第35話 不屈
――先に動き出したのは、白銀だった。
剣を正面に構え、小さく息を吸い込む。
「白き花よ、我が身に舞え。凍てつく華は盾となり、刃となる――咲け、《
それは詠唱だった。
シルフィの声が冷たい風に溶け、白い花弁が夜に散る。
やがてそれらは舞い戻り、彼女の身を包み込むように集まって――凍てつく鎧へと変わった。
白銀の輝きが剣の先にまで到達したとき、ジルレネは退屈そうに嗤った。
「クレスタ王家に伝わる最強の付与魔法、《
「……劣化かどうかなんて、見ただけで言い切れるものなの?」
《
クレスタ王国の王族にのみ許された、最上位の付与魔法。
炎傷を含むすべての状態異常を無効化し、空気すら凍てつかせる絶対零度の加護をもたらす。
対するシルフィの魔法――《
炎傷状態に至っては、むしろ弱点に変わる。
それでも彼女の放つ魔力の奔流は、周囲の風を飲み込みながら勢いを増していく。
「……白銀の血に偽りなし、ね。《黄金の血王》様が、毛嫌いするのも頷ける――けれど、私の敵ではないわ」
――私の風は、凍らないもの。
ジルレネは怪しげな笑みを浮かべたまま、地を蹴った。
狙いすました細剣が、真っすぐシルフィの首元に向かう。
風のような速さの一撃――しかし、それは凍てつく花弁の壁に阻まれ、速度を落とす。
シルフィは確かに目で追い、細剣を弾き返した。
反撃。
シルフィは一歩踏み込み、流れのままに剣を振るう。
「銀閃流――二の
受けて、流し、断つ。
相手の攻撃を受け流し、即座に反撃へ転じる剣技。
白銀の閃光が夜を裂き、ジルレネの腹部を狙った。
鋭い。速い。
だが、その刃は届かない。
ジルレネの身体が、微かに傾く。
それだけで、シルフィの攻撃は空を切った。
まるで、すでに軌道を知っていたかのように。
「なるほど。剣術の流れ、踏み込みの速度も……」
ジルレネは小さく呟く。
声に焦りはない。
観察者のように、淡々としていた。
「事前の調査通りね。氷華装――銀閃流の剣術に、独自の魔力操作を加えた応用型。完成度は高いけど……凡庸ね」
「観察してるつもり? そんな余裕、いつまで持つかな」
シルフィが足場を踏みしめる。
氷片が砕け、鋭い音を立てた。
腰を沈め、一気に間合いを詰める。
「銀閃流――一の
凍てついた花弁が舞い、冷気の刃となって空を裂く。
無駄のない一歩。
相手の思考より早く届く、純粋な速度の剣。
ジルレネは、動かない。
ただ、目だけでその軌跡を追っていた。
冷たい双眸がわずかに細まり、観察の記録を取るように呟く。
「……視線の揺れも癖も、予想通り――やっぱり、私の風は防げそうにないわね」
一閃。
シルフィの一撃は、瞬きよりも速く弾かれた。
金属が鳴り、氷片が砕け散る。
ジルレネの表情は変わらない。
その瞳には、戦いではなく調査結果だけが映っていた。
(……届かない)
胸の奥に、焦りが滲む。
頬を伝う冷たい汗が、氷よりも重く感じられた。
それでも、足を止めることはできない。
(ここであきらめたら、全部が終わる……!)
