悴むブルース

色原以都

第1話

※2018年ごろに書いた短編です。





手が悴む。


朝の通勤ラッシュ。

東京駅の構内は空気が曇っていて息苦しい。

天井が迫ってくるように感じるので、地下通路を歩くのが嫌いだ。


どんなに億劫でも、遠回りをしてでも、私は階段を登って外に出て地上を歩くと決めている。


何年経っても着心地の悪いスーツやビジネスシューズに締め付けられて身体中が悲鳴をあげていても。



もう四月だというのに、吐く息が白い。


曇ったレンズに閉鎖感を感じて眼鏡を外すと、今度は景色がぼんやりして取り留めのない不安に襲われる。



何も見えない。



思い入れのないネクタイの裏で乱雑に眼鏡のレンズを拭う。

少し上を向いて掛け直すと、背の高いビル群の上にくすんだ空が見えた。


空が高くて遠い。そして、狭い。




その先には何も、見えない。



丸の内北口の信号が変わって東京駅からの大きな人の波が動き出す。


私もその一部となって前に進もうとすると、急に肩を誰かに叩かれた気がした。




「…ですか?」




振り返ると、背の高い男が私のことを見下ろしていた。


堀が深く、肌が少し黒い。

日本人ではないのだろうか。



この辺りでは外国人に道を聞かれることは良くあることだ。

新幹線の乗り場、成田エクスプレスの乗り場、皇居の行き方、ホテルの行き方など、聞かれることは大体決まっている。


外国人に話しかけられたからと言って珍しいわけでも、そこから先に何か新しいものがある訳でもない。いつもそうだ。


私は今から会社に行かないといけないのだ。

どこかへ案内しろと言われたら嫌だと思い、なるべく面倒臭い様子が伝わるようにぶっきらぼうに返事をした。


「どうかしましたか?」



「これ、あなたの物ですか?」



男は黒い革の手袋を差し出して私に見せた。


私の物ではない。


私は、手袋を持っていない。

指先を覆ってしまうと感覚が鈍ってしまうような気がするからだ。


素手で常に何かに触っていないと...

せめて指先では何かを感じていないといけないような気がするのだ。

体の他の部分のように上から外面を着せて、他の人と同じようにしてしまいたくない。



私は悴んだ指先を軽く握った。


とは言え、何も感覚が無い。


いつから感覚が無いのか、思い出すことすら出来ない。




「いいえ、違います。私の物ではないです。」



私は素っ気なく答えて、そのまま歩き出した。



しかし、もう一度肩を叩かれた。



「これはあなたの物ですか?」



男は先ほど差し出して来た手袋を嵌めた手で、何か小さいものを差し出した。


小さなプラスチックの三角形の物。




「ピック…、それも私の物ではないです。失礼します。」



「そうでしょうね、これも僕の物です。」



男はくたびれた革のジャンパーのポケットにピックをしまいながら言った。


この男はふざけているのだろうか。


私は面倒に巻き込まれたくないので立ち去ろうとすると、今度は腕を掴まれた。




「えーと、じゃあこれは?これはあなたの物ではないですか?」




今度は黒いクラッチバックから何かメモのような物を出して来た。


メモにはC、D、E7などと書いてある。




「コード…?それもあなたのメモでしょう?何なんですかあなたは。私は今から会社に行かないといけないので急いでいます。」




「会社にはなぜ、行かないといけないのですか?」




なぜ?




「仕事があるからに決まってるでしょう。」



「なぜ、その仕事はやらないといけないと決まっているんですか?」



なぜ?


なぜとは何だ。この男は意味が分からない。



「僕はここに行きたいんです。場所、分かりますか?」



私が答えに詰まっていると、男はメモの裏側に何やら地図を書き始めた。



「ここをこう曲がって、こうです。このビルは分かりますか?上の方に時計が付いている建物の左です。その隣の路地に入って、右、その次は左…こう行って、こうです。僕はここに行きます。」



「そこまで鮮明に道を覚えているなら案内は要りませんね。失礼します。」



「案内が要らないなら、一人で来れますね?僕は今晩ここに居ます。この建物の地下2階です。」




男は手書きのめちゃくちゃな地図の最終地点を指差しながら言った。



「あなたの言っていることはさっきから意味が分かりません。さようなら。」



私が駆け出すと男は私のコートのポケットに無理矢理メモを押し込んだ。



「僕はそこに居ますから。」



背中の方から男の声が聞こえるが無視した。


私は仕事に行かなくてはならない。変な男に捕まったせいで、始業時間ギリギリになってしまいそうだ。


私は小走りをしながら、朝のミーティングの内容を頭の中で整理し始めた。








仕事を終えてオフィスのある建物から外に出ると、朝と変わらず息が白い。


もう夜の8時を過ぎている。


東京駅周辺で夕食を済ますか、家に帰るかどうしようか...




