白髪の呪い
をはち
白髪の呪い
俺の名は小池伸一。
出張の先々で、各地のラーメンを味わうのが唯一の楽しみだ。
どんな店でも、どんな味でも、丼に漂う湯気と麺の香りに心が躍る。
だが、あの日の千葉の海岸沿い、寂れた食堂で啜った一杯は、俺の人生に暗い影を落とした。
その店は、まるで時間が止まったような場所だった。
海風に晒された外壁は色褪せ、窓枠は錆で赤く染まっていた。
店内に足を踏み入れると、ビニールシートの破れた椅子が軋み、長年の重みを訴えるように悲鳴を上げた。
カウンターの向こうには、店を仕切る老婆がいた。
白髪を緩く束ね、腰は年月を刻むように深く曲がっている。
その姿は、まるでこの店そのもののように、朽ちかけながらもなおそこに在り続けた。
注文したラーメンは、しかし、異様に遅かった。
出張の合間、限られた時間の中で、10分もあれば出てくるはずの一杯が、1時間もの時を刻んでようやく現れた。
丼に浮かぶスープは濁り、麺は伸びきって頼りなく沈んでいる。
味は、はっきり言ってまずかった。
だが、礼儀として、俺は黙って箸を動かした。その時だった。
口に含んだ麺に、異物が絡みついた。
長く、細い、白髪。
ぞっとする感触が舌を這い、俺は思わずそれを吐き出した。
咳き込み、胃が締め付けられるような吐き気に襲われる。
だが、カウンターの向こうの老婆は、まるで俺の存在を忘れたかのように、じっと動かない。
彼女の目は、虚ろに宙を見つめていた。
食欲は完全に失せた。
会計を済ませようと立ち上がった瞬間、さらなる異変に気づいた。
老婆が、眠っている。いや、眠っているというより、まるで死人のように静かだった。
彼女の胸から漏れるのは、規則正しいとは言い難い、湿ったいびき。
ゴホッ、ゴホッと、まるで何かが喉に詰まったような音が、静寂を切り裂く。
俺は一瞬、彼女を起こすべきか迷った。
だが、脳裏に浮かんだのは、あのまずいラーメンと、口に絡みついた白髪の感触。こんな店に義理を立てる必要はない。
営業の時間も迫っている。
俺は無言で店を後にした。当然、代金は払わなかった。
それが、すべての始まりだった。
翌日から、俺の食事が変わった。
どんな料理にも、どんな飲み物にも、必ず長い白髪が混じるようになった。
朝のトーストに、昼の弁当に、夜のビールにさえも。
細く、しなやかで、まるで意思を持ったように俺の口元に絡みつく。
最初は偶然だと思った。
だが、何度取り除いても、何度店を変えても、白髪は執拗に現れる。
時には、皿の底から這い出てくるようにすら見えた。
ある夜、鏡の前で歯を磨いていると、喉の奥に違和感を覚えた。
咳き込むと、口からこぼれ落ちたのは、またあの白髪。
だが、今度は一本ではない。無数に、絡み合い、まるで生き物のように蠢いていた。
俺は叫び声を上げ、洗面台に吐き出した。
そこには、まるで老婆の髪そのものが這うように広がっていた。
今も、俺は感じる。
背後で、湿ったいびきの音がする。
ゴホッ、ゴホッと、まるで俺の息に合わせて響く。
振り返っても誰もいない。だが、鏡の端に映るのは、いつもあの白髪の束。
そして、どこからともなく聞こえる、老婆の声。
「お代は、払わなくちゃね…」
白髪の呪い をはち @kaginoo8
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