キョウスケと浪人:アイデンティティサイドストーリー
KANA.T
第1話 出逢い
※本作には、児童への加害を暗示する描写が含まれます。直接的な性描写はありませんが、心情的に重い場面がございます。ご留意の上、お読みください。
すっと腰紐の端が引かれた。
部屋には火鉢が置かれ暖かなはずだが、背筋が凍るように冷たい。
背から両肩に、相手の両手が滑らかに這い上がり、両襟口に沿って滑り落ちると、半纏を静かに分け広げ、後ろに取り除いた。
キョウスケがこの寺に預けられ、二年。規則正しく厳しい生活をこなす毎日だった。しかし、ここ一ヶ月ほど、寺の中で二番目の地位にいる僧侶の部屋に、時折呼ばれるようになっていた。
この日も夕食を終えると「今日は、初めての勤めを言い渡す……」と呼ばれた。
部屋に入り、手を引かれるまま部屋の中央まで行くと、それが始まった———
呼吸が浅くなり、触れられるたびに拍動は激しさを増す。喉が張り付くようで、息苦しさを覚えた。
背後から僧侶の顔が右肩に置かれ、枯葉の擦れ合うような音が耳元で囁く。
「其方は幼い頃から野生的で美しい……夜も眠れぬほど……ずっと、気になっておった……」
耳に感じる微かな空気の揺れに鳥肌が立つ。キョウスケは息を潜め、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「だいぶ……腕も足も長く、しっかりとしてきておる。大人になればさぞや立派な体つきになるだろう……今から楽しみでならぬ……。」
鼻から含み笑いのような息が漏れる。僧侶の手が、探るようにキョウスケの体を這っていく。
——とんでもねぇ、クソ坊主だ!
キョウスケは唇を噛んだ。
春とはいえ、外はまだ寒い。このまま逃げて逃げ切れるか。うまくいったとしても、生きられるだろうか——。
保証はない。だが、このままという選択肢は、キョウスケの中になかった。
「…今日はもう一歩踏み出す手引をするゆえ……こちらを向いてみぃ」
耳元でゾッとする声がする。キョウスケはゆっくりと首を回すフリをしながら、頭をできる限り僧侶から遠ざけた。そして、近づいてくる僧侶の口にめがけて思い切り額を打ちつけた。
だが、狙いは外れ、強力な一撃が鼻に沈む。グシャッという鈍い音と共に、僧侶の呻き声が室内に響き渡った。
額に伝わるぐにゃりとした嫌な感触に、キョウスケは顔を顰めた。
——まだ逃げられねぇ。追っかけてこねぇようにしなきゃ……
完全に動きを封じてからでなくては、逃げ切れないだろう。キョウスケは僧侶が体勢を崩しているところをすかさず追撃。
今度は、相手の脳天を狙って、全身の力をこめて渾身の頭突きを叩き込む。僧侶の呻き声は辺りをつんざく悲鳴に変わった。
キョウスケは部屋から飛び出ると、着物を取るのも忘れ、野袴のまま寺から逃げ出し、竹林の中にその身を投じた———
はっと目が開く。温もりを感じる粥の香り。橙色にぼんやりと照らし出された天井板の影が微かに揺れている…。
見たことのない天井だと気づき、キョウスケは上半身を勢いよく起こした。突如、予期せぬ全身の激痛に顔が歪む。
「お、ようやく狸が目を覚ましたか。」
背後から穏やかで深い声が聞こえる。しかし、姿を確認しようにも痛みで体が言うことを聞かない。特に左足が痛むようだ。
「動くな。左の脛の骨にヒビが入っておる…」
キョウスケは無言のまま俯く。目覚めたばかりの頭に、一度に色々なことが流れ込んできて混乱した。
大体、なぜヒビが入っているなんてわかるのだろう。
「……と、まぁ、そういう話になってはおるが、足を開けて中身を確認したわけではないから私にはわからぬ。」
カラリとした笑い声が狭い納屋に響く。
「……」
「そう骨継ぎが言うておった、触れただけでよくわかるものだな。」
キョウスケは痛みを警戒し、体を動かすことなく視線だけで、辺りを見回した。
納屋は四畳ほどの広さで、窓はないようだ。扉が見えないところを見ると、出入り口は背後なのだろう。壁板の間には所々隙間があり、時折春の花の香りが吹き込んできた。
——俺なんかの足のために……銭を払って骨継ぎを、この納屋に呼んだのか?
