屋上を流れていく煙草の煙と延々続く腐れ縁
長谷川昏
夕刻の屋上にて
「最近ずっと荒れてるねぇ、惣次」
背後からかけられたその声に、
夕闇も押し迫った放課後、屋上には強い風が吹いている。
歩み寄って隣に並んだ同級生、
「なんだ、庵藤か、驚かせんなよ」
「全然驚いたようには見えなかったけどねぇ。足音だって聞こえてたはずだし。僕じゃなくて先生ならよかった?」
「は? そんなこと思ってねーよ」
言葉を返すと軽く笑い返す同級生に思わず舌打ちが出る。
隣の涼しげなその顔は今日も美しい。自分とは逆に短く刈り込んだ髪がその横顔の端正さをより際立たせている。多分男でなければ一ヶ月も経たずに押し倒していた。なんでも見透かしているような態度と物言いは、ずっと気に入らなかったが。
「そっかー、それならいいけど」
大柄な自分より十センチほど背が低い相手のつむじを見下ろす。惣次がこの男子校に入学して三年間、彼とは同じクラスだった。接点がないな、と思ったのが初見時の感想だった。でも一緒につるんだり馬鹿をやったりする仲間は他にもいたが、今では卒業した後もそれが続いていくのは、なぜかこの飄々としたつかみ所のないこの男だけのような気がしていた。
「吸うか?」
「いや、やめたんだ」
同じものを吸っていたはずの煙草を箱ごと差し出すが、即答された。
「お前が?」
迷いもなく断る相手は顔に似合わず、一年の頃からそのチェーンスモーカーぶりを発揮していた。だが確かに思い返してみれば、近頃喫煙する姿を見た覚えがなかった。
「どうしてだ?」
「なんでだろうねぇ。少し変えてみたくなったのかな、自分のこと。なーんて言ってみたりして。今のセリフ、ちょっと青春ぽかったでしょ」
「アホか」
屋上の柵に背中を預けて笑いかける相手に惣次は鼻で嗤って返した。
「それより惣次、今暇?」
「忙しそうには見えねーだろ」
不機嫌に返すと、相手は何か含みある表情で笑う。整った顔で為されるそれは時に人を小馬鹿にしているようにも見え、そのように感じた輩から彼はよく喧嘩を売られていた。そしてそれを躊躇いもなく買う。皆、見た目に騙されていた。彼が喧嘩で負けた所を惣次は一度も見たことがなかった。
「じゃ、映画にでも行かない? 飲みにでもいいけど」
「飲みにか……」
「どっかで女の子、引っかけてもいいし」
「……女、好きじゃねーだろ」
「別に嫌いな訳じゃないよ、好みが厳しいだけ。口の利き方とか行儀が悪い子にはお仕置きしたくなっちゃうだけだよ。煙草の火を押しつけたり、落ちる寸前まで頸絞めたりとか。でもそうじゃない子には僕、比較的優しいよ」
「……優しい顔でそう言うお前のそんなところが怖い」
「そうかな、こんなに慈愛に満ちてるのに」
聖母のように微笑むその艶めかしい表情に背筋がざわつく。
惣次の母親は惣次が七歳の時に癌で死んだ。それ以来周囲にいる女性は全てただの異性だった。記憶の中で神格化されていく母親の姿。だが彼女も実はこんな表情を浮かべていたのではないかと思えば、時に戦慄を覚える。
「で、どうするの?」
バイなのかゲイなのか純粋な異性愛者でないことを、庵藤は全く隠そうとしていなかった。故にそのことを理由に彼の存在自体を忌み嫌う者も中にはいたが、容姿と相反する別の面を知った者からはその嫌悪感も薄れていたように思う。彼なりの処世訓。自らの性質を幼少の頃から認識していた庵藤は、あらゆる武道を一通り会得していた。
「惣次、なんか電話が鳴ってるよ」
「あ、ああ……」
気づけばブレザーのポケットの中で携帯電話が鳴っていた。
取り出して表示された名を見れば、それはひと月前から付き合っていた他校の女生徒のものだった。彼女からの連絡は一週間前から全て無視していた。大きくて柔らかい胸も魅力的な太腿も、今は思い出す気になれなかった。
「出ないの?」
「めんどくさい」
そう答えると、それを悟ったかのように呼び出しが止んだ。
屋上には風の音だけが流れていた。
そこに同級生の声が響いた。
「毎日苛ついてんならさ、その子とセックスでもして気晴らしでもすれば?」
