第四話 母と子(後編)
日に日に重くなっていく身体を抱えながら、私は冷たい廊下を進む。
「ねえ、見て。あの子、また太ったんじゃない?」
「ほんとよ。少し前までは不気味なくらい痩せていたのにね。」
女官や城を出入りする貴族の娘たちの陰口は、妊娠が明らかになるにつれますます大きくなった。
見かねたソヨルが噤んでいた口を開く。
「お言葉ですが、彼女は侍医の指示で体重を増やしているのです。冗談でも、そのようなことを口にするのはおやめください。」
「五月蠅いわね。側室の従者ごときが偉そうに。」
「それよりも、主人の方をお諫めなさったら? 従者を怒鳴り散らしていたそうじゃない。」
女官はこの間のソヨルとの言い争いを聞いていたらしい。
女官はわざと笑い声を立てた。
ソヨルの額に青筋が浮かぶが、私は彼の手を引いて歩き出す。背中に突き刺さる棘のような視線を、ただ無視するしかなかった。
ソヨルはまるで自分のことのように怒り、傷ついてくれる。
その優しさすら、私には怖かった。私が彼を傷つけてしまわないか、それが一番恐ろしいのだ。
「今夜は随分と冷えますね。」
晩秋の夜、すっかり私の檻と化した部屋。ソヨルは私に肩掛けを掛け、カップに湯を注いでくれる。
「ねえ、ソヨル。私がこの子の名前を考えてもいいかしら。」
ソヨルは目を丸くする。ついこの間まで存在を拒絶していた子に名前を付けたいと言ったことが驚きだったのだろう。
「そうですね。今度シリウス様にお会いしたときにお聞きしてみましょう。」
「ふふ、男の子かな。女の子かな。」
私は膨らみ始めたお腹にそっと手を当てる。
この子には、しっかりと愛を注いであげたい。そう思えば思うほど、胸は切なく熱くなる。
その穏やかな気持ちのまま眠りにつこうとしたとき――控えめなノックが聞こえた。
「俺だ。」
低い声。ソヨルが扉を開けると、シリウスが入ってきた。
彼は寝台の脇まで来ると、一瞬だけ私を見て、すぐに視線を逸らす。
ここ最近、何日かおきにこうして気まぐれに現れては、何も言わずに去っていく。
「殿下、ちょうどお聞きしたかったことが…。」
「少し様子を見に来ただけだ。そんな暇はない。」
冷たい声。
振り返ろうとした彼を、私は衝動的に呼び止めてしまった。
「殿下…! あっ、痛っ!」
咄嗟に立ち上がったせいで、腹に鋭い痛みが走る。膝から崩れ落ちかけた瞬間、逞しい腕が伸びた。
「無理をするな。」
低い声。怒りとも、焦りともつかない響き。
抱き起こされ、寝台に戻される。
「殿下…。」
礼を言おうとしたのに、彼の横顔を見た瞬間、言葉は氷のように凍りついた。
視線は相変わらず、私ではなく遠くを睨んでいる。
やがて扉が閉じられると、残されたのは私とソヨルだけだった。
私はかろうじて笑みを作ったが、胸の奥は虚しさで満たされていた。
厳しい冬が訪れ、腹は大きく張り、吐き気に眠れない日々が続く。
妊婦の世話はソヨル一人だけでは手が回らない。仕方なく女官たちが世話に来るが、彼女らはあからさまな嫌悪を隠さず、必要な世話すら放棄することもあった。
「まったく、この子のせいで仕事が増える。」
「卑しい子の世話なんて、屈辱だわ。」
ソヨルは震える手で私の手を握った。
「すみません。僕には止められない…。」
春先、寒さが和らぎ始めた夜。
「今夜は星が綺麗ですね。明日はきっと晴れますよ。もし産まれるなら、そんな日がいいですね。」
ソヨルの穏やかな声を聞きながら本を手にしていたとき、突然、腹に鈍い痛みが走った。
「痛っ…。」
「ルシア様?」
「ごめんなさい…。急にお腹が…。」
「…!ルシア様、産室まで歩けますか?」
「ええ、でも、産室って…。もう産まれるの?」
「はい、今すぐにという訳ではありませんが。その様子ですと陣痛が始まったのかと。」
胸が締め付けられる。恐怖と緊張で息が乱れた。
産室。
鉄の匂いと汗の臭気にむせ返り、喉が焼けるように乾く。
「痛い…痛いっ…!」
「出産は皆痛いものよ。耐えられなくてどうするの。」
背後から女官に押さえつけられ、ソヨルが左手を握る。
しかし、声は霞み、遠ざかっていく。血の気が引き、霧がかかる。
骨盤が割れるような錯覚に呻き声すら喉に詰まり、腿を伝って赤黒い液体が滴り落ちる。
分娩椅子の下にはすでに血の水溜まりが広がり、産婆の腕に飛び散ったそれを女官が顔を顰めて拭う。
ソヨルの手を掴んだ指先は白く変色し、爪が彼の皮膚に食い込み血を滲ませていた。
息は途切れ途切れになり、肺が焼けつくように痛む。
「ルシア様?ルシア様!!!」
何やら辺りが騒がしくなっていく。ソヨルが左手を握る力が強くなっていく。
「出血が多い…。このままでは母子共に死んでしまいます。」
「それなら、せめて子だけでも。」
侍医と産婆の声。
(ああ、やっぱり…。この子だけでも、生きられるなら…。)
諦めかけたそのとき。
「ふざけるな!」
地を這うような声。シリウスが立っていた。
「子だけ生きて何になる! 母子ともに救うのがお前たちの仕事だろう!」
その声に、私ははっと目を開く。
彼は右手を握り、何かを押し込んだ。黄色い光を帯びた小石。
「諦めるな。生きろ。お前がこの子を抱いてやれ。絶対にだ。」
その瞳が初めて、真っ直ぐに私を捉えていた。
冷たさの奥に、燃えるような光が宿っていた。
私はその熱に縋るように、最後の力を振り絞った。
――産声。
「ルシア様!男の子ですよ!」
ソヨルの目に涙が光る。私も熱くなり、手を伸ばした。
「ああ…。やっと…。」
だがその手は、産婆に払いのけられる。
「あなたにこの子を抱く資格などありません。」
「おい、一瞬抱かせるくらい――」シリウスが声を荒らげる。
「なりません。この子は、もはや卑しい娘の子ではないのです。」
必死に伸ばす指先は、空を掴むだけ。
赤子の温もりは遠ざかり、扉の向こうに消えた。
「ルシア様…。ごめんなさい…。」
ソヨルは肩を震わせている。
残されたのは私とソヨルだけ。
掌に残った小石は光と色を失い、希望は無くなったのだと無言で告げているようだった。
涙は出なかった。
(私は、また、ひとりだ…。)
窓の外、晴れ渡る青空が、私を嘲笑うように輝いていた。
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