第4話『砂環連絡帳』

朝の公証院は静かだった。

 窓口の鐘を一度鳴らすと、青の制服が奥から歩いてくる。

 ミルダが書類束を抱えて現れた。


「早いね」

「昨夜の件を伝える。時刻、人数、合図。副長官代理の名を聞いた」

 俺は紙を出す。簡単な図も描いた。窓の位置。箱の置き場。灯りの角度。

 ミルダは目でたどり、短くうなずく。

「保全申請を受ける。現場封印と帳簿の差押え。立会人は私と港門。検問隊は一名のみ」

 サーシャが肩を回す。

「出るよ。港門の中立を守るため、口は最低限にする」


 公証院の青、港門の灰、俺たち。列は小さい。

 北門の倉は石と木で組まれている。昼でも湿り気がある。

 倉番が顔を出す。

「今日は棚卸しで忙しい。公証の人は午後に」

「午前でやる」

 ミルダが短く返す。

「公証院封印入ります。鍵の提出を」

 倉番が渋い顔で腰の束を外す。

 鍵が三つ。鉄の匂い。


 扉を開けると、粉の匂い。麻袋が積まれている。

 昨夜と同じ机。箱の位置が少し違う。

 俺は床を見た。砂が薄く残っている。

 窓の下だけ、砂の筋が細い。

 〈風路〉を覗くと、わずかな流れがそこに集まっていた。


「窓の下。板が浮いてる」

 サーシャが膝をつく。

「ほんとだ。釘の頭が新しい」

 ミルダが封緘具を出し、板の縁を粉でなぞる。

「ここから動いたね。指で押さえて。板を少しだけ上げる。中は見ない」


 薄い隙間。冷たい空気。

 ミルダが細い鉤で、何かを引き寄せた。

 布に包まれた物が出る。手のひらほどの厚み。

 布の端に細い切れ込み。

 俺は息を吸った。

「砂環連絡帳だ」

 倉番がわずかに肩を動かす。

 ミルダはそれを見逃さない。

「現場で封緘。外形のみ確認」


 布を解くと、薄い羊皮が綴じられていた。

 表紙は無地。角が少し削れている。

 ミルダが天秤に乗せ、重さを記録する。

 端をめくる。中は見えない程度に。

 そこに細い切り込み。以前の紙と同じ。

「合致。封緘袋に入れる」

 透明の袋に帳簿が滑り込み、口が鉛で閉じられる。印が押される。

 封の中で紙が少し鳴った。


 その時、靴音。

 黒い制服の列が倉の前で止まる。

 先頭は副長官代理アルバだった。

「公証院。ここで何を」

「保全。通達の写しは君が持っているはず」

 ミルダが静かに答える。

 アルバは顎で合図して、黒衣の一人に紙を出させた。

 朱の印。

 ミルダは光学器具越しに一度見る。

「昨夜と同じ。縁の刻みが浅い」

 アルバは肩をすくめる。

「新しい印だ。問題はない」

「印だけじゃない。押しの癖が違う」


 空気が固くなる。

 サーシャが一歩、前。

「副長官代理。保全は公証院の権限だ。邪魔するなら、記録に残す」

 アルバは俺に視線を向けた。

「配達人。君はよく走る。だが踏み込みすぎると、足を取られる」

「足場は砂でも、約束は石にする」

 短く返す。

 アルバの口元がわずかに動いた。

「袋を開けろ。港務庁が確認する」

「開けない」

 ミルダの声は低い。

「開けるなら門の内側。立会人の前。紙で命じること」


 黒の列がわずかに揺れた。

 倉の光が狭くなる。

 サーシャの部下が静かに立ち位置を変える。

 剣の柄には触れない。

 ミルダが鈴を鳴らした。

 高い音が天井に回る。

「保全完了。封緘物は公証院に移送する」


 袋が俺の腕に渡る。

 思ったより軽い。

 中の紙が、少しだけ呼吸するみたいに鳴った。

「行く」

 俺が言うと、アルバが一歩、寄る。

「配達人。忠告だ。君の名はもう紙に載っている」

「昨夜、見た」

「なら早い。昼までに港務庁へ来い。来ないなら、港を出禁にする」

 サーシャが答える。

「出禁の通達は公証院にも出して。今は行く」


 列が動く。

 倉を出ると、砂の匂いが少し薄くなった。

 封緘袋は冷たいが、手の中で重みを持つ。

 公証院に戻ると、ミルダが袋を保全庫に入れ、記録を三枚書いた。

