第14話  『オカダ・カケル』



「――が、あッ!!」


 胸倉を乱暴に握りしめながら、カケルは追われるようにベッドから起き上がった。

 ずっと力んでいたのか、腕の筋肉が強張っている。

 ぜえぜえと肺に穴が開いたような呼吸しかできず、喉の痛みに何度もむせ込む。

 全身にぐっしょりと汗をかいていた。


「あ、ああ、あああ」


 恐怖が、嫌悪が、体の内から溢れて止まらず、カケルは己を抱いて激しく震える。

 何が起こった。両手を見る。皺がない。腰。痛くない。わからない。

 認識と現実の乖離が著しく、過剰な情報に脳が軋む。だが、直前までの記憶は鮮明だ。

 そうだ。覚えている。確か、カケルは仕事を――


「う、ぶ」


 込み上げる絶望に堪えきれず、窓へ駆けだし嘔吐した。

 体を窓枠から外へ何度も折り曲げる。


「――ハァッ、ハァッ……あ、さ?」


 どうにか出し切ったところで、顔を照らす日差しに気が付いた。

 周囲を見渡すと、そこは見慣れたワンルームではない。薄暗さはよく似ているが、ここは宿、そして今は朝だ。

 そこで漸く思考が現実に追いついた。

 今はメメと別れた次の日の朝だ。宿で男爵と会話し、カケルはいつの間にか眠りについていた。

 つまり、ワンルームでの経験は全て夢。

 否、正確には夢ではない。あれはカケル――翔の記憶だった。

 父の誠一と話した記憶までは、カケルが実際に経験したものと同じだ。

 だがそこから先は知らない。あれが、あれこそが、翔が経験してきたもののようだった。


「俺は――」


 あの記憶も全て、この世界と同じく現実ではない。

 だが笑い飛ばせない。笑い飛ばせるわけがない。あの記憶には、翔がカケルに向ける敵意の理由、その全てが詰まっていた。

 不意に扉が開く音がした。差し込む廊下の光と共に人影が姿を現す。


「カケル、そろそろ行くか」


 現れたのは男爵だった。そろそろ行く、とはつまり夢の世界から出ようということだ。


「……そっか」


 混濁していた記憶が整理され、今の自分が何をすべきだったかが明瞭になっていく。

 そう、状況は何も変わらない。カケルは今、翔に力も理由も奪い取られ、夢から出ることを迫られている。

 トモリと、それを追うメメを見捨て、自らを優先した選択をしなければならない。

 そして翔によると、その選択こそが小説家を諦めるきっかけになるらしかった。


「――――」


 変わらない、どころか状況は悪化していたかもしれない。

 翔の人生を追体験したカケルには、既にあの記憶に抗えるほどの意志は残されていなかった。

 小説を書いてすらいないのだから憧れは偽物だ、という主張に、カケルは何も言い返すことが出来なかった。

 そんな偽物の憧れに執着した結果があの人生だ。

 もちろんあれは確定した未来などではないが、今のままカケルが大人になればきっとあんな人生を送ると確信できてしまう。

 それほどまでにあの記憶にはじっとりと黒い質感があった。

 きっと、カケルの憧れは間違っていたのだ。

 翔の言う通り偽物で、本気にすれば痛い目を見るのは誰よりカケル自身。

 だから諦めるきっかけを得られるというのはむしろ幸福なことなのかもしれない。


「……ごめん男爵。行こっか」


 カケルが窓とカーテンを閉めると、部屋が再度薄暗く染まった。


 夢の終わりは近い。


   

               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 都の隅にある宿の一室にて、安楽椅子にもたれかかる翔は目を覚ました。


