第三章 引き金の輪廻
――冷たい夜気。
目を開けた瞬間、秋山翔吾は肺の奥まで鉄の匂いを吸い込んだ。喉が勝手にひくつき、吐き戻しそうになった。
気づけば、自分はまた――旧射撃場に立っていた。
胸を覆っていたはずの熱も、耳奥で爆ぜた銃声も、いまは消えている。
だが、頭蓋を砕かれるあの感覚だけが、皮膚の裏に残っていた。
砕け散った破片が夜空に舞うのを、自分の外から眺めていた――あの瞬間の記憶が、まだ生々しく指先を震わせていた。
隣で成瀬詩織がしゃくり上げる。声は出ていない。ただ喉が勝手にひゅうひゅう鳴っている。
彼女の両手は自分の胸元を押さえていた。そこには何もない。血も穴も――けれど彼女は、さっき確かに破裂した胸の痛みに囚われていた。指先が服の布地を引きちぎる勢いで震え続けていた。
「……ッ、うそ……? だって、私、今……」
目の焦点は合っていない。袖を掴もうとした手が宙をさまよい、やっと翔吾の腕にすがりついた。
水沢真帆は顔色を失っていた。さっきの、背骨を折りそうな平手打ちの凛とした力はどこにもない。
彼女は両手を喉に添えたまま、声を発しようとしても潰れて出てこなかった。
「オ゛ボッ……」――その歪んだ断末魔が、まだ喉の奥に絡みついているのか、吐息ひとつ洩れるたび、目が恐怖で見開かれる。
藤堂晴斗は、両腕で自分の胸を抱きかかえるようにしてしゃがみこんでいた。顔には汗が滲み、肩は上下に小刻みに揺れている。
「……砕けた……ここ、穴……」
彼は自分の胸を叩いてみせる。だが布地は破れていない。骨も血も露出していない。
それでも本人には、砕けた肋骨が肺を突き刺し、熱い液体が喉に溜まっていく感覚が、今も延々と続いていた。
小山悠真だけは、呆然と立ったまま、両手を広げて空を見ていた。
眼鏡は震えでずれ落ち、レコーダーは握りしめたまま電源が切れている。
「……俺、撃たれた……見たんだ……月が……赤いのに……」
呟きは支離滅裂だった。頭部を撃ち抜かれる瞬間に見た世界の赤が、視界から離れていないのだ。
片手でこめかみを押さえ、指先で何度も「穴が空いてないか」確かめる。触れれば無事なのに、触れるほど「空いているはず」という感覚が強まっていく。
誰も血を流していない。衣服も乱れていない。
だが五人の体は、死の痛みと恐怖を「現実」として抱え込んでいた。
翔吾は思わず吐き出した。
「……なんで……なんで、またここなんだよ……」
鉄扉は沈黙して立ち尽くしていた。
だがその錆色は、血に濡れたように見えた。
湿気に濁った空気も、コンクリートの匂いも、すべてが「さっき」と同じだった。
いや、それどころか、死ぬ前にここに立っていた時と変わらない。
秋山翔吾は、自分のシャツのボタンに目を落とした。
色あせたチェック柄のシャツ、その胸元のボタンが一つ外れている――。
死ぬ直前、詩織に袖を握られ、無意識に指で弄んでいたボタン。
撃たれて血に染まったはずなのに、今はきれいなまま、外れっぱなしで残っていた。
成瀬詩織が小さく声を震わせた。
「……これ、さっきと……同じ服……」
彼女のブラウスは真っ白に戻っていた。胸を裂かれて真紅に染まったはずなのに。
震える指で布地を押さえ、袖口をまさぐりながら、顔を真っ青にする。
「わたし……翔吾くんの前で……血が……なのに……」
「俺もだ……」
藤堂晴斗は、自分のTシャツを掴み上げた。
ド派手なプリントは破れていない。胸を貫かれて壁に叩きつけられたとき、布と骨と肺が同時に砕けた感覚がまだ残っているのに。
「ここ、穴が開いて……肺ん中まで見えて……! なんで元に戻ってんだよッ!」
水沢真帆は沈黙していた。
だが両の手が震えている。喉に当てた指先は、さっき弾丸で潰されたあの感触をまだ覚えている。
声を出そうとしても、幻の痛みが咽せ返る。
ようやく絞り出した声は、掠れて低かった。
