかく綺麗な黒髪なんだから、切ってしまうのは勿体無いと言ったのを、私はハッキリと覚えていました。
「? どうしたよ、朝からあんま元気ないじゃん」
「いや……まぁうん…」
新倉さんは私に声をかけるなり、心配そうに聞いてきてくれます。
「なんかあったら相談乗るよ? まぁ…ガサツな私が協力できることは限られてくるけどね……」
微笑みながら頬をポリポリかいて、彼女は申し訳なさそうに答えてくれます。不器用なりに彼女の優しさに少し笑ってしまい、私はなんでもないと笑って答えました。
「大丈夫。そんな心配しなくても、新倉さんは頼りになる人だって知ってるから。思い悩んだらその時は相談させて」
「ほ、本当!? 私ッ…頼りになる!?」
「え? ええもちろん…」
新倉さんの学校生活態度は優秀で、学校行事では率先して先頭に立ってくれるので頼もしくはありますが…張り切って行動に移すは言いものの、暴走列車になりがちな彼女に目を輝かせながら言われては、私も“ノー”と答えることはできませんでした。そして彼女から“恋愛”の二文字、または“恋”という文字が浮かばないなと思い
新倉さんには悪いけど……彼との事は内密にしておこう…
彼女には悪いですが、この悩みを打ち明けるのは、まだ先にしておきます。
「二人ともおはよ〜」
通学路を話しながら進んだ先の交差点で、小さな女の子と合流しました。
「はよー!」
「おはよう」
私は普通に、新倉さんは元気に挨拶を返します。
彼女は安堂 菫(アンドウ スミレ)さん。同じ高校の制服を着ていなければ、挨拶できてたかどうか怪しいくらい小さな女の子でした。
安堂さんがどれくらいのサイズかというと、背丈は私の胸辺り、140センチ前後という高校生からすると驚愕するほどの身長でした。私が彼女を視界から見失うときのほとんどは、恥ずかしながら自分の胸で隠している時がほとんどでした。
私と新倉さんとはクラスメイトで、クラスのみんなは親しみを込めて、安堂さんを“スーちゃん”と呼んでいました。私は可愛いという視点で見るのは失礼かもしれないと考え、スーちゃんとは呼ばずに苗字で呼んでいます。
いずれ名前で呼びたいと思っていましたが、それはまだ胸の内にしまっておきます。
新倉さんとは中学校からの知り合いのようで、安堂さんのことを唯一名前で呼び、時折愛称であるスーちゃんと呼んだりしていましたが、稀に彼女を“姫”と呼んでいました。理由は不明ですが、二人の特別な関係からなのだろうと、誰も聞こうとはしませんでした。
「相変わらずほっぺモチモチでいいなぁ〜、しかもスベスベ。いいわぁ〜」
「もうやめてって〜」
童顔で垂れ目、ショートヘアの毛先が少しはねた癖っ毛という可愛い極まりない安堂さん、新倉さんはいつものハグと共に、今日は頬へと手を伸ばしていました。
笑っている安堂さんを見て、私もやってみたいという気持ちをグッと堪え、天使のような彼女に手を伸ばす事はありませんでした。
「ほら…二人とも、早く行きましょう。遅刻するよ」
そんな空間の邪魔にならぬよう、私は二人と共に学校へと向かいました。
昼前。洋次郎とカワズは体育館にいました。
なぜかって? それは昼休み前の授業が体育だったからです。
内容はバレーボール、洋次郎とカワズのチームはただいま休憩中です。クラスのみんなは舞台に上がっていたり、体育館の壁に背を預けて観戦していましたが、二人は体育館2階のギャラリースペースで試合の行末を見守っているフリをして
「二人の事、何かわかった?」
「そんな多くはないが…わかっていることはいくつか」
昨晩の事で、また物騒な話をしていました。
洋次郎が聞くとカワズはそう切り出し、賑わう体育館で人に聞かれるとヤバイ会話を始めました。
「お前も薄々わかってると思うが…あの二人が“裏の人間”なのは調べなくてもわかる。バウンティハンターのライセンスカードと学生証は偽装、ワンチャンかけて学校に在籍記録がないか調べたが……それらしき人物はなかった。制服から絞り込んでもみたが…両方ハズレ、だが顔認証でどこかに写真がないか探してみたら…片方には保護記録と養子縁組をした記録があった」
「養子?」
「あぁ、十年も前の事件から出てきた」
「事件……」
洋次郎の疑問のように聞こえてくる言葉に、まぁ最後まで聞けよとカワズがいうと、話の続きを語りだします。
「出てきたのは黒髪ショートの方、名前は近藤リサ。旧名は米田(ヨネダ)。偽名ではなさそうだ」
