涙は宝石にならない

火之元 ノヒト

第1話

 ​私の働く市立図書館は、静かな魔法に満ちている。

 ​高い天井まで続く書架は、遥かなる物語の森を形成し、そこになる古びた本のインクの香りは、眠れる魂たちの甘いため息だ。窓から差し込む午後の光は、埃を黄金の粒子に変え、床の上でゆっくりと踊っている。子供たちのエリアから聞こえてくる賑やかな声は、まるで森の奥でさえずる妖精たちの合唱のようだ。


 ​ここは私の城。私の聖域。あらゆる出来事が、美しい物語の定めに従って流れていく場所。


​「桜井さん! この間の発注リスト、数字が間違っていたわよ!」


 ​カウンターの奥から響く甲高い声は、この図書館の支配者、司書長の「女王様」のアリアだ。振り向くと、彼女の唇から紡がれた言葉が、黒く艶やかなイバラとなって私の足元に伸びてきた。鋭い棘を持った蔓が、私の足首に絡みつこうとする。


 でも、大丈夫。私はただ、静かにお辞儀をするだけ。


「申し訳ありません。すぐに修正いたします」


 心の中でそう唱えると、イバラはたちまち力を失い、はらりはらりと枯れた葉のように崩れて消えていく。この世界では、私が動揺さえしなければ、どんな呪いの言葉も私を傷つけることはできないのだ。


 ​そう、すべては完璧だった。今日、この城に招かれざる客が訪れるまでは。


 ​午後の定例ミーティングの冒頭、司書長が少しだけ機嫌の良い声で言った。


「今日から新しく私たちの仲間になる方を紹介します。都心の資料専門の図書館から来られた、葉隠さんよ」


 ​拍手の中、皆の前に立ったその人を見て、私は息を飲んだ。


 葉隠晶。


 彼女は、この私の世界で、たった一人、何の装飾も施されていない人間だった。


 艶のある黒髪は、ただの黒い髪。知的な光を宿した瞳は、ただの焦げ茶色の瞳。白いブラウスも、灰色のパンツも、それ以上でもそれ以下でもない、ただの布地でしかなかった。彼女の周りだけ、まるで絵画に空いた穴のように、世界の色彩が抜け落ちている。


​「葉隠晶です。専門は情報管理とデジタルアーカイブです。皆さんのやり方とは違う点もあるかと思いますが、早く仕事に慣れたいと思っています。よろしくお願いします」


 ​彼女の声には、何の調べも乗っていなかった。オペラでもなければ、小川のせせらぎでもない。ただ、淡々とした、事実だけを伝えるための音が鼓膜を揺らす。周りの職員たちの期待や好奇心が、色とりどりのシャボン玉のように浮かんで見える中で、彼女の周りだけは、奇妙なほどに透明だった。


 ​その日から、私の完璧な世界は、ほんの少しずつ軋み始めた。


 彼女は子供たちに絵本を読み聞かせるときも、「このお話の教訓はですね」と冷静に解説を始める。私が書棚に施した「物語の季節ごとの分類」という詩的なディスプレイを、「利用者が混乱するので、日本十進分類法に準拠してください」と無表情で指摘する。


 彼女の言葉はイバラにはならなかった。もっとタチの悪いことに、それは鋭利なガラスの破片のように、私の世界の壁に突き刺さり、小さなひび割れを作っていくのだった。


 ​事件が起きたのは、彼女が来てから一週間が経った日の休憩時間だった。


 私は書庫の隅で、一冊の古い絵本を読んでいた。飼い主を失った犬が、ずっと駅で主人を待ち続ける、という結末の悲しい物語。物語の終わりに、犬の大きな瞳から一粒の涙がこぼれる絵を見つめていると、私の目からも、ぽろり、と何かがこぼれ落ちた。


 ​それは床に当たって、カラン、と硬質な音を立てた。


 サファイアのように青く澄んだ、小さな結晶。私の涙だ。悲しい時、私の涙はいつもこうして、誰にも迷惑をかけない美しい宝石になる。ハンカチで拭う必要もない。そっと拾い上げて、ポケットにしまえばいい。


 ​私がその青い結晶に手を伸ばそうとした、その時だった。すっと伸びてきた白い指が、先にそれを拾い上げた。見上げると、そこに葉隠さんが立っていた。いつからそこにいたのだろう。彼女は、指先で私の涙をつまみ上げ、窓の光に透かすようにして、静かに言った。


​「綺麗ね」


 ​その言葉に、私は少しだけ安堵した。彼女にも、この美しさがわかるのだ、と。


 しかし、彼女は続けた。


​「でも、そんなもので心が慰められるの?」


 ​その瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。


 彼女の声はガラスの破片どころではなかった。それは巨大な鉄槌となって、私の世界の壁を、私の心を、真正面から打ち砕いた。


 視界の端を、砂嵐のようなノイズが走る。天井の優雅な照明が一瞬、無機質な蛍光灯の白い光になり、古書の甘いため息が、かび臭いだけの匂いに変わる。


 ​私は咄嗟に彼女の手から宝石をひったくると、胸に強く抱きしめた。


「……関係、ないです」


 そう言うのが精一杯だった。


 ​葉隠さんは、何も答えなかった。ただ、その焦げ茶色の瞳で、まるで初めて見る生き物のように、じっと私を見つめていた。


 その瞳に映る私は、きっと、ひどく滑稽な、おとぎの国の迷子に見えたに違いない。


 ノイズはすぐに収まり、世界は元の美しい姿を取り戻した。けれど、一度入ったひび割れは、もう決して消えることはなかった。


 私の完璧だった城の壁は、確かに、崩れ始めていた。

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