第23話 太陽と過去




 ギルドを出ると、眩しい光が世界を包んでいた。

 出店の呼び込みが、荷馬車の駆ける音が、人々の会話が、サリアの街の喧騒を作り出している。


 町の外で起きた出来事が、まるで嘘みたいだった。

 けれど、足早に進む銀の背中が、それが現実だと教えてくれる。


 ――シルフィさんを、止めなきゃ。


 フレアは小さく息を吸い、石畳を踏みしめた。


 風が頬を撫でる。

 冷たいはずなのに、心の奥が焼けるように痛い。


 さっき執務室で交わした会話。

 どれも、サリアという小さな街で生まれ育ったフレアには、想像もつかない規模の話だった。


 自分と同じくらい、あるいは年下の少女が――。

 故郷を失い、魔族に追われながら、仲間を求めて旅をしている。


 この境遇に立ったとして、同じことができるだろうか。

 きっと、ベッドの中で涙を流して、顔を上げることすらできない。


 想像しただけで足がすくむ。


 (そんな私が、何を話せばいいの……?)


 勢いで飛び出した結果、今さら理性が足を止めようとする。

 シルフィの背中は遠ざかっていくばかり。


 そんなフレアに、近寄る足音があった。



「話、終わったのか」


「ドランさん……はい」



 フレアは小さく答え、足を止めずに歩いた。

 その横に、いつの間にかドランが並んでいた。



 「おいおい、ギルドを飛び出してきたと思ったら……そんなに急いで、どうした?」


 「追いかけなきゃいけない人が、いるんです」


 「……あの銀髪の娘か」



 ドランは遠くなるシルフィの背中を見て、短く頷いた。



 「詳しいことは聞かされちゃいないが……お前らの顔見りゃ、ただ事じゃねぇってのはわかる――何があったか、聞かせちゃくれねぇか?」



 その声には、いつもの無神経さがなかった。

 粗野でも優しく、年長者の落ち着きがあった。


 不意に、胸の奥が熱くなる。

 フレアは唇を噛み、視線を落とした。



 「――シルフィさんは、魔族が現れたのは自分のせいだって……全部、自分で抱え込んでいるんです」



 声が震えた。

 それでも、もう止まらなかった。


 シルフィのこと。

 魔族のこと。

 サリアの街が、危険に晒されていること。


 彼女がどんな表情で、それを語ったのか。

 あの場の空気が、どれほど重かったのか。


 ――王家の血を引いていることだけは、伏せた。

 けれど、ほとんどを話していた。


 言葉を紡ぐたび、胸の奥に溜まっていたものが少しずつ形を持ち、外へと零れていく。


 ドランは、一度も口を挟まなかった。

 ただ、隣を歩いて静かに聞いていた。

 彼の沈黙が、言葉よりもずっと重く感じられた。



「放っておけなくて外に出たは良いんですけど……私に、何ができるんでしょうね」



 声はかすれて、風に溶けた。

 それは問いというより、ため息に近かった。


 その横顔を見て、ドランは小さく笑った。



 「それは、話しかけてから考えればいいんじゃねえか?」


 「え?」


 「自分に何ができるかなんて、動いてから考えるもんだ――って、わりぃな」



 頭をかきながら、ドランは苦笑した。



 「俺に難しいことはわかんねぇ。けどな、俺はそうやって生きてきた」



 飾り気のない言葉。

 けれど、迷いの底に沈んでいた心に、確かな熱を灯した。



「ありがとうございます」


「あ? 何がだよ。ジャイルの野郎にも、ドランさんは無鉄砲すぎるって最近よくどやされるんだ――はあ、アイツの気持ちを考えると、笑う気分にはなれねえな」


「……ジャイル君は、大丈夫そうですか?」



 問う声には、祈るような響きがあった。

 ドランは一瞬だけ目を伏せ、ゆっくり息を吐く。



「帰ってきてから、部屋に籠もっちまった。誰が呼んでも返事もしねえ……あの歳で、全部背負わされたんだ。無理もねぇよ」



 淡々とした声だったが、奥に滲む悔しさは隠せなかった。

 その横顔を見て、フレアの胸に痛みが走る。



「……そういう点じゃ、あの銀髪の娘も同じだな」


「シルフィさんが、ですか?」



 真意を探るように問うと、ドランは腕を組み、少しのあいだ空を見上げた。

 言葉を探すように、ゆっくり呟く。



「……ああ、なんつうんだろうな。俺は冒険者として、何度も見てきた。全部自分ひとりで背負い込んで、誰にも頼らず、最後には倒れちまった奴を――」



 そこで言葉を切り、遠くを見やった。



「さっきギルドから出てきた銀髪の娘は、それと同じ顔をしてた」


