第4話 運否天賦


 邪魔な椅子や机が片付けられた店内の真ん中には、大きな長テーブルが一つ置かれ、それぞれの端っこにゼツ☆リンとアンジェリカが立っていた。緊張からか強張った表情のアンジェリカの手には、弾丸が一発だけ装填されたピストルが握られ、直ぐ側で椅子に腰かけるアイチに見守られながら、真正面で腰に手を当て仁王立ちするゼツ☆リンを睨む。


「準備はいいかいガール。泣いて謝りながら抱いてくれと頼むなら今の内だぜ」

「誰が頼むかっ! 金積まれたってゴメンよ」


 笑みを湛えながらの余裕に満ちた態度に、アンジェリカは負けん気を滲ませた。

 やれやれと言った風に肩を竦ませるゼツ☆リンの後ろで、ギャラリーと化したカラーズの面々が、ブーイングと共にアンジェリカを口汚く罵る。が、それらの声はゼツ☆リンが軽く手を上げただけで、示し合わせたかのようピタッと停止する。


「……よく躾けられてるじゃないですか」


 カラーズの従順さを滑稽に感じながら、アイチは眼帯で覆われた顔をアンジェリカに向ける。アンジェリカの緊張と恐怖が気配となってアイチの肌に伝わったが、それ以上に絶対に負けたくないという気迫も感じ取れた。


 今更、アイチが後ろから口を開く必要は無い。

 勝つ為の言葉は既にアンジェリカの耳に届けてある。


「負けないわよ。負けるモンですかッ」


 自分に言い聞かせるよう繰り返しながら真っ直ぐゼツ☆リンを睨む。

 同時に自分を奮い立たせる為、直前にアイチから告げられた言葉を反芻する。


『アンジェリカさん。絶対に相手から目を逸らしちゃいけません』


 そう何度も念を押された言葉を忠実に守るよう、アンジェリカは難い男の顔を、本当なら見たくもない男の面を注視する。だが、やはり怯えや恐怖が伝わるのか、ゼツ☆リンは余裕の態度を崩さないまま、鼻で一笑してから両腕を横に大きく広げた。


「改めてルールを確認しておこう。決着の方法は一つ、ピストルに込められたたった一つの弾丸が、テメェの頭を貫いたら負け……と言いたいが、俺様は性欲主義者、いやいや、博愛主義者だ」


 絶対ワザと間違えたろうと、アンジェリカは目を細めた。


「尻をこっちに向けて負けを認めるんなら、俺様の女になる事で許してやろう」

「だから、お断りだって言ったでしょ。金塊もわたしの貞操もこの町だって、アンタにくれてやるモンなんか一つだって無いわ!」

「むふん」


 啖呵を切るアンジェリカに、ゼツ☆リンは嬉しげに豚鼻から息を吹き出す。


「いい気迫だぜアンジェ。俺様のモノにならねぇのが残念なくらいだ……だが、俺様も枢要罪の一人である以上、舐められっぱなしじゃ引き下がれねぇ。アンジェ、テメェをぶっ殺した後、金塊もこの町の根こそぎ奪ってやるぜ」


 テーブルに両手で身を乗り出しながら、ねっとりと自分の唇に舌を這わせた。


「ゲイムの始まりだ、レディファーストだぜアンジェ。負ければ即、凌辱タイムだ!」

「――やれるモンなら、やってみなさいっ!」


 鼓舞するよう気合を入れてから、アンジェリカは自身のこめかみに銃口を当てた。

 ひんやりとした鉄の冷たさが悪寒となって背筋を走る。実際に凶弾が発射された部分が肌に触れた事と、まだ頬に残る軽い火傷のような痛み相まって、脳裏に放たれた弾丸が側頭部を撃ち抜く光景がフラッシュバックする。