ボートに乗ってた方かと、洋次郎はカワズに聞くように言います。
「そうだ。母親が病気、父親を事故で亡くしている、当時6歳。母方の妹夫婦に引き取られたらしい。そこまではよかった…」
「そこまでは?」
カワズの言葉に、洋次郎が疑問を投げました。
「問題はその後だ。引き取られた後に夫のDVが発覚。警察沙汰になって夫は現行犯逮捕された」
「? 引き取られた後にか? 以前からあったんじゃないのか?」
「その通りで…以前からはあったそうだ。だが……近藤リサを引き取った後からかなり過激になったらしい。通報当時の記録だと妻への暴力と強姦とだけ記されていた。けれどその実態は引き取られた近藤リサにまで及んだらしい」
「………つまりだ、通報当初…二人して襲われていたと?」
「そうみたいだ、最初は奥さんと旦那の二人だけだったらしい、あまりの酷さに近藤リサが止めに入ったんだが……旦那は気を失いかけていた奥さんの代わりに彼女へ手を出したとあった」
バレーボールで賑わう体育館内で、洋次郎は疑いたくなる話をカワズから聞きますが、止まることなく話を続けます。
「隙を見てなんとか通報、母子共にかなり酷い状況だったらしいが……救急隊の話だと奥さんの容態は深刻だったそうだ。旦那のDVに長年苦しめられてたらしい形跡がいくつも見つかり……心身ともに長期の休養が必要と診断を出している」
「……近藤リサの方は?」
洋次郎は知りたい彼女の情報を問います。
「母親よりも酷かったようだ……成人男性に襲われて、幼い体で孕まされる勢いだったそうだ……」
すると先ほどの話がまだ、氷山の一角ということを洋次郎は示されました。
「妻の聴取では通報したときだけしか彼女への性行為が確認できなかったらしいが…近藤リサ本人への聴取で少なくとも五回は確認したと記載があった。訳のわからないまま風呂場で2回…就寝時に2回……初めて子どもへの性行為を知ったのが通報した時だったそうだ……後からその事実を聞いた奥さんは、膝から崩れたとあった。奥さんへの暴行は近藤リサを引き取ってからさらに悪化したとも書かれていた」
それを聞いた洋次郎は、言葉を失いかけつつも、怒りが込み上げてきました。
「……胸糞悪い話だ…」
洋次郎のコメントに、カワズも同意見のようで、彼も小さく頷きました。
「そうだな……その後は警察病院で二人を保護、治療を行なったとあった。退院後は奥さん一人で近藤ミサの世話をしていたらしい。検察は卑劣極まりないとして夫に死刑を求刑したらしいが、判決は禁錮30年、当時ニュースにもなった事件だったから、妥当な判決ではあったのかもな……世論はそれを許してはいないようではあるからな…」
カワズからの情報開示が一区切りすると、男子バレー部所属の生徒の強烈なスパイクが床へと叩きつけられ、体育館では歓声が上がり、ボールは二人のいるギャラリーまで跳ね飛ばされてきました。それを何くわぬ顔でボールをコートへと返しました。
「……母親は娘が殺しをしていることは?」
「それが……どうやら“ノータッチ”みたいだ、中学高校では寮生活らしくてな。迷惑をかけまいと自分から受験を望んだらしい。不定期だが週末には顔を合わせているみたいだ、心配かけないようにっていう親想いの娘らしい」
「ん? そこまでわかってるのか? 一体誰の供述なんだそれ?」
「母親の証言だ。定期的に臨床心理士の治療を受けてるんだが、その時の会話で話題になったそうだ。間違いなく…お互いを心配する良い家族だよ……互いに深い心の傷を負ってなければ、今頃娘が殺しの道を歩むことはなかったかもしれないがな」
「……なるほど」
「おい話はまだ…」
カワズの話を聞き終わり、洋次郎は下へと降りようとギャラリーを歩き始めた頃、ちょうど試合が終わり、授業の終わるチャイムがなりました。
「げっ! ヤベッ!」
カワズは呑気に歩く洋次郎を追い抜いて、購買へと走っていきました。昼ごはん争奪戦の始まり始まり。
屋上にて。
洋次郎は教室で制服に着替えると、今朝喫茶店で買ったホットドックを持って屋上へと上がっていました。
今日は風がないので、一人で日向ぼっこをしつつ、カワズを待っていました。
「どっせぇい!」
そしてけたたましくカワズがドアを開けました。手には本日の戦利品を持ち、脇にいつものように洋次郎から受け取った新聞を持っています。
