第29話 感情の行方
大声で叫んだと同時に、ドアが大きな音を立てて蹴破られた。
「ユージェニー!」
私の名前を呼ぶ聞き慣れた声と鮮やかなピンク色の髪……。
クズ男が殴り飛ばされ、一瞬で目の前から消えた。
「アベル様……?」
「こんな所で何をしているんだ!」
見たこともないような怖い顔のアベル様が、私の肩を掴んで揺さぶる。
(誰のせいでこんな目に遭ったと思っているの……!)
「ううっ……ぐす……」
アベル様を責めたいのに、今までの恐怖で声が出ない。
「その頬は……アイツに殴られたのか? クソッ……怖かったよな……これを……」
そっとマントを掛けてくれた。
その温かさに安心したのか、涙が溢れて止まらない。
アベル様はじっと私の顔を見ていたが、深く息を吐くと、そっと私の背中に腕を回し、抱き締めた。
「泣くな……君が泣くと……」
(僕の心まで潰れそうになるんだ……どうして、こんなにも……)
いつもの冷静な声とは違って、どこか震えていた。
私は驚いて顔を上げたが、アベル様は目を逸らしそっと私の髪を撫でた。
「騒がしくなって来たな……ユージェニー、立てるかい?」
「ええ……」
私は言葉少なに震える声で答えた。
すると、ふわっと体が宙に浮いた。
「ア、アベル様! 自分で歩けます!」
「そんなに震えて……立つ気力もなさそうだよ。こういう時は素直に従った方が良い」
階下に降りると、あの分厚い眼鏡の支配人とナタリーが駆け寄ってきた。
「ジニー……ごめんなさい」
何も答えられない私の顔を、アベル様はマントでそっと隠した。
「ルディ、状況はどうだ?」
(ルディ? 聞いたことのある名前だわ)
「アベル、このまま計画を続行するのは無理だ。他の客たちは火事だと告げて追い出したが……」
「そうか……今回は撤退しよう。ナタリー、悪いがここに残って――」
「アベル様、任せて下さい。あの質の悪い令息が暴れてボヤになったと治安隊に突き出して、ボスにもそう報告します」
「危ない橋を渡らせてすまない」
「気にしないで下さい……私が一番、ボスに信頼されていますから」
「じゃあ、俺は、二階でたぶんボコボコにされてのびている……救いようのないバカ令息の記憶を消しておくよ」
アベル様とナタリーのやり取りから、私の知らない親密さを感じた。
「ルディ、僕はこのままユージェニーを連れて帰るよ。お前はマリーズ嬢を送ってくれ」
「ノエル卿が護衛してるから、マリーズ嬢に俺は必要ないと思うけどなぁ……」
その言葉にアベル様がギロッと睨むと、ルディは急いで駆けていった。
「アベル様……ジニーとはどういう関係ですか?」
「ジニー?」
アベル様は首を傾げたが、ナタリーの視線が私を向いていると分かり、呆れたように溜め息をついた。
「このレディは僕の妻だよ」
「つ、妻?」
ナタリーが激しく動揺しているのが分かる。
(アベル様が結婚したことを知らなかったのね。アベル様にとってナタリーは単なる浮気相手なのかしら……でも)
私を見るナタリーの目は、強い嫉妬と悲しみ……ナタリーがアベル様を慕っているのだと分かる。
(ノエルの言うように、やっぱり二人の間には客と娼婦以上の感情があるのかしら? ……分からない)
耳にドクンドクンと伝わるアベル様の鼓動の音が、私の心をさらに切なくさせた。
アベル様とナタリーの関係に心を乱された私は、クズ令息に引きずられるように二階へ向かう途中、一瞬、視界の端に映った人物の姿を、記憶の底に沈めてしまった。
◇
「あの馬車だな」
ルディはセクレの前に止まっている馬車の中から、装飾の美しい一台に近付いた。
コンコン。
「誰だ?」
馬車の中から聞き覚えのある男の声がした。
(護衛のノエル卿か……)
「ルディ・コルマンだ。アベルに頼まれて来たんだ。少し令嬢と話せるかい?」
馬車の扉が開くとノエル卿が馬車を下り、マリーズ嬢が中に入るようにすすめてきた。
「アベル様が……ユージェニーは無事なんですね?」
マリーズ嬢の声は落ち着いていたが、ドレスの裾の汚れを見れば、ユージェニー嬢のために必死に動いたと分かる。
「ええ、もう大丈夫ですよ。しかし、なぜこんなことを?」
「ユージェニーとアベル様の名誉のために言えませんわ。それに私は……ルディ様に怒っています!」
「どういう意味です? すべてを台無しにしておいて……こちらはユージェニー嬢の救出までしたのですよ」
「私たちはセクレの娼婦を買収して万全を期していました。それなのに……」
勘の良いルディはすぐにピンときた。
――要するに、アベルの行動を疑ったユージェニー嬢がマリーズ嬢を頼り、ノエル卿を使って娼婦を買収させ、セクレで浮気を確かめようとしたのだと。
(無鉄砲でじゃじゃ馬な令嬢たちだな……アベルが気の毒に思えてきたよ)
「申し訳ないけど、令嬢たちが思っているようなことは何もないよ。俺たちは娼婦と遊びたいわけじゃない」
「娼婦と遊びたい人が支配人の真似をするはずがないと、私にでも分かりますわ。理由は詮索しませんし、興味もありません。だからと言って、ユージェニーを巻き込んだことを許すつもりもありません!」
(マリーズ嬢はなかなか賢い女性のようだ)
「そうしてくれると助かります。まだ、終わっていないんでね。だけど、巻き込んだとは心外だな。むしろ、邪魔をされたのは俺たちの方ですよ」
マリーズ嬢は俺の顔をジッと見つめて、物言いたげな表情をしている。
「なんですか? 常識的な質問なら答えますよ」
「私がアベル様に助けを求めなければ、ルディ様はどうなさるおつもりでしたの?」
(また答えにくい質問を……)
「そうですねぇ、自分のしでかした事は自分で責任を取るべきかと」
「ということは……何があってもユージェニーを助けないつもりだったと?」
「そうなりますね」
次の瞬間、バチンと大きな音が響くほど、ルディはマリーズ嬢から強烈な平手打ちを食らった。
「騎士としての心は無いのですか? 軽蔑しますわ!」
突然のことに、さすがのルディも唖然とした。
「別れを切り出した時以外……レディに殴られたのは初めてだよ」
「呆れた。もうお会いすることもないでしょう。ノエル! ルディ様がお帰りになるわ」
馬車の扉が開き、ノエル卿に引きずられるように降ろされた。
道に座り込んだまま、馬車が遠のいて行くのをぼんやり見ていた。
「俺……恋に落ちちゃったかも」
久しぶりにルディの胸がドクンドクンと高鳴っていた。
◇
もうすぐ屋敷に着く。
馬車の中でアベル様は黙ったままで、私の方を見ようともしない。
(怒っているのね。でも……無茶をしたし迷惑も掛けたと思うけれど……浮気をしたアベル様が悪いのよ……)
そんな考えが、何度も頭の中を行ったり来たりしている。
「アベル様、ごめんなさい。それから今日のことはお父様には……」
「言えるわけがないでしょう」
まだアベル様は私を見ない。
屋敷に着くと、アベル様はマントを私に掛けたまま抱き上げ、使用人の目を避けるように寝室へ急いだ。
慌ててニナが後を追って来るのが、アベル様の肩越しに見える。
「お嬢様! 一体、何があったのですか!」
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