 心臓が恐怖に縮こまるような感覚。が、アンジェリカは言われた通り、正面でニヤニヤと薄笑みを浮かべるゼツ☆リンを睨み続ける事で、萎えそうになる闘志を奮い立たせた。


「まずは一発目よっ」


 胸が膨らむほど息を吸ってから、アンジェリカは必要以上に強く引き金を絞った。

 カチッと、撃鉄だけが落ちる音だけが鳴る。同時に直前まで静まり返っていた沈黙は、予想した刺激的な音と光景が起らない事を、残念がるため息が重なった。


「好き勝手な反応してんじゃないわよ……ったく」


 愚痴りながらも安堵で高鳴る鼓動を押さえ、ピストルをテーブルの上に置く。


「次はアンタの番よ」


 そう言ってアンジェリカは、テーブルの上を滑らせるようにピストルをゼツ☆リンに渡す。受け取ったゼツ☆リンは特に恐怖を感じる様子も無く、指に引っ掻け回転させながらこめかみに向けると、何の躊躇もなく引き金を引いた。

 聞こえたのは同じく撃鉄が落ちる軽い金属音。


「ふふっ、二発目。そこまで早漏じゃあ無かったようだな」


 パンとはみ出た腹を小気味よく叩くと、今度は歓声を送るカラーズ達の声を背に、同じようテーブルの上を滑らせてピストルを返した。

 助かった安堵など一瞬。アンジェリカは渋い表情で滑るピストルを手で止める。

 再び握るグリップはゼツ☆リンの体温が移り生暖かく、持ち上げたそれは先ほどと同じ物の筈なのに、ずっしりと鉛のように重く感じさせられた。


「……ふぅ、はぁ」


 緊張から自然と息遣いが荒くなる。渇く口内を湿らせるよう何度も唾を飲み込んでから、再び銃口を自分のこめかみに当てた。

 三回、深呼吸をして止めてから、歯を食い縛って引き金を絞る。


「……っっっ!?」


 三度、聞こえた渇いた金属音に、安堵と落胆の息が重なった。


「これで、三発……折り返しよ」


 自然と浮かぶ引き攣った笑みで、ゼツ☆リンに向かいピストルを滑らせた。

 流石に四度目になるとゼツ☆リンの表情からも笑顔が薄れ、先ほどまでと異なり持ち上げても直ぐに引き金は引かず、一度呼吸を落ち着けてから、それでもアンジェリカよりも軽い指の動きで撃鉄の音だけを鳴らした。


「いいぜぇ、痺れてきたぜ、ビンビンだぜ」


 カラーズ達から感嘆のどよめきが漏れ、アンジェリカの表情が明らかに強張る。

 不敵に唇の端を吊り上げながら、ゼツ☆リンは再びピストルを滑らせた。アンジェリカは反射的に滑ってくるピストルを、上から手で押さえるように止めるが、グリップを握る事ができずそのままの態勢で固まってしまう。

 装弾数は六発。二分の一の確率で、確実に鉛玉がアンジェリカの脳天を貫く。

 輪郭を帯びて鮮明になる死の恐怖が、早鐘となってアンジェリカの心臓を打つ。


「――おらおら、ビビってんじゃねぇぞ!」


 数秒、硬直していると、一人の野次を切っ掛けにアンジェリカへの罵詈雑言が飛ぶ。そこでようやくハッとなり、グリップを握り締めて銃口をこめかみにまで持ってくるが、右の側頭部を焼くような熱の錯覚に動きがまた止まってしまう。


「あ、あれ? 指が、動かない……?」


 唖然とした口調で小さく呟く。

 勿論、何かの魔術や催眠術で、本当にアンジェリカの自由が奪われたわけでは無い。原因は単純に恐怖。引き金を引けば死ぬ。脳裏に浮かぶ明確な死のビジョンが、人間が持つ本能的な恐怖を呼び起こり、無意識に身体がそれを拒否しているのだろう。


(いや、違う! そんなの言い訳よ……絶対にわたしは負けたりなんかしないッ)


