凍える灯籠
@siu_
凍える灯籠
冷たい風が、山間の集落を抜ける。細い道に並ぶ石灯籠の火は、どれも弱々しく揺れ、今にも消えそうだった。空は鉛色に閉ざされ、遠くで鳴る雷の音が、まるで世界の終わりを告げるように響く。
真白は、ぼろぼろのコートの襟を立て、足元の濡れた石畳を踏みしめた。手に握る紙袋には、古びた日記と一本の白い菊。どちらも、今日という日のために用意したものだ。
「どこに行ったんだよ…」
彼は独り言を呟き、顔を上げた。目の前には、苔むした石段が山の頂きへと続く。そこには古い社がある。誰も参拝に来ない、忘れられた場所。集落の老人たちは
「あの社は呪われている」
と囁き、子供たちは
「夜に行くと消える」
と笑い合った。だが、真白にとって、その社は特別だった。かつて、友と交わした約束の場所だったから。
十七年前、真白と悠斗は、夏の終わりにあの社で出会った。真白は都会から逃げるようにこの集落に引っ越してきたばかりの少年で、悠斗は生まれも育ちもこの山の、陽気で少し生意気な少年だった。
「なあ、真白。この社、知ってるか? ここで願うと、どんな願いも叶うんだぜ。ただ、一つだけな」
悠斗はそう言って、社の前で拾った小さな石を握りしめ、目を閉じた。真白はそんな彼を笑いものだと思ったが、なぜかその笑顔が忘れられなかった。
「俺の願い? んー、秘密! でも、すげえ大事なことだよ。真白も願ってみなよ」
真白は首を振った。
「願いなんて、叶わないよ。どうせ、全部消える」
その言葉に、悠斗は少しだけ目を細めた。
「消えるってさ、悪いことばかりじゃないぜ。花火だって、星だって、消えるから綺麗なんだろ?」
その夜、ふたりは石灯籠の明かりの下で、いつまでも話を続けた。まるで、時間が永遠に続くかのように。
石段を登り切った真白の前に、社は静かに佇んでいた。屋根には落ち葉が積もり、柱は雨風に削られて傾いている。まるで、十七年の月日をそのまま映し出すように。
真白は社の前に立ち、紙袋から日記を取り出した。革の表紙は擦り切れ、ページの端は黄ばんでいる。悠斗の日記だ。十七年前、彼が突然姿を消した後、真白が社の裏で拾ったもの。開くたびに、悠斗の声が聞こえる気がした。
「俺、この集落を出たいんだ。でっかい世界見てみたい。でも、なんか怖えんだよな〜」
日記の最後のページには、そう書かれていた。そして、その下に走り書きのような一文。
「俺が居なくなったら社で待っててくれ。絶対、戻るから」
真白は唇を噛んだ。十七年。悠斗は戻らなかった。集落の誰もが、彼が山を出てどこか遠くへ行ったと言った。だが、真白は知っていた。あの夏の夜、悠斗が社で何かを隠すようにしていたことを。石灯籠の火が、いつもより激しく揺れていたことを。
彼は白い菊を社の前に置いた。
「悠斗、お前、どこ行ったんだよ…戻ってこいよ…」
声は空に吸い込まれ、答えは返らない。
その時、背後でかすかな音がした。枯れ葉を踏む音。真白は振り返るが、誰もいない。風が強くなり、石灯籠の火が一斉に消えた。暗闇の中で、真白の心臓が激しく鳴る。
「悠斗…?」
呼びかけは虚空に消えた。だが、真白は感じていた。この社には、何かが残っている。悠斗の願い、あるいは彼の魂そのものかもしれない。
彼は日記を胸に抱き、社の扉に手をかけた。軋む音とともに、扉がゆっくり開く。中は暗く、埃っぽい空気が漂う。だが、その奥に、微かな光が見えた。まるで、誰かがそこにいるかのように。
真白は一歩踏み出した。
「悠斗、俺、約束守ったよ」
その瞬間、風が止み、すべてが静寂に包まれた。まるで、世界が一瞬だけ息を止めたかのように。
真白は、暗がりの奥に見える光に向かって歩を進めた。社の内部は、外から見た以上に荒れ果てていたが、微かな光が示す方向だけは、どこか神秘的な気配を帯びていた。光の源に近づくにつれて、空気が温かく、そして、どこか懐かしい匂いがした。雨上がりの土の匂いと、微かに青い草の香り。それは、十七年前の夏の日の匂いだった。
光の中心にたどり着いた真白は、息を呑んだ。そこに立っていたのは、紛れもなく悠斗だった。
