第25話 魂の告
――俺は、何のためにこの世界に転生した?
答えはない、と言い聞かせてきた。
だが原作を自分の手で壊して、ようやくわかった。
転生とは“罪”だ。
シナリオ通りに起こるイベントには関与しない。
すれ違う登場キャラにも、話しかけない。
――原作に、近付かない。
転生者は、本筋に関わらないで生きることを強いられる。
だが、それでさえ意味はなかった。
“シオン”という異物がこの世界に存在する時点で、もう原作は変わってしまっていたのだ。
普通なら、誰もその変化に気づかない。
自分がいないはずの世界なんて、観測できるはずがない。
だが、原作を知る俺だけは、気づいてしまう。
いるはずのキャラが消え、起こるはずのイベントが起こらない。
あるべき姿から遠のいていく世界を、ただ一人、観測できてしまう。
転生とは、“罪に囚われること”だ。
シオンは、扉の向こうへ消えていく背中を見つめながら、唇を噛みしめた。
ほんの少し遅れて、誰かの声が静寂を破った。
「対策を考えよう。シルフィ殿がいなくなったところで、魔族の脅威が完全に消えたわけではない」
数秒の沈黙。
その冷たく整った声音が、部屋の空気を一気に凍らせた。
徹底して抑えられた、温度の薄い――ジルの声だった。
シオンは目を伏せ、拳を握る。
正しい言葉のはずなのに、どうしようもなく心が乱れる。
なぜだか、たまらなく腹が立った。
――それでも、否定することはできない。
理性では、ジルの判断が正しいと分かっている。
感情で街は守れない。
だからこそ、シオンには反論する言葉がなかった。
「ええ――彼女の覚悟を無駄にしないためにも、この街を守り抜きましょう」
続くのは、ギルマスの声。
何かを抑え込むような、複雑な響きだった。
これもまた、反論の余地がない正しい言葉。
――シルフィは、この街を守るために外へ出た。
ならば、全力で街を守る。それが筋だ。
正論ばかりが並ぶ。
それなのに、胸のざわめきが止まらない。
理屈では納得している。
だが、心のどこかが激しく拒んでいた。
そのとき、静かな声が落ちた。
「……シオン殿は、どう思う?」
試すような声音と視線。
お前は、どうしたい?
――そう問われた気がして、胸の奥を掴まれるような感覚が走る。
「……分からない」
気づけば、口から零れていた。
その言葉は、自分でも驚くほど率直で、痛いほどの本音だった。
取り繕おうと顔を上げたその先で、ギルマスが痛ましげに顔を歪めていた。いつもは飄々として、時おりだけ真剣な眼差しを見せる――そんな大人の余裕をまとった人間だ。
だが今の彼は違った。
その表情には、確かに苦悩するひとりの人間の姿があった。
(苦しいのは――俺だけじゃない)
ジルとギルマス。
彼らは決して、気味が悪いほど理性的な機械なんかじゃない。
燃え上がる感情を、理性という鎖で無理やり封じ込めている――ただの人間だ。
(俺も、同じだ。違うのは――目を逸らしているかどうか)
シルフィの犠牲。
それがこの街を救う唯一の方法だと、二人は正面から向き合っている。
(……俺には、できない)
原作と違って、成長の機会を奪われたヒロイン。
孤独のまま街を去り、主人公がいないまま、魔族に喰い潰されていく。
止めなければ。
一緒に戦わなければ。
――それでも、どうすればいいか分からない。
思考が空転する。
脳が焼けるように熱く、それでいて体の芯は凍りついたままだ。
執務室を包む沈黙は、重たく、息苦しい。
だからこそ、その静寂を破る足音が、やけに鮮明に響いた。
――扉の外。
誰かが、迷いのない歩調でこちらへ向かってきている。
その足音は、ためらいもなく扉を叩き、勢いのまま押し開けた。
眩しい昼の光とともに、荒っぽい声が飛び込んでくる。
「はっ、辛気くせぇな、ここは」
「ドラン……?」
ジル、ギルマス、そしてシオン。
三人の顔を、舐めまわすように眺めてから――ドランは大きく溜息を吐いた。
その一拍が、淀んだ空気を吹き飛ばす。
沈んでいた場の温度が、一瞬で現実へと引き戻された。
誰もが言葉を失い、視線をドランに集中させる。
何をしでかすのか、誰も読めない――そんな緊張が、部屋の隅々にまで張り詰めた。
「飢狼……鏡でも持ってきてやろうか?」
「……何だと?」
「お前の顔だよ。ミジンコみてぇに覇気がねぇ」
ドランは鼻で笑い、顎をしゃくる。
「まるで――餌を求めて飼い主に縋る子犬だ。子犬」
静寂が弾けるように、場の空気が揺れた。
シオンは、息を詰まらせたままドランを睨み返す。
そんな中、次に声を出したのは、眉間にしわを寄せたギルマスだった。