 懸命に奮い立とうとする心情に反して身体は全く言う事を聞いてくれなかった。

 カラーズ達は相変わらず身勝手な野次と罵倒を浴びせてくるが、それすらも遠くに聞こえる雑音にしか感じられない。その癖、うるさいほど早鐘を叩く心音と、浅く荒く繰り返される犬のような自分の息遣いだけが、鮮明に鼓膜へ不協和音として響く。気が付けば全身も汗だくだ。忠告された通り睨みつける視線も、遠く離れていくようにぼやけ、霞む視界の所為で憎い男の顔すらおぼろげになり、持ち前の負けん気に火を灯す事も出来なかった。

 緊張と恐怖を見透かすように、ゼツ☆リンはニヤニヤと笑みを濃くする。


「どうしたぁ? アンジェ。可愛い顔が引き攣ってるぜぇ?」


 うるさい。そう言いたげにアンジェリカが、ギリッときつく奥歯を噛んだ。


「諦めろよ。素直に俺様の女になるんなら、生意気な態度は許してやる。お前が手に入るんなら、金塊だって必要ねぇ。この町からだって即おさらばだ……贅沢をさせてやる、食い物にも着る服にも困らせない」


 酷く優しげな、けれどねっとりと絡み付くような言葉で、ゼツ☆リンは正面のアンジェリカを抱擁する風に、広げた両腕で自分自身を抱きしめた。

 尖らせた分厚い唇をチュッと鳴らして、隠微な流し目をアンジェリカに向ける。


「難しい事じゃない。たった一言、抱いて下さいゼツ☆リン様と言えば、今日からお前は俺様の女、世界最悪である枢要罪の一人、色欲様の情婦になれる……さぁ。さぁさぁさぁさぁ! 言え、言っちまえアンジェリカ!」

「……そんな言葉っ」

「言えねぇってか? アンジェ、オメェが義理立てする理由がこの町の何処にある。金塊を持つガールを妬み、人身御供にしようって連中を守って何の特になるっていうんだ。助けたところでやっかみの言葉を投げつけられて終わりよ……だが、俺様は違う。俺様ならアンジェ、オメェの全てを背負ってやれる」

「……っ」

「選べアンジュ。ここで無様に死ぬか、俺様と共に色欲の赴くまま生きるか」


 怯んだ弱気に漬け込むよう、構えたピストルの重みが増した気がした。自分が勝つ光景が思い浮かばない。引き金を引いた次の瞬間、飛び出した弾丸が頭部を撃ち抜く光景しか、想像が出来ない。

 負けを認めた方が、幸福なのでは?

 弱気に傾きかけた瞬間、真後ろからお尻に何か硬い物が押しつけられた。


「――きゃん!?」


 驚き跳ね上がるアンジェリカ。


「ちんたらやってないで、さっさと終わらせてくれませんかねぇ」


 急かしつつ背後に立ったアイチは再び、仕込み杖で彼女の柔らかい臀部を突っついた。


「――ちょッ!? こらぁ、いきなり何を……むぎゅ!?」

「こっちを振り返っちゃいけません。言ったでしょう? 何があっても正面を睨みつけてろって」


 羞恥と驚きから顔を真っ赤にして振り向こうとするアンジェリカの頬を、同じように仕込み杖の先端で押し返し無理矢理に正面へと戻す。


「運否天賦ってのはテメェじゃどうにもなりません。けど、アンジェリカさん。踏ん張る時に踏ん張れない人間は、一生そのままだって自分は思いますよ」

「……っ!?」

「それに、あんな下劣な男は、太陽のようなアンタには不釣り合いだ」


 最後は少しだけ茶化すように言って、アイチは肩に乗せていた仕込み杖を下ろす。

 その瞬間、強張っていた全身から、ふっと力が抜けるような感覚が駆け抜けた。

 一度、軽く目を閉じてから再び瞼を開くと、揺れていた視線が正面に定まり、遠く霞かかっていたゼツ☆リンの表情が、憎々しく思えるほどはっきり認識できた。同時にアンジェリカの胸の内に、消えかけていた闘志が再び灯る。