「ひとつは港門。ひとつは公証院。ひとつはあなたの控え」

 紙は薄い。だが、字は強い。

「昼に副長官代理が動く。出禁が来ても慌てない。封緘物の移動記録がある限り、港は私たちを追い出せない」


 サーシャが腕を組む。

「その間に、幽閉区からの返答は」

 ミルダが首を振る。

「今朝、院印で受領済み。返答はまだ」

 ふと、玄関のほうがざわつく。

 青の制服が封筒を運んできた。

 宛名は俺。

 封蝋は白。印は細い花。

 ミルダが顔を上げる。

「幽閉区の侍女印だ。珍しい」

 俺は受け取って、表だけ見た。

 中身は後にする。先にやることがある。


「ギルドに戻る。看板を守る。午後は荷受けだ」

 サーシャが笑った。

「強気だね」

「強気じゃない。やることが多い」


 桟橋に戻る途中、人足通りで足を止めた。

 昨日の男が手を振る。

「荷を回す。砂州の西。夕刻までに三便」

「受ける。帆を一枚借りたい」

「貸す。代わりに縄を二本返して」

「約束」


 倉庫に戻ると、掲示板の前で待つ影があった。

 灰の外套。帽子の縁。

 顔は見えない。

 差し出された紙は短かった。


《貸与船一隻。夜半、外海門を抜ける。白旗に青線では通せない。必要なら、別の旗を》


 俺は紙を折った。

「誰からだ」

 返事はない。

 影はすっと消える。

 ティノが眉を寄せる。

「別の旗って何」

「昔の約束。灰と白の斜め。検閲除外。今は死んだ旗」

「使えるの」

「使わない。死んだ旗は、死人を呼ぶ」


 昼。港務庁から使いが来た。

 出禁通達。

 紙は長い。

 理由は列記されている。

 戦時規則。港内秩序。保全の妨害。

 最後に、俺の名。

 ミルダの控えと印影を比べる。

「印の刻みが同じ。だが、押しが強い。昨日の癖はない」

 サーシャが肩をすくめる。

「押した人が変わったか、印を押す台を変えたか」

「どちらでもいい。控えはある。港務庁の紙は、門で止める」


 午後の便を回しながら、封筒を開いた。

 白い蝋が割れる。

 中の紙は小さい。

 文字は少ない。


《受け取った。門は固い。だが、風は通る。明日、三刻の鐘の後に門の小窓》


 侍女の字だ。

 風は通る。

 俺は封筒を閉じた。

 ティノが目で問う。

「行くの」

「行く。公証院の控えを持って。無茶はしない」


 夕方、港の空気が変わった。

 黒の制服が増え、合図の旗が早く動く。

 倉庫の前に、見慣れない顔が立った。

 濃い外套。胸に細い紋。

 帝都警護隊の副官だ。


「配達人レーン。出禁だ。港の外に出ろ」

 俺は控えの紙を見せる。

「公証院護送と保全の記録がある」

 副官は紙を眺め、顎で合図した。

 後ろの兵が半歩、引く。

「記録は尊重する。だが夜は別だ。日が落ちたら、門は閉じる」

「昼のうちに走る」

「走れるなら走れ。夜に外にいたら捕まえる」


 副官は去った。

 サーシャが息を吐く。

「きつくなってきた」

「きつくなる前に、動く」


 夜。

 港の灯りが少し減る。

 俺たちは帆と縄を積み、短い便を二つこなした。

 戻ると、公証院の青が一人、倉庫の前に立っていた。

 ミルダからの伝言だ。

 封筒は薄い。

 中身は一行。


《砂環連絡帳、第一葉に地名。幽閉区の裏門の通称。》


 紙の端に小さな番号。

 一。

 続きは袋の中だ。

 袋は保全庫。

 明日、門の小窓。

 侍女の字と、帳簿の一葉が、同じ場所を指している。


 ティノが小さく笑った。

「風が通る、だね」

「ああ。通す。細門で」


 看板が夜風で揺れた。

 砂の音はいつも通りだ。

 でも、港の息は少し速い。

 俺は縄を点検し、帆を畳んだ。

 手は冷たいが、動きは軽い。


 明日の三刻。

 門の小窓。

 封筒を一つ、箱を一つ、控えを三枚。

 約束を持って行く。

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