「――見られたか」


 と、人生を覗かれた感覚に眉をひそめながら呟く。

 カケルが翔の存在を認識したからか、お互いに意識の無くなったタイミングで『繋がって』しまったらしい。

 力を使えるほどに同一人物として作られた翔達特有の現象だろう。

 勝手に過去を見られたのはいい気分ではないが、これはこれで悪いことばかりでもない。あんなものを見て、カケルの心が折れないわけがないのだから。


「――――」


 翔は立ち上がると手をかざし、人一人を優に超えるほどの巨大な黒渦を眼前に生じさせた。そのまま躊躇いもなく足を踏み入れ、身体を渦の中へと呑み込ませる。

 渦を抜けた先にあったのは窓一つない階段の踊り場だ。

 下に続く階段を下りていくと、そこには地下牢と思われる閉鎖的な光景が広がっている。

 弱い灯りがいくつか置いてあるだけの窓の無い部屋に、薄汚れた壁と床。

 一面に張り巡らされた鉄格子の向こうにはただ一人、亜麻色の髪と獣耳を持つ少年が膝を抱えていた。


「カケル……?」


 翔を見た少年の顔が一瞬希望に輝いたが、すぐに違和感に気が付き険しい顔つきになる。


「アンタ、誰だ」


「強いて言うなら、お前をそんな状況に追いやった元凶だ。恨みたければ恨めばいい」


 少年――トモリは眉間の皺を深めたが、すぐに「やめだやめ」と眉間をほどいた。


「お前が誰だろうと俺が逃げられないのは変わんねえ。考えても腹が減るだけだ」


 言葉と共に胃の鳴る音が響いた。自分の身体のあまりの間の良さに、トモリが舌打ちをする。

 どうやらまともな食事も与えられていないようだった。

 翔はトモリの手元に渦を生じさせると、ぼとり、とパンを落とした。


「食えばいい」


 受け取ったトモリは翔とパンと黒渦を交互に見ると、怪訝な表情をする。


「アンタやっぱカケル達の関係者か。でもなんでこんなこと。元凶さんじゃねえのかよ」


「攫う必要はあったがお前に恨みがあるわけじゃない。巻き込んで悪かったな。出してやることは出来ないが安心しろ。俺もお前もあと数時間もすれば消えてなくなる。才能攫いも商品には手荒な真似はしない。酷い目に合う前に全てが終わっているはずだ」


「はっ、なーに言ってるかわかんねえっつーの」


 翔の言葉を鼻で笑い飛ばすトモリ。

 翔も、それ以上の説明をするつもりはなかった。


「どちらにしても、一番肝心な人間の心は折れている。時間の問題だ」


「カケルのことか」


 トモリは壁にもたれながら、横目で正解を言い当てた。翔が目を細めると「折れてないんじゃねーの」と続ける。


「まあ正直カケルとは短い付き合いだけど、それでもわかるぜ。あれは側の人間、ウチの姉ちゃんと同じタイプだ。ああいう輩は何言っても止まんねーだろ」


 その言葉に翔は表情を消すと、しゃがれた声で呟いた。


「お前たちのことは見ていた。お前の姉とあの小僧は同じじゃない。それに、あの小僧の心はもう二度と立ち上がれないぐらいに折れている。絶対にだ」


 強く言い切ると、翔の背後に黒渦が生じた。翔は振り返り、その中へ身を沈めていく。


「あと数時間だっけか」


 翔の背中に声が追い付いた。


「そん時にわかるぜ、きっとな」


 強がりか、本当に強いのか。トモリの言葉を受け流すと、翔は渦へと入っていった。


   

               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 宿を出て、カケルと男爵は塔を目指して砂漠の中を歩いていた。

