コーヒーが冷めるまで、謎は置いておく

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第1話


 深く焙煎された豆の香りが、店の奥から静かに立ち上る。


 外の喧騒は、真鍮のドアノブの向こうで音ごと切り取られた。この空間だけが、時間の外に取り残されたような小さな箱庭――それが、俺、癒川悠ゆがわゆうが店主を務める“CAFÉ KAIUMカフェ・カイウミ“だ。


 カウンターで白磁のカップを磨き終え、俺はいつものように砂糖壺が並んだ棚の一角へ目をやった。すると、そこにあるべきものが存在していなかった。


 ――あの砂糖壺が消えている。


 呼吸が止まり、冷や汗が背中を伝う。

 丸みを帯びた蓋の持ち手が愛らしい、小ぶりなアンティーク調の砂糖壺。この店を開店する時に親友から贈られた、この店の一番大事なシンボル。

 昨日まで確かに、いつもの場所に置いてあったはずだ。


「おいおいおい……、悪い冗談はやめてくれよ」


 思わず誰もいないカウンターに向かって呟いた。日常の均等が剥がれ落ちた、ざらりとした違和感が指先に残る。


 店内の古時計が11時を知らせるベルが鳴った瞬間――からん、と、ドアベルが鳴った。


 扉の向こうに立っていたのは、黒いシャツにスラックスという出立ちの男。

 真壁甲太郎まかべこうたろう――俺の親友だ。

 夏の陽を背負いながらも涼しい顔を崩さず、切れ長の目でまず店内を一瞥した。そして、消えた砂糖壺の棚を通り過ぎ、俺の顔を無言で見つめる。


 真壁――裏路地の骨董屋〈真壁堂〉の店主。商売敵でも常連でもないが、彼の存在はこの店の静かな空気を、少しだけ引き締める。

 彼は、物を見るとき、値札ではなく“欠け”や“傷”から目を走らせる男だ。美しさよりも歪みや欠けを先に見つける。

 今、こいつの視線は、俺の顔にできた決定的な「欠け」――砂糖壺の消失による動揺――を正確に捉えている。


 真壁は無言でカウンターに腰を下ろし、皮肉めいた笑みを浮かべながら低い声で尋ねてきた。


「いらっしゃい、も、この店は言わないのか?」

「……いらっしゃい」


 開口一番の皮肉に、俺はわずかに震える手でコップに水を注ぎ差し出す。


「おう。今日もこの店は閑古鳥が鳴いてるようだが、普段以上に血色が悪いな。……何かあったのか?」

 真壁はそれを一息で飲み干し、「もう一杯」とだけ言う。

 その問いは、親友の優しさではなく、探偵としての鋭利な観察だ。俺は動揺を隠すように、空になったコップに水を注ぐ。


「いやいやいや……別にー?」

「隠すな。お前の挙動は、嘘をついている時の癖だぞ」


「うるさいな。そういうお前こそ店はどうした? とうとう閉店か?」

「バカ言え。今日は休みだ」

「へぇー」

「へぇとはなんだ」

「別にー」

「子供か」


 俺は布巾を握りしめた。

 

 真壁は俺の嘘を、俺自身よりも深く知っている。この男は、俺が世界に張り巡らせた「人間でいるための膜」を、いとも簡単に剥がすことができるのだ。

 そして今、その特権を持った男が、砂糖壺の消えた店内に座っている。


「……あのな」

「……ああ」

「……お前が開店祝いにくれた、大事な砂糖壺が、なくなった……」


 俺が絞り出すようにそう告げると、真壁の切れ長の目が、初めて感情を帯びたように細く、鋭くなった。


「……いつからだ?」

 その声は冷静で、まるで最初からそうなることを知っていたかのように、抑揚がない。

「……え?」

「だから、いつからないんだ」

 