「……教えておくわ、アイチ。わたしには嫌いな言葉が三つあるの」


 落ち着いた声でそう告げてから、アンジェリカは三度目の引き金を引いた。

 撃鉄が落ち、店内は奇妙な沈黙に満ちた。

 アンジェリカの額から一筋の汗が流れ、顎の先から雫となって床へと垂れると、彼女は少しだけぎこちなく頬を吊り上げる。


「損と、大損と、一人負け……勝つのはわたしよ、色欲!」


 勝利を告げながらピストルをテーブルに叩き付け、ゼツ☆リンに向けて滑らせた。

 弾倉の数は六。先行のアンジェリカが三度、引き金を引いて生き残った時点で、ゼツ☆リンの負けは確定したのだ。


「…………」


 状況を理解しているから、先ほどまで盛り上がっていたカラーズ達に歓声は無く、戸惑うような視線を黙りこくるゼツ☆リンの背中に注いだ。

 無言のまま、ゼツ☆リンは目の前で止まったピストルを手に取る。


「見事だぜ、ガール……オメェさんの度胸、俺様ともあろう色男が、すっかりと見誤っちまったようだ」

「そう、勉強になって良かったわね」


 打って変わって神妙な口調になるゼツ☆リン。観念したかのような態度に、アンジェリカはほっと胸を撫で下ろす。


「素直に負けを認めなさい。別にわたしは町から出てって貰えれば、アンタが何処で悪さしようと関係な……」

「いや、そうはいかねぇ。勝負は勝負。最後までイカなきゃ、色欲は満足できねぇんだよ」


 静かにそう告げるとゼツ☆リンは、掴んだピストルを自分のこめかみに添える。


「――ちょっ!? 馬鹿っ、なにもそこまで……!?」

「馬鹿はオメェだぜ、ガール」


 長い舌をベロッと出してゼツ☆リンは邪悪に嗤う。

 次の瞬間、自身のこめかみに当てていた銃口を慌てるアンジェリカに向けた。

 何が起こったのか、アンジェリカがハッキリと認識する間も無く、ゼツ☆リンは何の躊躇も無く引き金を絞る。撃鉄が落ち計五回、渇いた金属音だけを奏でたピストルは、甲高い破裂音鳴らし火柱を吹いて発射した一発の鉛玉が、アンジェリカの眉間を狙い飛翔する。


(あ、これ。わたし、死んじゃうわ)


 恐怖や驚きや同様より早く、たったそれだけの言葉が本能的の脳裏へと浮かぶ。

 刹那の一瞬。瞬きすら許されない音速の中で、確実な死となって迫る弾丸を断つよう一筋の閃光が煌めいた。


 銃声が鳴るのとほぼ同時に、瞬時に動いたアイチが片足を叩き付けるようテーブルの上に乗せ、逆手に握った仕込み杖を抜刀。片刃の斬撃が空を裂き飛来する鉛玉を、寸分違わず真っ二つに寸断すると、分かたれた弾丸はそのまま別々の方向へ軌道を逸らし、アンジェリカの眉間を穿つ事は無かった。


