第6話『砂上の空戦』
夜明けは白い。
掲示板の紙どおり、砂州の東に細い風が入っていた。
俺たちは帆を一本増やし、鯨袋を点検する。
「縫い目、持つ?」
ティノが指で押さえる。
「持たせる。戻ったら帆織りを雇う」
「人はどうする」
「縄を貸すと言った人足を当たる。今日は走って証明する」
砂州の入口で舵を切る。
〈風路(ウィンド・トレース)〉は薄い筋を一本だけ示した。
谷側が深い。浅い側に小さな渦がいくつもある。
「三つで切る。いち、に、今」
船が落ち、砂の縁をなめる。
鯨袋を半分だけ膨らませ、水平を保つ。
蒼針草の群落まで、往路は順調だった。
帰路で、空が鳴った。
光は見えない。音だけが先に来る。
砂の上を薄く滑る音。
ティノが顔を上げる。
「嫌な音」
「ああ。来た」
頭上を二枚の影が横切る。
帝国飛行兵。帆の形が細い。鉤縄を吊り、舳先に短い槍。
先頭の一機がこちらへ落ちてくる。
港の検問船とは違う。砂の上で掴みに来る動きだ。
「右舷、袋を一段」
「一段」
袋が膨らみ、船体がわずかに上がる。
鉤縄が空を切る音が耳元で高く鳴り、砂に突き刺さる。
砂が跳ねる。
もう一機が反対側から落ちてきた。
影が近い。
槍先が帆の端に触れる。
布が鳴り、縫い目が鳴く。
ティノが叫ぶ。
「裂ける」
「持たせる。端を押さえろ」
風の筋が揺れる。
〈風路〉は別の一本を示す。
谷側だ。深い。
落ちれば戻れない。
けれど、筋はそこにしかない。
「落とす。三つで」
「わかった」
「いち、に、今」
船が沈む。
砂の壁が片側に立つ。
頭上で鉤縄が交差する。
一つが帆に掠り、縫い目が悲鳴を上げた。
ティノが身を投げて端を押さえる。
その瞬間、槍の穂先が横から入り、ティノの肩をかすめた。
短い音。
布の上に赤が滲む。
ティノが息を詰める。
「大丈夫」
「腕を下げるな。袋は俺が見る」
舵を切り、袋の縄を取る。
風を食わせ、船首をわずかに上げる。
谷の底がすぐそこだ。
影がもう一度かぶさる。
槍が下りる前に、砂のうねりを踏む。
船が浮き、鉤縄が空を切る。
背後で合図の笛。
まだ二機。増える。
砂州の出口に、検問船の影。
挟まれる。
前も後ろも塞がる。
筋は細い。
一本だけ、門の方向へ走る風。
「港に入る。細門」
「昼じゃないよ」
「門は昼夜で約束が違う。白旗、青線。走れば間に合う」
前の検問船が横に広がる。
袋を膨らませ、舵を切る。
砂の上で滑る距離を稼ぐ。
飛行兵の一機が降り、鉤縄を投げる。
縄が舷側にかかる。
重みが船を引く。
俺は舵を切らない。
代わりに、砂縄を取り、鉤縄に絡める。
「ティノ、下」
「下」
船体をわずかに沈める。
砂縄が砂を噛む。
鉤縄の重みが砂に伝わり、相手の帆が失速する。
鉤が外れ、砂の上を引きずられる。
短い悲鳴。
飛行兵が高度を上げる。
追いは鈍る。
出口の検問船が目の前。
舳先に立つ男が拡声器で叫ぶ。
「停船」
「白旗、青線。公証院護送の記録あり」
サーシャの言い回しを真似て、短く返す。
港門の上で旗が揺れる。
黄色が白に変わり、細門の鎖が少し下りた。
「通せ」
門番台の声が確かに聞こえた。
俺は舵をまっすぐに戻す。
袋の風を抜く。
細門の影が近い。
砂の音が低くなり、石の匂いが強くなる。
船が細門を抜け、港内の静けさに落ちた。
桟橋に寄せながら、ティノの肩を見た。
切り傷は浅くない。
だが骨は無事だ。
港の薬師イーダが駆け寄り、無言で包帯を巻く。
「縫う。今は動かさないほうがいい」
「悪い」
「悪いのは槍のほう。あなたは動いた」
サーシャが走ってきた。
「飛行兵が動いたって?」
「二機。鉤縄と槍。出口で検問船」
「港務庁が外へ手を伸ばした。門は白旗で通した。記録は残した」
彼女の横顔は怒っていたが、声は静かだ。
「公証院に報せた。ミルダが来る」
ミルダは息を切らさずに現れた。
封緘庫から出した小冊子を机に置く。
「今朝、幽閉区から返答。侍女印で“風棚”の用語を確認。港務庁の私用回線と一致。帳簿の差押え記録と合わせ、審問の準備に入る」
彼女はティノの肩に視線を落とす。
「負傷の記録も残す。兵の槍は審問で重い」
「審問はいつ」
「早ければ明日。遅くても三日以内」
俺は頷き、看板を見た。
板の文字は風で少し黒くなった。
サーシャが言う。
「今日の夕刻から門の規制が厳しくなる。外は走るな。頼むから」
「走らない。倉の中で縄を継ぐ。帆を縫う。人を集める」
夕方、人足通りに行く。
昨日の男が待っていた。
「見たよ。飛ぶやつらに絡まれたってな。縄を二本貸す。代わりに、俺たちの仲間を一人雇え」
「条件は」
「日当三。縄の手入れは自分持ち。事故の時は看板が面倒を見る」
「看板は約束を守る」
男は笑い、がっしりと手を合わせた。
「じゃあ決まりだ。明日、朝に寄越す」
倉庫に戻ると、掲示板の下に新しい紙。
短い文。
《夜半、風が変わる。砂海の北に高い筋。兵は追えない》
差出人はない。
ティノが包帯を押さえたまま、目を細める。
「走らないんじゃなかった?」
「走らない。明日までは」
「明日は」
「走る。俺たちの路を作る」
夜、倉の灯りを落とす。
港の向こうで、兵の飛行帆が砂を切る音が一度だけ鳴った。
音は遠い。
風は層になる。
〈風路〉は、明日の朝に一本の筋を約束している。
俺は手の中の縄の手触りを確かめた。
滑らかではない。
でも、噛む。
看板の文字が、薄闇の中で浮いた。
家族は、同じ便を守る人たちだ。
明日も、守る。
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