パテナ・シンタータの誤算 第7話
出勤時、朝から講義に出席する大学生と歩みをあわせようとした。それなのに、ぼくの過去と今日が噛み合わずに上手く歩幅があわせられない。ひとつひとつの記憶を集めてあわせてみても、恋に落ちた〝彼女〟との想い出と、いまの〝彼女〟との想いは、歩幅を補正しないと上手く歩けないのだ。
ぼくら人類は天の川銀河太陽系第三惑星〝地球〟を棄て、何百年も宇宙を漂った末にふたつの惑星へたどり着いて、それぞれの惑星に別れた。両惑星で相違する時間や価値観、感情すら超えて共有できるものだと信じて。ところが惑星間にあったのは民族問題や優生思想など、公開されている限り第三惑星時代にあった憎しみと変わらない。一番近しい他人である〝彼女〟とも分かりあおうとせず、同じ場所をぐるぐると歩いて抜け出せないというのは皮肉だ。
春を待てず、冬山を闇雲に歩き続ける。
リングワンデルングが人生にもある。
大学の敷地内を走る路面電車の停留所。毎朝、研究棟に向かうプラットホームから、あちら側の賑やかな学生達を眺めていた。大人のように殺気立っていないのは、どうしてなのか考えてしまう。目を閉じて腕を組み、うつらうつらとする学生や何人かでわいわいと話に花を咲かせる学生。ぼくも何年か前まで、あちら側だったのに……なんて、随分と老けた気分になる。
「朝から想い更け、黄昏れるなんて君らしい」
「ああ。パテナか。おはよう」
ぶかぶかのコートのポケットに手を入れたパテナは、いつから隣に立っていたのだろう。彼女は「今日はゆっくり仕事をしよう」と言って目を閉じた。
「この状況でミスが起これば、ぼくらやチームの評価も下がるしね」
「ちがう。わたしは君の心配をしている」
世間より何週間も早く、パテナの首にぐるぐると巻かれたマフラーに顔半分が埋められている。〝シューニャ〟では珍しくない寒さなのに【バベルの図書館計画チーム】の名物である〝冬のマトリョシカ〟が見れるということは、本格的な冬の訪れ、その始まりなんだろう……。一年のほとんどで厚着をしているが、彼女は暖かい国で育ったのだろうか。
「いいや。ただ、わたしが極端に寒がりなだけだが?」
〝悪戯〟の修正プログラムを走らせる研究棟まで歩きながら、彼女が呆れたように答えた。この星の季節のほとんどでパテナが、ぶかぶかなコートを着ている理由は星や出身地の関係ではない、ただの極端な寒がり。しかし、大袈裟なほどオーバーサイズなコートでは隙間が多く、保温に適さないのではないかという問いには「わたしの体が小さすぎた。お子様用なら嫌というほど売っているが、残念ながら趣味に合わない」という彼女を取り巻く厳しい現実を聞いてしまい、機嫌を損ねてしまう。
「どうやら、またやらかしたらしいね」
「そういう所だぞ、タタミ君。とだけ注意しておくよ」
ぼくは周りを見ているようで、見ていない。
「〝彼女〟に、ぼくの気持ちを話すことにしたよ」
「そうか。とだけ言っておく」
「パテナのお陰で目が覚めた」
「わたしは何もしていない。第一、恋や愛というものが何たるか……、」
わたしは知らない。
可視化された【バベルの図書館】が存在する仮想世界で、ぼくとパテナで歪な塔を見上げていた。〝悪戯〟に対処する修正プログラムが走り、処理の関係で立入禁止区域も多い。仕事の名目は監視業務だが、ただ塔を見上げることが仕事だとは。
「非常時ほど無難で確実な手段を取るべきだ」
「ぼくらが、ぼうっと塔を見上げているだけで安心感を得ている?」
「ああ。これは体制や効率の話じゃない」
本能で感じる恐怖感を落ち着かせるためにする、適切な行動。
【バベルの図書館計画】という旗の下で、人が辛い思いや悲しい思いをしないためのシステムを構築する。とても素敵な綺麗事ばかりが並べられた事業に携われて、大層、幸福だと思う……そういう風に、研究を深く掘り下げるために騙されてやったというのが、本心だ。しかし、実際に批判や攻撃をされると研究者やエンジニアの〝こころ〟は不安で仕方がない。
「人間は嘘を吐くのが好き。モノを作るのも好き。可能性への執着も異常」
「反対派の主張する【バベルの図書館】が計画以外の使われ方をする可能性……ね」
「ああ。確実に未来では、我々が描いている運用だけに限定しないはずだ」
「ぼくには最悪な使用例が見える。パテナ、君は?」
「そうだな……タタミ君が描く未来、以上じゃないか?」
目の前にそびえる歪な塔は、神が人間に理解させないように『真の美しさとは、このような形であるはずがない』と不恰好に見えるようにした。だが、可能性への異常な執着が〝真の美〟を見つけてしまったのだ。
三交代制の【バベルの図書館】を監視するだけの業務終え、帰宅し、軽い食事を終えた。シャワーを浴び、後は〝彼女〟との約束だけだ。ぼうっと何も考えず、ソファに座っていると珍しく飛行機の音が窓の外から入ってくる。この辺りは飛行禁止区域に指定されているから、飛べるのは緊急事態宣言下の軍用機か政府所属機だ。壁にかけたアナログの時計が、次の〝今〟に向かう音を鳴らし、ゆるやかな空調が快適だと思っていたアパートメントが、こんなにもうるさい。
寝室に置いたネットワークシステムから仮想世界にログインをした。
仮想空間を使う誰もが最初に訪れるホームポイントに、秘密のサーバーに入る扉を隠している。衆人環視、誰しもが知っている場所ほど秘密は隠しやすい。これは現実世界でも仮想世界でも同じだ。誰もが知っている柱の影に秘密の扉があり、そこを開くと初夏の風が肌を撫でたとユニットを介して脳を騙す。現実世界で忙しく会えない日が続いても、〝彼女〟との秘密の時間を過ごすためにここを構築した。ぼくらは一時期なかなか会うことも叶わなかったから、こそこそとここで恋人らしいことをしていた。惑星〝シューニャ〟にない偽物の初夏で、たくさんの偽物のキスをして、たくさんの本物の話をしていた。
「久しぶり……でもないんだよね」
「顔を合わせるのは久しぶりだよ」
「アバターなのに?」
「アバターでも」
〝彼女〟のアバターは、当時の〝彼女〟のまま、ぼくのアバターもまたあの日のままだ。
パテナ・シンタータの誤算
第七話、終わり。
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