湯田温泉記
@Umi1108
第1話
瓦は煤けており、軒瓦の模様なんぞはここからでは判然としない程である。この辺りは風情を感じるが、直ぐ横のアスファルトの上を自動車が走っている。温泉街と聞くと、日本家屋の旅館が軒を連ね、木組みの柱と瓦とが、障子、硝子、雪見障子と美しい明暗の対比を見せる光景が浮かぶが、少なくともここはそうでは無いらしい。
私は同じ学部の友人と共に湯田温泉へとやって来た。こいつは−個人情報保護とプライバシーにうるさい昨今の情勢を鑑みれば本名はまずい−読者諸君には悪いが、ここは偽名を使わせて貰おう。名は体を表すと言うが、名前の1つや2つで聖人君子になれるのなら苦労はない。人間そう単純では無いのだ。名前が変わった程度のことで人が変わる訳ではあるまい。偽名でも差し障りは無かろう。かといって我が稀有なる親友を権兵衛などと適当な名で呼ぶほど私は礼を知らない人間では無いつもりだ。差し当たっては、こいつの名前を考えることから始めるとしよう。
こいつは生粋の山口県人だ。私が勝手にそう言っているのではない。自ら、今の日本の礎を築いた誉れ高き山口県人の血を引く生粋の山口県人であると豪語しているのだ。ならばこいつは山口と呼んでやることにしよう。きっとこいつの名誉も守られるに相違ない。呼んでやろうとは言ったが、友人を苗字で呼ぶのは他人行儀で憚られる。名前が必要だ。山口県に縁のある人物から名前を借りて、こいつのことはこれから山口晋作と呼ぶことにする。
すると私の名前も必要になる。私はこいつほど自分の出身地に愛着がある訳では無いが、こいつに命名した法則に倣って地元の名前を苗字に戴きたいのであるが、生憎兵庫なる人物には出会ったことが無い。会ったことが無いだけで、この広い世の中には兵庫という苗字があるかもしれない。あったとしたら兵庫さんには悪いが、会ったことが無いものは仕方がない。この法則に従いながら、ありえる苗字にするために、読み方が違ってしまうが、私は神戸と名乗らせて貰おう。名前は晋作が敬愛する山口県と私の地元兵庫県に縁のある人物から取って博文としよう。
私達の名前が決まった所で話を元に戻そう。立体駐車場から出て目に入って来た光景はどこまでも平凡であった。県道に面して古びたコンクリートの建物が並んでいる。その中には全国チェーンの飲食店やコンビニがある。観光地まで来て敢えてこういう店で食事をしようとは思わない。それではここに来るまでも延々と続いてきた、そしてこれからも絶えることのない日常と何ら変わらない。私の日常に深く根ざしたものは、ここに住む人々の日常をも侵食しているのだ。この町のものは隣町からやって来る。隣町のものはそのまた隣町からやって来る。生活や経済は終わりの無い生産関係の網の中にある。この土地だけが閉じた生態系を営む事は出来ないのだ。
晋作が何かを見つけたらしい、対岸の歩道を指さしている。「あれ観光案内板じゃないか?旨い店が載っちょるかもしれん。」「そうだな。」ここまで車で数時間、途中寄ったコンビニで珈琲を買ったのみで何も食べていない。そろそろ昼食にしたい所だ。地元の名物や名店にありつけるという期待も虚しく、その案内板は温泉と宿、それに幾ばくかの名所を告げるばかりだった。元来ここは温泉地だ、この看板は己の職分を全うしている。責められるいわれは無かろう。
私がこの板の弁明を考えている間、晋作は看板の隅々にまで目を通していたが、漸く諦めがついたらしい。「ご飯は載ってないけぇ、スマホで調べるわ。」言うが早いかポケットからスマホを取り出し画面を触り始める。その間無聊を慰めるため、私も同じように携帯を使って昼のあてを探す。時代が違えば自分の足で情報を稼ぎに行く所なのだろうが、7の六にスマホを打つのは現代の最も深刻な病理の1つである。暫く横からうんうんと唸る声が聞こえる。確かに、この辺りには居酒屋が多く、今の時間から営業している店舗は少ない。「こことか美味しそうじゃない?定食とかあるし。」晋作が示す店を検分する。写真に写るメニューには瓦そばの文字があった。瓦そばは今日山口県に来た理由の1つでもある。以前ドラマで瓦そばを見てから、食べたいと思っていたのだ。「そこにするか。」そう言って私達は観光案内板を後にした。
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