「…お疲れ、さっきの授業より動いたんじゃないの?」
「ハァ…ハァ…まぁな」
全力疾走で勝ち取った昼食は、いつもと変わらぬもので、今日は追い唐揚げは伺えませんが、代わりに手作りと伺えるカスタードタルトを抱えていました。
カワズが洋次郎の隣に座ると、荒くなった呼吸を整え、洋次郎は手を合わせてホットドックを食べ始め、カワズは呼吸を整えながら洋次郎へと新聞を差し出して話を始めます。
「……恐らく、今日の夕方にはマスコミに外国籍タンカーの立ち入りってことで報道されるだろうよ。密輸現場摘発ってな」
今日は話しながら食べるようで、カワズは白米の入ったケースとおかずの入った容器を開けながら話し始めます。
「他には?」
「密輸ルートは捜査中になるはずだ」
互いに口の中に食べ物をなくしてから、話を進めていきます。
「今日のやつには風俗営業法違反と誘拐で龍崎の摘発のことが載ってるが、店名と龍崎本人、関係者は非公開。子ども達は全員親元へ返された、捜索願の出されてた行方不明の被害者の発見に至ったとなれば、マスコミも情報を嗅ぎ回るだろうが……情報統制で身元は明かされることはないだろうな。火消しが大変なのは違いないが」
「人身売買の件は載ってなかったけど……何か弁明でもあるのか?」
「言う通り記載はないな。国際問題になるのは確かで、このことですでにICPOが動いてるから、下手に情報開示できないのさ」
早いなとコメントして、洋次郎は片手にホットドックを頬張りながら新聞をめくります。
「事件の詳細を保護者は聞いたのか?」
「開示できることは開示したみたいだ、自分の子が何をされたのかも聞いたと思う。他の被害者も同類の措置だそうだ」
カワズのいう他の被害者とは、洋次郎が助けたバニーガールや二条サオリのような未成年で、龍崎や店で強姦された女性も中には含まれていました。
「……保護者の反応が聞かなくてもわかるな…」
「そうだな……」
少し重くなった空気ですが、お構いなしに二人は昼食を口へと運んでいきます。
「あ、そうだ」
口元のご飯粒を取りながら、カワズが思い出したかのように口を開きました。
「名前が出てきたからいうが、二条さんとバニーガールからお礼が口頭だがあったみたいだぞ? “姉さん”が俺たち宛に連絡してきたよ」
カワズは携帯を取り出すと、画面にメッセージ内容を出して洋次郎へ渡します。
画面には、こう書かれていました。
お疲れ様です。お二人が助けた女性二名から、感謝の言葉を受け取りました。
“助けていただき、ありがとうございます”とのことです。
私からも、事件の早期解決に尽力くださり、ありがとうございました。
新倉
「ご丁寧にまぁ……」
二人の存在を特別知っている新倉さんだからこその内容で、普通ならありえないことでした。内容を読んだ洋次郎も、思わず口に嬉しさが出てしまいます。
「そういうの見ると……生てるって感じするよな…」
受け取った時、嬉しかったのでしょう。カワズは食べる手を止め、秋晴れの空を見上げて嬉しさに浸りながら言いました。
「あ。そうだ、そういや室長から言伝を頼まれてたんだ」
また何かを思い出したかのように、見上げた空から洋次郎へと視線と言葉を向けます。“また? 今度はなんだ?”と少し首を傾げながら、洋次郎は聞きます。
「今夜なんだが、女の件で動くことになった」
「そうか、わかった」
洋次郎が残りのホットドックに手をつけようとすると
「連日徹夜で疲れるが……まぁなんとかするさ」
カワズが何か引っ掛かることを言って、同じく残りの昼食に手をつけます。疑問に思った洋次郎は、“俺がいるから少しは休んで大丈夫だ”と言いましたが
「あぁそうそう、今回は俺の単独行動だ。お前は今夜休めとお達しだ」
思いもよらぬ事を知らされ、ホットドックを運ぼうとした手が止まりました。
時刻は既に夕方5時を回っていました。
「ただいま」
洋次郎は自宅の玄関で待っていた白猫の頭を撫でて、朝と同じ煮干しを皿によそいます。
それから制服を脱ぎ、黒いチノパンと長袖シャツに着替えて台所へ立ちました。
コンロに最大三合炊ける炊飯釜をセットして、お米を二合火にかけ始めました。
その隙に、特売で手に入れた肉厚で大きなベーコンを冷蔵庫から出し、油を敷いたフライパンへ。片面にしっかりと焼き色が付いたら裏返し、ベーコンの隣に卵を二つ落として目玉焼きを作り、頃合いになったら火を止めて蓋を被せ、余熱で中へと火を通します。
