第6話

 カウンターの上に置かれた破片は、今なお沈黙を守っているように見えた。


 白い磁肌に走る、鋭い断面。

 その縁に残る金彩だけが、無言のまま事実を告げている。


 陶器のはずなのに――それは、まるで肉を裂いた傷口のようだった。

 俺はそれを見下ろしながら、ようやく気づいた。


 この事件は、もう「俺の仕事」の内側に踏み込んでしまっているのだ、と。


 喫茶店は、ただの場所ではない。人が、気持ちを置きにくる場所だ。

 傷を抱えたまま入ってくる人もいれば、行き場をなくして辿り着く者もいる。


 それでも――俺は、この場所を“逃走禁止区域”にはしたくなかった。

 誰に対しても、だ。


「真壁」

 名を呼ぶ声が、自分のものとは思えないほど遠かった。

「……俺はさ」


 言葉が、ひどく重い。


「この店に、事件が持ち込まれるなんて思ってなかった」

 真壁は黙っている。

「……佐々木さんのこと……普通の客だと思ってた。

 話しやすくて、ちょっと不器用で……ただの、常連候補だって」


 短く、息を吐く音。


「――思っていた、じゃないな」

 真壁は淡々と、訂正した。

「思いたかった。……違うか」


 胸の奥に、鈍い痛みが走る。


「新しい店の話を振ったとき、骨董の話をしたとき、“無くしたもの”の話に逸らされたとき――お前は、違和感を感じていた」


 破片を見つめたまま、俺は動けなかった。


「それでも無視した」

「……無視、じゃない」


 思ったより、低い声が出た。


「……信じたかったんだ」

 視線を上げる。


「客を犯人だと決めつけたまま、コーヒーなんて出せないだろ」

 唇が、わずかに震えた。

「そんなことした瞬間……俺は、この店を壊す」


 言葉に、少しだけ力を込める。


「……それに。

 俺は、人を信じていたい」


 真壁がこちらを向いた。

 その目は、驚くほど冷たかった。


「感情論だ」

「分かってる」

その言葉を返したあと、俺は何も言えなくなった。

代わりにミルに手をかけた瞬間、わずかに指が震えた。


――落ち着け。


豆を挽く音が、妙に大きく店内に響く。

いつも通りのはずの手つきが、今日はどこかぎこちない。


フィルターに粉を移しながら、息を整える。

これは、客のための一杯じゃない。

――自分のための、区切りだ。


湯を注ぐと、白い泡がゆっくりと膨らんだ。

まるで、胸の奥に溜まった何かが、浮かび上がるように。


この店で、人を疑うということ。

それが、何を壊すのか。

それでも、逃げずに踏み込むなら――


俺は、もう「店主」でいるしかない。


カップを置く音が、やけに静かに響いた。


「感情論だ」

 真壁が、もう一度言う。

「だが……」


 一拍、置いて。


「逃げではない」


 俺は、顔を上げた。


「……俺は」

 喉が鳴る。

「……佐々木さんが嘘をついてるなら……俺の店で、俺が、直接確かめる」


 口にした瞬間、覚悟は引き返せないものになった。


「お前自身が裁かれる覚悟か」

「違う」


 首を振る。


「……確かめるだけだ」

 壊れた事実を、暗いところに押し込めない。

「……知らないふりで、店を開ける方が……俺には、よっぽど、罪だ」


 しばらく、沈黙が落ちた。

 秒針の音だけが、異様に大きく聞こえる。


「……やはり、お前は事件向きじゃない」

 真壁は、低く言った。

「感情が邪魔をする」


 だが――


「……だが」

 一拍。

「店主には、向いている」


 胸の奥が、一気に熱くなった。


「俺より、客に誠実だ。

 論理より、人間を見ている」


「お前に言われると、妙に効くな」

「事実だからな。

 ……だから、俺は隣にいる」


 目を逸らしながら紡がれる不器用な、その一言になぜか救われた気がした。


「お前が“場”を張れ」

「……」

「俺は、“真実”を張る」


 カウンターの上で、割れた陶器が、淡く光った。


「……これはもう、共犯だろ」

「違う」


 即座に、否定される。


「――共同責任だ」


 静かだが、確かな声。


「どちらかが壊れても……

 もう片方が立っていれば、勝ちだ」


 それは、初めて聞く、真壁なりの“信頼”の形だった。


 俺は、スマホを握る。

 画面に浮かぶ、佐々木の名前。


「……呼ぶよ」

「それでいい」

「――“被害者の店”じゃなく」

「……」

「“店主の場所”で、決着をつけろ」


 指先が、わずかに震えた。

