第1話 金髪の女神官と脳裏に囁く声③
……はあ?
突然、なにを言いだすんだと顔をあげた目の前に、影の顔があった。
あくまで、顔だと思われる部分。
だけど、そこに一瞬、見覚えのない面影が浮かんだような気がした。
――なにを驚く? お前は元の世界に戻りたいのだろ?――
誰かの陰影をかたどった影が、囁くように言った。
――お前と儂には“繋がり”がある。お前が元の世界に戻るということは、すなわちこの儂をその世界に呼び戻すことと全く同義。この儂を呼び戻せば、お前は元の世界に戻れるのだよ――
「それは……でも、」
そんなことをしたら、この世界の人たちに迷惑がかかってしまう。
反射的に頭に浮かんだ思考を呆れるように、影が肩をすくめた。
――身勝手にお前を巻き込み、お前自身どころか子孫まで縛ろうとしている連中のことを思いやるつもりか?――
「うるさい、そんなことはわかってるさ」
――こちらの世界の人間は、随分と甘いな。お前の連れや、両親もそうだが――
相手の言葉のなかに聞き逃せない単語を聞きつけて、僕は一気に顔色を失った。
「おい、ちょっと待て。どうしてお前が俺の両親のことを知ってるんだ」
――何を今さら。儂はお前がいた場所に“転位”したのだぞ。今、この儂がどこで眠っていると思っている――
「まさか――」
――お前の寝床だ。なかなかよい心地だな、こればかりは褒めてやろう――
「お前……! 両親になにかしたんじゃないだろうな!」
――安心しろ。手荒なことはしておらん。訪ねたばかりの異邦で、いきなり目立つ真似をとるほど愚かではないのでな――
「じゃあ、なんで!」
――都合のよい拠点として活用させてもらっているだけよ。お前の親や、連れにはそれを受け入れてもらっただけのこと――
受け入れる?
――そうだ。お前の両親たちには今、儂のことをお前だと認識させておる――
「なんだそれ。洗脳かよ」
――順応、と言ったほうが近いのではないかな? ともかく、お前の両親になにかをするつもりはない。今のところはな――
最後の言葉をわざとらしく強調して、影は続けた。
――だが、いつまでも大人しくしているとは限らんぞ? 儂は魔王だからな――
からかうように揺れる影を精一杯に睨みつける。
影は平然とそれを受け止めるようにして、
――さあ、どうする。このまま異邦の土地で死ぬまで飼い殺されるか、元の世界に戻ろうとあがくか。儂はどちらでもよいぞ。いずれ、儂がそちらに帰還することは決まっているのだからな。所詮は、早いか遅いかに過ぎぬ――
選択を迫ってくる影と、しばらく正面から見つめあって、
「……条件がある」
僕は言葉を絞り出した。
――条件? ふざけておるのか? 自分が、そんなことを言える立場だとでも?――
「そっちこそ、ふざけるなよ」
相手の言葉に噛みつくようにして、
「さっきから、自分に都合のいいことばっかり言ってるよな。まるで、こっちは別に困ってませんけどみたいな口振りで。でも、わかるんだよ」
僕とこいつとのあいだには“繋がり”がある。
だから、相手が嘘を言っていないことはわかるし、相手がなにかを隠そうとしていることだってわかるのだ。
「お前がなんの不安もないんなら、そっちの世界でコソコソ拠点なんか用意しなくたっていいはずだ。なにせ、魔王なんだからな。そうだろ?」
――…………――
はじめて、影が黙った。
「最悪、千年くらいで帰れるだろうって言葉は、嘘じゃないんだろう。でも、それはあくまで『最悪』の場合だ。それに、不確定要素がないわけじゃない」
それはもしかしたら、向こうの世界にあるなにかかもしれない。
たとえば、科学技術。
僕がやってきたこの世界が、どの程度の科学水準なのかはわからないけれど、『魔法』という概念がある以上、向こうの世界とは異なる技術進化を遂げているはずだ。
それは僕の世界にも同じことが言える。
向こうの世界には、当然ながら『魔法』なんて存在しない。
そして、だからこそ発展してきた技術や、文化があるのだ。
僕の世界に転移した魔王は、それを見てどう思っただろう?
はじめて目にする異世界の文化。それを目の当たりにして、多少なりとも警戒するのが普通だろう。
少なくとも、よほどの馬鹿じゃなければそうして当たり前だ。
そして、目の前の相手は決して馬鹿ではない。
それは、少し話しただけでわかることだった。
――人間如きにそう思われたところで、腹立たしいだけだがな――
影が苦笑するように言う。
ふう、とため息をついて、
――どうやら馬鹿ではないらしいな。認めよう。こちらの世界の在り様には驚いてもいるし、興味深くもある。不確定要素があるというのも、事実だ――
「それは、俺のことだよな」
――……まあ、それも一つではある――
渋々といった感じに、影は認めた。
――僕と魔王とのあいだにある“繋がり”。
そして、僕の子孫がいればその繋がりは続くと影は言った。
なら、もしも僕が誰かと子どもを作らなかったら、この“繋がり”はどうなるんだ?
