第9話 神格を持つ者


 血の海以外に目の前の光景を表す言葉は存在しないだろう。


 清廉にして神聖であるべき礼拝堂を染めるのは鮮血と臓腑。元の形を既に成していないのにも関わらず、飛び散る肉片を人間だと直ぐに判別できたのは、禁忌に対する嫌悪感、本能が告げたのかもしれない。人の肉体とはかくも容易く破壊されてしまうのか。無残に、残酷に、昆虫の死骸ですら食物連鎖に組み込まれ命の糧となるのに、ここに飛び散った命達はまるで無価値だと断罪するように、一切の慈悲を感じる事が出来なかった。


 地獄絵図の中で、いや、地獄絵図の中だからこそ、十字架の前で祈りを捧げる男の姿が、皮肉にも非現実的な神々しさを宿していた。


「な、なによこれ……なんなのよっ!?」


 入り口で腰が抜けたよう座り込んだアンジェリカが半狂乱で叫ぶ。


「落ち着きなさい、アンジュ。静謐をみだりに乱してはいけません」


 顔見知りの筈の神父は、いつもと同じの柔和な表情と、いつもと変わらない物腰で、けれどアンジェリカの知らない気配を纏い、微笑みかけてきた。

 血の染まる拳をハンカチで拭い、神父はピチャピチャと湿った足音を鳴らす。


「ああ、アイチ君もご一緒ですか。おかえりなさい」


 アイチは座り込むアンジェリカを庇うよう正面に立ち、仕込み杖に手をかける。


「酷い臭いだ。この惨状は、アンタがやったのかい?」

「ええ、そうです」

「――どうして、なんで!?」


 アイチが問い掛けるより早く、身を乗り出してアンジェリカが叫ぶ。


「ここで殺されてる人達、皆、町の連中でしょ? なんでこんなことを……」

「単純な話です。彼らは愚かにも私を殺そうとした……神の使徒であるこの私を」


 神父は悲しみに満ち溢れた声と表情で、ゆっくりと首を左右に振る。


「あり得ません。この身は我らが神に授けられた器であり、この魂魄は我らが神に奉仕する宿命が与えられたモノ。それを傷つけようとするのは、我らが神を傷つけようとするのと同義です。それはまさしく罪、決して許されざる大罪なのです」

「だから殺したのか。そんなくだらない理屈で」

「殺めたのではありません。罰です、神罰です。死はその結果に過ぎません」

「……っざけんな」


 身勝手とも思える神父の言葉に、アンジェリカは怒りを噛み殺すよう奥歯を鳴らして立ち上がり、目尻に涙が浮かんだ瞳で睨みつけた。


「そりゃ、気に入らない連中だったし、わたしも嫌いだったけど……神父を殺そうとした事も許せないけど、それでもここまでやる必要があったの!?」

「必要の有無ではありませんよ。彼らは罪を犯した、故に裁かれたのです」

「だからっ、神父が裁く権利があったのかって言ってるのよ!」

「勿論、ありますよ。なぜなら私は、神の信徒なのですから」


 躊躇う事なく神父は頷いた。慈愛に満ちた表情に狂気が透けて見える笑顔で。

 絶句し過ぎたアンジェリカは、続く言葉すら見失ってしまう。


「人は罪を犯すモノです。それは人として生まれ落ちた以上、致し方ない事。故に人は罪に対して贖罪し、神に許しを請わねばなりません。その点で語るのならば、貴方達は非常に優秀ですね。悪逆たる徒、枢要罪の色欲をよくぞ倒してくれました」


 心の底から感謝を述べるよう、神父は真っ直ぐアイチを見詰めた。


「流石は異世界からの放浪者。神眼の市道アイチ君」


 ザワッとアンジェリカの肌が粟立った。

 殺気だ。自分の首筋に刃物を突きつけられたような殺気に、アンジェリカはお腹の底から寒気がした。出所は真正面に立つアイチから。怒りや憎悪など様々な感情の入り乱れる殺気が、礼拝堂に満ちた不気味な空気すら焼き焦がそうとする。