震える手で、シルフィは剣を握り直す。
その刃先が、微かな決意の光を宿した。
――その時。
さっきまでの熱が冷めきったような、低い声が響く。
「ねえ、どうしてマザーが、私に《擬貌》の二つ名を授けたと思う?」
「……おしゃべりはお終いなんじゃないの?」
「いいじゃない。どうせ――結果は変わらないんだから」
シルフィが答えずに息を整えていると、ジルレネはわずかに笑って、勝手に話を続けた。
「《擬貌》。見て、学び、擬え、貌る。この力で私は人にすら変化できる。でもね――この能力の本質は模倣じゃないの」
ジルレネの声が、冷たく鋭く、空気を裂く。
「見て、学ぶこと。それこそが《擬貌》の神髄」
「……何が言いたいの?」
「マザーに白銀の姫の確保を命じられた時、私は徹底的にあなたを調べ上げた。呼吸、魔力の流れ、魔法詠唱の癖。見て、学んで、対策を積み上げた。そして今、完璧に証明されたの。ありがとう――この勝負、私の勝ちよ」
「……っ」
その瞬間、空気が変わった。
夜気が歪み、熱を帯びる。
世界そのものが、ジルレネの呼吸に合わせて震え始めた。
脳の奥で、警鐘が鳴る。
肌が粟立ち、肺が焼けるような息苦しさが走る。
消えかけていた氷華装を張り直そうとした、その時――。
「紅き風よ、我が声を聴け。空を裂き、焦土を駆け抜ける炎となれ。凍える大地を焼き、眠る魂を呼び覚ませ――」
ジルレネの詠唱が終わると同時に、世界の温度が跳ね上がった。
空気が爆ぜ、風が燃える。
「――吹き荒れろ、《焔嵐(フレアゲイル)》!」
轟音とともに、紅蓮の熱風が路地を呑み込む。
空間が歪み、石畳が赤く融けていく。
炎と風――相反するはずの二つが、狂気じみた調和を奏でていた。
(熱い……っ)
暴れ狂う熱風が、シルフィを覆う白い花弁を焼き尽くしていく。
それどころか、飲み込むたびに熱が増していく。
息を吸うたび、喉の奥が焼ける。皮膚の下で、血が煮えるようだった。
肌が悲鳴を上げ、花弁が灰に変わる。
炎傷状態。半端な付与魔法が最も恐れる状態に今、陥ろうとしていた。
痛みが脳を支配する。
視界が揺れ、呼吸が浅くなる。
それでも、倒れられない。
歯を食いしばり、シルフィは震える体を剣で支えた。
視界の向こうで、ジルレネが満足げに口角を上げている。
「この魔法を覚えるのに――何か月もかかったのよ。風に炎を混ぜるなんて、本来は相反する術式。何度も、何度も、自分の体を焼きながら学んだわ。体験することが、一番学びになるから」
言葉のたびに、笑みが歪む。
喜びとも陶酔ともつかない声が、夜気を震わせた。
「でもね……良かった。努力が実った。これでマザーに――褒めてもらえるっ」
声が跳ねた。
その響きは、喜びというより、熱に浮かされた酔いのようだった。
シルフィは、遠のく意識を手繰り寄せるように舌を噛む。
鉄の味が口いっぱいに広がり、その痛みでかろうじて意識をつなぎ止めた。
だが、一瞬の冴えでは勝利への道を見いだせない。
熱風が再び体を包み込み、肌が焼け、皮膚の下の血が泡立つように痛む。
(どうすれば……どうすれば、いいの……?)
冷気は燃やされ、風は奪われ、呼吸すらも熱に飲み込まれる。
視界が赤く染まり、立っているのもやっとだった。
(このままじゃ――勝てない……っ)
足元がぐらつく。
それでも、剣だけは離さなかった。
自分の意志を繋ぎ止める、唯一の方法だから。
ただ時間だけが流れ、やがて紅蓮の熱風は静まり始めた。
焦げた空気の匂いが、夜に溶ける。
「凄いわ――これは予想外。よく意識を保っているわね?」
「当然……痛くも、かゆくもないわ」
「強がりもここまで来ると、哀れね」
ジルレネの声が、まるで遠くから響くように聞こえる。
視界の端で、世界がゆっくりと傾いていった。
焼け焦げた花弁が風に舞い、氷華装はもう形を保てない。
剣を支える手が震え、力が抜けていく。
(――立たなきゃ……)
そう思っても、体はもう動かない。
指一本さえ、言うことを聞かなかった。
月だけが、地に伏す少女を照らす。
その掌に、砕け落ちた氷片が一つ。
けれど、完全には溶けていなかった。
白銀の残滓が、かすかに光を宿している。
それは――まだ、終わっていないという証のように。
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