久しぶりの空き時間

タキコ

第1話久しぶりの空き時間

    久しぶりの空き時間

35年間の介護の仕事、法人格の終了の手続きをしました。

少し体休めてと思いながら貧乏性なのかじっとしていられない性格で、昔から

していた編み物を持ち出して、作品を仕上げたりして気が付いたことがある。


 一人でいることが好きで園芸、野菜作り、花、多肉、そして、下手の横好きで自分の考えたりしたことを文章にして投稿したりと、楽しんでいる。どうも認知症の始まりなのかきりなく忙しくして手を広げすぎだね。自分自身自問自答している。


 この欲張りな性格は私自身の根底にあるコンプレックスのせいだ。

昭和22年に小学校、入学、中学校は31年に卒業、その中学校は2年に時夜間中学だった。


 いつも何かしている時間が好き、これは子供の頃から持っていたコンプレックスの、

せいだと思う。

 

 もう40年ほど前に岡山大学で調理師の資格を取りに行った教室で机に座った時、

時代と私の年齢にむりがなければここで勉強していたかもな?


  そんなことがあり自己嫌悪が少し解消した。


私は年齢のせいか、昔の事書いておきたいと思い、それには次系率に

正しく書いてみたいとワードを開いた。私が生まれたのは神戸の街です。1941年に生まれて、戦前の空気が何だか騒然としたころです。

父が、その時には中国の満州の倉庫会社に転勤でそのまま現地召集で、兵隊さんになり終戦の時にはロシアの捕虜収容所にいました。


4年の歳月を得て日本に帰りました。帰ってきて初めて父との対面でした。

その頃は母の実家で疎開生活でした。祖母と母は神戸の街と母の実家を、行き来して

父のいない間の生活を立てていました。生計は農家からお米を買い神戸で生活用品を、

買って物々交換のようなことで父の帰りを待っていました。


 父と初めて会うとき、わたしは小学2年生、妹は来春1年の年齢でした。

父の迎いには祖母と母が私達姉妹にはサッカーの生地でおそろいのワンピースを着せて父の帰りを泣きながら迎えました。


 父は三ノ宮帰還列車から降りる予定でしたが、共に帰還した人たちが、名残惜しみ

三宮で降りる予定が、引き留められて神戸まで行きました。その間父は皆と別れの挨拶をしていました。神戸で降りて妹と私を両腕に抱いて駅のホームのかいだんを降りて、

行きました。

 駅の階段には警察官が拍手しながら迎えてくれました。

当時年数がかかり帰還した人は、マッカーサーのレッドパージで危険な考えを、

持っている人と思われていたようです。


 父の帰還のお祝いを家でしました。皆が喜び戦時中に祖父が死んでいましたが、

その身がわりで帰れたと話したら、そんな簡単な話ではないと父は泣きながら、話したのを、覚えています。


 ですから、私と、父の縁は短く私は小学2年、妹は幼稚園年令で会い私が20歳で

別れましたので8年だけ暮らしました。当時戦後の暮らしで混然とした時代で、勉強したくても、できる時代では無いのです。父は会社の同僚から英語を習い仕事について頑張っていました。父はロシア語、中国語、英語と3か国の言葉が話せていました。


 そんな父を見ていた私は、いつでも気持ちがあれば学べるのだと思いました。

父の会社は倉庫の会社で荷物の出はいりの管理でした。その頃の話でバナナの、輸入があり、その過程を見て、父はお金に余裕があればバナナを売りたいと、よく話していたのを思い出します。


 私は子供の頃から、編み物が好きで時間がある時三宮の駅前にソゴー百貨店があり

手芸用品の売り場で編み物のデモンストレーションがありそれを、時間の許す限り,見て覚えました。


 生きていくためにその時必要な資格の勉強して身に着けましたが、編み物だけはほぼ、自分で身に着けた、楽しみです。機械編み、ミシンの内職は習いながら身に着けましたが、

手編みは長年自分でコツコツ編んでで楽しんでいます。


 そのため昔からの素材が沢山あり、それを持ち出し、それで気が付きましたが、

 紫色が好きなのでその色の作品が多くあります。



 その頃の父の生き方が、私にも学ぶ大切さを心に刻む風景になりました。父との縁は小学2年から、20歳の12年間で終わりました。後年私が介護の仕事で様々の人と関わり今は理解できますが20歳で父との縁が終わり、父の自死は理解できませんでした

 父は遺書を書いていました。


 私がいつも書いていたスケッチブックにきれいな楷書で先に行くこと許してほしい、

書いてあり、後日もう1度読み直したいと思い探したがもうありませんでした。


 妹に私のスケッチブックどこにあると?と聞くと、あの後頭にきて燃やしたと。さらっと言いました。何か唖然のした気持ちで、あー気持ちの受け方は違うんだと思いました。


 人は同じ出来事でも感覚は違うんだと、考えの差を思い知りました。


 ごじつ私が介護の仕事し始め父の病気が理解できました。

自分の意志と違い身に起きたことが受け止められず、その事の苦しみから

逃げようとしたのでしょうか?


 それなら何とかわかるような気持ちです。


 私のトラウマは20歳の時から84歳の現在まで続きました。

その出来事から、64年がたち心にある自分の気持ちの整理、なんか聞いてもらいたいとか、絵心がエッセイに変化したのかな?と思います。


 介護の仕事は、岡山の済生会の病院の栄養課に採用されてそれから目覚めたように思います。

 その年私は47歳でしたが娘が、お母さんもう家で居なくても、私も学校だからいいよと、返事くれたので、履歴書送り45歳が年齢制限でしたが47歳の私が採用されました。病院の入院患者さんの食事作りでした。


 院内の4棟ある病棟を新卒の技師さんや、ドクターの人達と挨拶巡りをしました。

1番方は朝早く6時のマリンライナーでも間に合わないので2番方から入りました。


 栄養科の課長さんが許可してくれましたので2番方でした。

でもそれは同僚の人には、あまりよく思われていなかったので時折変な嫌がらせにも会いながら、頑張りました。


 娘がかーさん助けてと、SOSです。思っていたより朝の支度が、大変みたいで、

済生会には、長くは務める事が出来ず、迷惑をかけてしまいました。


 その時の経験で私はヘルパーの勉強をしました。

 






 介護の仕事は10年他事業所のヘルパーをして、それから法人の事業所を立ち上げ、

24年間続けて今年の3月に法人の終了の手続きをしました。今年の3月の話です。



 それまでの私は自分のことよりも先に介護利用者の体の状態、緊急の課題、ヘルパーさんの事、その事に神経を使いまっした。この状態は、加重労働で作業しながら、別のこと頭に

置きながらの仕事です。



 それから自分の時間沢山出来て、何の責任も無く、自分の好きな事が出来る。

フリータイム、あーあこんな時間もあるんだーとおもえました。



 これからは出来るだけ元気で、家族に迷惑を掛けなくしながら、自分を楽しもう。




 編み物、多肉、園芸健康体操、ヨガ、残りの人生楽しみたいと思います

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