紛恋
織葉 黎旺
1
「私、なんか、人じゃないんだって」
言い含めるように小刻みに文節を区切って、幼馴染はそう告げた。
「そう診断されたの?」
「うん」
場所は国立病院の待合棟。幼馴染の健康診断に同行しただけだったのに、どうしてこんなことになったのか。
真っ白な頭に、彼女は追加情報を投下する。
「最近、そういうのが多いんだって。見た目も性格も変わらないし、本人も気づいてないのに、実は別の何かだった、なんて話」
「け、消されたりするのか……?」
「いや、そういうのはないらしいよ。どうしようもないからって」
不可逆だから、って。どこか諦観を孕んだ声音で、彼女は続けた。
「昔さ、川で溺れたことあるじゃん」
「ああ」
「あの日に雷が降ってきて、死んだんじゃないかと思われて……それでも私、帰ってきたらしいけど」
「……ああ」
「その時に私、人間じゃなくなったんだと思う」
つまり、今の彼女は泥の塊らしい。華奢な体も、笑うと見えるえくぼも、控えめな胸も──区別がつかないだけで、そのすべてが泥であり、本来のソレではないのだと。
『そんなの関係ないだろ、
と、臆面もなく言えればそれでよかったのだろうが、そうはできなかった。自分が自分でないことを泣き笑いで告白する幼馴染を見て、それをすぐに支えられるほど、俺は優しくなかった。
だってそれは、夏祭りを巡った時も、二人で花火を眺めたのも……そのあとに笑ってキスをした瞬間だって、人ではなかったのだと──そういうことなのだから。
「………………」
沈黙。俺が返したのは、それだけだった。何も言えない俺に、それでも弥那は顔を歪めた。
「笑っちゃうよね、そんなの! 私からしたら、生まれた時からずっと、一貫して同じ自分なのに。人じゃないって、何?」
自分じゃないって──何?
「──ごめん。こんなこと急に言われて、びっくりしたよね。検査はもう終わりみたいだから、今日のところは帰ろっか」
そのまま何も話さずに、病院の前で別れた。家の方角が変わらないのにそうすることが、ひどく後ろめたく思えた。
弥菜は幼馴染だ。俺たちの親同士の仲がよかったこともあり、赤ん坊の頃から大学に入った今までずっと一緒だった。
付き合い始めたのは、高校二年の夏のこと。軽い気持ちで始めた交際だったものの、幼馴染とはまた違う立場で同じ時間を共有しているうちに、気持ちは本物になって、これからの人生を共に歩むことを真剣に考え始めていた。
なのにその矢先に──
「クソ────」
家に帰ってから、沼人について調べた。元は哲学者の思考実験、ただの妄想だったにも関わらず、最近いくつかの実例が現れてしまったこと。
思考実験と違い、現実的には細胞単位でまったく同じなんてありえない。微かな違いで、沼人は発見される。
しかしあくまで人として扱うし、基本的な処理は変わらない。“疑わしきは罰せず”だ。
疑心暗鬼にならないためか、ほとんど公表はされていないし、沼人だからといって問題はない、とそういうことらしい。
どちらかといえば問題なのは──
「なんて言えばいいんだよ……」
LINEの画面を開いて、メッセージを打ちかけて、消して。そうしているうちに、時間は無為に過ぎていく。
「はあ……」
深くため息を吐く。理性ではわかっている。たとえ弥奈が沼人だろうが、彼女と過ごしてきた日々は嘘ではないし、俺が彼女に向ける想いも、彼女が俺に向ける想いも確かなモノであるということも。
でもやはり、胸の奥では騙されたような喪失感があった。自分が好きなのが、どちらの弥奈だったのかもわからなくなってしまった。
スマホの電源と、部屋の電気を同時に消す。すべてに、見なかったフリをした。起きればきっと元通りに戻っているのだと、そう決めつけて、逃げた。