「……時間が……戻ったの?」
「いや、違う」
小山悠真が、震えながらレコーダーを握りしめる。電源は落ちている。落としたはずなのに、また手に持っていた。
「時間が巻き戻ったんじゃない……俺たちが……撃たれる前の配置に戻されたんだ。記憶だけ残して」
声が裏返る。
「……だって俺、頭……撃たれて……中身が……飛んで……月が……見えたんだぞ!」
言葉は途切れた。誰も否定しなかった。
それぞれが、自分の死の痛みを「現実」として抱え込んでいたからだ。
翔吾が掠れ声で呟く。
「……死んだのに……なんでまた……」
答えはなかった。
ただ、湿った空気の奥で――聞き覚えのある金属音が、今にも鳴りそうな気配を漂わせていた。
「ふざけんなよ! 俺ら、全員……撃たれて死んだんだぞ!」
晴斗の叫びは、声というより悲鳴だった。胸を抱えたまま、まるで再び撃たれるのを恐れるように背中を鉄扉に押しつける。
「おかしい……こんなの、絶対におかしい……!」
詩織は涙で顔を濡らしながら翔吾の袖を握りしめる。
「翔吾くん、守ってくれたのに……私、胸が、破裂して……! ねぇ、なんで、どうして……!」
翔吾も顔を歪める。死の感触はまだ脳裏にこびりついている。
「わかんねえよ……わかんねえよ、俺だって! 頭、砕けて……何でまた立ってんだよ……!」
額に滲む汗が目に落ち、視界を歪ませる。
悠真はレコーダーを両手で握りしめ、声を震わせた。
「これは……記録に残すべき……いや、違う、違う違うッ! もう一回鳴ったら……また……また誰か……!」
半狂乱に早口でまくしたて、自分の声に怯えるように口を押さえる。
「――落ち着きなさいッ‼」
その瞬間、真帆の声が場を裂いた。
震えの一欠片もない声だった。
白い指先は喉に添えられたまま。弾丸に潰された感覚は消えていないはずなのに、その目だけは氷のように澄みきっていた。
「騒いだって何も変わらない! 死んだことも、戻されたことも事実よ! なら――どうするかを考えるしかないでしょ!」
沈黙が落ちた。
晴斗の口は開いたまま言葉を失い、詩織のすすり泣きも小さくなる。
翔吾は震える歯を食いしばり、悠真はレコーダーを抱きかかえて目を逸らした。
真帆はその全員を睨み据え、凍るような声で言い放つ。
「次にカチリが鳴ったら、また殺される。――それだけは確かよ」
空気が震えた。
闇の奥から、金属の冷たい気配がじわじわと近づいてくる。
――カチリ。
金属が弾かれる音が、夜気に落ちた。
耳の奥の奥まで沁み込んで、心臓の拍動をねじ伏せる。
その瞬間、射撃場全体が水底になったように感じた。
音が消える。風も、虫も、呼吸すらも。
残ったのは――こちらへ「何か」が歩いてくる気配だけ。
五人全員が、同時に息を呑んだ。
顔を見合わせることすらできない。見たら、すぐそこに影が立っている気がして。
足音は聞こえなかった。だが、確かに近づいていた。
靴の裏が湿った床を踏みしめ、ひとつ、またひとつと距離を詰めてくる――そんな錯覚が胸の奥に食い込んでくる。
翔吾の背中を、冷たい指でなぞられたような戦慄が走った。
詩織は袖を握る手に力を込め、爪が布を破りそうに震えている。
晴斗は喉を鳴らして「ひっ」と声を漏らしたが、それすら布に吸い込まれた。
空気がねばりつく。
目の前の闇が、ゆっくりと「銃口」の形に歪んでいく。
誰もが悟った。――次は自分だ。
「……ど、どうする……?」
声を出したつもりだった。だが翔吾の声は、喉から外へ出る前に潰れた。
声帯が震える感覚だけが生々しく残り、空気は音にならず、喉の奥で冷たい塊となって痙攣した。
詩織の指先は彼の腕に食い込み、まるで彼の肉までえぐり取ろうとするかのようだった。爪の先が皮膚を裂き、血が出るような感覚さえある。
その顔は蒼白で、口は開いているのに声は出ない。吐息すら布に吸い込まれて消えていった。