「……っ」



 フレアの胸が、きゅっと縮む。

 ドランは続けた。



「ついでに言うと――飢狼のやつも、いつも同じ顔をしてる。誰にも見せねぇくせに、全部ひとりで抱え込んでるような顔だ……見てるこっちが、イライラすんだよな」


「……凄い。よく見てますね」


「そりゃあな」



 ドランは肩をすくめた。



「ありゃあ、嫌でも目に付く。あんなに強ぇくせに、悲壮的な顔をしてやがるんだ――だからこそ、放っておけねぇ」


「確かに、その気持ち……分かります」



 会話の最中、ふと正面に目を向けると、銀の髪が見えなかった。



「あっ……」



 慌てて周囲を見回す。

 人波に紛れたのか、もうどこにもシルフィの姿はなかった。


 その様子を見て、ドランが腕を組む。



「落ち着け。あの娘、今から街を出るつもりなんだろ? だったら――まずは身支度だ」


「確かに、そんなことを言ってました」


「俺の泊まってる宿、《白鹿亭》だ。あの銀髪の娘も同じ宿に泊まってる。荷物を置いてるとすりゃ、行き先はそこしかねぇ」


「……っ! ありがとうございます、ドランさん!」


「おう。気ぃ付けて行けよ。あの顔してたら、無茶しかねねぇからな」



 フレアは小さく頷くと、石畳を蹴って駆け出した。

 その背中が人混みに溶けるのを見届けてから、ドランはひとつ息を吐いた。



 ☆



 残されたドランの脳裏に、今朝の光景が浮かぶ。


 魔族襲撃の報せを受けて向かった東の村。

 最近パーティを共にするジャイルの故郷だと聞いて、二人で駆けつけたのが――失敗だった。


 村は、崩れていた。

 屋根は半ば潰れ、石の壁は歪に裂け、道のあちこちに赤黒い染みがこびりついている。

 鼻をつく血の匂いが、乾いた風に乗って漂っていた。


 転がるのは瓦礫だけじゃない。

 村人たちの遺体が、至るところにあった。

 誰も逃げられなかったのだろう。

 目を見開いたまま息絶えた顔が、何人もこちらを見ている気がした。


 声をかけようとしたが、喉が動かなかった。

 背後で足音が止まり、ジャイルが小さく息を呑む音が聞こえた。



 「……おじいちゃん……?」



 その声に導かれるように、村の奥へ進む。

 ひときわ大きな家の中。もたれるように、ひとりの老人がいた。

 手には乾いた血がこびりついた短剣。

 胸には、深々と突き立てられた傷。


 ドランは息を詰まらせた。

 老人の目は閉じていた。

 誰よりも悲痛な表情で、涙を流した跡があった。


 ジャイルはその場に崩れ落ち、声にならない声を漏らした。

 ドランはただ、肩に手を置くことしかできなかった。

 何を言っても、何をしても届かないとわかっていた。


 (……若いもんに、こんな現実を見せることになるとはな)


 シルフィに怒りをぶつけたあと、街へ戻った。

 ジャイルは部屋に籠もったまま、誰の呼びかけにも応えない。

 無理もねぇ、と自分に言い聞かせながらも、胸の奥に棘が残った。


 ドランは空を仰ぐ。

 雲ひとつない青が、ひどく遠く見えた。


 (……魔族の襲撃は、自分のせいだ、か)


 ジャイルに胸ぐらをつかまれた、あの銀髪の娘――シルフィ。

 あの時の顔を思い出す。

 何かを背負い、誰にも頼らず、それでも前へ進もうとする者の顔。

 自分を犠牲にする覚悟を決めた者の顔だった。


 (人の世は、誰かの犠牲の上に成り立っている)


 ――だが、その犠牲の上に生き延びた人間だけは、それを受け入れちゃいけねぇ。最後まで、抗わなくちゃいけねえんだ。


 そう思った瞬間、胸の奥がひどく静かになった。

 怒りでも憐れみでもない。

 ただ、どうしようもなく“人として間違っているもの”を前にした時の、あの冷えた感覚。


 (あの娘がいなくなりゃ、この街は平和だ?)


 吐き捨てるように、内心で呟く。

 誰かの犠牲を見ぬふりをして、平和を手に入れました。


 ――そんなものは、俺の知る平和じゃねぇ。


 ドランは拳を握りしめた。

 骨が軋む音が、胸の内側に響く。

 腹の底に落ちた何かが、形を持ちはじめる。


 (――それを受け入れたら、あんときとまた同じだろ、ドラン)


 唇の端が、かすかに吊り上がる。

 それは笑みでも怒りでもない、戦士の顔だった。


 次の瞬間、ドランの瞳は鋼のように冷えた。

 そのまま、迷いもなくギルドの方へ歩き出す。

 足音が、決意の重さを刻むように道を叩いた。

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