眼球譚

@ok_nir

第1話 土竜の眼球

彼はオーバーグラスを手放せなかった。

異様に細い目を隠すため、昼も夜も、室内でも駅のホームでも、その黒いレンズを掛け続けた。レンズは厚く、縁はやたらと大きい。まるで昆虫の複眼のように、彼の顔を覆い隠していた。子どもの頃から「土竜」と呼ばれてきた彼にとって、それは鎧でもあり呪いでもあった。


土竜には診断名があった。ADHD──注意欠陥多動性障害。

頭の中は常にノイズで満ち、ひとつのことに集中すれば、ほかのすべてが消え落ちていく。予定は守れず、部屋は散らかり、財布を失くす。だが、ひとたびスマホの画面を開けば、彼は何時間でもそこに潜れる。通知音や再生数の変化が、彼にとっての「呼吸」そのものになっていた。


YouTubeチャンネルの登録者は一万人ほど。

小さな数字だが、彼にとっては唯一の承認の証だった。顔は出さず、オーバーグラスの影に隠れた声だけで、ゲーム実況や切り抜き動画を投稿する。コメント欄はほとんど罵倒で埋め尽くされる。

だが罵倒は、彼の神経を心地よく逆なでしてくれた。敵が多ければ多いほど、彼は確かに「ここにいる」と実感できた。


オーバーグラスの奥で、土竜の眼はいつも落ち着きを欠いて震えていた。

視線を合わせることができない。光をまっすぐに浴びることもできない。

だから彼は、レンズの向こうから世界を覗き込み、パソコンの画面の中にだけ安住の地を見つけていた。そこは無数の敵意に満ちていたが、同時に唯一の居場所でもあった。

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