序章「交裂点」その6

言葉が身体を巡って、一瞬の内に自分を麻痺させた。頭にある鉄棍の冷たさも、生温い山羊頭の吐息も分からなくなる、泥の中に沈んでいるような気分だ。



「何、言ってんだ……俺…」



さっきの言葉が頭に反芻する。


眼前まで迫った死によって濃縮された時間の中、答えが出せるわけでも無いのに自問自答を脳内で繰り返している。


そんな自分を引き戻したのは、どうしようもない現実だった。


頭に乗っかっていた感覚が消えた。棍棒は俺の頭蓋骨を捉え、十分なスピードで打ち出される。




倉本は静かに目を閉じた。






―数秒経ったが、頭は潰れなかった。

いつの間にか体を押さえつけていた圧迫感も無くなって、呆気なく自分はまだ生きていた。


目を開けると、山羊頭の怪物は自分から少し離れたとこにしゃがみ込んでいた。


様子を見ると、何かに怯えるよう頭を両手で覆って小刻みに震えている。


痛みに耐えながらゆっくりと立ち上がった。


「おい、何なんだお前は」


そう声をかけた瞬間、怪物はこっちを向いて

目が合った。怯えた表情に血管が浮かび上がり、息は荒く呼吸音と一緒に肩が上下し始めた。


「ン゙ヴェェェェェェェェェェ!!!」


雄叫びを上げ、山羊頭の怪物はこっちに突っ込んできた。


口からは唾液に塗れたベロがはみ出し、目からは何故か涙が溢れている。


その突進から、さっきまでの優位は感じられない。まるで、捨て身の特攻のようだ。


回避は間に合わない。咄嗟に、蹴りでカウンターを喰らわせようと足を曲げたその時、何かがこっちに近づいている事に気がついた。


空間を裂くようなその轟音に驚き、互いに立ち止まる。


これは、ヘリのローター音だ。


周囲を見渡すと、グラウンドの向こうから赤空を背中に一機近づいて来ている。全体的に曲線的な外観には迷彩塗装が施されていて、俺のイメージにあるものとかなり近い。


マニアじゃ無いから、型式などは全く分かないが、機銃やミサイルが見当たらず、武装が少ないことから戦闘用ではないと推測した。


「自衛隊!?」


30メートルほど離れたところで、ヘリは空中をホバリングして、機体からは4本のロープが垂らされた。


そこから一斉に地上へ銃を持った自衛隊の人達が降下しているのが見える。


俺は隙を突き、痛む脇腹を押さえながら全力でグラウンドの方へ駆け出した。


ジャンプで階段を通り越し、スリッパは履き捨て、靴下のまま走った。


振り返らない。自分の状況に気付いてくれていたのか、自衛隊の人達は俺の方を向き、その場で立膝を取って小銃を構えている。


「伏せろ!」


ヘッドフォンの何倍か分からない本物の銃声に、オレンジ色のマズルフラッシュと白煙が周囲に響いた。


その場に倒れ込んで耳を塞ぎ、体を丸めて防御姿勢をとる。


銃声に混じって怪物の絶叫が聞こえる。程なくして銃声は止み、整った足音が近づいてきた。


「君、怪我はないか?」


30代後半ぐらいだろうか、隊長格だろう自衛官の手を取り立ち上がると、無線機を取り出して話し始めた。


「HQ、こちら寺田班。ポイントにて学生の生存者を保護。例の症状も見られない。これより救助に移る、通信アウト」


―HQより寺田班へ、潜伏期間があると学者共が喚いているが、ひと先ずは救助を優先しろ。アウト―


HQという単語はあるゲームで聞いた事がある。確か、組織の中心や作戦本部を表すアルファベットの略語だったか。


それより、無線を盗み聞きして得た『症状』という言葉。


感染症か何かがこの混乱に併せて流行っているのか、詳細までは分からなかったが、自分は対象外のようだ。


今度は小銃の構えを解いた、若い自衛官が話しかけてきた。


「他に生存者はいますか?知ってるなら、場所を案内してほしい。」


返答しようとした自分を遮って、自衛隊にしては細身なもう一人の隊員が話し始めた。


「UH -1の搭乗限界は十一人だ。俺達込みであと七人、多くは乗せられないぞ」


「第二部隊がこっちに向かって来ている。タイミングが違うだけ、全員救える。」


