感情フィルター

浜野アート

感情フィルター

T氏は、人間関係というものを非効率なものだと常々考えていた。怒り、喜び、悲しみ。そういった余計な感情のせいで、意思決定は鈍り、コミュニケーションには誤解が生じる。もっと滑らかで、合理的な世界は来ないものか。


ある日、彼のもとに小包が届いた。差出人の名はない。中には、耳に収まるほど小さな機械が一つと、一枚の説明書が入っていただけだった。


『感情フィルター:当機は会話に含まれるあらゆる感情成分をリアルタイムで除去し、純粋な論理情報のみを鼓膜に伝達します』


胡散臭いとは思ったが、試してみることにした。翌日、会社で部長がT氏のデスクを叩いて怒鳴った。

「おい、例の件はどうなっているんだ! 報告がないぞ!」


いつもなら身がすくむ場面だ。しかし、フィルターを通した声は、抑揚のない電子音声に変換されていた。

『案件B-7に関する進捗報告を要求。現時点でのデータ提出を要請』


T氏は冷静に事実だけを述べ、完璧に対応を終えた。クレームの電話は「製品仕様に関する問い合わせ」に、妻の不満は「家庭内予算の最適化に関する提案」になった。感情というノイズが消えた世界は、驚くほど快適で、すべてが円滑に進んだ。彼はついに、合理的な世界の住人となったのだ。


その夜、娘が彼に駆け寄ってきた。

「お父さん、見て! 今度の学芸会、私がお姫様の役になったの!」


満面の笑みだった。フィルターが、その言葉を即座に変換する。

『役職任命の事実報告。肯定的な反応を期待』


T氏は、娘の頭にそっと手を置き、事実を述べた。

「配役の決定、確認した。本番でセリフを忘れないよう、反復練習が推奨される」


娘の顔から、みるみる表情が消えていった。彼には、その変化の理由が分からなかった。自分は、娘の成功のために最も論理的な助言を与えたはずなのだ。


やがて、彼は周囲の人間を、音声と動作で情報を伝達する有機的な端末として認識するようになった。同僚の冗談は「意味不明な音声データ」、妻からの愛の言葉は「所属意識の継続を表明する定型句」に過ぎなくなった。


そんなある日、会社の基幹システムに致命的なエラーが発生した。社内はパニックに陥り、誰もが怒鳴り、泣き叫んでいた。その中で、T氏だけが平然としていた。阿鼻叫喚も、フィルターを通せば単なる「状況報告の集合体」に過ぎない。


彼は無数のエラー報告を冷静に整理し、的確な指示を飛ばし続けた。数時間後、システムは完璧に復旧した。


社長が彼の肩を掴み、涙ながらに言った。

「ありがとう、君は英雄だ! この会社を救ってくれた!」


フィルターが、その言葉を変換する。

『功績の承認。最大級の評価を付与』


周囲からは称賛と歓声が上がっている。昇進も約束された。論理的な思考がもたらした、完璧な成功だった。しかし、彼の心は、静かな湖面のように何の波も立たなかった。達成感も喜びも、彼にとっては除去すべき感情の一つでしかなかったからだ。


その称賛の輪の中心で、不意にフィルターのスイッチが切れた。途端に、人々の生々しい感情の濁流が、彼の鼓膜に叩きつけられた。それは、ひどく不快で、非効率で、理解不能なノイズの洪水だった。


T氏は、眉一つ動かさず、再びスイッチを入れた。彼の周囲は、再び完璧な静寂に包まれた。それこそが、彼がずっと求めていた、理想的な世界そのものであった。

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