タイマーを見ると、お米が炊けるまであと少しでした。冷蔵庫に入れていた鍋を取り出し火にかけます、中身は前日に作った味噌汁。同じく前日の残りのサラダをテーブルにおくと、お米が炊き上がった事をタイマーが知らせてくれました。
本日の晩御飯はお米二合、肉厚ベーコンと目玉焼き、前日残りのサラダと味噌汁でした。
「いただきます」
手を合わせて、箸を手に取りました。
皿に移し替えたベーコンにブラックペッパーをかけ、目玉焼きには醤油を少し垂らしていただきます。炊き立てのお米とベーコンを口に運び、味噌汁を飲み、サラダを食べてと三角食べをしてたいらげました。
味噌汁は作り置きで多くあったので、残りはまた明日になります。
「ごちそうさまでした」
手を合わせ挨拶をすると、空いた皿をシンクへと置き、早々に洗い物をこなしました。
天『ソラ』を見上げて
「今晩も冷えそう…」
癖っ毛の小さな女の子が
「確かに……まだ10月なのに肌寒いね…」
隣にいる体型真反対の女の子に寒そうに語りかけ、その語りに素直に返しました。
「二人とも動かないからだよぉ、私とトレーニングする?」
その会話に、細身ながらも誰よりも体格の良い女の子が話しに加わります。
「わ、私は遠慮しとくよ……」
「左に同じ…ただでさえ生徒会の激務に追われてるのにスポーツする暇は……」
小柄の安堂菫が幼馴染の新倉舞に返すと、菫の隣で並んで歩く古川結衣も同意見で、菫を挟んで反対にいる舞に言いました。
「二人ともつれないなぁ…私は寂しいよ……」
並んで歩く二人を抱き寄せて言いますが、楽しそうに駅へと歩いていました。
現時刻は午後の7時。洋次郎とカワズが風俗店を潜入捜査し、タンカーと小型船から密輸品と人身売買された子ども達が救出された日から、既に二日経った週末金曜日でした。
なぜ日の暮れたこの時間に3人が外を歩いているか、それは全員が部活に所属しており、まだ帰宅途中だからという理由でした。
菫は吹奏楽部でコントラバスを弾き、舞は柔道部に所属していました。結衣は生徒会執行部の書記を務めており、翌週使う資料の整理をしていた為、この時間でした。
え? “菫は小柄なのに何で自分よりも大きなコントラバスを弾けてるかって?”それは吹部の闇と言っていいかもしれません。元々チェロ奏者の菫でしたが、学校にあるコントラバスを誰も弾きたがらず、小柄ながらも台座を使って弾ける事が判明すると、顧問の先生に膝をついて頼まれたからでした。身長の高いスレンダー女性顧問で、そこまでするならばと、断るに断れなかったのが理由です。
そして自分よりも身長が大きな人がいるにもかかわらず弾けないという、勝ち誇れるから、という菫の欲望でもありました。
「そういえば、一昨日のニュースだけど改めてすごかったんだね。電気屋さんのショーケースのテレビが続報で映してたよ。誘拐に関与したバーが摘発されたんだって」
舞が自分の姉が関わっている事など知らずに、二人へ話題を振ると、結衣がすぐに答えてくれます。
「それはそうだよ…確か、今までにない事例なんだっけ? それもここ最近の行方不明だった子たち全員関わってたってなれば……かなりの大事件だし、逮捕者の人数だって底知れないよ。それに密輸があんな大ぴらにされてたなんて誰も思わなかったんじゃないかな? それに……風ぞ…“夜のお店”で見つかればねぇ…」
結衣は風俗店を、聞き入れやすいように言い換えると、それに菫が続きます。
「怖い事件だよね……私たちとあまり歳が変わらない人たちまでお店にいたって……それも拐われてなんて…」
一行が駅前に着き、少し重い空気になってしまった事にどこか危機感を感じた舞が
「あ! そうだ! ここ寄ってかない!?」
雰囲気の良い喫茶店を指して言いました。そこは洋次郎行きつけの店で
「………」
結衣が一抹の期待を胸に通い始めたお店でした。舞の指す先を見ると、結衣は窓際の席に座る男へと視線を向け驚いていました。自分の顔が赤くなっていることも知らずに。
「え? 今から?」
固まる結衣の代わりに、菫が舞へと語りかけました。
「いいじゃん! 私は次の電車までまだあるし、お腹空いたし! 菫もいいでしょ!?」
「でも…寄り道は……」
菫は結衣を見て言うと
「あー…」
菫の言動を見て何かを察したかのように、舞も結衣へと視線を送ります。