そもそもなぜこんなに全身が痛むのか。何が起きたのか、頭の中を整理する必要がありそうだ。
「作物が食い荒らされて困るから狸を成敗してくれと言われたが……」
男の声が背後から近づくと、キョウスケはビクッと体を震わせ全身を硬直させた。寺の僧侶の記憶が重なる——。
様子をうかがうかのように息を潜め、微動だにしないキョウスケの姿を見ると男は眉間に皺を寄せた。背後から声をかけて近づいただけで、これほど過敏に反応するのには訳がありそうだ。
男はキョウスケをこれ以上緊張させないよう、少し距離を置いて彼の横に腰を下ろした。
そして、そっと器と箸を彼の前に差し出す。立ち上る湯気が隙間風に揺れた。雑穀粥の温かで香ばしい匂いがあたりを包むと、キョウスケの腹はぐぅっと大きな音をたてた。
その音に、男は優しく目尻を下げ「ほらっ!」と言って器をさらに近づけた。
キョウスケは無言で、小さく頭を下げてから、それを両手で受け取った。冷えた掌から、じんわりと体の中に温もりが流れ込んでくる。両目の奥まで熱くなり、鼻を啜った。
「いただきます……」
そう言うと、静かに器に口をつけ、上澄をすすった。
男はその仕草を目で追う。体が痛くても背筋を伸ばし、空腹にも関わらず少量ずつ口をつけ、箸の持ち方も綺麗だ。
「お前の着ている、そのやたらに大きな着物……盗んだな?」
「…はい。」
「家はどこだ?」
「……」
受け答えは礼儀正しい。挨拶もきちんとできる。だが、身なりから町人ではないことは確かだ。
しかし丸一日経っても、周辺に彼を探す者はいない。この辺りに身寄りがないということだろう。
依頼を受けてから、二週間かけてようやく落とし穴で捕獲し、気絶していたところをここに連れてきた。狸の成敗と言われていたが、捕まえてみれば八歳くらいの子供だった。
生きるために盗みを働いているようだが、落とし穴にかかるようでは、経験の浅さがうかがえる。このような生活になって、多く見積もっても一ヶ月程度といったところだろうか。
だが、そのような生活に身を落としていてもなお、行動が折り目正しい印象で美しい。そこから導かれる像は——
「なるほど……寺の小僧か……」
男の呟きが聞こえると、キョウスケは武者震いとともに、再び全身を強張らせ、ガクガクと震えはじめた。粥の味が一気に遠のく。
——寺に引き渡されたらどうしよう。
キョウスケの反応に、男の目つきが険しくなった。寺で何かしらの暴力を受けていたと想像するのが自然だろう。
——この怯えよう……寺に引き渡されると思っているに違いない。
男は穏やかに口角を上げると、しっかりとキョウスケの顔を見つめた。
「…この納屋で良ければ…私と寝食を共にするか?」
「…え?」
思いがけない言葉に、キョウスケは目を見開き、男に顔を向けた。しかし、聞き間違いかもしれない——キョウスケは呼吸を止め、全神経を耳に集中して、男が再び口を開くのを待った。
ほんの一瞬が、やけに長く感じる。隙間風に蝋燭の炎がゆらめくと、板壁に映る二人の影が静かに揺れた。
「盗みはいかぬ。真っ当に生きられる方法を教えてやる……」
だが、ふと何かを思い立った様子で言葉を切り、男はバツが悪そうに頭を掻いた。
「まぁ、浪人風情ゆえ『教えてやる』などと偉そうなことを言える立場でもない……か。」
思いつきで語るのはよくない。浪人は腕を組み、しばし天井を仰いでからキョウスケに視線を戻した。
「まぁ、いずれにせよ、藩を出た後、野晒しに生きる経験を数年しておる。『少しは参考になることもある』程度の教えだと、肩肘張らずにいてくれたらいい。」
穏やかで優しい笑顔だった。キョウスケの目頭が再び熱くなり、言葉にできない温もりが、胸の奥に静かに広がっていった。
母親の顔は、忘れそうだが朧げに覚えている。しかし、彼の記憶の中に父親はいなかった。もしも父親がいたなら、こんなふうに笑いかけてくれたろうか……。
キョウスケは静かに頷くと、箸を握ったまま手の甲で両目を擦り、涙を隠した。
「よし!おかわりどうする?まだあるぞ?いくらでも食え!」
とはいえ、鍋には浪人の分と数口分ほどしか残っていなかった。だが、キョウスケの「おかわり」に微笑ましげな笑みを浮かべると「食欲が旺盛で何より。」と言って、浪人は迷うことなくすべてを盛って手渡した。
浪人は粥の代わりに徳利から酒をほんの少しお猪口に注ぐ。湯気の向こうで、美味しそうに粥をすするキョウスケの姿を肴に、彼は酒を口に運んだ。
あっという間に食べ終わると、キョウスケは「ごちそうさまでした。」と手を合わせ、浪人に頭を下げた——。
一つ小さく息をつくと、彼は自分のことをぽつりぽつりと語り始めた。言葉は拙く、語尾が震えるが、時折浪人とチラリと目を合わせる。
浪人は目を細め、ちびりとお猪口を傾けながら、静かに相槌を打ち、温かく包み込むような眼差しでそれを聴いていた。
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