第三話 母と子(前編)

私は冷たい大理石が敷き詰められた廊下を、カツカツと音を立てて進んでいく。


すれ違う人びとの目線は、どれも氷のように冷たかった。


いくら宝石や絹のドレスを身に纏っても、私は絵本の世界の住人にはなれないらしい。


そんな滑稽な子どもに冷たい目を向けるのは、彼らにとって当然のことなのだろう。


重い扉を開けると、そこには依然として目を合わせようとしないシリウス様がいた。


「改めてご挨拶申し上げます。ルシアと申します。」


教わった通りに挨拶をすると、老齢の従者が咳払いを一つした。


「いやはや、随分と見違えた。以前に拝見したときよりいっそうお美しくなられた。」


「恐れ入ります。」


深々と頭を下げると、シリウス様はそっぽを向いたままだった。


「それでは、殿下の仰せの通り、礼儀作法を完璧に身に付けられたルシア様には、本日より同衾していただきますようお願い致しますぞ。」


「今晩…?」


シリウスが怪訝な顔をする。


「いくらなんでも早すぎるだろう。」


「いいえ、我々は十分に待ちました。これ以上引き延ばすのはアウルス様がお許しになりません。」


老従者は毅然と告げる。


「…分かった。」


その一言で、もう逃げられないのだと実感する。


だが、それよりも気にかかったのは――


(全然、目を合わせてくださらない…。)


それでも、私にはその瞳に僅かな憂いが滲んでいるのを見たような気がした。




とある蒸し暑い夏の日のことだった。


「ルシア様、体調が優れないのですか?」


朝食の時間を過ぎ、昼になろうという頃、なかなか寝台から出てこない私にソヨルが声を掛ける。


「ごめんなさい。昨晩から吐き気がして…。」


「早く仰ってくださいよ。顔色も悪いです。すぐに侍医を呼びますね。」


ソヨルは急いで侍医を呼んだ。診察が終わると、侍医は淡々と告げた。


「妊娠しておられます。」


「え…?」


<妊娠>という言葉が、私の胸を殴ったように響く。


「どうして…」と声に出しかけて、私は吐き気に襲われた。


(もう、逃げられないの…?)


<妊娠>という言葉は、この王城に私を縛り付ける鎖のように思えた。




「ほら、見なさい。あの子、コルセットをしていないじゃない。噂は本当だったのね。」


「まあ、いやらしい。殿下も、その婚約者も気の毒よ。自分たちの望んだ子ができないで、あんな卑しい奴隷にできるんだから。」


言葉は刃となって胸に突き刺さり、やがて心を凍らせた。妊娠の噂は瞬く間に広がり、容赦ない悪意が向けられる。


ソヨルはいつも私を守ろうと傍にいてくれたが、陰口を消すことはできない。私は唇を噛みしめることしかできなかった。




「妊娠、か。父上には俺から伝えておく。下がれ。」


シリウス様は一瞥をくれるだけで、口を結んだ。声には喜びの色がない。


ふと机の上を見ると、置かれた拳がぎゅっと握られているのが見えた。




部屋に戻ると、声を殺して私は泣いた。




「ごめんなさい、耐えられなくて…。」


「大丈夫ですよ。新しいシーツを持ってまいります。少々お待ちください。」


悪阻が酷く、ほんの少しの刺激で吐いてしまう日が続く。今日もシーツを汚してしまい、長椅子に横になって休もうとしたその時、扉が叩かれた。


ソヨルにしては早すぎる。侍医かと思いながら「はい」と声を掛けると、現れたのは意外過ぎる人物だった。


「…殿下。」


シリウス様は一瞬だけこちらを見やったが、その瞳はすぐに逸らされた。


眉間の皺が深く刻まれたまま、冷ややかな声が落ちる。


「そこで寝ていたのか。」


「申し訳ありません。お行儀が悪いとは思ったのですが…シーツを汚してしまい、寝台が使えなくて…。」


「言い訳は要らん。体調が優れないのなら、そのまま横になっていろ。」


声には苛立ちも嘲りもなく、ただ氷のような無機質さだけがあった。


彼は足早にテーブルへ向かい、手にしていた包みを無造作に置いた。


「後で食え。どうせ碌に食事を取っていないのだろう。」


命令のようなその一言だけを残し、シリウス様は振り返ることなく扉へ向かう。


「殿下、ありがとうございます…。」


掠れた礼の言葉は、扉が閉まる音にかき消された。


廊下を遠ざかっていく足音は、迷いも振り返りも許さぬように冷徹だった。




机の上の包みを開くと、赤く熟れた林檎が一つ。


その鮮やかさは、冷たく閉ざされた背中を思い出させるばかりで、甘さの兆しを感じることはできなかった。




「ルシア様、食が進まないのは分かりますが、これ以上お痩せになると危険です。どうか少しお召し上がりください。」


私はただ、目の前の食事を睨みつけていた。


『お聞きになった?あの子、日に日に痩せているって。このまま母子ともにダメになればいいのに。』


脳裏にこびりついた嘲笑。容赦なく浴びせられる視線。


それらは確実に、私の心も身体も静かに削り取っていった。


「ルシア様…。」


「何?」


「周囲の声など気にしないでください。今はご自分の身体とお腹の子を大切になさってください。」


その一言で、私の中の何かがぷつりと切れた。


気づいたときには、ソヨルの手元にあった水差しを掴み、彼にぶちまけていた。


「大切にして…どうするのよ!」


「ルシア様…!」


「いつ、誰が、私を望んだっていうの!?誰が、この子を望んだっていうの!?」


喉が裂けるような叫び声。声と一緒に、胸の奥に溜まっていた黒い塊が吐き出されていく。


私は床に崩れ落ち、爪を立て、泣きじゃくった。


「私なんか…この子なんか…!」


「ルシア様、聞いてください!」


ソヨルの声が震えていた。


「僕はあなたに生きていてほしい。お腹の子も無事に生まれてほしい。僕があなたとこの子を守ります。だから、どうか…そんなことを言わないで…。」


その声に、私は我に返った。


彼を傷つけた私に守られる資格などない。


それでも――彼は、この子の無事を祈ってくれている。


この子を望んでくれる人が、たった一人でもいるのなら。




ならば、私が守らなければ。


どれほど蔑まれようと、罵られようと、私はこの子を抱きしめて生き抜く。


「ごめんね…。私が、あなたを守るから。」


震える手で腹に触れると、胸の奥にかすかに光が差した気がした。




――だが、その光まだ弱弱しく、闇に呑まれそうなほどに小さい。


不安と孤独は、相変わらず私の影に寄り添っていた。







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