第2話『細門の事情』
石段を上がると、港の喧噪が一枚の扉で切れた。
公証院は冷たい空気と紙の匂いがする。壁には印章台と秤。窓は厚い硝子。
港門の小隊長が振り返る。
「私はサーシャ。港門の隊を預かっている。案内はするけど、規則は規則だ」
「助かる」
「助けられたと思うなら、言い方を柔らかく」
「心がける」
受付の女官が目を上げた。白旗に青線の旗布を見て、机の下から冊子を出す。
「郵便通行協定の適用ですね。立会人は三名まで。公証官、港門、検問隊の代表。異議はありますか」
「ない」
俺が答えると、サーシャが短くうなずいた。
重い扉が開く。中は天秤と光学器具の並ぶ検めの間。
灰色の髪をひとつに結った女が机の前に立つ。
「公証官ミルダ。書類を見せて」
俺は二通の封筒と私印照会の封書、それから問題の荷箱を置いた。
ミルダは順に秤にかけ、印影を拡大鏡にのせる。
「封蝋は蜂蠟と灰鉄の混合。輸送中の熱では溶けにくい。印影は港務庁長官の私印に一致。けれども」
彼女は印影の縁を細い針でなぞる。
「縁の刻みが浅い。去年の型より一段若い。新しい印に差し替えた可能性がある」
サーシャが眉を動かす。
「長官は先週まで旧型のはず」
「だから確認の封書がある」
俺は私印照会を押し出す。
「あなたの印影で出された集荷停止命令は真か。至急の返答を求む、という内容だ」
ミルダは小さく息をついた。
「戦時規則で検閲が強くなっている。あちらが通達一本で押し切る前に、公証院で先に紐を結ぶ。賢いやり方だ」
扉が外から叩かれた。金具が鳴る。
サーシャが短く顎で合図し、従兵が開ける。
「検問隊、監理官ドナート。港門での妨害に関する照会だ。積荷の即時検閲を求める」
濃い制服の男が入ってきた。視線が荷箱に吸いつく。
「戦時規則第十三条。港内に入った荷は検閲対象だ」
ミルダが机に手を置く。
「公証院立会いの下で、外形確認までは許す。封の内側は宛先の権限が要る」
「公証院の権限は知っている。だが封緘の確認も我々の任務だ」
ドナートが一歩踏み込む。
「協定第七条」
俺は口を開いた。
「白旗に青線の便は、公証院で保全手続き中、検閲を留保する。必要なら立会人を追加して外形だけ確認する。署名は港務庁もしている」
サーシャが続ける。
「立会人は私が代表する。監理官、ここで揉めれば、あなたの報告に傷がつく」
ドナートは唇をかすかに歪めた。
「外形確認に限る。五分で終わらせろ」
検めは機械的だ。重さ。寸法。封蝋の温度。
ミルダが最後に耳を箱に当てる。
「音はない。中で動くものはない」
次に封筒を検める。侍女宛の封に光学器具をかざすと、薄い紋が浮いた。
「帝都幽閉区の院印。これは公証院の副印がないと開けられない」
ドナートが顔をしかめる。
「幽閉区は今、外部との接触を制限している。宛先不着だ。ここで開ければ早い」
「宛先不着なら、返送の手続きが先」
ミルダが言い切る。
「ここで開ける権限はない。港務庁の通達があるなら、紙で出してもらう」
短い沈黙。
サーシャが視線で場をつないだ。
「監理官。あなたが紙を取りに行く間、公証院は保全を継続する。私が便の保全責任者として署名する」
ドナートは舌打ちを飲み込む。
「三十分だ。それまでに検閲許可が下りる」
彼らが出ていくと、部屋の温度が少し上がったように感じた。
ミルダが俺を見る。
「あなた、名は」
「レーン。私設の便を始めた」
「協定の条文を暗唱する配達人は珍しい。あなたは争いをしに来たのではないはず」
「届けに来た」
「なら、助言する。これをここに置いていくなら、検問隊は紙を持って戻る。戦時規則の後出しは強い。あなたが保全者として箱を持ち出し、公証院の護送で幽閉区の門前まで行くほうが早い。門で拒まれた記録があれば、開封の権限がこちらに移る」
サーシャが俺とミルダを見比べる。
「護送は私の判断で出せる。だが、幽閉区は近くない。道中で検問隊に詰まれる」
「それでも、こちらから動く」
俺は言った。
「置いて待つより、筋を通す」
ミルダが頷き、署名台を回す。
「では、公証院護送許可。保全責任者は配達人レーン。随行に港門小隊長サーシャ。侍女宛封筒と私印照会は封のまま携行。箱は鎖掛けを追加し、公証印で封じる」
鎖が箱に回され、丸い鉛が押し潰される。印が深く入る。
「これで乱暴には開けられない」
ティノが小声で言う。
「重さ、増えたね」
「重くしていい。軽い約束は、すぐ切れる」