グラウンドの光景は、まさに地獄だった。


避難誘導が裏目に出たのだろうか、無数の生徒と教師の死体に溢れ、あちこちに血溜まりがある。


反射的に目線を逸らそうとした不意に、正座のような姿勢で絶命した死体があった。


「………!」


堤……両腕が折れ、関節は反対に曲がって口からは舌と血液が溢れている。


その目からは完全に正気が失われ、何が起こったかを容易に想像させた。


付き合いは2年でクラスが一緒になってからで、人の親切心を利用して楽するカスだったが、それでも。


「うっ……」


ずっと堪えていたが、限界だった自制心は砕け、惨めに地面を汚した。


吐いたのはいつ振りだろうか、不安が吐瀉物になって口から溢れていく。


「無理するな、これを見て何も感じない方が変わってる」


転がされて擦り切れた袖で口を拭って、手渡さ

れたペットボトルの水を流し込む。


「……大丈夫っす。それより、居ます。俺以外にも、生きてる奴」


言うまでなく、真田さんと市川さんの事だ。


これは勘だが、二人はあの後武道場に向かったと思う。


進行方向にある設備は体育館と武道場の二つのみで、真田さんのなぎなた部や鳴島の剣道部が普段稽古に使っている方が武道場。


木刀などの防具もそこに置いているのを見た事がある。真田さんの事だから、逃げる次いでにそれらを取りに行ったのだろう。


「この先にある武道場に二人だな、坂上、上林三等の二人で先導してくれ。川崎一等は、俺と後続につけ。」


『了解』


前方には上林と呼ばれたさっきの若い人と、ヘリの人数に言及した坂上さんの二人が。


自分を挟むよう後方に、川崎さんと部隊長の寺田さんが位置についた。


自衛隊の作戦行動の一部に自分がいる事に緊張していると、後ろの寺田さんから声を掛けられた。


「すまないが、道案内を頼みたい。それと、君は俺たちより外側に出ないようにしてくれ。さっきのような怪物と出くわして、射線がどう広がるか読めない。君の安全の為にもここは指示に従ってくれ」


誤射で死ぬなんてまっぴらだし、無視する理由もない。


今までになく柄でも無い張り切った声で返事をした。


「はい!!!」


自分の返事から間を開けて、前進の号令が掛けられた。


周囲をクリアリングしながら五人組で進む。走っている最中は気づかなかったが、道沿いに停められた先生の車の傍や、側溝の近くにも死体がある。


(何人が殺されてるんだ...真田さん達も、なんて事にはならないでくれ)


目線を上げ、確実に通りを進んで行く。曲がり角まで来た。山羊頭の怪物の姿は今のところ見えない。


すると、武道場の方から声が聞こえてきた、唸り声だ。


「真田さん!」


思考する前に駆け出していた。制する声を無視し、前にいた二人を押し退けて単身、武道場まで走った。靴下一枚のほぼ裸足に、敷き詰められた小石が刺さる。


その一つが走った勢いで跳ねた。それは逸れることなく運命的に近くに停めてあった、上等な黒塗りのBMWに当たったが、そんなことはどうでもいい。新聞部顧問の車だがどうでもいい。


石畳の階段を駆け上がり、道場前に立った。備えられた両開きの扉は踏み倒され、無惨に砕けていた。


それを見た瞬間脳裏に浮かんだ最悪の結末。あの右ストレートでも勝てない敵になぶり殺された死体を想像して、心臓が喧しく鳴り始める。


しかし、武道場の木目板に足を踏み入れた時、その不安は消し飛んだ。


山羊頭の怪物と真田さんはそこに居た。

真正面に対峙し、一分の隙も感じられない。


怪物の右手には黒色の柄を巻いた槍が握られている。床を割る踏み込みを経て、瞬間に放たれた突きは、間合いを詰めて側面から払うように放たれた木刀の打突に弾かれた。


衝突音が武道場に響き、長槍が打ち捨てられる。


怪物は反動で体勢を崩した。


その隙を見逃さず、真田さんは切先を突きつけ地面に組み伏せさせた。

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