「……アンタ、なんでその事を知ってやがる」


 子供を見守るような慈悲溢れる視線で、神父は拳に付着した血を丁寧に拭う。


「ああ、自己紹介をするのがまだでしたね。私はジャッジマン。創世の女神様に奉しする信奉者にして神格者の一人……審判のジャッジマンです」


 アイチに向けた手の甲には、神々しいまでの力を放つ文様が刻まれていた。


「――ッ!?」


 刹那、アイチが地面を蹴り一直線に飛翔する。

 濃厚な殺気を身に纏い神速の動きで間合いを詰めるが、ジャッジマンは悠然とした笑みを湛えたまま裂ける気配すら見られなかった。迷い無く急所を狙い仕込み杖を逆手で抜刀。鈍い音と金属音が重なった次の瞬間、吹き飛ばされたのはアイチの方だった。


「――ッッッ!?」


 半開きになった教会の扉に背中から叩き付けられ、アイチはズルズルと滑るようにしてその場で膝を突く。直ぐに杖を突いて立ち上がろうとするが、脳震盪を起こし再び膝を突いてしまう。左頬は青痣になっていて口の端から一筋の血が零れた。

 まさかの光景にアンジェリカは驚きに固まる。


「う、嘘。アイチが……!?」

「……ぐっ。反応、し切れなかった」


 文様が刻まれた拳を突きつけ、ジャッジマンは変わらぬ笑みを湛える。仕込み杖を抜刀するより早い速度で、振り抜かれた拳が頬を穿ったのだ。


「我が拳に刻まれし聖痕は神腕。これこそ悪心に制裁を下す鉄拳です」


 腰を入れない、ただ腕を振るっただけの一撃だったが、頬に受けた拳は鉛の塊をぶつけ垂れたように重く、そして硬かった。今のがもしも、殺す気で放った全力の打撃だったら、アイチの頭部は礼拝堂を穢す赤い汚れの一部になっていただろう。

 全く状況を理解出来ないのはアンジェリカだ。


「なによ……なんなのよっ、全くわけわかんないっ!」


 アイチを介抱しながら、アンジェリカは混乱する心中を吐露するよう叫ぶ。


「なによ聖痕って。異世界ってなに!? 神父が町の人を殺して、アイチに突然斬りかかられたりして……ちゃんとわたしに分かるよう説明してよっ!」

「アンジェ。君が全てを理解する必要はありません」


 ジャッジマンは彼女が知る変わらぬ声で、優しく諭し始める。


「この度の一件は全て、不幸な出来事が積み重なった結果です。色欲が訪れた事も、市道アイチ君が現れた事も、住人の皆様が堕落してしまった事も、アンジェには何一つ落ち度も責任もありません。ですから、そんなに心を痛めたくても良いのですよ?」

「……なによそれ」


 一瞬、言葉を詰まらせながら発した言葉は、処理し切れない感情で震えていた。


「なにを言ってるのよアンタはっ! 理由を知る必要は無いってなに!? 落ち度も責任も無いってなにがっ!? わたしはっ、そんな綺麗で優しいいつも通りの神父の言葉が聞きたいんじいゃない、アンタが、なんでこんなことをしたのかが知りたいのよ!」


 怒鳴る言葉には何よりも強い悲しみが宿っていた。

 裏切られたとは違う。何故なら今惨劇の上に立っているジャッジマンは、アンジェリカの知る神父と何一つとして違わないからだ。微笑みも、語り口調も、物腰も。普段から見せる仕草まで、アンジェリカの記憶とそぐわない部分は無い。彼が実は悪人で、裏の顔を持っていたというなら、裏切られたと叫ぶ事も出来るだろう。しかし、ジャッジマンはジャッジマンのまま、アンジェリカの前に立つ。まるで今まで欠片として、アンジェリカに対し嘘偽りを見せたつもりは無いと自負するかのように。