 俺の手が止まり、握りしめていた布巾がカウンターの上に落ちる。

 布巾のざらりとした感触が指先に残ったまま、拾うことすらできず、視線は真壁の顔ではなく、黒いシャツの襟元や肩の影を追った。  


 胸の奥で小さな鼓動が早まる。


 もし犯人が真壁だとしても――いや、もしかしたらそう願っている自分がいるのかもしれない。

 怖いはずの出来事が、胸の奥で妙に甘くざわめく。


「……昨日まであった。最後に片付けたのは俺だ」

「そうか」

「なあ、真壁」

「ん?」


「……お前が犯人なんじゃないか」

「……そうきたか。ちなみに理由は?」

「えっと、俺は大好きすぎて、とか」

「20点」


 呆れた表情で吐き出された言葉に、俺は思わず肩を落とし息を吐いた。心臓の奥で、何かがひりつく。恐怖というより、期待に近い熱だった。


「俺が犯人だとしたらいちいち報告せずに、さっさと流しちまうに決まっているだろ」

「そうだよなぁ」

「おい。それに、そんな事をしたらお前のコーヒーが飲めなくなっちまう。それは俺にとっては世界が崩壊するより、由々しき事態になる」

 真壁の瞳がかすかに触れた気がした。

 その一瞬で、胸の奥のざわめきが、一層熱を帯びる。


「馬鹿な話は置いておけ。それより……監視カメラはないのか?」

 先ほどとは打って変わって真壁の声は冷静だ。

 もはや心配そうな親友の声ではない。探偵としての論理に則った質問だ。


「つけてるわけないだろ、こんな個人店に」

 自分で言っておいて情けなくなってしまう。

「でも……。次からは、つけておくのがいいかもな。俺の世界で一番大事なものがなくなっちゃったし」


 その呟きに、真壁は目を見開いた。

 数秒、俺を見つめ、瞬きをした瞬間には目線を棚へと落とす。

 ――棚の空白を見つめるその目には、単なる驚きだけでなく、何か冷静な計算が混ざっていた。


「……そういえば」

「ん?」

「警察には言ったのか?」


 真壁の言葉にしばらくぽかんとしてから、慌てて首を振った。

「そういえば言ってなかった! でも、きっと言ったところで相手にしてくれないだろうさ」

「……そうだな」


 しばらく考え込むように親指を顎の下に添え、視線を彷徨わせる。

「警察は最終手段とするか」

「ここには名探偵がいるだろ?」

「は?」

「大学時代に部費がなくなったとき、真っ先に真壁が見つけたじゃないか。それに、大騒ぎになったら、店は休業になって収入が途絶える。それはごめん被りたい。

 それに――大事にしていたモノを、公の場で泥だらけにされるのは、いやだし」


 全て本音だった。

 