学校の校則では原則、飲食店やコンビニの立ち寄りが禁止とされていました、事件に巻き込まれては遅いということでの校則でした。しかし守っている生徒はほとんどいません、ましてや生徒会役員がいる目の前ではと、菫は結衣を見たのでした。しかし
「…? 古川さん?」
「ん? 結衣っち?」
「へ? あ、え!? な、何…?」
二人に呼ばれて、やっと我に帰りました。
「古川さん、どうかしたの?」
「え!? いい、いやなんでも!」
菫の言葉に、結衣は焦って答えます。
「えっと……結衣っち…ここ寄ってかない?」
「え!? ちょっと舞ちゃん…!」
ダメ元で舞が提案すると、菫はまだ諦めてなかったのかと驚いて幼馴染を呼びました。
「え…? や……あの…」
菫はなんでもないと誤魔化そうとし、舞も彼女の助け舟に乗ろうとします。結衣はあちこちに目をやり、どうしようかと考えた結果
「……いいんじゃ…ない……かな…」
「「え?」」
スカートを握りながら、恥ずかしそうに視線を二人から逸らして言いました。
「え? え!? いいの!?」
舞が心底驚きつつも嬉しそうに聞き返し
「うえぇ!? ちょっ!?」
やばいんじゃないかと疑いの目を結衣へと向けましたが、小さく頷く結衣を二人はしっかりと見ました。
「やった! 行こ行こ! 行っちゃおう!」
舞は二人の腕を掴んで
「ええーッ!?」
「………」
無言の結衣と驚く菫と共に、私服姿の洋次郎のいる喫茶店へと入りました。
カランコロン
「あら、いらっしゃいませ。三名様でよろしいですか?」
サナエさんが入店する結衣を見て、嬉しそうに接客を始めます。
「はい! 三人です!」
元気に答えたのは舞でした。
「承知しました。それでは…奥の空いている席へどうぞ」
そういうと、サナエさんが通した席は、店内の窓際席と対面になる四人掛けのテーブル席、洋次郎と対面になる窓際の席でした。
「はーい」
ウキウキで答えた舞でしたが
「およ?」
自分を通り越していく結衣に少し驚きました。
店内は晩御飯の時間帯にもかかわらず、客は洋次郎と入店した三人以外いませんでした。
「今日はお友達とご一緒なのですね」
「えぇ…まぁ……」
サナエさんは案内しながら笑顔で言うと、結衣は少し気まずそうにそれに答えました。
「え? 今日は?」
「ん? どったの?」
菫はその言葉に気がついた様子でしたが、舞は気づいてはいない様子です。
結衣は早々に洋次郎と対面するように座り、その隣に菫が腰掛けます。
「ただいまお冷をお持ちしますね」
そう言ってサナエさんが厨房へと向かい、舞は二人に対面する形で座りました。
「さぁて、何食べようかなぁ〜♪」
ご機嫌な様子で舞はメニューを開き、三人で何を頼むか吟味しようとしていましたが
「……古川さん、もしかしてここに通ってるの?」
菫は勘づいてそう問うと、舞は目線をメニューではなく結衣へと向けました。
「……うん」
「どれくらい?」
「……つい最近……テスト期間が終わって…その時に……」
菫に聞かれ、小声で小さく結衣は答えました。
「へぇ、そうだったんだ。けどなんで?」
舞は疑問に思ったことをストレートに問いかけ、結衣にとっては、あまり聞かれたくないことでしたが
「こ、ここのお店…コーヒーが美味しくて……それに色々あるから……テスト期間の時は、ここで勉強したり…」
洋次郎をチラ見して結衣が答えると、舞は結衣の視線に気づかずに“へぇ〜”と答えますが、菫は視線に気づき、洋次郎の方を見て何か察したかのように口元を隠しました。
そんな中、サナエさんがお冷を持って現れました。
「お待たせいたしました、ご注文が決まりましたらボタンを押してお呼びください」
サナエさんがお冷を持ってくるのと入れ替えで、マスターが洋次郎へと淹れたてのコーヒーを提供します。洋次郎は朝と変わりなく、本を読んでいました。
「……私は決まってるから…二人が決まったら頼もう…」
結衣は二人にそういうと菫は内心
これ、本当に飲み食いしちゃう気だ…
今後が少し不安になる菫でしたが、思うほど学校生活への支障がないことに、のちに安堵することになるのでした。
「私はチョコレートパフェで!」
「本当に食べるんだ……じゃあ私は…カフェモカをお願いします」
「……コーヒーで…」
舞、菫、結衣の順でサナエさんが注文を受けると
「「え!?」」
舞と菫は驚いて思わず声を漏らします。
「はい、かしこまりました」
注文内容を復唱して、サナエさんは厨房へと戻っていきました。
