第24話 涙の本音
カーテンの隙間から、昼の光が差し込んでいた。
白いシーツに落ちた輝きが、やけにまぶしい。
こんなにも穏やかなのに――胸の奥は、ひどく騒がしかった。
荷をまとめる手が、何度も止まる。
入れるものなんて、ほとんどない。
衣服、魔道具、少しの金貨。
それだけなのに、何かを置き忘れている気がしてならなかった。
窓の外から、子どもたちの笑い声が聞こえる。
焼き菓子の香ばしい匂いが風に乗って流れてくる。
その匂いだけで、胸が締めつけられた。
(私がまた、壊すかもしれない)
唇を噛んで、鞄の口を強く縛った。
革紐が、音を立てて食い込む。
「……これで、いい」
呟いた声が、少し震えた。
宿の部屋を見回す。
何の変哲もない木の壁と、丸いテーブルと、安い鏡。
それなのに、なぜか離れるのが怖かった。
(――もう、戻れない)
手を伸ばして、扉の取っ手を握る。
指先が、冷たくなっていた。
昨晩、魔族との交戦。
一対一での戦いは、初めてだった。
自分の刃は、最後まで届かなかった。
魔族の瞳に映っていたのは、恐怖でも憎悪でもなく――愉悦。
その笑みが、まだ焼きついて離れない。
あのとき、シオンが来なければ、自分は確実に死んでいた。
それを思い出すたび、胸の奥がざらつく。
(……助けられてばかりじゃ、駄目なのに)
誰かの力に守られて生き延びることが、誰かの犠牲の上に立つことが、
こんなにも苦しいなんて――とっくにわかっていたはずなのに。
結局、自分はまた、誰かに守られて。誰も守れなくて。
あの村も、ジャイルも。
自分がいたせいで――。
喉の奥が熱くなり、思わず目を閉じた。
それでも涙は落ちなかった。
「泣きたいのは、私じゃない」
自分に言い聞かせるように、静かに呟く。
荷をまとめる。
破れた外套を鞄に詰め、剣の刃先を布で軽く拭った。
必要なものはもう何もない――そう言い聞かせて、部屋の扉を押し開ける。
薄暗い廊下を抜け、静かに階段を下りる。
外へ出ると、昼の光が石畳を照らしていた。
焼きたてのパンの匂いが、風に混じって流れてくる。
その瞬間――。
「おはようシルフィちゃん、悲しそうな顔をしてどうしたんだい? 今日のパンは出来がいいんだ! きっと元気が出るよ!」
「――っ」
シルフィの足を止めたのは、パン屋の店主だった。
屋台に並べられた出来立てのパンは、道行く人々の食欲を掻き立て、視線を引き付ける。
それは、シルフィも同じだった。
魔物と暑さが命を奪う死の砂漠を越えて、ようやくたどり着いたサリアの街。腹をすかせたシルフィに声をかけてくれたのが、このパン屋の女性だった。
あの時と同じ、太陽のような笑顔。
その輝きが、シルフィの心を焼き焦がす。
抑え込んでいた感情が、音を立てて崩れた。
胸の奥から、何かがこみ上げる。
視界が滲み、世界がぼやけた。
「っ!? シルフィちゃん、本当にどうしたんだい!?」
パン屋の声が、遠くで響いた。
慌てた手が差し出される。
その温もりを見た瞬間、シルフィは思わず一歩、後ずさった。
(私……泣いているの?)
頬を伝った水滴が、地面に落ちる。
それが、信じられなかった。
――守られた私が、泣いちゃいけない。
そう誓ったのだ。
自分を庇って、最愛の姉は死んだ。
息が止まるまで、心配をかけないようにと――彼女は笑っていた。
想像を絶する痛みの中で、それでも最後まで、妹のことを想い続けていた。
だから、泣かないと決めた。
誰かの犠牲の上で生き延びた自分が、涙を流すことを許せなかった。
今回も同じ。
魔族を引き込んだ自分だけが生き残って、何の罪もない人たちが命を奪われた。
人生を、唐突に奪われた悲しみ。
大切な人を、突然に失った苦しみ。
それと比べたら、自分の胸に宿った感情なんて、ちっぽけなはずなのに――どうして、涙が止まらないの?