もっと言ってしまえば、たとえば僕が明日にでも死んでしまったら、いったいどうなる?
これが、さっきから目の前の影があえて僕に言ってこなかったことだ。
この世界の人たちは、魔王の帰還を留めるために僕の存在を欲し、できれば子孫までつくらせたいという話があったけれど。
僕に死なれてしまうと困るのは、異世界に飛ばされた魔王にとっても同じはずなのだ。
この“繋がり”だけが、魔王が元の世界に戻るための手がかりなのだから。
――お前との“繋がり”はそのまま、標になる。確かにそれは間違いない――
だが、と影は続けた。
――あまり調子に乗るなよ? 貴様が自分の命を質にしたところで、そんなものはひ弱な人間がどうにか儂を困らせてやろうとするような、ただの嫌がらせに過ぎん――
「そのただの嫌がらせで、遠くの異世界まで飛ばされてるってのが、あんたの現状だろ」
――ちっ――
影が舌打ちする。
それは、この相手がはじめて見せた人間くさい仕草だった。
それを見て僕は確信する。
少しでも人間らしさがある相手となら、取引ができる。
――条件はなんだ。言ってみろ――
「……俺の両親や、羽崎。それに学校の友人たちに、酷いことをするな」
――ふむ? いささか抽象的に過ぎるな。“酷い”とは、いったいどういう行為をさすのだ?――
「そんなの知るか」
思いっきり、僕は吐き捨てた。
「俺とお前じゃあ価値観が違うだろう。生まれ育ちどころか、生まれた世界が違うんだ。そんな相手に、具体的にどうこうなんていちいち言えるもんか。キリがない」
――ふむ。ではいったい如何にする――
「決まってる」
そこで一旦、言葉を切って。
「――お前が、そっちの世界の常識を学べばいい。その常識のなかで、“酷い”とされるような行為をするな。それだけだ」
一瞬、影は反応しなかった。
怒らせたか、と思った次の瞬間。
――あはは!――
それまでのやりとりでは一度もなかったような、快活な笑い声がその場に響いた。
――学べ? 今、学べと言ったか? この儂に向かって!?――
予想外の反応に声を失う僕に向かって、影は高らかに続ける。
――物も恐れも知らぬことの、なんたる痛快さか! その細首を縊ってやれぬことは忌々しいが、だからこそ耳にできる遠吠えと思えば、それもまた興深い――
いったい、こちらの言葉のなにがそんなに琴線に触れたのか。
それまでと打って変わった口調でしばらく舌を滑らせてから、目の前の影は鷹揚に頷いてみせた。
――よかろう。お前の言う、こちらの世界での“酷い”ことを、お前の両親や、羽崎紗花に対しては決して行わぬ。条件はそれだけか?――
「それだけじゃない。学校の連中にもだ」
目の前にいる相手に学校という概念が通じるのか不安に思ったが、あっさりと影はうなずいてきた。
――わかるぞ。学び舎のことであろう。今日、行ってきたからな――
……なんだって?
「行ってきた? お前が、学校に?」
――この世界で今、儂はお前の立場に成り代わっている。お前はこちらの世界でガクセイなのだろう。なら、儂がお前に代わってそこに通うのも、自然な成り行きというものだ――
自分の代わりに、異世界の魔王が学校に通っている。
想像するだけでもシュールな状況だったが、気になることがあった。
「俺の代わりだって? いや、それは無理だろ!」
――何故だ?――
「だって。あんたは女じゃないか」
目の前にいる影は、性別がわかるような姿形をしていない。
けれど、さっきから頭に響いてくる声の気配は間違いなく、男ではなく女のそれだった。
――気にするな。こちらでは誰も気にはしておらぬ。順応とはそういうものだ――
洗脳だろ、と吐き捨てたいのを堪えて、
「……俺の両親や、羽崎。それに学校の連中とか――とにかく俺に関わりがある全員に、一切酷いことをするな。これが俺からの条件だ」
――くくっ。まったく、随分と酷い条件だな。それで、その条件を儂が呑んだとして、いったいお前はなにをしてくれる?――
意地悪く影が言ってくるのは、もちろんわざとだ。
目の前の相手は間違いなく、はっきりとこちらの口からそれを言わせたいのだろう。
「あんたがこの世界に戻ってくる手伝いをする。それでいいんだろ」
――具体的には?――
「……転移魔法について調べる」
それを聞いた影は、露骨にため息をついた。
「なんだよ、他になにかやりようがあるのか? だったら教えてくれよ」
なにしろ、僕には『魔法』のことなんてなにひとつわからないのだから。
僕自身が魔法を使えるわけでもなし。できることには限りがある。