「ドラン……貴方は状況がわかっていない」
低く抑えた声に、苦い響きが混じる。
「今は軽々しく口を出す時じゃない」
ギルマスの低い声が、空気を震わせた。
重圧を伴う威圧。
この場にいる全員が息を呑む。
だが、ドランは怯むどころか、またもや鼻で笑った。
「はっ、お前もだよ、シトレー。ギルドマスターなんて肩書きに縛られて――本当に大事なもんを忘れちまってる」
「……何が言いたいんです」
「飢狼もシトレーも、いつからそんな死んだ目をしてやがる。ジルは……まぁ、相変わらず何考えてるか分からねぇが、お前ら二人ははっきりしてる。あの銀髪の娘の犠牲を――受け入れようとしてるんだろ?」
「……ッ」
その瞬間、時が止まった気がした。
音も、息も、消える。
ドランの言葉は、真っすぐで粗野で――誰よりも正しかった。
その一撃が、心の奥深くを抉る。
誰も言葉を出せない。
息を呑む音さえ、重たい空気に溶け込んでいく。
そんな中、シオンは気づけば拳を握り締めていた。
爪が皮膚に食い込むほど強く。
全身の血が、音を立てて逆流していく気がした。
胸の奥で、何かが弾ける。
「じゃあ――」
声が、震えた。
その震えを押し殺すように、奥歯を噛みしめる。
「――どうしろって言うんだよォッ!」
理性の欠片もない絶叫。
重たい空気を引き裂いて、シオンの激情だけが響き渡った。
焚きつけたドランでさえ、息を呑む。
「……シオン君、落ち着き――」
「落ち着いてられるかよッ!」
椅子を蹴り飛ばすような声だった。
喉が焼ける。
「俺だって……俺だって……ッ!」
言葉が続かない。
何を言いたいのか、自分でも分からない。
苛立ち、情けなさ、怒り、焦燥――すべてが絡み合って、頭の中で暴れている。
息を吐くたび、心が軋む音がした。
それでも、止まらなかった。
「助けたいんだよ……!」
絞り出した声は、震えていた。
大好きなゲーム。
大好きなシナリオ。
そして、大好きなキャラクターたち。
――その中でも、彼女は特別だった。
シルフィというキャラは、とても魅力的だった。
いや、もうキャラなんかじゃない。
実際に会って、言葉を交わして、ちょっとの時間、笑い合って――これがメインヒロインだと、強く惹かれた。
このままでいいわけがない。
他人に言われるまでもなく、自分が一番わかっている。
それでも――。
「どうすればいいか分からないんだよッ!」
叫んでも叫んでも、答えは出ない。
罪悪感と無力感だけが、胸の中でぶつかり合っていた。
「……それでいいんだよ」
ドランの声は低く、穏やかだった。
「どうすりゃいいか分かんねえ――だから悩むんだよ。さっきまでのお前は、悩むことすらやめて、最初から諦めてた。そうだろ?」
ぶっきらぼうな言葉が、なぜか今は優しく心に沈む。
「いいじゃねえか。悩めよ、いくらでも悩め。前に進めんのは、悩んで、それでも足を動かした奴だけだ」
その声に、飾りも理屈もなかった。
ただ、何度も地に倒れて、それでも立ち上がってきた男の重みだけがあった。
ドランの言葉は止まらない。
次に、視線をギルマスとジルへと向け、口角をわずかに吊り上げた。
「――きっと言うんだろ? “それでも街の命が”ってさ」
静かな笑いだった。
だが、その目だけは一片も笑っていない。
「お前らは、何か勘違いしてる。一人の犠牲で街を守れたとして――じゃあ次はどうする?」
短く区切るたびに、空気が震える。
「明日、明後日、魔族がまた来たら? また誰かを犠牲にすんのか? その次も、そのまた次も……ずっとか?」
ギルマスの指先が、かすかに震えた。
「そんなもん、守ってるようで――ただ壊してるだけだろうが」
頭の奥に深く根を張っていた何かが、音を立てて崩れた。
灰になって、散っていく。
――守っているつもりで、壊していた。
その言葉が、驚くほど胸に馴染む。
原作を守る。
その大義名分のもと、現実から目を逸らして、結果的にシナリオを歪めたのは――他でもない、自分自身だ。
守りたいものがあるなら、祈るんじゃない。
立って、歩いて、掴みにいくしかない。
どうして、今までそんな当たり前のことに気づけなかったんだろう。
シオンは静かに息を吸い、ゆっくりと顔を上げた。
胸の奥に残っていた迷いが、形を変えていく。
「……追いかける」
椅子を押しのけて立ち上がる。
その瞳は澄みきっていて、一寸の濁りもなかった。
視線の先には、閉ざされた扉。
だが今は、もう怖くなかった。
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