 歩き始めて既に数時間、二人の間に言葉はない。ただ砂を踏む音とともに時間だけが過ぎていく。

 塔――この世界の出口は砂漠を超えてすぐの森の中で、目の前に迫っていた。

 塔をよく見るため、砂で汚れたレンズを拭こうと、カケルはメガネを外す。


「――あ」


 不意に、砂に足先が引っ掛かり姿勢を崩した。

 両手がふさがったカケルは、抵抗も出来ずに砂漠に倒れこむ。グシャリ、と嫌な手ごたえがあった。

 咄嗟に手元を見るが、もう遅い。

 特徴的な赤ぶちメガネのレンズは、手と砂に挟まれ無様に割れていた。

 カケルはレンズに走る痛々しいひびを見ながらノロノロと立ち上がる。


「新しいのを出そうか」


「いや、いい……」


 首を振りながらメガネをポケットにしまうと、カケルはぼやけた視界で歩き出した。

 新品など意味もない。壊れたメガネも、どうせ現実に戻ればなかったことになるのだから。


 カケルは既に、現実から出る以外の選択肢を捨てていた。

 カケルでは翔に敵わない。助けに行けばカケルは殺され、助けに行かなければ夢から出られる。仮にトモリを助けられても、現実に戻ればどうせ全て消えてしまう。

 やはりどう考えても助けに行く選択は選べなかった。

 夢から出て、カケルは小説家を諦める。翔のような人生を送ることも無くなる。

 そうするしかなく、それでいいのだ。


 じりじりと日差しが肌を焼く。転んだ時に入った砂が口の中でざらつく。顎を伝う汗で喉の渇きを自覚した。

 形の変わる足場に疲労し、脚の筋肉が痙攣して悲鳴をあげている。

 風で飛ぶ砂の向こうで揺れる木々が、ぼやけた視界にはうごめく化け物のように映った。


 これでいい。

 この最悪な思い出に感謝する日がきっと来る。だから、進むしか――


「カケル。寝ている間に何を見たんだ」


 男爵の言葉に、思わず足を止めた。どうやらカケルの異変は筒抜けだったらしい。


「……あっちの俺の記憶、だと思う。内容は……ごめん、言いたくない」


「……そうか。わかった」


 あっさりと追求を止めた男爵だが、すぐに次の言葉を続けた。


「少し時間をくれないか」


 突然の男爵の提案に、カケルは眉をひそめた。男爵は自分の胴を見下ろす。


「一晩中抵抗した甲斐があった。ひびが入ってる。封印を破れるかもしれない」


 見下ろす男爵のモザイクの奥の目には、どうやら巻き付いた黒鎖が見えているらしい。


「力を取り戻せば、あの翔に勝てるかもしれない。そしたらカケルも諦めずに済むだろ」


「でも――」


 それは翔に逆らうということだ。気付かれればすぐにでも命を狙われるだろう。

 なにより、塔に向かうべき、と昨日言ったのは他でもない男爵自身だ。


「……昨日は悪かった。カケルのことを考えたら、あれが最善だと思ったんだ」


 カケルの困惑を察したように、男爵は謝罪する。


「もっとあの翔の言葉を重視するべきだった。……見てれば分かる。このままだと出られたとしても、カケルは本当に小説家を諦めるだろ」


 気遣う言葉に内心を言い当てられ、カケルは気まずく身じろぎする。


「カケルがこの世界に来たのは俺のせいだ。だからこの世界のせいでカケルが夢を諦めるなんてことを、俺は許容しちゃいけない。――それに、今のカケル、見てられないぜ」


 珍しく苦笑気味な男爵は「カケルはいい奴だよ」と続けた。


「夢の世界はいつかなくなる。だからこんな選択、自分は悪くないって開き直ってもいいはずだ。なのに、ずっと苦しんでる」


 カケルの両肩に手を置くと、男爵は屈んで視線をカケルの高さに合わせた。


「俺はどうにか鎖を壊せないか抗ってみる。だから、カケルも抗ってみてくれないか」


「俺も……?」


「ああ。封印されても夢の主はあくまでカケルだ。アイツじゃない。何かのきっかけで鎖を壊せる可能性もある。失敗しても自分を責めなくていい。だから、やってみてくれないか」