――ふむ。確かに、お前が魔法を扱えるのが一番ではあるが。……よかろう。具体的にどうこうとは、今は問わぬ。まず必要なことは、覚悟を決めることだからな――
「覚悟?」
――そうであろう? なにしろ、お前はこれから先、そちらの世界の人間どもの“敵”になるのだからな――
――敵。
魔王を元の世界に戻そうとするということは、そういうことだ。
「……わかってるさ」
――そうか? ならばよいが。もしもお前が、そちらの世界の人間どもにほだされるようなことがあれば――
口調が底冷えのするものに変わった。
――その時は、こちらもさっきの条件とやらを守る必要はなくなるな。努々、忘れぬことだ――
「わかってるって言ってるだろ!」
念入りに悪意を擦りつけてくるような相手の言葉を振り払って、僕は吠えた。
「そっちこそ忘れるなよ。絶対に、俺の知り合いを傷つけるな。約束だからな!」
――約束?――
馬鹿にしたように影が嗤った。
――なにを馬鹿な。魔王たるこの儂が、人間如きと約束など交わすわけがなかろう。
これは、“契約”というのだ――
厳かな物言いで影は言った。
それに対して、精一杯反抗するつもりで俺は鼻を鳴らしてみせる。
「悪魔の契約、ってわけだ」
――阿呆が。そんなものとは桁が違うわ――
――魔王との契約。
それはつまり、世界の命運を賭けた契約だった。
◇◆◇
目が覚めた。
見知らぬ室内の、嗅ぎなれない匂いに顔をしかめながら起き上がる。
辺りは暗かった。
それにどこか埃っぽい。
いつもの癖で、手元にあるはずのスマホを探ろうとしてから、気づいた。敷布の手触りが違う。
それでようやく、意識が覚醒した。
――夢。
さっきのは夢だったのか。
そうかもしれない。
そうじゃないかもしれない。
覚えている内容はどこか曖昧で、けれど決して忘れていないことがあった。
ベッドから立ち上がり、恐る恐る歩き出す。
いくらか目が慣れても暗い視界で、一方だけほんのわずかな光が漏れている。
窓だった。
ガラスを嵌めた窓ではない、木板で開閉するらしい取っ手に手をかけて一気に開け広げる。
途端に、日差しとともに新鮮な空気が入り込んできた。
目の前に広がる光景に目を細める。
見たことのない、異郷の街並み。
空の色はおんなじで、太陽はひとつで、あちこちに人々の姿があった。
どこからか子どもたちの笑い声が聞こえてくる。
ぼんやりと景色を眺めているうちに、無性に会いたくなった。
両親や、学校の悪友たち。それに、紗花にも。
どれくらいそうしていただろう。
扉をノックする音がして、誰かが部屋に入ってきた。
「おはようございます、ジンヤ」
やってきたのはミティスさんだ。
昨日とおなじ白い服で、口元には誰でも見惚れるような柔らかい微笑。
「お腹は空いていませんか? 食事を持ってきました」
両手に持ったお盆を少し掲げるようにして、こちらに語りかけてくる。
その口調はどこまでも優しげだった。
「……ありがとうございます。いただきます」
パンとスープ。それに水かなにかが入った木製のコップ。
ミティスさんの持ってきてくれたご飯は見るからに質素だったけれど、それを見た瞬間に腹が応えたから、本当にお腹は空いていたんだと思う。
くすりと笑ったミティスさんが、
「おかわりもたくさんありますから、ゆっくり食べてくださいね」
テーブルにお盆を置いてくれるのを見ながら、口をひらいた。
「――ミティスさん」
「はい?」
こちらを振り返るミティスさんは柔和な笑みを浮かべたまま。
善性の塊としか思えない雰囲気を全身から発散させている相手に向かって、
「俺は、やっぱり元の世界に戻りたいです」
それを聞いたミティスさんは表情を変えなかった。ただ、その笑みを少しだけ寂しそうなものに変えて、
「……あなたの立場ではそう考えるのが当たり前だと思います」
「でも、そのためにどうすればいいか、俺にはまるでわかりません。協力してくれる人が必要なんだと思います」
「そうですね。その通りです」
「……ミティスさんは、俺が元の世界に戻るのに協力してくれますか?」
まっすぐに相手を見据えて、訊ねる。
ミティスさんはわずかに目を見開いた。
思い悩むように美しい眉をひそめて、なにかを振り払うように頭を振って。
「――ええ。私にできることなら、協力します」
それまでの笑みを少し強張らせながら、彼女は言った。
その表情を見て、覚悟を決めた。
――僕は必ず、元の世界に戻る。
そのためなら、この世界に生きる人たち全部の敵にだってなってやる、と。
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