驚いた声に反応して洋次郎は何事かと結衣の方を見ますが、結衣は驚いていた洋次郎へ謝罪を込めて会釈すると、菫も洋次郎へ会釈しながら、小声で“すみません”と言います。
それからは、サナエさんが食事を運んでくるまで、三人は他愛もない会話をしていました。結衣は舞を見るフリをして、一人本を読んでいる洋次郎へ視線を向けていました。
自然な形で見れているので、怪しまれることなく見ていましたが、学校で慣れ親しんだ黄色い目線に、流石の洋次郎も気づかざるを得ません。
「お待たせいたしました」
少しの談笑の後、サナエさんがチョコレートパフェを持って現れ、一度戻るとカフェモカ、コーヒーをトレイに乗せて現れました。
「ごゆっくりお過ごしください」
そうして伝票をテーブルに添えて戻っていきました。
「ん〜♡」
舞はパフェを頬張って嬉しそうにすると
「美味しい…」
菫は冷ましながら口へと運び一言漏らしました。
「ふー…ふー…」
結衣は三人の中で誰よりも猫舌でしたので、まだ飲めずにいました。
しかしコーヒーを冷ましながらも、洋次郎へと視線を向けています。
今日は私服……新鮮……
いえ、どちらかというと見惚れている様子でした。
着ていただろうロングコートを膝掛け代わりに置き、水色のワイシャツにいつもの黒パーカー、下は足のシルエットがよくわかるストレッチジーンズに伺えました。靴はローハーではなく“CONVERSE”とロゴの描かれたトリコロールのシューズで、割とカジュアルな服装で洋次郎は街に出ていました。
洋次郎は本から視線を逸らしませんが、注視している結衣には気づいていました。
「………見過ぎちゃ気づかれちゃうんじゃない?」
パフェを夢中で頬張る舞とは裏腹に、菫は結衣の向ける視線に気づいて、小声で隣の結衣へ語りかけました。
いいえ菫さん、洋次郎は気づいています。何だったら静かな店内です、聞き耳を立てていれば会話だって余裕に聞き取れてしまっています。
「え!? な、何が…?」
必死に誤魔化そうとしましたが、舞は誤魔化せても、菫はそうは行かない様子でした。
「確かにカッコイイ人だけど…あまり視線を向けてると勘違いされちゃうし…気になって読みたい本も読めないんじゃないかなぁ……」
「………」
結衣の気持ちを察して助言をする菫に言われ、勘違いされても良いと思った結衣でしたが、菫の言葉に少しシュンとなりました。
まだ湯気の立つ冷ましたコーヒーを口へと運び、どうしたら距離を詰められるかと考えましたが、今の自分には何もできないと考え、結衣は洋次郎へ視線を向けることをやめます。三人で時間を過ごすと、やがて舞と菫の電車の時刻が迫り、三人は店を後にすることにしました。
「ごちそうさまでした! パフェ美味しかったです!」
「ありがとうございます」
パフェを平らげた舞は、元気にサナエさんへと声をかけました。サナエさんも嬉しそうに応えると、菫もごちそうさまでしたと続き、結衣もさらに続きます。
「ありがとうございました、またのご利用をお待ちしております」
会計を済ませると、三人は店を後にしました。
「いやぁ…おいしかたぁ……ねぇ! また三人で寄ろうよ! あ! 何だったら…みんなでテスト勉強とかあそこでやんない!?」
「えぇ…」
乗り気な舞に少し引き気味な菫でした。結衣は特に何も答えず、二人の会話に耳を傾けていました。
「舞ちゃん…絶対飲み食いしたいだでしょ……全体勉強にならないって…」
「バレた?」
「バレバレだよぉ、おとなしく学校で居残りで勉強した方がいいってぇ…」
菫が舞へと助言すると
「それじゃあ結衣っちまたねーっ!」
「古川さん、また明日」
「うん、また明日…」
舞と菫は駅へ。結衣は二人を見送ると、自宅へと向かいました。
「………」
駅から離れていくと、結衣は一人悶々と考えながら歩いていました。歩き始めて数分、線路では電車が通過して、車内からの明かりが結衣を照らすように過ぎていきます。
この時、結衣はもう喫茶店へと行くのをやめようと考えていました。
菫ちゃんの言う通りだ…声をかけようとしてたけど……勇気が出ずに何もしないまま時間だけが過ぎてた……彼の邪魔になっちゃいけない……
ネガティブな考えに至り、一人寂しく帰り道を進んでいました。しかし段々と足が重くなり、目元がどんどん熱くなっているのがわかると、立ち止まって静かに涙を流しました。
……やっぱり嫌だ!