晴斗は歯をかちかちと鳴らしていた。止めようとしても止まらない。顎の奥が勝手に揺れ、骨が寒気に叩かれるたび、頭蓋の中に小さな鈴の音のように響いていた。彼自身の震えが、笑っているのか泣いているのかすら判別できない。
悠真はレコーダーを胸に押し当てていた。震える指がボタンを何度も押し損ね、録音ランプは点いては消え、また点く。彼の眼鏡は曇り、額から滴る汗がレンズを曇らせ、視界をさらに狭めていく。それでも手は止まらない――「残さなきゃ」という強迫観念だけが、死の恐怖に真っ向からぶつかっていた。
夜気は彼らの反応をことごとく吸い取り、吐いた息も、声にならない声も、闇の底へ沈めていった。
沈黙を破ったのは――真帆だった。
「……走れ」
低く、だが鋼のように揺らがない声。
彼女の目は恐怖に揺れていた。だが、その奥にあったのは確かな意志だった。
次の瞬間、五人の脚が同時に動いた。
まるで見えない指揮者に操られたように、一斉に、無様に。
鉄扉を振り返る者はいない。振り返った瞬間、背中に冷たい銃口を押しつけられる気がした。
夜の校庭を駆け抜ける。
靴音が乾いた銃声のように跳ね返り、濡れた芝とアスファルトを無秩序に叩き続ける。
「はぁっ……! はぁっ……!」
詩織は喉を裂くように息を吐き、胸を押さえる手が震え、涙と涎が頬に貼りついていた。
翔吾は肺が焼けつくのを無視し、背中で彼女を庇いながら前へ進む。呼吸はもう走りではなく、悲鳴に近かった。
晴斗は何かを叫んでいたが、言葉にならなかった。声は空気に潰され、ただ無意味な吠え声だけが闇に散った。
悠真は半狂乱でレコーダーを抱きしめ、「波形が、録れてる……録れてる……」と呪文のように繰り返していた。足はもつれ、転びそうになりながらも必死に地面を叩きつける。
真帆だけは声を出さなかった。
呼吸のたびに喉が切り裂かれるように痛んでも、表情は動かさない。ただ前を見据え、錆びた校門を睨みつけるように走っていた。
闇に沈んだ運動場が無限に伸びていく。校門は遠ざかるのではなく、こちらを拒むようにじりじりと後退しているように見えた。
背後からは、軍靴の幻聴めいた「コツ、コツ」が、彼らの靴音と重なって迫ってくる。
そこへ辿り着けるかどうか――それが、生き延びる最後の線だった。
門柱が、やっと見えた。
その瞬間――
――カチリ。
乾いた予兆の直後、轟音が夜を裂いた。
翔吾の後頭部が火花のように弾け、赤と白が月光を浴びて飛び散る。
「翔吾くんッ!!」
詩織の叫びは悲鳴に潰れ、次の瞬間、彼女の胸が破裂した。
「ん゛お゛ぉ゛ぉ゛ッ」
弾丸は衣服ごと心臓を粉砕し、真紅の霧を夜風に撒き散らす。
声は喉を引き裂くように絞り出され、すぐに途切れた。
彼女の体は、命を失った肉袋のように、翔吾の倒れた場所に無残に折り重なるように崩れ落ちた。
「や、やめ……ッ!」
悠真がレコーダーを掲げたその顔面を、銃声が貫いた。
頭蓋は正確に撃ち抜かれ、メモリカードもろとも吹き飛んだ。彼の体は土に吸い込まれるように突っ伏す。
真帆は足を止めなかった。
声も上げずに走り続けた。だが狙撃の射線は、冷酷にその背中を貫いた。
弾丸は肩甲骨の間を穿ち、喉の奥からは「かはッ」と血泡が噴き出した。
彼女は振り返りもせず、ただ顔面から芝へ倒れこんだ。
「うわあああああッ!!」
最後に残った晴斗は、恐怖で叫びながら校門に手を伸ばした。
だが、その掌が鉄柵に触れる寸前――銃声が鳴った。
弾丸は彼の腰を粉砕し、次弾が脊髄を貫き、最後に後頭部を撃ち抜いた。
門柱に叩きつけられた彼の体は、ぼろ布のように崩れ落ちた。
――沈黙。
運動場には、五つの死体だけが散乱していた。
翔吾の頭は破裂し、赤と白とがまだ土に溶け合っていた。月光に照らされた飛沫は乾きかけて黒く固まり、まるで砂利に混ざったガラス片のように光っていた。