 悲痛な叫びを受けてジャッジマンは顔で肩を竦めた。


「知るべきではありませんよ。知れば貴女は後悔してしまいます。日頃の言動に多少、問題は見られますが、アンジェは勤勉な良い人間です。女神様の寵愛を受けるべき善人が傷付くのは見るに忍びない」


 我儘な子供に言い聞かせるような口調で説くが納得するわけが無い。


「全然、説明になって無い! アンタ、わたしの事を馬鹿にしてるの!?」

「私はアンジェの為を思って言っているのですよ」

「それを決めるのはわたしでしょ!?」

「……そこまでにしときましょう、アンジェリカさん」


 頭に血が昇り、次の瞬間にでも胸倉を掴み上げる為、駆けだしそうになったアンジェリカの手を、アイチがギュっと握る事で思い止まらせる。


「どんなに此方の言葉を重ねても無駄です。連中は、女神の使徒ってのは揃いも揃って融通ってモンを、置き忘れた手合いばっかりなんでさぁ」

「……アイチ?」

「全ては女神様の思し召しのまま。女神が白と言えば黒でも白と唱える。性質が悪いのは、ご機嫌伺いの為に話を合わせてるんじゃなくって、連中も本気で黒を白に思っちまってる事なんですよ」


 立ち上がり、アイチは再び抜き身の刃を杖に納め構えた。


「アンタらはいつもそれだ。善人面ぶら下げて、裏で泣いてる連中なんざ気にも留めない。気に入らない、全く揃いも揃って気に入らないねぇ」

「アイチ君」


 名前を呼んで、ジャッジマンは大きく嘆息する。


「誤解があります。我々は……」

「御託は沢山だ、ジャッジマン。アンタが女神の使徒なら、聞きたい事がある」


 仕込み杖の切っ先を向けた。


「創世の女神は何処にいる?」

「……アイチ君。よく考えて返答して欲しい。それを聞いてどうするんですか?」

「決まっているだろ。見つけ出して、ぶっ殺すんだよ」


 ぶわっと、熱風のような殺気が礼拝堂に満ちた。

 殺気に中てられたアンジェリカは全身の肌が粟立ち、恐怖で足が竦んでしまう。女神に対する暴言を発した瞬間、ジャッジマンはアンジェリカが知る神父とは明らかに乖離した。同時に納得する。アレならば確かに、住人を皆殺しにする事に躊躇など無いだろう。

 殺気を振り撒くだけで動きはしなかったが、握り締めた拳には血管が浮いていた。


「色欲を葬った善行に免じて、その暴言は拳を握るだけに済ませましょう。では、再び問います。一度目の失敗を理解し反省して、誠実に答えて下さい……貴方は何故、女神様にお会いしたいのですか?」

「復讐だ。アンタが盲目に敬う、くそったれな女神様にな」


 瞬間、礼拝堂に旋風が走った。

 先ほどアイチが斬りかかった場面を再現したかのよう、間合いを詰めたジャッジマンがアイチの顔面に握った拳を叩き込んだ。が、寸前で顔を逸らしギリギリで打撃を回避したアイチは、カウンター気味に逆手で抜いた刃をジャッジマンに放とうとした。


「――ぬっ?」


 斬撃は顔面を捉えたが、硬いゴムに阻まれるかのよう切断にまでは至らない。


「神格を得ない借り物の力では、我が信仰心にかすり傷すら負わせられません!」


 刃を顔で受けたまま一歩前に踏む込んだジャッジマンは、そのままアイチの身体を刈り取るように脇腹へフックを叩き込む。最初の一撃同様、右フックの衝撃も凄まじく、アイチは身体が浮き上がり、壁へと叩き付けられた。