思い立った時には既に、来た道を駆けて戻っていました。
帰宅ラッシュで渋滞にハマった車を追い越し、駅前のターミナルを渡り、結衣は喫茶店へと戻りました。
「ハァ…ハァ…ハァ…」
窓際の席を見ると、まだそこに洋次郎が本を手に座っていました。
カランコロンと喫茶店のドアを開けると
「! いらっしゃいませ…」
結衣たちが使っていた席を片付けていたサナエさんが、少し驚いた様子で結衣を見ました。入り口で息を整え、洋次郎を見ると
「!」
「………」
洋次郎が本を閉じ、何くわぬ顔で結衣を見ていました。微笑んでいるようにも伺えます。
目が合い、固まって動かなくなってしまった結衣。すると洋次郎は、自分と対面になる椅子を指し、微笑みながら腰掛けるように促しました。
ゆっくりと、結衣は洋次郎へと歩み寄り
「…相席……よろしいですか…?」
鞄の肩掛けを両手で掴み、震える手に力を入れて声をかけると
「どうぞ」
洋次郎は頷いて答えました。
「彼女にカフェモカを。私はおかわりをお願いします」
「はい、ありがとうございます」
洋次郎の注文に、サナエさんは笑顔で答えました。既に結衣のお冷は、洋次郎と同じテーブルに置かれ、結衣は顔を真っ赤にしてお冷を飲み干します。
「………」
何を話せばいいか頭が真っ白になってしまった結衣。しかしあることに気がつきました。
あれ…? 私……カフェモカ好きって言ったっけ?
「いつも、朝ここでお会いますね。いつもカフェモカを飲んでいるので…もしかしたらと思いまして」
洋次郎はそう切り出しました。
「! は、はい…」
気づかれていたのかと、結衣は少し恥ずかしくなりました。同時に、自身を見てくれているのだなと感じました。
「カフェモカ、お嫌いでしたか?」
「い、いえ! むしろ…好き…です……」
初めて近くで聞いた洋次郎の声に耳を傾け、耳が幸せと思いながらも、心臓は破裂しそうな勢いで脈打ちました。
先ほどの回答を、“あなたが好きです”と言い換えれたらとも思いましたが、初めての会話ですので、焦りながらも、言葉選びは慎重にです。
「自己紹介がまだでしたね…私は洋次郎と言います」
「! ふ……古川結衣です…」
洋次郎が頭を下げ、結衣は驚きつつも、互いに自己紹介をしました。洋次郎の名前を聞いた結衣は
洋次郎さん…洋次郎さん…洋次郎さん…
脳裏に名前を刻むように頭で唱えていました。
「結衣さん……素敵なお名前ですね」
微笑む洋次郎に名前を呼ばれ、再び固まる結衣に
「どうしました?」
洋次郎、不審に感じたために聞かざるを得ませんでした。
「ああぁ! いいえなんにも!」
早口で答えた結衣に、洋次郎が思わず笑うと、サナエさんがカフェモカとおかわりのコーヒーを持って現れ、話を遮ってはいけないと早々に厨房へと戻っていきました。
「えっと……よ、洋次郎さんは…本が……お好きなんですか?」
不安になりながらも、言葉を絞り出して洋次郎へと語りかけました。
「まぁ…ほどほどです」
「……今…読まれている本は……」
「銀河鉄道の夜です」
「……なぜ、その本を選んだんですか…?」
「えっと…小さい頃読んだ本を読み返しているだけです、特に意味はありません」
相席する結衣と洋次郎。順調かと思われましたが、そこから会話が長続きするわけではありませんでした。結衣は緊張で固まり、洋次郎は何か聞かれると思って待っていました。
……べっぴんさんだったんだな…
待ちながらも、彼女へ視線をむけていた洋次郎。様々なところに目を向けていました。
長く手入れの行き届いたロングヘア、赤く染まっても人を惹きつける目鼻立ち、舞と菫よりも遥かに豊満な体型、生真面目な性格はどこかのお嬢様かと思われるほどでした。
実際、父親は大手企業の統括本部長でしたので、裕福な家系ではありました。
洋次郎がコーヒーを口に運ぶと、結衣も同様の仕草で口へとカフェモカを運びました。
何か…何か話題を……!