詩織は胸元を両手で押さえたまま倒れていた。だがその指は固まった血で服に貼りつき、爪の先まで真紅に染まっていた。顔は上を向き、口を半開きにしたまま、「翔吾」という呼びかけの残りかすを吐ききれずに固まっている。
悠真の頭蓋は正確に抜かれていた。レコーダーはまだ腕に抱きかかえられていたが、画面には何も映っていない。眼鏡の片方は吹き飛び、もう片方はレンズごと額に突き刺さって、血の中に妙に澄んだ光を反射していた。
真帆はうつ伏せに崩れていた。背中の穴から血が土に吸い込まれ、カーディガンが泥と一緒に重たく張り付いている。 髪は顔を覆い隠し、細い肩が痙攣する度、そこから漏れ出る血の筋が、夜風に冷やされて黒い糸のように地面を這っていた。
晴斗は門柱の下に引き倒されたまま、両足がありえない角度に折れていた。頭は半分つぶれ、脳漿がコンクリのひび割れに染み込んでいく。まだ熱を持ったそれが「じゅっ」と小さな音を立て、煙のような匂いを漂わせた。
湿った夜風が、血と硝煙を撫で回すように吹き抜ける。
だがその風は何も浄化せず、ただ腐った鉄と肉の匂いをいっそう濃く散らしただけだった。
――闇。
翔吾は目を開けた瞬間、肺が痙攣した。
鼻に広がるのは苔と錆、焦げた埃。……嗅ぎ慣れたはずの匂いだ。
いや、違う。さっきまで嗅いでいた死の中の匂いが、そのまま戻ってきただけだった。
気づけば五人は――また、旧射撃場に立っていた。
壁の弾痕は黒い瞳のようにこちらを覗き、鉄骨は黒い歯列のように口を開けている。
床の水たまりは映さない黒のまま、沈黙を湛えていた。
血は消えている。死体もない。だが、自分たちの体の内側には、さっき味わった「砕かれる」「貫かれる」感触がまだ残っていた。
「……また、ここ……」
詩織の声はひび割れていた。彼女の指先は無意識に胸を押さえている。破裂した痛みが、まだ皮膚の下に燻っているからだ。
晴斗は両手を震わせ、壁に背を預けた。
「ちょ、ちょっと待て……だって俺ら……俺ら全員……」
言葉はそこで途切れ、歯がかちかちと鳴った。音を止めたいのに止まらない。
悠真はレコーダーを抱きしめたまま、顔を蒼白にして呟いた。
「ループ……これは、ループだ……。死んでも……またここに戻される……」
声は恐怖で震えているのに、その目は狂気じみた確信に光っていた。
真帆だけが、必死に平静を保とうとしていた。
「落ち着いて……!」
だがその声はかすれていた。喉を撃ち抜かれた感触がまだ残り、呼吸のたびに冷たい鉄の味が蘇ってくる。
沈黙が一瞬、場を支配した。
それを破ったのは、翔吾だった。
「……そもそも、あいつは……何なんだ」
喉が裂けそうに乾いていたが、言わずにはいられなかった。
「警備員……じゃない。軍服だった……勲章まで……」
詩織が顔を上げる。涙で濡れた頬に、かすかな月光が滲んだ。
「……でも、今の時代に……軍人なんて……いるはず、ない……」
晴斗が吐き捨てるように叫んだ。
「じゃあやっぱり幽霊かよ!? 幽霊に撃たれて、痛ぇのも本物で、死んだのも本物で……ふざけんなよッ!」
声は裏返り、恐怖と怒りがごちゃ混ぜになっていた。
悠真がうわずった声で割り込む。
「……軍事教練だ……! 戦前の……三八式歩兵銃……! あれ、本物だった……! 俺、授業で見た……写真と……同じ……!」
息を切らしながら、早口で続ける。
「戦後に警備員が死んだって話は……デマなんだよ! 伝承を子どもに伝えやすくするための嘘! 本当は――1930年代、教練中に事故死した軍人がいた! ……だったら、あの教官の幽霊なのかよ!!」
言葉が場を突き刺した。
翔吾は頭を振った。
「待て……そんな……じゃあ、どうすれば……俺たち、どうすればいいんだよッ!」
詩織はしゃくり上げ、声にならない悲鳴を吐き続ける。
