第3話『砂都ウィンドポート私設ギルド』
細門の内側は、石と鉄だけでできているみたいに静かだった。
格子窓の向こうに、灰色の衣の書記が立つ。白い札を受け取り、青い線を指でなぞる。
「公証院護送での持ち込み。便の名は」
「レーン。配達人」
「侍女宛の封は受ける。箱は保全のまま門外で管理。拒絶の記録を発行する」
木槌が二度、軽く鳴った。
小さな投函口が開き、侍女宛の封が内側へ吸い込まれる。
代わりに、牛革の札が戻ってきた。受領刻印と時刻。
サーシャが短く息をつく。
「一歩前進」
「十分だ」
俺は箱の鎖を確かめた。印は欠けていない。
門前拒絶の記録と受領刻印がそろえば、公証院の権限は増す。
港務庁が紙を積んでも、ここは崩れない。
それが分かっただけで、体が軽くなる。
「戻る。拠点を持つ」
俺が言うと、ティノが首をかしげた。
「どこに」
「桟橋の端。空き倉庫が一つあった」
「家賃、払えるの」
「払う。仕事を集める」
港を抜け、桟橋の端にある低い倉庫へ行く。
壁は砂でざらざら。扉は斜めに落ち、鍵は甘い。
屋根裏に風がたまる音がする。
俺は板を一枚持ち上げ、釘を探した。
「看板を出す」
ティノが笑う。
「名前は」
「砂海物流ギルド」
板に焼きごてで文字を入れる。荒いが読める。
出入り口の横に打ち付けると、少しだけ風の流れが変わった。
中は空っぽに近い。古い樽。壊れた帆。砂の溜まり。
机を引きずり出して拭く。壁に紐を張って、板を下げる。
掲示板だ。
紙を三枚貼る。
一、荷は開けない。
二、白旗に青線で走る。
三、危険加算は合意で決める。
サーシャが肩をすくめる。
「簡単」
「難しくすると、守られない」
「正論だね。港門に控えを出しておく。『私設の便が立った。公証院と協働』でいい」
「助かる」
昼を少し回った頃、最初の影が入口に立った。
白い外套。灰の刺繍。薬師の印章。
女は周囲を見て、ほっとした顔をした。
「市立診療院の薬師、イーダ。依頼を出したい」
「聞く」
イーダは紙を広げた。
必要物資は蒼針草二十斤。今は検問で旧街道が止められている。
砂洲の細道なら抜けられるが、風が読めないとひっくり返る。
「病院は在庫が三日。誰でもいいわけじゃない。あなた方なら行けると聞いた」
「誰から」
「公証官ミルダ。朝、港で会った」
ティノが目を丸くする。
「宣伝が早い」
「宣伝じゃない。必要な情報の共有」
俺は条件を書いた。
蒼針草二十斤。往復一日半。危険加算二割。支払いは半金先、半金納品。
イーダはうなずき、先の半金を机に置いた。小さな革袋。
「助かる」
「助かるのはこっち。三日で途切れると困るの」
契約の印を押していると、入口の外がざわついた。
若い男たちの声。笑いが混じる。
港の積み下ろし人足。肩に縄。腰に短刀。
先頭の男が看板を見て鼻で笑った。
「ギルドね。紙と板ときれいごとで、砂は抜けないよ」
サーシャが前に出そうになるのを目で止める。
俺は淡々と返した。
「紙と板で約束を止める。砂を抜けるのは、仕事だ」
男は肩をすくめ、指で数を作る。
「賭けよう。午後の風で細道を抜けられるなら、今夜から荷を回す。抜けられなきゃ、看板を外せ」
ティノが一歩踏み出す。
「抜けるよ」
「ティノ」
俺は短く名を呼んだ。
「言うだけで抜けたら、誰も苦労しない」
男はニヤリと笑って、指先をひねった。
「じゃ、港の酒場で見物してる。夕刻までに戻れよ」
イーダが小声で言った。
「意地悪されてるわけじゃない。あの人たちは仕事が欲しいだけ。あなた方が本当に走れるなら、次から協力してくれる」
「わかってる」
俺は帆の縫い目を指で押さえた。
「午後の筋なら、一本ある」
出航の準備は早い。
ティノが帆を見て、眉を寄せる。
「縫い目、弱い」
「端を二重にする。戻ったら帆織りを探す。人も足りない」
「人足通りで探す?」
「夕方に。今日は走って信頼を取る」
桟橋を離れる。
砂はまだ高くはないが、風が荒い。
〈風路〉を覗く。
砂洲の細道に、うっすらと細い筋。