焦り出した結衣でしたが
「ハァ〜……」
「!」
静かに、それでいて力強く息をはいた洋次郎。穏やかにコーヒーを飲んでいる彼を、結衣は見惚れるように見入りました。
静かに、それでいて彼女にとって幸せな時間が流れた時でした。
「……そういえば、なぜ…今日は相席を?」
洋次郎が静かに、そして芯のある質問をしました。
「! あ…」
結衣自身、何も考えていませんでした。もう会えないと考えた時、体が勝手に動いていたというのが理由でした。彼の名前を知りたい……最後にもう一目だけ…彼を見たい…と、乙女の心が動いた結果でした。
そんなことを言えるわけもなく、弁明しようと口を動かしましたが、息が詰まりました。
「…何か……お話があったのでは?」
「………えっと…」
洋次郎のまっすぐ結衣を見る目を、彼女は直視できませんでした。
「……すいません、野暮なことを聞くものじゃありませんでしたね。忘れてください」
答えの見つからない結衣へ、洋次郎は助け舟を出しました。洋次郎は微笑みを向けますが、結衣は恥ずかしさのあまり目線を下へと向けました。
「そんな顔をしないでください、せっかくの可愛い顔が台無しですよ?」
「!」
“可愛い”という単語につられ、少し肩を震わせて洋次郎へと目を向けました。
テーブルに肘を突き、右頬に手をやり、恋する乙女を優雅に見ていた美貌の持ち主。それを見た結衣は
「……好きです…」
自白剤を盛られたかのように、本心が曝け出しました。
「ん? なんて?」
聞き間違い、または聞かれたくないことなのではと考えた洋次郎は、聞こえないフリをしました。予測は的中したのか
「え!? あ! な、なんでもありません……」
我に帰り、結衣は秒で誤魔化しました。
その後、二人の間に会話はなく、コーヒーとカフェモカを互いに飲み干しました。
「……お手洗いに行ってきます…」
結衣がそう告げて席を立ち、トイレへと姿を消すと、洋次郎は伝票を手に二人分の会計を済ませました。
「ありがとうございました」
会計を済ませ、サナエさんに会釈してお礼を言いました。さすがに二人のことを聞かないと決め込んでいたのか、二人の話題は出ないと思いましたが
「お客様、本日はいかがでしたか?」
好奇心を抑えきれなかたのか、サナエさんは輝く目を向けて聞いてきました。
「穏やかではあまりありませんでしたが……楽しい時間を過ごさせていただきました」
「左様でございますか、またのお越しをお待ちしております」
「はい、失礼します」
結衣にメッセージを残し、洋次郎は店をあとにしました。
「! あの……洋次郎さんは…」
トイレから出てきた結衣は、テーブルを片付けていたサナエさんに問いました。
「会計を済ませ、お帰りになりました」
「! わ、私も出ます!」
追いかけようと焦り出した結衣へと、サナエさんが引き止めました。
「お待ちください、お客様からメッセージを預かっております」
「え?」
折り畳まれたメモ用紙を渡され、中身を見ました。
相席のほど、ありがとうございました。
お礼としてはなんですが、料金の方を払わせていただきました。
ご不明な点などありましたら、ご連絡ください。
洋次郎
手紙の最後には、洋次郎の連絡先が書かれていました。
「……ありがとうございました、またきます」
「? はい、ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
深々と頭を下げるサナエさんをあとに、結衣は店を出ました。
連絡先……無償でゲット……!
喫茶店を出て、結衣の内情は鐘の音が鳴り響き、嬉しさのあまり足を慣らして喜んでいました。帰宅してからもそれはつづき、自室のベットへダイブすると、枕に顔を埋め、足をばたつかせて喜びをあらわにしました。
「ただいま」
洋次郎は、出迎える白猫に声をかけて玄関を潜りました。
既に夜の8時を回っていました、風呂に入り早々に歯を磨き、寝床へと体を預けました。
喫茶店で読んでいた本を手に、続きを読みます。
灯はベット隣にある棚のランプだけで、下にあるデジタル時計は、読み始めて1時間が経った10時を指していました。
洋次郎はそこから寝入ることなく過ごし、やがて本を置き、部屋の灯を消してカーテンを開けると、明け方まで星の輝く夜空を見て過ごしました。
何も変わらぬ朝が訪れ、いつものようにコーヒーを淹れると、新聞を取り、白猫へ餌を与え、朝の空気を浴びて新聞を読みながらコーヒーを片手に過ごしました。
やがて時間が来ると、焙煎香(バイセンカ)を纏い、洋次郎は変わらぬ日常へと身を投じて行きました。
焙煎香のスミス 笠野 緑(仮) @ace-r
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