「――アイチっ!?」

「口を慎みなさい。不信心故に神眼の力は貴方に強い負荷をもたらす……平然としていますが、色欲との戦いでかなり消耗しているのでしょう?」

「……えっ?」


 驚いたアンジェリカは壁に寄り添うようにして立ち上がるアイチを見た。


「そして貴方の心の内から湧き上がる激しい怒りが、動きの精細さ、技のキレを著しく損ねている。いけません、全くもっていけません。悪心に身を宿す者に使徒である私は……」


 長々と語る口上を妨げるよう、ジャッジマンの顔を斜めに横切る傷が走る。


「……斬れないってか? 馬鹿を言って貰っちゃ困るな」


 僅かに息遣いを乱れさせながら、アイチが顔を上げると同時に、ジャッジマンの顔面から血飛沫が噴き上がった。

 傷口こそ致命傷に届かないが、触れた斬撃は皮膚を肉を断ち切っていたのだ。


「アンタの言葉を借りるなら、信仰心に傷が付いたってところですかね」

「――貴様ッ!?」


 再び怒気が膨れ上がり、傷口を押さえる手の平越しの顔に激昂の色が広がる。


「いい言葉遣いじゃありませんか、面構えの方も相応だ。貼り付けたような善人面よりよっぽどマシだろうから、この目で拝めないのが残念なくらいですね」

「……――ッぐ」


 激怒しかけるが、小馬鹿にするような挑発に奥歯を噛み鳴らし踏み止まる。

 ふしゅるう、と煙でも吐くかの如く呼吸音を鳴らし、ジャッジマンは自身の顔を握り締めるように力を込めて顔の傷口を強引に止血。血が止まったのを確認してから、手を離して取り出した真っ新なハンカチで出血した血を拭う。

 その表情は既に微笑みを湛える顔に戻っていた。


「確かに、不信心者に傷を付けられるなど私の信仰心が足りない証拠。責めるべきはアイチ君では無く、未熟な私自身でしたね」


 急な物分かりの良さが逆に不気味で、アイチは警戒するよう刀を構える。


「よろしい、これも試練です」


 両手を腰の後ろに回しアイチと、尻餅を突いたままのアンジェリカを見た。


「人の生きる道とは試練の連続です。思えばアンジェが住む町にアイチ君が現れたのはある種、必然だったのかもしれませんね」

「な、なにを言っているの?」

「大都市フランフルシュタット」

「――ッ!?」


 ジャッジマンの告げた都市の名に、アンジェリカは驚くよう両目を見開いた。だが、特にピンとくるモノの無いアイチは訝しげに眉を潜めるだけ。


「フランフルシュタットって、まさか……」

「ご存知なんですか、アンジェリカさん」


 問うと、ジャッジマンはさも当然だと言うように笑みを零す。


「フランフルシュタットは大陸唯一の金融都市。大陸最大、いいえ、世界最大の大銀行が存在する場所でもあります」

「そりゃ初耳ですが、それが今の状況とどういう関係が?」

「……わたしが両親から受け継いだ金塊。それを預けてる銀行もあるのよ」

「その通りです」


 ジャッジマンは満足げに頷いた。


「近い時期に、我らが女神様はフランフルシュタットにご降臨される。金塊を手に入れる為」

「き、金塊を!?」


 まさかの展開にアンジェリカは身体を跳ね上げた。


「どうして神様、女神がわたしの金塊を……余計にわけわかんないっ!」

「それこそが貴女の両親が金塊を得た理由であり、同時に償い切れない罪の始まりでもある。子であるアンジェに関係無き罪。しかし、親子の血縁とは死しても断ち切れぬ絆ならば、その罪の真実を知るのも子の使命かもしれない……真実が知りたいのならアンジェ、貴女もフランフルシュタットを目指すと良い。そこで幸運にも女神様にお目通しが叶うならきっと、貴女の疑問は晴れる事でしょう」