 反旗を翻すような会話をしても、翔からのアクションはない。

 まだ問題ないとみなされているのか、そもそも監視とはいえ音声まで把握できるわけではないのか。

 どちらかはわからないが、まだ助けられるのかもしれないという微かな希望は確かにあった。


「……わかった」


 頷くと、カケルは目を閉じた。

 男爵の言う『何かのきっかけ』とは何か。それを探して自身の内側に潜る。

 必要なのはきっと、鎖を壊し、翔の人生の重みに正面から立ち向かえるような何かだ。

 これまでの人生の中に、それが眠っていないかとカケルは模索する。

 どこかに、全てを覆せるほどの確固たる何かがあるはずだ。それを探して、潜って、考えて、考えて――


『――仕事、探さなきゃな』


 ――しかし、どれだけ考えても翔の記憶がちらついた。


「……ダメだ」


 記憶に呑まれ、カケルは瞳を絶望に染める。それを見て、男爵は静かに促した。


「カケルならできるはずだ――諦めたくないんだろ」


 静かな激励に、カケルは強く唇を噛む。「俺だって」と砂でざらついた声で言った。


「俺だって、諦めたくないよ。助けたい。メメ達に嫌な目にあってほしくない」


 カラカラに乾いた喉で声を絞り出す。

 そうだ。誰が友達の不幸など望むものか。


「でもどうしようもないんだ。アイツは、俺に小説家を諦めさせるためなら何でもしてくる」


 カケルでは翔に勝てない。あの記憶に対抗できない。カケルの憧れは偽物だった。


 偽物だったのだ。


「だから俺じゃダメなんだ。どう合理的に考えても助けに行くだけ皆不幸に――」


 はたり、とカケルは言葉を止めた。何故そうしたのかはわからない。だが――


「どう、合理的に……考えても……」


 引っ掛かりの原因を探して、再度同じ言葉を口にする。 

 絶望に呑まれかけていた意識が、違和感に息を吹き返した。

 今のカケルの言葉――否、言葉だけでなく状況も、どこかで見た記憶がある。それも、きわめて最近。


 ――どこだ。


 なにかの確信があったわけではない。


 ――どこだどこだどこだ。


 それでも必死に引っ掛かりを手繰り寄せた。多分、最後のチャンスだったから。


 ――どこだどこだどこだどこだどこだ。


 高速で巻き戻される記憶が、脳内で幾重にもフラッシュバックしていく。



『間違った道に行かないようにするのが親の役目だ。……私はそう、信じている』

『「叶いそうだから」ってのは夢を選ぶ時の立派な理由だと思うぜ』

『本当は好きなわけでも、やりたいわけでもないんじゃないんじゃないっすか』

『お前の行動は、どうみても天秤が釣り合ってない』

『そういうの飛び越えて憧れを優先するのがそんなにおかしいかよっ!』

『非難して、欲しいんですか?』

『夢はいつか消える』

『――仕事、探さなきゃな』

『俺は結局、お父さんがどうしてあんなこと言ったのか理解できなかったなぁ』

『お前に理解させるためだ』

『俺はこのまま、この夢から出る』


『合理的に考えろ』


「――――」


『夢を追う人間は――狂っている』


「――あ」


 無数の言葉に埋もれながら、それでも脳裏に蘇ったそれに、カケルは思わず声を漏らした。

 数多の引っ掛かりが記憶と思考で一本に組み直され、それまで淀んでいた視界が僅かに晴れる。


「そっか……お父さん……」


 砂漠に走る風が、カケルの髪を撫でていった。

 それは、カケルがずっと理解できなかった言葉。

 夢を追う人間に誠一が放った言葉だ。


 夢なんて大概は叶わない。それはわかる。

 それでも目指せば、目指さなかった時よりあらゆる面で損をする。それもわかる。

 夢と憧れはいつか、熱が冷めて消えてしまう。それもそうなのかもしれない。

 夢が絶対に叶うような安定した理屈は存在せず、利益の面でも殆どの場合で損をする。

 だが、それでもやりたいと思う憧れを優先することは、カケルにとってごく自然な感情で、決して狂気と呼ばれるようなものではなかった。

 そう、理屈と利益を飛び越えたとしても。


 ふと、世界を見渡す。

 頬をくすぐる風、風にさらわれる砂。照りつける太陽と乾いた砂の匂い。遠くで揺れる森に、忍び歩く森の動物。

 それら全てが、確かに存在を主張する。


 カケルは皆を助けたかった。

 助けられるだけの理屈がなかった。カケルは翔に勝ち目がなく、どうやっても助ける方法が見つからなかった。

 助けられるだけの利益がなかった。皆を助けてもそれは僅かな気持ちの違いだけで、助けても助けなくても結果は同じだった。それに対して翔と敵対するリスクが大きすぎた。

 最後には必ず消えてしまうという点が、何より足を引っ張った。

 そしてその状況こそが、カケルが父の言葉を思い出すきっかけになった。

 理屈も利益もなく、いつか消えてしまうという共通点。


 ――夢の世界と将来の夢。二つの夢が、偶然にも重なった。


 カケルは今、助けたいと思いながらも、合理的に考えてこの世界から出ようとした。そうするしか選択肢がないと思ったからだ。

 だがもし、こんな状況でも『助けたい』という思いだけを優先して行動する人間がいるとすれば、それは――


「――なるほど、これは確かに、狂ってる」


 拍子抜けなほどすんなりと誠一の言葉を理解し、カケルは微かに笑みを零した。

 どうして今までこんなこともわからなかった。普通の感性を持っていれば、誠一の言っていることなど難なく理解できたはずなのに。

 つまりそれだけ、これまでのカケルの中には狂気が眠っていたということで。


「――なあカケル、どうして小説家なんだ?」


 男爵が場違いにも思える問いを投げかけてきた。

 それは以前にも訊かれた内容だ。だが、当時の返答では的外れだったと、今ならわかる。


「カケルはどうして、小説家になりたいと思ったんだ」


 それは、カケルの原点に対する問いだ。

 小説家になりたいと、夢という名の狂気を抱えたカケルの、始まりはどこなのか。


「俺は……俺の狂気の、原点は」


 憧れには理由がある。狂気には原因がある。

 舞い上がる風に視線を運ばれ、大空に目をやった。雲一つない青が過去を映す。


「俺は――」


 そう、カケルは。


   