晴斗は髪を掻きむしり、鉄骨に拳を叩きつけて血を滲ませた。
「幽霊相手にどうすんだよ!? 撃たれんのが運命なら、もう詰みじゃねえか!!」
悠真は必死に言葉を連ねるが、声はもう半狂乱だった。
「いや……まだ……方法があるはずだ! 幽霊ってのは、由来を突き止めれば……弱点が……!」
真帆が叫んだ。
「落ち着けって言ってるでしょッ!!」
その声が響いた直後――
――カチリ。
銃口の影が、すぐそこにあった。
またしても。
空気が水に沈んだように押し潰される。
闇の奥、黒い軍帽が浮かび上がった。
軍服の男の口元が動く。
「撃つぞ」
轟音。
弾丸は詩織の胸を真っ二つに裂いた。
白いブラウスが真紅に爆ぜ、彼女は悲鳴を上げる暇すらなく、その場で崩れ落ちた。
「しょ……」と言いかけた唇から、赤い泡が弾け、音の残りかすだけが夜に消えた。
「ひッ……! や、やめろぉぉぉッ!!」
晴斗が絶叫し、両腕を振り回した。
壁にスティックを叩きつけるように拳を打ちつけ、鉄骨にぶつかってはじけた音が虚しく響く。
「ふざけんなッ! 俺は死にたくねぇッ!!」
――カチリ。
轟音。
次の瞬間、彼の腹が裂けた。臓腑がこぼれ落ち、悲鳴は血に呑まれた。
膝をつくより早く、頭部へ二発目が正確に突き刺さり、額の奥を粉砕した。
翔吾は反射的に詩織の死体の前へ飛び出していた。
「やめろォォッ!!」
彼の両腕は空を掴むだけで、庇うことしかできない。
だが銃口は容赦なく彼の胸を撃ち抜いた。
心臓の奥に鉄の杭を打ち込まれたような衝撃。
翔吾の体は後ろへ吹き飛び、詩織の亡骸に重なるように崩れ落ちた。
その目が最後に映したのは――
軍帽の下、冷ややかに動いた口元だった。
『兵は常に銃口を自分に向ける覚悟を持て』
残されたのは、悠真と真帆だけだった。
壁に飛び散った鮮血の匂いが、まだ熱を帯びている。
悠真は震える手でレコーダーを抱きしめ、早口でまくしたてた。
「だ、大丈夫だ……弱点があるはずだ……名前、名前を……! 由来を突き止めれば……! きっと……!」
その声は理屈を装っていたが、裏返った音節は半分悲鳴だった。
――カチリ。
轟音が狭い空間を切り裂いた。
弾丸は彼の口の奥を貫いた。
言葉の途中で舌と喉が吹き飛び、レコーダーには「がっ」という音しか残らなかった。
頭部の半分が砕け、壁に叩きつけられた彼は、そのまま音声も記録も残さずに沈黙した。
「……やめて」
真帆は声を震わせながらも、一歩も下がらなかった。
冷たく濡れた瞳で、闇に浮かぶ銃口を睨みつける。
「……どうせ殺すんでしょ」
強がる声の下で、胸は荒く上下していた。
汗で張りついたカーディガンの下、白いノースリーブが肌に沿ってかすかに透ける。
喉を鳴らして息を吸い込んだ瞬間、布が小さく盛り上がり、湿った夜気の中でいやに生々しく揺れた。
――カチリ。
真帆の体が、びくりと震えた。
轟音が鳴り、弾丸は鎖骨から胸の奥へ突き刺さった。
声を上げる間もなく、彼女の口から熱い息が漏れる。
血が逆流し、唇を濡らした赤が頬をつたう。
崩れ落ちるとき、腰がくねるようにぶつかり、スレンダーな脚が投げ出されて床に沿った。
指先はなお、カーディガンを必死に握り、震えていた。
最後に残ったのは、胸から溢れた血潮が濡れた布を透かし、夜の照明にかすかな艶を残す光景だった。
――沈黙。
旧射撃場には、再び五つの死体だけが横たわっていた。
硝煙と血の匂いが濃く溶け合い、誰も動かない。
……だが次の瞬間、視界は反転し、五人はまた旧射撃場に立たされていた。
翔吾はもう驚かなかった。
胸の奥で心臓が脈を打つたび、次に撃ち抜かれる瞬間を先取りしてしまう。
「どうせまた死ぬ」――その諦めだけが、頭の中で鉛のように沈んでいた。
詩織は翔吾の袖を掴まなかった。
代わりに、両手で自分の胸を抱きすくめていた。