「ごめんなさいっ」
ただ、走った。
今、人のぬくもりを感じてしまえば、足を止めてしまう。
誰かに縋ってしまう――そんな権利、自分には無いのに。
――シルフィさん。
背後から名を呼ぶ声が、昼の風に乗って届いた。
反射的に足が止まる。
この声を聞き間違えるはずがない。
振り返ると、息を切らした少女がいた。
肩で呼吸を繰り返しながらも、まっすぐな瞳だけは揺れない。
フレアだった。
「どうして……来たの?」
自分でもわかるほど、声がわずかに震える。
フレアは唇を一度だけ噛み、真正面から答えた。
「行かせたくなかったから、です」
その一言が、胸の奥に落ちた。
心がきゅっと縮む。
悟られたくなくて、視線を落とす。
「……どうして、そんなことを言うの?」
「私、何もできないかもしれません。でも――何もしないまま見送るなんて、もっとできません」
息は荒いのに、瞳はまっすぐだった。
その真っすぐさに、心が揺らぐ。
崩れかけた何かが軋んだ。
――この人は、私を責めていない。
「……あなたは、優しすぎる」
「違います。優しくなんてないです。怖いんです――誰かがいなくなるのが」
その言葉に、わずかに空気が動いた。
シルフィは目を伏せたまま、息を整える。
「……私は、もう誰も巻き込みたくないの。誰かが犠牲になるのは、もうたくさん」
フレアは静かに首を振った。
「でも――」
一度だけ言葉を探すように口を開き、それでも言い切った。
「シルフィさんがいなくなって、それでこの街が守られたとしても……それって、結局シルフィさんが犠牲になったってことですよね?」
シルフィの肩が、かすかに震えた。
「犠牲が嫌だから、犠牲になる。それってなんか……おかしくないですか?」
不器用で、けれど真っすぐな言葉。
フレアは俯いたまま、続けた。
「誰かがいなくなることで守られる街なら、きっと……いつかまた、誰かがいなくなります。そんなの、嫌です」
涙ではなく、祈りのような声。
それを受け止めながら、シルフィはしばらく口を閉ざしていた。
「なら、どうしろっていうの?」
小さく吐き出した声は、乾いた風に溶けた。
フレアはそれでも笑った。
「どうしたらいいかなんて、私にもわかりません。でも……一人で背負うのだけは違うと思うんです。だって、シルフィさんが一人で行くなら――今度は私たちが、誰かを犠牲にした罪に囚われる」
その言葉が、静かな風よりも深く胸を打つ。
「だから、どうすればいいか分からなくても、私は一緒に考えたい。誰かがいなくなる世界じゃなくて、誰も欠けない世界を――一緒に、探しませんか?」
シルフィは息をのみ、顔を上げた。
陽の光の中、フレアの瞳がまっすぐに輝いている。
「わがままで、ごめんなさい」
「……あなたが謝る必要なんてない」
シルフィは小さく笑った。
その笑みは、痛みと優しさの境目で揺れていた。
「それにしても、凄い。フレアは強いんだね」
「そんなことないです。私から見たら、シルフィさんのほうがずっと――強く見えます」
言葉を濁しながらも、目だけは逸らさなかった。
その瞳に、シルフィは小さな温もりを見つける。
誰かがいなくなることでしか守れない世界。
そんな理不尽を、いつの間にか受け入れていた自分に、この人はまっすぐな否を突きつけてくれた。
ほんの少しだけ、息が軽くなる。
「ありがとう。フレアのおかげで、胸が少し軽くなった」
シルフィは微笑んだ。
けれど、その瞳の奥にはまだ影があった。
「でも、これは私とあなただけの話じゃない。私がこの街にいる限り、誰かがまた危険に晒される――誰かが欠けないと救えない命も、きっとある」
静かな声。
諦めではなく、覚悟を含んだ強さ。
その響きが、フレアには何よりも痛かった。
それでも、二人の間に生まれた言葉は――確かに、温かかった。
陽光が二人の影を長く伸ばす。
その静かな時間の終わりに、遠くから誰かの足音が近づいていた。
――物語が、再び動き出そうとしていた。
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