 信じられないモノを見るように大きく目を見開いてから問いかける。


「で、でも、大銀行の金庫を開けるには……」

「所有者を示す特殊な鍵が必要。それ、これがね」


 取り出したのは一枚のカードだった。

 金色に光るカードを見て、アンジェリカは絶句する。


「な、なんでそれを神父が。家に隠してあったはずなのにっ!?」

「死した村人達も、最後に一つだけ善行を成しました。盗み出した鍵を、わざわざ私の元に持って来てくれたのですから……まぁ、窃盗も裁かれるべき罪ですが」

「だったらわたしに返してよ!」

「いいえ、これは貴女には無用の長物です」


 そう告げるとジャッジマンがカードを強く握り粉々に砕いてしまった。


「――なっ!?」

「これでアンジェ、貴女が大金庫を開く方法がなくなりました」

「そん、な」

「アンジェ。既に君には悠々自適に暮らせるだけの貯えがあるはずです。女神様への信仰心を胸に、健やかな気持ちで暮らしなさい」


 十字を切り祈ってから、やるべき事は全て終えたとでも言うように、入り口の方へ向かって身を翻した。

 立ち去ろうとする素振りに、アイチはそうはさせないと仕込み杖を構える。


「おいおい。言いたい事だけを押しつけて、自分はとんずらですかい? そいつは都合が良すぎるんじゃありませんか?」


 仕込み杖を掲げ親指で押し上げるよう鯉口を切る。


「戦いますか? 一太刀浴びせたとはいえ、神眼が使用できない君に私が負ける道理などありません……ああ、言い方を変えましょう。見逃してあげます、アイチ君」

「上等だ、この野郎」


 鯉口を切った刃と拳が再び交差。引けた腰から放った居合だからか、拳は屈んだアイチの頭上を掠め、刃はジャッジマンに触れる事はなかった。他愛ない。そうジャッジマンの頬が緩みかけた瞬間、視界が赤く染まる。


「――なッ!?」


 刃は届いていた。ジャッジマンが察知できない神速で顔を斜めに裂き、流れる血が目を塞いだのだ。

 最初の一撃と合わせて十文字の傷。それがジャッジマンの顔面に刻まれた。


「お前は殺す。お前を殺して、俺は絶対に女神を殺す。俺はアイツの仇を取る」

「……アイツ?」

「当然、立ち塞がるならアンタら神格者も殺す。邪魔する連中は殺す、枢要罪だろうが魔王だろうが神であろうが悪人だろうと善人だろうが、誰であろうと俺の行く先の妨げになるなら全部纏めて斬り捨てて――俺は復讐を果たす」


 怒りと悲しみ。感情を押し殺しつつも、堪え切れず漏れる激情に声が震える。


「アンタの顔面に付いた傷は目印だ。逃げられると思うな、守り通せると思うな。俺は必ず女神を探し出し追い詰め、そして殺してやるッ!」

「……聞きしに勝る哀れさですね」

「なんとでも言いやがれ」

「ま、いいでしょう」


 ジャッジマンは顔面を染める血を拭う。その身からは殺気はもう感じなかった。


「その愚かさに免じて慈悲を与えましょう。喜びなさい、君の生き汚さが命を繋いでくれた。それに私も役目を果たしましたらからね」

「逃げるのか?」

「言ったでしょう、慈悲です」


 ジャッジマンの姿が一瞬だけ歪む。


「けれども君は、この慈悲を無駄にするのでしょうね」


 憐憫の視線を残してアイチの殺気など受け流し、ジャッジマンは気が付けば空間に溶けるようにして姿を消していた。後に残ったのは血生臭さの充満した礼拝堂と死体の山、そして自分で処理し切れぬ感情に方を震わせるアイチと、自らに突き付けられた運命に翻弄されるアンジェリカだけだった。