破裂する瞬間の衝撃を、少しでも和らげようとするかのように。
だが彼女の顔は泣き腫らしたまま乾ききり、声も涙ももう出なかった。
晴斗は笑っていた。
「どーせまた戻るんだろ? だったら……死んでりゃいいんだろ!」
その笑いは空っぽで、乾いた咳みたいに耳に刺さった。歯の根が合わず、顎が勝手に震えていた。
悠真は無言でレコーダーを握りしめていた。
もう録音する意味がないことは誰よりも知っていた。
けれど、手を離せば「自分が消える」と思い込み、爪が食い込んで血がにじんでいた。
真帆はただ、虚ろな瞳で前を睨んでいた。
「……どうせ戻る」
そう呟き、唇の端にかすかな笑みを浮かべた。
声の響きは冷たく、しかしどこか甘美ですらあった。まるで死を迎えることそのものに、女としての色を滲ませるように。
――カチリ。
その音を合図に、全員の身体が震えた。
恐怖ではない。恐怖に「慣れたふり」をしているのに、肉体は勝手に反応する。
震え、喉がひきつり、背骨が凍りつく。
轟音が、また世界を裂いた。
痛みは、鮮明だった。
慣れようとした心を嘲笑うように、毎回違う角度で、違う場所を撃ち抜かれる。
肺が潰れる感覚、頭蓋が砕ける衝撃、喉を貫かれる焼けつく痛み。
すべてが「初めて」の苦痛として刻まれ、絶望を塗り直していく。
そして全員が倒れたあと――
また旧射撃場に立たされていた。
心臓は止まらず、呼吸もある。
けれど、目の奥には「死んだ記憶」だけがぎっしり詰まっていた。
絶望に慣れることなど、決してできなかった。
五度目にして、もはや誰も驚かなかった。
翔吾は視線を落としたまま、足が動かなかった。
詩織は袖を掴むこともせず、ただ膝を抱えて震えていた。
悠真はレコーダーを胸に押し当てたまま、乾いた笑い声をこぼしていた。
「……録れてる、また……録れてる……」
晴斗は髪を掻きむしり、血走った目で闇を睨みつける。
「……クソッ、何が目的なんだよ!!」
叫びは悲鳴に近かった。
「なんでだよ!? 何のために俺らを殺すんだよッ!!」
――カチリ。
闇の奥で、軍帽が浮かび上がった。
軍服の影は、ただ威厳を保ったまま前へ歩み出る。
銃口が上がり、口元がゆっくりと動いた。
『兵は繰り返す。死ぬたびに、覚えるまで』
声は怒鳴りではなかった。
むしろ静かで、重く、反響のように射撃場全体を震わせる。
訓練場で教官が生徒を前に口を開く、その口調そのままだった。
その冷酷な威厳に、五人の喉が同時に凍りついた。
怒鳴られるよりも恐ろしい。
揺らぎのない声が、「死」をただ課題として告げる。
「……ふざけんなッ!」
声を上げたのは晴斗だった。
涙と鼻水で顔を濡らしながら、それでも拳を握りしめ、教師に反発する生徒のように叫んだ。
「俺たちは生徒じゃねぇ! 訓練なんか受けてねぇ! 何度も殺されて……それで覚えろだと!? ふざけんなよッ!!」
声は裏返り、喉が裂けるほどの絶叫だった。
だが、軍服の男は微動だにしない。
闇に沈んだ眼窩の奥から、ただ口元だけがゆっくりと開閉した。
『兵は、訓練を拒めない』
それは反論ではなかった。
教壇の前に立つ教師が、淡々と授業の要点を繰り返すように。
晴斗の叫びなど――兵舎の廊下に落ちたボタンを拾い忘れた程度の、くだらぬ出来事にすぎない。
闇の中で、軍服の男の口が再び動いた。
『……私は責任を取った。部下を守れず、己の銃で己を裁いた』
『だが責任は死で終わらぬ。兵は死ぬたびに繰り返す。覚えるまで』
その声は怒りでも悔恨でもなく、ただ訓練の項目を読み上げるかのように静かだった。
――責任。
その言葉が翔吾の胸に重たく沈んだ。
詩織の袖を掴ませてやれなかった。
真帆の忠告を押し返した。
晴斗の軽口を止められず、悠真の不安を受け流した。
結局、誰も守れなかった。
それが責任だというなら、自分はもう果たせていない。