 銃声の残響が木霊する店内は、絶句という沈黙に塗り潰される。


「やれやれ。弾丸を斬るのは初めての経験だが、意外と上手くやれるモンだ」


 軽く冗談を口にしながらアイチは抜き身を杖へと納めて、眼帯に覆われた顔を硝煙から硝煙を立ち昇らせたピストルを握り、茫然としているゼツ☆リンに向けた。


「確かに勝敗は頭を撃ち抜いたらって事ですが、相手の頭を撃ち抜こうってのは、ロシアンルーレットの流儀に反するんじゃないんですかい?」

「……んぐッ」

「アンジェリカさんは土壇場でもきっちり踏ん張った。アンタはどうする? 勝負事の筋をちゃんと通すか……」


 声の圧を強めながら、アイチは仕込み杖を握る逆手に力を込める。


「この場で俺に、全員ぶった斬られるか」


 その一言にカラーズ達は息を飲み込んだ。

 猫背で盲目の小僧。アイチが店内に姿を現した時、誰もがそう侮っていただろう。しかし、今この場を支配しているのは紛れもなくこの少年。音よりも早く飛ぶ弾丸を、一刀で叩き斬る絶技を目の当たりにしたからだけでは無く、アイチの発する異様な迫力のある存在感に、カラーズ達の威勢の良さは飲み込まれてしまっていた。


「色欲さんよ。アンタが色男だってんなら、これ以上の無様は無粋ってなモンだ」

「ザッツライト。前言は撤回してやる、認めてやるぜ……俺様の負けをな」


 殊勝な言葉でピストルをホルスターに収めたゼツ☆リンにカラーズ達がざわつく。

 それを静めるよう後ろを振り返ったゼツ☆リンは、相変わらず大仰な仕草で両腕を大きく横に広げると、動揺する部下達に向かって言い聞かせた。


「マイブラザー達。負けは負けだ、約束通り俺様達はこの町を去るぜ。準備をしな」


 カラーズは不満そうな表情を一瞬するが、ボスであるゼツ☆リンに意見するような者はおらず、一人が立ち上がるとそれに続くよう、次々と腰を上げた面々が荷物を纏めるなど撤収の準備を始めた。


「……ふむ」


 驚くほど素直な反応に、アイチは訝しがるよう眉を顰める。

 怪しいは怪しいが素直に片付け始めるカラーズと、消沈するように威勢が削がれたゼツ☆リンの後ろ姿に、警戒心は残しつつも構えていた仕込み杖を下ろし、乗せていた片足をテーブルの上から下ろした。


「話は付いた。最後まで撤収を見送りますかい。それとも……」


 この場を立ち去るか?

 問い掛けようアンジェリカが居た場所に手を伸ばすが、肩に触れるはずだった右手はスカッと宙を切ってしまう。


「おや?」


 何処に行ったのかと首を巡らせ気配を探ろうとするアイチの足元から、僅かに震える手付きがズボンの脛の辺りを掴んだ。

 ペタッとお尻を床に突け、アンジェリカが小刻みに震えながらアイチを見上げる。


「どうしたんです、アンジェリカさん? そんな場所に座り込んで」

「こ、腰が……抜けたの。立ち上がれないのよ!」


 涙声で鼻を啜りながら、やけくそ気味にアンジェリカは叫ぶ。

 ロシアンルーレットに勝って気が抜けたのか、ピストルを撃たれた事に驚いたのか、あるいはその両方なのか。腰を抜かして座り込むアンジェリカは、膝も笑ってしまっていて立ち上がろうとするも上手く力が入らない。


「……こりゃ、さっさと退散した方がよさそうですね」


 短く嘆息してから、仕込み杖でアンジェリカの足を叩き此方に意識を向けさせ、背中を見せるようにして座り込んだ。


「ほら。家までお送りしますから、背中に乗って下さい」

「えっ。いや、でも……大丈夫よ。そんな、子供じゃあるまいし」

「立ち上がれもしないのに、無駄な遠慮は止しましょうよ」

「……うっ。わ、わかったわよ。お願いするわ」


 腰を抜かしてしまった情けなさからか一度は拒否するが、柔らかい口調で諭されたアンジェリカは渋々だが、床の上を這うようにしてアイチの背中に乗っかる。自分より小柄なアイチに背負われるのは気恥ずかしいのか、アンジェリカは頬を軽く朱色に染め仏頂面を晒している。