★☆★☆★


「待ってよ。ねぇ、待ってったら!」


 押さえ切れない激情に突き動かされるよう、先へ先へと足を動かすアイチの背後から、大きなリュックを背負った少女が、何度も繰り返し呼び止める声が聞こえる。声の主とは昨日、知り合ったばかりの、目が見えないアイチにとっては顔見知りでも無い相手ではあるが、必死さすら感じる問い掛けをどうにも無下にはできず、舌打ちを鳴らしながらもアイチは急くように地面を蹴っていた足取りを緩めた。


「……町に戻った方がいい、アンジェリカさん。その方がアンタの為だ」

「町に残ったって厄介者よ。カラーズも含めてアレだけ死人を出したんだから、わたしだってもう町には居られないわ」

「アンタに責任は無いでしょう」

「町の連中はそうは思わない。殺されたのだって、わたしに対して辛辣な連中ばっかだったし、神父が殺したのがわかれば、都市の護衛隊に突き出されるに決まってる」


 アイチは礼拝堂を出たその足で、姿を消したジャッジマンを追う為にアンジェリカと出会った街道へと出た。今頃はもしかしたら、教会の惨劇を知って生き残った住人は大騒ぎかもしれない。最も全てをアンジェリカに押しつけて、労わりの言葉一つ無い住人連中を、今更気にかける必要は無いかもしれないが。


「なら、別の町に移住するのはどうですかい? 金塊はたんまり持ってるんだ、食うに困る事は無いでしょう」


 歩き続けながら、振り返らずアイチは諭す。


「女神や神格者なんかに構っちゃいけない。アンタは余計な事を知らずに、普通に幸せになるべきだ」

「何も知らずに泣き寝入りしろって? 冗談」


 馬鹿にするなと言わんばかりに、アンジェリカは語気を強める


「神父は女神が金塊を手に入れるって言ってた。アレはわたしの両親が、わたしの為に残してくれた財産よ。何も知らないまま、何も知らない間に、何も知らない連中に奪われるなんてまっぴらごめんよ。絶対に取り返してやるんだから」

「……しかし」

「それにアイチ、フランフルシュタットへの道、知ってるの?」

「………」


 沈黙してしまう。


「道は、誰かに聞けば……」

「フランフルシュタットは遠いわ。ここいらの人間に聞いたって、知ってても大まかな方向くらいよ」

「大まかでも……」

「それに女神がずっと居る保証は無いんでしょ。だったら、急いで、確実に辿り着いた方がいいんじゃない?」

「…………」


 何とか反論しようとするも悉く返され、遂には二度目の沈黙を許してしまう。

 これはもう自分が論破される事を認めるしか無いと、足を止めたアイチはバリバリと頭を掻き毟ってから、大きなため息を吐き出した。


「旅は道連れ世は情け、袖すり合うも多少の縁……身の安全は保障できませんが、フランフルシュタットへの旅路、ご一緒しますか?」

「……っ!?」


 アンジェリカが息を飲んでから、表情が明るく華やいだ。その気配に、神眼を使用した際、彼女の顔を見ておかなかった事をちょっとだけ残念に思う。


「うん! よろしくね、アイチ!」

「はい、よろしくお願いします。アンジェリカさん」

「もう、さん付けとか他人行儀すぎ。これから長い旅を一緒する仲間なんだから……」


 足取り軽く前へ出て、仕込み杖の先端を掴むと先導するように歩き始めると、アンジェリカは楽しげに軽快に口を動かし続ける。長らく一人旅を続けてきたアイチにとっては、賑やか過ぎる彼女の言葉に苦笑が途切れないが、不思議とそれほど悪い気分では無かった。


 復讐を誓う少年と、黄金の宿命に選ばれた少女の、長い長い旅路が始まる。その行く先は希望か、はたまた絶望か。まだ確定せずにいる未来を憂うよう、紫色の蝶が荒野の先に伸びる街道へと羽ばたいていった。


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