右回りの渦。間に一つの結び。
「三つで切る。いち、に、今」
船が落ち、砂の縁をなめる。
砂洲は幅が狭い。片側は深い谷。もう片側は浅い。
舵を入れすぎると横転する。
ティノが袋の縄を握る。
「鯨袋、半分」
「半分」
袋が膨らみ、船体が水平を保つ。
潮のない海を渡るように、砂の筋を追う。
蒼針草は砂の影に生える。
陽が傾く前に刈り取り、根を湿らせて布にくるむ。
帰りは風が変わる。筋も変わる。
〈風路〉の地図は、頭の中で毎時書き換わる。
集中すると、砂の音が少し遠くなる。
戻ったのは夕刻。
港の酒場の前に、昼の男たちが集まっていた。
イーダが走り寄る。
「早い」
俺は袋を一つ渡した。
蒼針草の先端が青く光る。
彼女は指先で触れて、息をつく。
「良品。十分」
その場で半金の残りを支払うと、若い男たちの視線が変わった。
「やるじゃないか」
リーダー格の男が笑う。
「看板は残していい。明日、荷の回し方を話そう。俺たちの縄が使える」
「ありがとう」
「礼は酒でいい」
「酒は弱い」
男は笑って肩を叩いた。
「じゃ、薄いのにしな」
倉庫に戻ると、掲示板に紙が増えていた。
雑用の依頼。砂州の見張り。小荷物の配達。
その中に、一枚だけ質の違う紙があった。
薄い羊皮。端に細い切れ込み。
差出人欄は空白。宛先は「砂海物流ギルド」になっている。
サーシャが眉を寄せた。
「見覚えがある。港務庁の内部用紙」
俺は中身を読んだ。
短い文。
《夜半、北門の倉で帳簿が動く。名は砂環連絡帳。見つければ、風が変わる》
最後に、小さく丸印。公証院ではない。
ティノが囁く。
「罠、かも」
「罠でも、情報でも、帳簿は動く」
俺は紙を畳んだ。
「夜、見に行く。正面からは行かない」
サーシャが腕を組む。
「私の部下は出せない。港門の中立が崩れる」
「分かってる。様子を見るだけだ。証拠があるなら、公証院に渡す」
ミルダの顔が頭に浮かぶ。
印の縁。押しの圧。
動くたび、印影が残る。
夕食は簡単にした。干し肉と薄い酒。パンは砂を噛む。
扉に鍵をかけ、灯りを落とす。
港の音が遠くなる。
俺は箱の鎖に手を置いた。
幽閉区からの返答はまだない。けれど、受領の刻印はある。
それだけで、焦りは薄まる。
「レーン兄」
ティノが床に座り込んで言う。
「ギルドって、もうギルドかな」
「看板があって、約束があって、仕事がある。なら、ギルドだ」
「家族は」
「家族は、同じ便を守る人たちだ」
ティノは小さく笑った。
「じゃあ、家族だね」
夜の砂が鳴る。
港の北側、倉の影が長くなる。
俺たちはロープと小さな鉤と、薄い布だけを持った。
倉の屋根は低い。
風の筋を一つまたいで、影の影に入る。
窓の隙間から、灯りが漏れていた。
中に二人。机。箱。
指先ほどの鍵の音。
紙束の角が、灯りで白く浮いた。
札が小さく揺れる。
表紙に、墨の細い文字。
砂環連絡帳。
息を止める。
港の鈴が遠くで鳴る。
倉の扉が少しだけ動いた。
外の足音。
誰かが来る。
俺はティノの肩を軽く叩いた。
「退く」
「でも」
「見るだけだ。証拠は形より、流れで掴む」
影の中を戻る。
砂の音が近くなる。
倉の屋根を離れた瞬間、扉の金具が鳴った。
低い声。
名前がひとつ、風に流れた。
「アルバ」
副長官代理の名だ。
ティノが息を呑む。
「やっぱり絡んでる」
「決めつけない。紙は公証院に渡す。帳簿の動きと時刻。見た人の数」
俺は短くまとめた。
「明日、ミルダのところへ行く。朝一番で」
倉庫に戻ると、看板が夜風で鳴った。
砂は鳴り、風は層になる。
机の上に受領札を置く。刻印の丸が、灯りに沈む。
眠りは浅い。
それでも目を閉じれば、風の筋が見える。
線は一本ではない。港から幽閉区へ。倉から公証院へ。
砂海を越えて、まだ見ぬ誰かへ。
全部が細くつながる。
朝になれば、また走れる。
看板は残っている。
約束も残っている。
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