扉の外がまたざわついた。足音が増える。
サーシャが短く言う。
「来た。早い」
従兵が扉を少し開ける。制服の列。先頭はさっきの監理官ではない。
肩章が重い。港務庁の紋章が金糸で縫われている。
「港務庁副長官代理、アルバ。緊急通達を持参した」
男は羊皮紙を掲げる。朱の印。
「戦時規則に基づき、幽閉区関連のすべての書状は港務庁が一括で預かる。公証院は協力せよ」
ミルダが受け取り、印影を光学器具にかける。
静かな間。
「印影は長官の私印に似ている。だが、縁の刻みが浅い」
アルバが笑わない笑みを浮かべる。
「新しい印に変えた。昨日付けだ」
「通知は公証院に来ていない」
「戦時だ。順番を省いた」
サーシャが一歩出た。
「副長官代理。あなたは協定の署名者の一人だ。順番を省けば、こちらも省く。白旗の便は公証院護送の下にある。あなたの通達は幽閉区門前で確認する」
空気が張る。
アルバの視線が俺に落ちる。
「配達人。君の名前は」
「レーン」
「君は私物を持ち込んだ。港務庁の命令に従わないなら、君ごと拘束する」
「協定第十条。保全中の便の主は、保全責任者とみなされ、拘束の対象外」
俺は紙を示した。
「ここに公証院の署名がある」
アルバは顎で部下を動かし、部屋を半周するように配置する。
ミルダが机の引き出しから鈴を出し、軽く鳴らした。高い音が天井に回る。
「公証院警護、入室。武器は下げて」
青い制服の警護が二人入ってきた。剣の柄に手は置かない。立つ位置だけで圧が変わる。
サーシャが短くまとめた。
「公証院の判断は出た。護送で門前に行く。副長官代理は通達の写しを持って同行する。検問隊の監理官も一名だけ。武器の抜刀はなし。いいね」
アルバは沈黙した。
次に、うなずいた。
「同行する」
準備は早い。箱に新しい封が増え、封筒は革のケースに入った。
公証院の青、港門の灰、港務庁の黒。三色が列になる。
扉の外で、砂の音が戻る。
階段を降りる前に、ミルダが俺の袖をつまむ。声は低い。
「もう一つ。長官の私印。私は疑っている。昨夜から誰かが使い方を変えた。印影の縁だけではない。押しの圧が違う」
「つまり、偽印か、持ち主が変わった」
「そう。門前で返答がなければ、公証院は緊急の開封を決める。あなたはそれを望むのか」
「望みは一つだ。届ける」
「なら、目を逸らさないこと」
外は眩しい。
砂の匂いに鉄と香料が混じる。
サーシャが前に立ち、隊列が動き出す。
ティノが肩の縄を握り直す。
「レーン兄。怖い?」
「怖い。けど、歩く」
港の端で角を曲がった瞬間、赤い煙がまた上がった。
別の検問船が門を目指している。
その煙は、港務庁の旗ではなかった。
帝都警護隊の色だ。
サーシャが短く言う。
「相手が変わる。厄介だね」
「変わっても、やることは同じ」
俺は箱に手を置いた。
脈はない。ただ、約束の重さだけがある。
列の先に、幽閉区へ続く石橋が見えた。
その手前で、帝都警護隊が横一列に並ぶ。
槍先は下がっている。だが、道はふさがれた。
先頭の士官が声を張る。
「帝都警護隊。幽閉区命により通行制限。配達人レーンを拘束する」
サーシャが一歩出て、肩章を指した。
「港門小隊長サーシャ。公証院護送の便だ。命令の紙を見せて」
士官は皮の筒から紙を抜き、見せる。
印は赤い。
ミルダが覗き込む。
「印影は正しい。だが文言が変だ」
彼女の指が一行を押さえる。
「配達人の名が、最初から印刷されている」
空気がもう一度張った。
俺は息を吸い、吐いた。
「読み違えはない。俺の名前だ」
サーシャが槍の列を真っ直ぐに見た。
「紙の真偽は門の内側で確かめる。ここで人を捕まえるなら、あなた方の報告に傷がつく」
士官の眼が細くなる。
帝都の紋章が風で揺れた。
「判断を保留する。護送列は橋の手前で待て」
士官は少しだけ道を空けた。
「使者を走らせる。十分だ」
十の数は、砂の上では長い。
俺は箱から手を離さなかった。
ティノが小さく笑う。
「落とすな、でしょ」
「ああ。落とさない」
石橋の向こうで鐘が鳴った。
幽閉区の門から、白地に細い青線の旗が一本、上がった。
公証院の合図だ。
サーシャが声を上げる。
「進む。細門の先で判定を受ける」
列が動く。
槍の列が割れる。
俺たちは、約束の重さを押して進んだ。
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