 呼び出し音が、鳴る。


 二コール。

 三コール。


「……あ、癒川さん?」


 聞き慣れた声。


「夜分に、すみません」

 息を、一度整える。

「……少し、店で、話しませんか」


 電話を切る。


 カウンターの向こうで、真壁が立っている。


「……呼んだ」

「聞こえていた」


 だが、その表情は――いつも以上に厳しい。


「さあ、開廷といこう」


 二人、並んで立つ。


 同じ店にいて、

 立っている場所は違う。


 それでも――

 今だけは、同じ側だった。



 即答する俺に、彼は逆にゆっくりと瞬きをする。

「だから、俺は逃げない。

 もし……佐々木さんが嘘をついているなら……」

 喉が鳴った。

「……俺の店で、俺が、直接、確かめる」


 口に出した瞬間、覚悟は引き返せないものになった。


「お前自身が裁くつもりか」

 真壁が、静かに言った。

「違う」


 首を振る。


「……確かめる」

 壊れたまま、薄暗い場所に真実を押し込めない。

「……俺は、知らないふりで、店を回したくない」


 その言葉は、真壁に向けたものでもあり、自分自身への宣言でもあった。

 しばらく沈黙が落ちる。

 時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえた。


 やがて――


「……店主として、か。

 ふむ、それは随分と高くつく“看板“だな」

「……そうだな、本当にそう思うよ」


 真壁は腕を組み砂糖壺があった棚を見上げる。


「証拠は揃っている。行為も、動機も、ほぼ確定だろう。

 それでもお前は、本人の口から聞くと?」

「……うん」

 迷いはなかった。

「真実ではなく、“納得”が欲しいんだろう」


 図星だった。


「……あの人の“嘘”を、最後にちゃんと受け取らないと、俺……誰のコーヒーも、まともに淹れられなくなる気がするんだ」

「受け取ってどうするんだ」

 遮るように問われ、俺は答えに詰まる。


 それでも――

 口が、勝手に動いた。


「……そのあとで……壊れてしまったものは、……元に戻らなくても……。

 ……置き場所だけは、ちゃんと決めたいんだ」


 真壁は、ただ、真剣な表情で俺を見つめていた。


 しばらくして、静かに細く息を吐いた。


「……やはり、お前は事件には向いていない」

 低い声でそう言うと、ふっと、視線を切る。

「感情が、邪魔をしている」


 だが――

 継ぐ言葉は、違った。


「……だが」

 一拍置いて。

「店主には、向いている」

 その一言で、喉の奥が一気に熱くなった。


「論理を信じる俺より、人間を信じるお前の方が客にとっては。

 誠実で好かれる存在なんだろうな」

「真壁……」

「何より、そんなお前だから俺は隣にいるんだ」


 くすぐったくて思わず頭をかいてしまう。

 そんな俺に呆れた表情を一瞬浮かべ、すぐに探偵としての冷たい表情に戻る。

「お前が“場”を張れ、俺は“真実”を張る」


 割れた器が、まるで“答え”のように、淡く光っていた。


「……これはもう共犯だな」

「いいや、違う」

 真壁は、即座に否定した。

「共犯じゃない」

「……?」


「……共同責任だ」

 淡々と、だが、確かに。

「――どちらかが壊れても。

 ……もう片方が、立っていたら俺たちの勝ちだ」


 それは――初めて聞く、真壁なりの“信頼”の形だった。


 俺は、スマホを握る。

 通話履歴。 そこにある、佐々木の名前。

「……呼ぶぞ」

「ああ」


 真壁の声は、低く落ちる。

「“被害者の店”でなく、“店主の場所”で決着をつけろ」


 画面をタップする指が、微かに震えた。呼び出し音が、鳴る。


 長い、二コール。


「……あ、癒川さん?」

 聞き慣れた声が、受話口から零れた。

「夜分にすみません」

 そう言って、息を整える。

「……実は、相談したいことがあって」


 一瞬の、沈黙。


「今日、少し……お店に、来てもらえませんか」


 電話を切る。


 カウンターの向こうに、真壁が座っている。

「……呼んだ」

「聞こえていた」

 けれど、その表情は、いつもより――厳しかった。


「さあ、始めよう」


 二人、並んで、立つ。

 同じ店にいて。いる場所は、まるで違うのに。


 それでも――

 今だけは、同じ側に立っていた。

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