死んで償うことしか残されていないのだろうか――そう考えた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
いや、違う。
死んでしまえば、また繰り返すだけだ。
責任を取るとは、死ぬことじゃない。
守れなかったことを抱えたまま、それでも生きて引きずっていくこと。
その痛みから逃げないこと。
その隣で翔吾は、喉を震わせながら一歩前に出ていた。
「……責任、か」
唇は乾いていた。
胸の奥にまだ、前回撃ち抜かれた衝撃が残っている。
あの痛みを思い出しただけで脚は震え、視界は揺らいだ。
けれど彼は言わずにはいられなかった。
「……俺は、ずっと……選んでこなかった」
声は掠れて、ほとんど独白だった。
「詩織に頼まれたら流されて……晴斗に煽られたら言い返せなくて……真帆に叱られても……結局、何も選ばずにここまで来た」
胸を押さえ、翔吾は嗤うように息を吐いた。
「……それが責任なら、俺は一度も果たしたことがない」
軍服の男の銃口が、ゆっくりと翔吾へ向いた。
影の口元が、冷たく開いた。
『兵は常に、銃口を自分に向ける覚悟を持て』
その言葉に、翔吾の瞳が大きく揺れた。
まるで見透かされているようだった。
「……そうだな」
震える声で、それでもはっきりと答えた。
「俺は……逃げてた。
でも……せめてこの一発だけは……俺の責任で受け止める」
――カチリ。
轟音が鳴り、翔吾の胸を焼き裂いた。
肺の奥で熱が炸裂し、口から血が弾けた。
崩れ落ちる瞬間、翔吾は確かに思った。
――これが、自分の責任だ。
視界が暗転し、地面に倒れる前に意識が途切れた。
――旧射撃場。
また、同じ場所。
湿気に沈んだ空気も、錆びの匂いも、すべてが繰り返されていた。
だが翔吾の瞳は、これまでとは違っていた。
撃ち抜かれ、崩れ落ちる瞬間に「自分の責任」を受け止めた記憶が、まだ胸の奥に灼けついて残っていた。
「……もう校庭はダメだ」
呟きは小さかったが、確かな響きを持っていた。
詩織が顔を上げる。震える目で彼を見つめる。
翔吾は唇を噛み、振り返った。
「外へ走るにしても、広い校庭はいい的になる。――別ルートで抜けるぞ」
晴斗が息を呑んだ。
「べ、別ルート……?」
「林を抜けろ。遮蔽物が多い。ここからなら……少なくとも奴の狙撃よりはマシだ」
翔吾の声は震えていたが、目は真っ直ぐだった。
悠真が半狂乱のように笑う。
「無駄だよ……結局撃たれる……何度やっても同じだ……!」
「それでもいい!」
翔吾は怒鳴った。
「同じでも、俺が選んだルートで死ぬ! もう流されない。……みんな、俺についてこい!」
その言葉に、詩織の指が袖を強く掴んだ。
真帆も、目を伏せたまま小さく頷いた。
晴斗は唇を噛み切るほど噛んで、拳を握った。
闇の奥で――
――カチリ。
軍帽の影が浮かび上がる。
だが今回は、五人が同時に動いた。
翔吾を先頭に、鉄扉から身を翻す。
目指すのは開けた校庭ではなく、雑木林の奥。
影に身を潜めるように、必死で駆け出した。
雑木林に飛び込むと、夜気は急に濃くなった。
葉擦れの音すら、敵に居場所を告げる気がして息が詰まる。
「足を止めるな!」
翔吾は振り返りざまに叫んだ。声は震えていたが、仲間の背中を押すには十分な力があった。
「枝を踏むな、音を出すな……!」
次の瞬間――
パキリ、と小枝の折れる音。
――カチリ。
轟音。
銃声は即座に返ってきた。
地面に散った木片の上、さっき誰かの足があった場所に土煙が弾けた。
「うわッ……!」
晴斗が悲鳴を噛み殺し、木の幹に体を押し付ける。
「狙ってる……足音まで……!」
真帆の声は息になって消えた。
翔吾の心臓は喉を叩き割りそうに跳ねていた。
だが立ち止まれば、次は必ず撃ち抜かれる。
(恐怖に呑まれるな……今は、俺が選んだ道だ……!)