「俺が、苛ついてるって……?」
「うん、一週間ほど前からね。今日もこんな下から丸見えな場所で堂々と煙草なんか吸っちゃって。苛ついてるって言うか自暴自棄。子供みたいだから無視しておこうかと思ってたけど、僕は慈愛に満ちた性格だからさ」
しれっと言う相手に多量の脱力と少しの殺意を覚える。
父親がその家業を兄に譲ると言ったのは、一週間前。
十五も年の離れた兄に自分が勝るとは最初から思っていなかったが、それが現実となると感じるものも違っていた。
ぼんやりと描いていた夢はその輪郭を確立する前に消えてしまった。
この先にあったかもしれない大事なものを得る前に失い、それがあの兄の手にあると思えば苛立ちと、到底そこには辿り着けなかった自分の未熟さに行き場のない感情を掻き立てられた。
「別の子を引っかけるなら付き合ってあげようか? 僕の方がまぁ、惣次より少しばかり顔がいいから」
先程と同じ笑みで自分を見る相手に虚ろな視線を向ける。
ネクタイを緩めた首筋が白い。
急激な欲望が胸に滾った。
「お前はどうなんだよ」
「どうって?」
「お前はやらせてくれんのかって訊いてんだよ」
そう問うと、ははっ、と相手は零したように笑う。
張り詰めそうになっていた感覚が少し弛んだ。
「そこ、笑うとこか?」
「だって惣次、ゲイじゃないじゃない」
「そうだが、やってやれないことはない、はずだ」
「八つ当たりで一発やんならさ、相手は女の子の方がいいよ。あの子達は生まれつき受け止める方法を知ってるからさ」
「お前は違うのか」
「僕は全部吸収しちゃう。きっと惣次と一緒に墜ちちゃうよ。一蓮托生」
「俺と墜ちるのは嫌ってことか?」
「違うよ。僕はいいけど、惣次には墜ちてほしくない。好きだからさ」
その言葉に思わず息を呑む。
相手を見返す自分の表情にもいつもと違うものがある気がして、言葉も出ない。
「まぁ一番の友人としてね」
そう続けた隣の友人は翳りのない表情で笑う。
それにつられるように惣次も笑い返した。
「なんだそれ」
未だ掻き乱れた感情が心の奥に残るが、そういうことだと思うようにする。
相手に返した他愛ない言葉の裏に別の感情が潜んでいるような気もしたが、惣次は手にした煙草を地面に放ると内履きの裏で揉み消した。
×××××××××××
カウンター越しに髪の短い美しい店主がいる。
店の名は『
その近くで便利屋(のようなもの)を営む常連の男はグラスを手に取り、呟いた。
「あんなこと言ってたのに
「その後もなんも変わらなかったしねぇ」
呟きには店主が笑いながら応える。
男は相手の前にグラスを翳すと、ぐいと一気に飲み干した。
あれから十年あまりが経った。
長いようで短い、短いようで長い年月だったと男は思う。
「十代の頃の言葉なんか、ほとんどが戯れ言だよ」
グラスに酒をつぎ足しながら店主が言う。彼の形のいい唇から零れたその言葉に男はほんの少し落胆する。
あの頃もよいことばかりではなかった。時が経てば過去は色々と美化されていくものだが、中にはその影響を受けない出来事も確かにあったはずだ。
歳、取ったかな……。
こんなことに拘り続けて、いつまでも同位置に留まり続ける自分に思わずぼやいても、二十七歳になってしまった事実は変わらずある。
男は心の底で呟いて、手元の酒を再び飲み干した。
「でもね、惣次」
呼びかけに顔を向ければ、友人が微笑んでいる。
その顔はあの頃と変わっていないようにも思う。
「そうだとしても忘れたくないと思ってるよ」
その笑顔を見ればあの頃に返った気がして、いつもより酔いが早く回った気がした。
「何言ってんだか、そんなこと言っても何も出ねーぞ、あんず」
感情が溢れそうになるのを言葉で誤魔化して、惣次は煙草に火を点けた。しかし思い直したように自分も笑うと、穏やかな表情でカウンターに片肘をついた。
〈了〉
屋上を流れていく煙草の煙と延々続く腐れ縁 長谷川昏 @sino4no69
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