十七年前と全く同じ、無邪気な笑顔。少し跳ねた黒髪、そしていたずらっぽく細められた瞳。着ている服も、あの夏の日に別れたときのままだ。彼の周りには、まるで無数の蛍が舞うかのように、柔らかい光が漂っている。
「真白…遅かったな」
悠斗の声が、社の静寂に響いた。その声は、真白が十七年間、夢の中で何度も聞いた声と寸分違わなかった。真白の目から、堰を切ったように涙が溢れ出す。
「悠斗…! 悠斗なのか…!?」
真白は、悠斗に向かって駆け寄ろうとした。しかし、なぜか足がもつれ、うまく前に進めない。悠斗は変わらずそこに立ち、ただ微笑んでいた。
「俺、約束しただろ? 絶対、戻るって」
悠斗の言葉は、真白の心の奥底に染み渡る。十七年間、凍てついていたものが、ゆっくりと溶けていくようだった。真白は、膝から崩れ落ち、嗚咽を漏らした。
「馬鹿野郎…どこ行ってたんだよ…ずっと、ずっと待ってたんだぞ…」
悠斗は、真白の前にゆっくりと膝をついた。その手は真白の頬に触れようとする。その温かさ、柔らかな感触は、確かにそこに存在するものだった。だが、触れる直前、悠斗の姿が微かに揺らぐ。まるで、水面に映った影が歪むように。
真白は、はっと顔を上げた。悠斗の瞳が、なぜか遠くを見つめているように感じた。そして、彼の声が、社の空間に多重に響く。
「消えるってさ、悪いことばかりじゃないぜ。花火だって、星だって、消えるから綺麗なんだろ?」
「俺、この山を出たいんだ。でっかい世界見てみたい。でも、なんか怖えんだよな〜」
「もし俺が消えたら、真白、社で待っててくれ。絶対、戻るから」
悠斗の言葉が、過去の記憶と混ざり合い、真白の脳裏を駆け巡る。真白は目を閉じた。悠斗の声が、頭の中でこだまする。だが、ふと気づくと、その声はどこか遠く、まるで風に溶けるように弱まっていた。彼は目を開け、目の前の悠斗を見つめた。そこには、確かにあの夏の少年が立っている。変わらない笑顔、変わらない瞳。なのに、なぜかその姿は、触れようとすると水面の反射のように揺らぐ。
「悠斗…お前、本当にここにいるのか?」
真白の声は震えていた。伸ばした手は、悠斗の頬に触れる直前で空を切る。温かさは、確かに感じたはずなのに、指先には何も残らない。悠斗の笑顔は、なおも変わらずそこにあった。だが、その瞳は、どこか遠くを見つめているようだった。
「真白、待っててくれて、ありがとな」
光が消えた瞬間、胸に抱えていた日記がふっと重さを失った。
驚いて手を開くと、革表紙は黒く焦げ、音もなく灰に崩れていく。
「……なんだ、これ……」
言葉が震える。社の前に置いた白い菊も、いつの間にか色を失い、泥に溶けていた。
その時、脳裏に甦ったのは、悠斗の声。
「消えるってさ、悪いことばかりじゃないぜ」
その瞬間、真白は悟った。
悠斗が十七年前に消えた理由も、この社に囚われ続けていた理由も。
彼は「願った」のだ。
そしてその代償として、この場所に魂を縛られてしまったのだ。
「……そうか……お前は、代償を払ってまで願ったんだな」
涙が溢れる。
悠斗は自由を失い、真白は十七年を失った。
だが、それでもなお胸に灯るものがある。
真白は震える手を握り、社の中で声を絞り出した。
「俺の願いは一つだ……悠斗を、戻してくれ!」
雷鳴が轟き、石灯籠の火が一瞬だけ甦った。すると胸に強い痛みが走り、血の気が引いていく。
だが真白は歯を食いしばり、祈るように叫んだ。
「代償なんてどうでもいい! 俺はもう一度……悠斗と生きたいんだ!」
闇の奥から、光が揺らめく。
その中に、懐かしい笑顔が見えた。
「真白……お前、ほんと馬鹿だな」
悠斗の声。
その姿は確かにそこにあった。
真白の視界が滲む。
同時に、胸の痛みが限界を超え、意識が崩れ落ちていった。
目を覚ました時、外の雨は止んでいた。
石畳の上に倒れていた真白の隣には古びた日記帳と、そして…あの頃と変わらない、でも少しだけ大人っぽくなった悠斗が座っていた。
十七年前と同じ笑顔で。
だが真白は気づいていた。
自分は、何かを失っている。
何を代償に差し出したのかは分からない。
けれど、それでも構わなかった。
悠斗がそこにいる。
それだけで十分だった。
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