「それじゃ、立ち上がりますよ。ああ、申し訳無いですが、杖の方を持っていて貰えますかい」

「……ん」


 しがみ付くよう首に回した手に仕込み杖を持たせると、アイチは腹筋に力を込めながら立ち上がった。その際、アンジェリカの身体がずり落ちないよう、支える為に回した手がお尻に触れて「にゃ!?」と、猫のような声を小さく漏らしたが、仕方のない行為だと理解してくれたらしく抗議は無かった。

 悪く無い感触。心の中でほくそ笑むと、後頭部に刺さるような視線を感じた。


「……いま、よこしまな事を考えなかった?」

「さて、何の事だかわかりませんね。それより、誘導の方をお願いしますよ」


 すっとぼけながら数歩、歩を進めてから撤収作業をするカラーズ達へ頭を下げた。


「それじゃ皆様方、俺達はここらで失礼させて頂きますよ」


 憎々しげな視線を浴びながら、アイチは背中におぶったアンジェリカの誘導に従いながら、よたよたとちょっとばかり危なっかしい足取りで店を後にする。

 残されたのはゼツ☆リンとカラーズの部下達のみ。

 気まずい沈黙の中、撤収の為の片づけを続けるも、やはり我慢がし切れずにいた部下の一人が荷物を持ち上げ、苛立ちをぶつけるよう足元に叩き付けた。


「クソッ、やってられるか馬鹿らしい!」


 叩き付けた荷物を蹴り飛ばしてから、部下の男はテーブルに両手を突いてうなだれるゼツ☆リンに詰め寄る。


「いいんすかボス! あんなガキ共に舐められっぱなしで!」

「……約束は約束だ。勝負に負けた以上、約束は果たす。色男の義務だぜ」


 静かな口調で宥めるが、男は納得せずに声を荒げた。


「はぁ? マジで言ってるんすかい!? アンタ、ひょっとしてあのガキにビビって……」


 言いかけた言葉は伸ばしたゼツ☆リンの手に顔面を鷲掴みにされ、強制的に停止させられる。


「口には気を付けてくれよブラザー。でないと、つい力が入り過ぎちまうぜ」


 変わらず静かな口調のゼツ☆リン。しかし、顔面を鷲掴みにした手には力が籠り、持ち上げられた身体は宙ぶらりんになり、男は浮いた足をもがくようバタつかせる。止せばいいのにという哀れみに満ちた周囲の視線と、指先が食い込み頭蓋をミシミシと軋ませる異音に、ようやく己の間抜けさに気が付いた男は、口の端から泡を飛ばしながら懇願する。


「が、ががッ、ギッ!? ゆ、ゆるぢでぐだざぃぃぃ……ぐ、ぐるぢぃ」


 外圧から顔面を真っ赤にして許しを請うが、ゼツ☆リンは聞く耳を持たない。


「この俺様が、カラーズの頭領で、枢要罪の一人である、色欲のゼツ☆リン様がよぉ、あんなクソガキに舐められて……頭にこないわきゃねぇだろおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」


 怒号と共に掴んだ腕の筋肉が隆起。そのまま体格の良い大人の男を一人、まるでボールでも投げるよう軽々と持ち上げながら、壁に向かって投擲する。錐揉みしながら飛んでいく男は悲鳴すら上げる間も無く木製の壁を突き破ると、舞い上がった砂埃に紛れて辛うじて露出した足が僅かに数回痙攣すると、そのまま動かなくなってしまった。


 額に血管を浮かべ怒りの形相を見せるゼツ☆リンは、それでも気が治まらないのか荒い息遣いと共に、苛立つよう奥歯をガリガリと噛み締める。

 ビリビリと空気を震わせる怒気に、カラーズ達は怯えるよう身を竦ませた。


「上等じゃねぇかクソガキがッ。この色欲のゼツ☆リンを甘く見るとどうなるか、尻の奥までずっぽりと叩き込んでやるッ」


 怒りに混じり背中から立ち上るのは、押さえ切れぬ枢要罪の瘴気。薄い紫色の煙はゼツ☆リンの荒ぶる感情に呼応するよう、ピリピリと紫電を撒き散らしていた。


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