「……わかった、わかりましたよ。それじゃあ作戦会議を開くから、いい加減客にコーヒーでも出してくれないか?」

「OK、とびきり濃いのを出してやるから期待しておけ」


 豆を挽くミルを回せば、音と香りが重なって店の奥へ広がる。自分の手の動きと、それに呼応するように変わっていく空気。

 俺はドリッパーから落ちきった琥珀色の液体をカップに移し、カウンター越しにそっと差し出す。

「今日の豆はエチオピアだ。少し甘い口当たりになってる」


 真壁は一言もなくカップを受け取り、熱を確かめるように軽く息を吹きかけてから口をつける。

 数秒、静寂。やがて、口角がゆるむ。


「さて、作戦会議だ。まず基本から聞くとしよう。お前が最後に砂糖壺を見たのはいつだ?」

「昨日の閉店間際。カウンターを拭いた時かな」

「じゃあ次、店の鍵の異常はなかったか?」

「問題なく開いた」


 真壁はわざとらしくカップを揺らし、コーヒーの表面を覗き込む。

「……俺が見てきた限り、ここに出入りする顔ぶれは限られてる。まずは——あの会社員」


 脳裏に浮かぶのは、黒縁眼鏡のサラリーマンの名前は佐々木。会社が近いのか昼頃になると決まって窓際の席に腰を下ろし、ブレンドを頼む男だ。

 彼の視線はときどき棚の方に向かうけれど、それは砂糖壺というよりカップの形を見比べるようなものに思えた。

「几帳面でおとなしいが……物を手にしたら返さない、なんて癖があったりしてな」

「人を気軽に泥棒扱いするなよ」


「じゃあ、あの年配の婦人はどうだ?」

 真壁の言葉に、俺はふっと苦笑する。

 いつも厚手のスカーフを巻き、カップに口をつけながら昔の思い出をぽつりぽつりと語る女性の名前は宮島。

「彼女はただ、コーヒーに砂糖を入れるのが好きなだけだろ」

「いや、年配者ほどコレクション欲が強いもんだ。『若い頃に手に入れられなかった物を、今こそ』ってな」


「他には……ほら、最近来てる女子大生。やけに内装を観察してるじゃないか」

「……内田さんはインテリア研究だって言ってただろ」

「そういう口実で、小物を持ち帰る奴もいる」

「お前……店を疑わしき人間の巣窟みたいに言うな」


 真壁は肩をすくめ、口角を吊り上げる。

「俺は骨董屋だからな。物が人を惹きつけ、奪い合いの理由になる場面を嫌というほど見てきたんだ」

 彼の視線がふいに鋭くなる。

「で……お前は誰を怪しいと思ってる?」

 真壁の問いに、俺は思わず沈黙する。

 頭の中に浮かぶのは、彼が挙げた常連たちの顔だった。


 ——佐々木。

 ほぼ毎日やってきて、注文も必ず同じ。ブレンドと、たまにチーズケーキ。

 けれど確かに、彼の視線が棚の方に泳ぐことはあった。……それも、砂糖壺が置かれた辺りへ。

(いや、彼がそんなことをするはずがない。いつも礼儀正しくて、支払いのときだって深々と頭を下げて帰る人だ)


 ——宮島。

「この香りを嗅ぐと、昔を思い出すの」

 そう言って微笑む横顔には、時間の重みと優しさが滲んでいた。彼女にとってこの店は、思い出を温め直す場所に違いない。

(そんな人が、俺の大事な器をこっそり持ち帰るだろうか。……いや、想像がつかない)


 ——内田。

 手帳を開き、カウンターや照明を写し取るようにスケッチしていた。時折、質問を投げかけては「ありがとうございます」と屈託なく笑う。

(観察熱心で、確かに目の付け所は細かい。けれどそれは研究者の眼差しだ。盗みの眼差しじゃない)


 誰ひとりとして、犯人の姿に結びつかない。

 むしろ、真壁が言うように「誰でもあり得る」と思わせることが、よほど落ち着かない。

 棚の片隅に生まれた空白が、じわりと心を圧迫してくる。

 日常の歯車が一つだけ抜け落ち、その隙間に冷たい風が吹き込んでくるような感覚だった。


「ふむ、どいつもこいつも天使みたいに思えるか」

 真壁は鼻で笑い、カップを軽く揺らす。琥珀色の液体がランプの光を受けてきらめいた。

「なら、こう考えるのはどうだ。今、ここにいない奴だ」


「今ここに、いない?」

 俺は眉を寄せる。


「そうだ。お前がよく言うじゃないか、誰だって一度は顔を出す。だが、全員が常に揃っているわけじゃない。今日、昨日、先週……空席の主はいくらでもいる。そいつらの中に“犯人”がいてもおかしくない」


「……」

 その瞬間、心がざわつく。

 常連ばかりを思い浮かべていた自分にとって、それは盲点だった。

 店の空白に潜む“誰か”。姿を見せない人物。ふと現れては消える、名前も知らない客。


「やめろよ……誰も信じられなくなる」

 思わず声に出していた。


 真壁は腕を組み、しばし俺を眺めていたが、やがて苦笑を漏らす。

「おいおい。だからこそ“ごっこ”だって言ったろ。探偵遊びは骨董屋の暇つぶしにはちょうどいい」

「遊びにしては本気じゃないか」

「骨董屋だからな。人の手を渡ってきた『モノ』を扱うってのは、そのモノが誰の手に渡るか、論理で先読みするってことだ。お前の大事なモノを、下らない奴の手に渡す趣味は、俺にはない」


 俺は深く息をつく。真壁の言う通り、骨董屋の彼には物の価値と人間の心理が透けて見えるらしい。

「商売柄さ。人の手を渡ってきたモノを扱うってのは、そういうことだ」


 彼はカップを最後の一口まで飲み干し、静かにソーサーに置いた。

 その音が妙に重く響く。俺は再びカウンター奥の棚に目を走らせる。


 真壁の言葉が耳に残る。


 ——今ここにいない奴。


 たったそれだけで、胸の奥がざわつくのを抑えられなかった。


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