*
夢を見た。
近所の公園。そこを、俺と小さい弥菜が駆け回っている。昔はよくこうして遊んだな、とぼんやりしていたら、躓いて転けた。
「もう、大丈夫?」
心配そうな声に顔を上げると、俺の前に二つの手があった。小さな手と大きな手、昔の弥菜と今の弥菜。
どちらの手を取るか迷って、俺は──
*
寝汗の嫌な感触と共に目を覚ました。夏場にも関わらず、肌が粟立っている。
カーテンを開けると、どんよりとした曇り空が広がっていて、何か嫌な予感がした。
スマホの通知を漁る。弥菜の母親から、昨日から弥菜と連絡が取れないが何か知らないか、とLINEがきていた。
「知らねえよ……ッ!」
一縷の望みにかけて電話を掛け、コール音から留守電に変わると同時に着替えを終え、家を飛び出す。ポツポツと雨が降り出す中、傘も持たずにあの場所に向かった。
「あ、柳也」
小雨が大雨に変わった頃。俺はようやく、あの川に辿り着いた。
彼女は、川べりでしゃがんでいた。疲れ顔で濁った川を眺めて、時折ちゃぷちゃぷと水を弄ぶ。
「よくわかったね」
「わかるさ、そのくらい……雨やばいし、危ないだろ。帰るぞ」
「………………」
俺の言葉に、しかし彼女は動かない。
「私ね、思い出したんだ。
夢想する。あの日の弥奈が、ゆっくりと川底へと沈んでいく。苦しさも生きたさも、何もかもが濁流に飲まれて。そして──
「落雷が起きた。身体はもう冷たくなり始めてたのに、温かい記憶だけが流れ込んできた。家族のこと。友達のこと。柳也のこと。私は、
だからって訳じゃないけど。そう言って、彼女は悲しそうに微笑んだ。
「奪っちゃったんだから、返したほうがいいんだろうなあ、って──」
「そんなわけ──」
続く言葉は、雷鳴にかき消された。川を挟んだすぐ近くの木に閃光が落ちる。衝撃に思わず転びかけて、そして、彼女の姿が消えたことに気づいた。
「ないだろ……ッ!」
躊躇いなく、川へと飛び込んだ。氾濫した川に飛び込んだらどうなるのかくらい、痛いほど知っている。それでも行かずにはいられなかった。
身体の向きさえグチャグチャになる流れの中で、必死に先を行く彼女へと手を伸ばす。
俺の姿を見て驚いた様子の彼女は、しかし悲しそうに首を振って、水の中へと消えた。
「馬鹿野郎……!」
大きく息を吸って、潜水する。目を開けることすらままならない流れの中、無理矢理身体を沈めて──昏き水底へと向かう。
泥へと手を伸ばす。
そして、冷たい指先に触れた。指を絡めて、そのまま握る。いつかの夏祭りを歩いたときと、変わらない感触。こんなに苦しいのに、それが少しおかしくって。
笑みが二つ、零れた。同時に、閃光と爆音が襲った。
*
「──也、柳也」
「…………ん」
「柳也っ!」
「ゲホッゲホッ!!」
強く抱きしめられた衝撃で、大きく咳き込む。ぐしょ濡れの弥菜が胸の中に飛び込んできたのだった。
「よかった……目を覚まして……!」
「おれ、生きてるのか……」
「死んだとでも思っちゃった?」
そう言って弥菜は、俺の手を取って指を絡める。感覚がぐちゃぐちゃになっているみたいで、なんだかよくわからなかった。
涙を滲ませ、弥菜は顔をくしゃりと歪めた。
「これで、
「そんなの関係ないだろ、弥菜は弥菜だ」
俺の言葉に、弥菜はきょとんとした表情をして。それから、「うん、そうだね」と頷く。
「帰ろっか」
「ああ」
雨の上がった川辺を、二人、手を繋いで歩く。陽だまりのような温もりの中、遠くの空には虹が浮かんでいた。
紛恋 織葉 黎旺 @kojisireo
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