               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「お母さん、僕、変なのかな」


 目の前にラスクが並ぶのを眺めながら、齢八歳の少年――カケルは疑問を投げかけた。


「どしたの、急に」


 母の岡田詩織しおりはエプロンをほどきながら不思議そうに目を丸くする。


「さっき、サッカーしてたらタロちゃんが怪我したんだ。お顔にボールあたっちゃって」


「ありゃ、可哀想だね」


「それでみんなで保健室に連れて行ったんだ。そしたらその後にみんなが、一人だけタロちゃんを心配しなかった僕のことをひどいって言い出したの」


「心配しなかったんだ?」


 詩織は四角い食卓の、カケルの隣の席に着いた。


「だって、鼻血くらいで大した怪我じゃなかったし、怪我なんてどうせすぐ治るから」


「それはみんなに言ったの?」


「うん。そしたらみんなが僕を、心配しないなんてひどい、カンジョウがないって、変だって」


「なるほどね」


 詩織は頬杖をつくと「とりあえずラスク食べちゃいな。冷めちゃうから」と促した。

 黒ぶちメガネの奥、そこにある小さな瞳を不満げに揺らしながら、カケルはパンの耳のラスクを両手で口に詰め込む。口の中にカリカリした触感と、砂糖の味が広がった。


「お母さん、僕、変なのかな」


「カケルは変な奴だよ、それは私が保証する」


 口いっぱいに頬張るカケルを見て、詩織が微笑む。しかし発言内容は存外ひどい。


「……変じゃないかもしれないじゃん」


「見てりゃわかる。お母さんを誰だと思ってんだ。カケルのお母さんだぞ」


「それ……なんかずるい」


「くく、ずるい、か。いいね、流石私の息子」


 口を尖らせるカケルを見て、詩織はくくく、と愉快そうに笑いを噛み殺した。


「じゃあカケル、なにか好きなことはある? 普段読み聞かせしてる本とかは?」


「……べつに。本も面白いけど、好きってほどじゃないし」


「じゃあサッカーは? タロちゃん達は友達だろ? 友達と遊ぶのは楽しくなかった?」


「タロちゃんたちって友達だったの?」


「ほおら変だ」


「むー、笑わないでよ」


 けらけらと腹を抱えて笑う詩織に、カケルは不服を隠そうともせず顔に出す。

 詩織はひとしきり笑うと、不満に膨らむカケルの頬をつまみ、空気を吹き出させた。


「大丈夫。カケルは変な奴だけど、変なことはちっとも悪いことじゃない。それに、鼻血ぐらい大したことないってものある種合理的だ。感情に左右されず理屈で物事を考えられるのは普通に長所だよ。理屈っぽいのも、私は好きだしね」


 軽快にウインクする詩織に対し、カケルは反対の頬を膨らませて応じる。


「でも、カケルに感情がないっていうのは少し違う。ただ少し合理的で、理屈の奥に感情が隠れてるってだけさ。生まれた時から見てるお母さんが言うんだから間違いない」


「……よくわかんない。じゃあ、どうしたら僕の感情は前に出てくるの?」


「そうだね、じゃあ問題です。カケルを泣かせるには、どうしたらいいでしょう?」


「……おばけ屋敷、とか?」


 カケルが少し考え込んでから答えを出すと、詩織はからりと笑った。


「いいね、いいアイディアだ。でも多分カケルの場合はそういうわかりやすいタイミングじゃない。もっとカケルの、カケルにしかわからないような何かがあるんじゃないかな」


 よくわかんない、と椅子の上で膝を抱えるカケル。詩織は笑顔で「大丈夫」と頭を撫でた。


「いつか出会うよ。心が揺れ動いて仕方ない、『これだ!』って思えるようなものと。それは人かもしれないし、景色かもしれないし、全く別の何かかもしれない。カケル以外の皆が、何とも思わないようなものかもしれない。それでもいつかきっと出会う。カケルのための、何かにね。お母さんはそう思うよ」