とりあえず携帯電話を確認しようとコートのポケットから取り出すと、紙切れが地面に落ちた。


朝、変な男から渡されたメモだ。




くしゃくしゃに丸まったメモ拾い、何気なく地図を見る。

男の言っていた場所はオフィスから程近い事が分かった。複雑な地図に見えるが、ここからだと一本隣の路地に入ってすぐのところだ。



駅とは反対側だが、すぐ近くなので何があるのかだけは確認してみようか...


あの怪しい男と、もしまた鉢合わせた時に何者なのかのヒントが少しでもあった方が対処しやすいかもしれない。




携帯電話でメールの確認をしながら、私はゆっくりと歩いた。


この路地は、昼時にランチをする場所を探して何度か通った事がある。

何かあっただろうか?



地図が指し示す場所の付近にはラーメン屋の提灯が見えた。その奥にも小さな飲み屋の看板が見える。


なんだ、ただの飲み屋なのか?




ラーメン屋の前に来ると、飲み屋との間に地下に繋がる暗くて細い階段が見えた。


私はドキッとした。




階段の前には目立たない小さな黒板が立て掛けてあり、チョークで文字が書いてある。


この階段が何なのか、このボードに何が書いてあるのか私には感覚的に理解した。




なぜ、気がつかなかった。


こんなに近くにあるのに。



なぜ、私は仕事の事を考えられたのだ。



なぜ、私は何も思い出す事が出来なかったのだ。

彼にヒントたくさんの貰ったのに。



私は、階段を駆け下りた。


B1まで下りたところで、手摺に触れる手が悴んで感覚が無いことに気がついた。


反射的に足が止まる。




どうする。


私は、なぜ急にここまで駆け下りたのだ。




階下から楽しそうな人の声と音が聞こえる。


何の音かは分かっている。




この音が懐かしいことに後悔をした。


なぜ、懐かしいと思うまで私は思い出さなかったんだ。


なぜ、立ち止まった。


なぜ、手がこんなに忘れてしまうまで気がつかなかった。





なぜ。


早く戻らなければ。




私はB2まで駆け下りた。


重い木の扉を悴んだ右手で押すと、強い光が全身を刺すように音楽が私にぶつかって来た。


部屋の奥にはフルートとピアノとジャズベースのトリオが楽しそうに演奏している。


朝の男は、ジャズベースを弾いている。


十年以上前に地元の福岡で一度セッションをしたことがあるのに、私は彼を思い出せなかった。




手前には丸いテーブルが8つあり、4脚ずつ囲んでいる椅子にはまばらに人が座っている。皆、静かに演奏を聴きながらお酒を飲んでいる。


常連だと一目で分かるような落ち着いた年配の男性が演奏の合間に拍手をすると、他の客達もつられて拍手をする。




私はバーテンダーに烏龍茶を頼んで1番後ろの空いているテーブルに腰掛けた。


初めて来る窓のない狭い部屋はタバコの煙で少し曇っている。


それでも私は窮屈に感じなかった。


それどころか、体に刺さる音楽が私を縛りつけるスーツをじわじわと解いて行くような感覚さえあった。


演奏が終わって、常連の男性が真っ先に拍手をしながら歓喜の声をあげると皆も大きめの拍手をした。




「これは、あなたの物ですか?」



小さなステージの奥から、ジャズベースの男が私の方に向かって言った。

男は自分のケースからギターを取り出して掲げた。




私は手を握りしめた。

手に感覚があるのかどうか分からない。



私が黙っていると、ジャズベースの男が左手にマイク、右手にギターを持って私の方に近付いて来た。



「今日のスペシャルゲストは、マサキ サエジマです!」



ジャズベースの男がそう言うと、常連の男がまた拍手をしながら歓喜の声をあげた。


私の名前をフルネームで覚えてくれていたのか。


私が驚いて固まっていると、有無を言わせず彼は私にギターを押し付けた。



ギターに触れた手に血が通う気がする。


…そうだと信じたい。




仕方なくステージに上がり、会釈をする。


適当に拍手をしているように見えた観客はこちらから見ると、全員が思ったよりも強い視線をステージに向けていた。




静かな室内にまずピアノの音が響く。


目を閉じると、広い景色が見えた。




続いてベースの低く深い音が心臓に強い衝撃を与える。


フルートが奏でるメロディーから鮮やかな色が見える。





私は上京して何が見たかったんだ。


何を見て来たんだ。


なぜ、見るのを辞めたのだ。


なぜ、感じるのを辞めたのだ。



考えれば考える程に息苦しく重くなる心の奥に、次から次にたたみ掛ける音楽が勝手に体に浸透して何も考えられなくなった。



いつの間にか、指が動いている。






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悴むブルース 色原以都 @Irohara_ito

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