「走れ! 遮蔽物に沿え! 一人ずつじゃない、固まって動け!」
指示を飛ばす声は、恐怖を押し殺したものだった。
枝を踏むたびに銃声が返ってくる。
葉をかすめただけの音さえ、弾丸を呼び寄せる。
まるで闇そのものが聴覚を持ち、少佐の銃口へと情報を送り込んでいるかのようだった。
「くそっ……なんで……!」
悠真が息を切らしながら呻いた。
翔吾は歯を食いしばり、振り返ることなく叫んだ。
「考えるな! 生き残るんだ……ここで!」
枝葉を裂く弾丸の音が、夜の林に重なっていった。
雑木林を抜けると、目の前にコンクリの塀が立ちはだかった。
苔むした灰色の壁は二メートル少し。逃げ道というより絶望の証のように見えた。
「……ここだ」
翔吾は息を切らしながらも言った。
背後ではまだ――カチリ、とあの金属音が闇に滲んでいた。
詩織の手を強く掴む。
「……翔吾くん……」
翔吾は振り返り、全員を睨むように見た。
「校庭に戻るのは死ぬだけだ。……ここを越えるしかない!」
彼は詩織の腕を掴み、壁際へと引き寄せた。
「詩織、上をつかめ! 俺が下から押し上げる!」
「む、無理だよ……高すぎる……!」
「できる! 俺がやらせる!」
翔吾は自分の背中を塀に預け、両手を差し出す。
「足を乗せろ!」
詩織は震えながらも片足を乗せる。翔吾は膝を沈め、一気に体を押し上げた。
「う、うわっ!」
詩織の体が壁際に沿って持ち上がる。指先が上縁のコンクリにかかるが、すべって白い粉が爪にこびりつく。
「力を込めろ! 肩で押すから!」
翔吾は腰を落とし、詩織のもう片足を肩に担ぎ上げるように持ち上げた。
「立て! そのまま立って上を掴め!」
自分の首筋に彼女の靴裏が食い込み、汗が滴り落ちる。
塀の縁に詩織の指が深くかかり、彼女の体が半分乗り上がった。
「翔吾くん……っ!」
「行けぇぇぇッ!!」
全身の力を爆発させる。
詩織の体が、ようやく塀の向こうへと押し出された。
――その瞬間。
背後で、また金属音が鳴った。
――カチリ。
月明かりの下、闇の軍帽と銃口が、確実に翔吾の背中を狙っていた。
汗が凍りつき、全身の筋肉が硬直する。
だが次の瞬間、軍帽の影の口元がわずかに動いた。
『……』
銃口が、ゆっくりと上へ振られた。
向けられた先は、塀の縁に必死でしがみついている詩織だった。
「やめろ……やめろォォォッ!!」
翔吾が絶叫する。
「俺を撃てッ! 俺だ! 俺を撃てえええええッ!!」
その叫びは夜の校庭に木霊したが、銃口は微動だにしなかった。
引き金が絞られる。
轟音。
詩織の背中が爆ぜた。
胸の奥を内側から突き破られ、赤黒い霧が塀の向こうへと散った。
彼女の喉からは、声にならない、えぐり取られるような音が迸った。
「がぼっ……ごぶぅッ……ひゅ、あ、ぁああああッ!!」
肺に溜まった空気と血が一度に噴き出し、悲鳴とも咳ともつかない濁音が夜を震わせる。
塀にしがみついていた指がひとつ、またひとつと外れ、爪がコンクリートに赤い筋を刻んだ。
「翔吾く……んっ……!」
最後の呼びかけは、口いっぱいに広がった血泡に呑み込まれて消えた。
その体は力を失い、重い肉の塊として地面に叩き落ちた。
滴り落ちた血はコンクリートの壁を真紅に染め、筋となって流れ落ちていく。
翔吾は脚から力が抜け、泥に膝をついた。
「やめろ……やめろって言ったのに……ッ!!」
軍帽の影は答えなかった。
ただ、次の標的を探すように、銃口を再びゆっくりと動かした。
詩織の身体が崩れ落ちた瞬間、翔吾の頭の中で何かが千切れた。
「てめええええええええッ!!」
涙と唾を飛ばしながら、翔吾は泥を蹴って突進した。
背後の仲間たちの声はもう耳に届かなかった。
目の前の軍服の影、その口元――ただそこを殴り潰すことしか考えられなかった。
「俺を撃てって言っただろッ!! 詩織を返せッ!!」
拳を振りかぶった瞬間――
――カチリ。
冷たい音が、耳の奥で炸裂した。
続いて、轟音。
翔吾の胸が火柱のように爆ぜた。
心臓を中心に熱と衝撃が一気に広がり、背中から泥に叩きつけられる。
拳は届かなかった。
「がはッ……う、あああ……ッ!」
血が喉を焼き、口から赤黒い泡が弾ける。
視界はぐるりと裏返り、最後に見たのは、微動だにしない軍帽の庇と、その下で淡々と口を閉じる口元だった。
――そして、暗転。
……気がつけば、また旧射撃場。
湿った夜気、錆の匂い、黙り込んだ仲間たち。
全員の瞳に宿っているのは、また「死んだ記憶」だけだった。
翔吾は荒い息を吐き、地面を睨んだ。
「……ふざけるな……」
それでも世界は揺るがない。
銃口は必ずこちらを向き、引き金は必ず落ちる。
死は決して終わらず、授業は何度でも繰り返される。
無限の死の授業は、まだ終わっていなかった。
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