 詩織の言うことは難しく、幼いカケルにはあまり理解できない。

 それでもいくつかわかったことを繋ぎ合わせたカケルは、じゃあ、と呟いた。


「変な奴の僕は、普通にはなれないの?」


「そんなことはないよ。私は変なままでもいいと思うけど、誰だって、なろうと思えば変にも普通にもなれる。でもなれることとなることは違う」


 詩織は顔を目と鼻の先まで近づけると、にっ、と笑った。


「どうなるかはカケル、自分が決めるんだ」


 話は終わったらしく、詩織は「よいしょ」と空になった皿をシンクへと運んでいった。


「あ、そうだ、みたらし団子食べる? 買っておいたの忘れてた」


「やだ。アレ嫌い」


「そっかぁ。お父さんは大好物なんだけどねえ。美味しいよ?」


「やだ」


 ぶっきらぼうな返事に苦笑すると、詩織は冷蔵庫から自分の分の団子を取り出した。

 これが岡田家で八年続いた、平和な日常の一幕だった。

   


               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 詩織が亡くなったと報せが来たのは、それから数か月後のことだ。

 交通事故で即死だったらしい。ただ、誠一の意向で、カケルは遺体を見なかった。

 遺体も見ずに現実感がないまま、気が付くと、詩織は白い花に囲まれた額縁の中にいた。


 涙は出なかった。悲しくはあったのだと思う。

 でも、何より白けてしまっていた。

 人はもう少し劇的に死ぬと思っていた。これほどまでにカケルの知らないところで、胸騒ぎの一つもなく死ぬと思わなかった。


 詩織が死亡した時、カケルは家でポテトチップスを食べていた。

 こんなにあっけなく、無関係に死ぬのなら、生きる意味はどこにある。

 そう思って、カケルは白けてしまった。

 人生に白けてしまったのだ。

 葬式には知らない大人が大勢いた。みんな詩織の死を悲しんでいた。

 母の葬式で涙一つ流さない息子を見て、周りの人間は「現実が受け止めきれてない」なんて都合のいい解釈をしてきた。

 あるいは本当に受け止めきれてなかったのかもしれないが、カケルにはそうは思えなかった。涙の出てこない自分を、ひどく薄情な人間だと思った。

 勘のいい何人かは不気味がってきて、その中の一人が「どうして泣かないんだ」と責めるように言ってきた。

 それを見てカケルは、やはり自分は普通じゃないのだと思った。


 彼らのようになりたいと思った。息子に涙一つ流してもらえないのでは、死んだ母が浮かばれない。

 カケルはきっとあまりに無情で、冷え切った、残酷な人間なのだ。彼らのように普通になって、普通に母の死を悲しんで、普通の人生を送りたかった。

 誠一もカケルの前で涙は見せなかったが、ある晩、水を飲みに布団から抜け出した時、キッチンから嗚咽が聞こえた。その声に、罪悪感で胸の奥が重くなった。


 次第にクラスメイトとも関わらなくなっていった。彼らが死んでも、多分カケルは泣いてやれない。それがどうにも申し訳なくて、カケルはゆっくりと関係性を薄めていった。

 元々趣味もなかったが、詩織の死以降はよりそれが顕著になった。

 友達との付き合いで遊ぶこともなくなり、打ち込むものもなく、漠然と時間が過ぎていった。

 あくび一つで涙は出るのに、母の死では涙が出ない。

 手鏡を携帯して、何かある度に自分が泣いていないかを確認する。そんな毎日だった。


   

               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 

 

 ――紙があった。


 横長の紙に、茶色のマス目が四百字。

 少年の目の前、茶色い学校机の上に置かれたそれは、内容的には殆ど白紙で、ただ『しょうらいのゆめ』というタイトルと『岡田オカダ カケル』という名前だけが書かれていた。

 少年はそれを、黒ぶちメガネ越しに呆然と眺める。


「どうしたのー、カケル君? 何かわからないことあったかな?」


 机の横を通りかかった担任が、その場に屈みこんで少年――カケルと目線を合わせた。

 微笑みながら「先生に言ってごらん」と作文が進んでいない理由を問うその顔を、カケルはぼんやりと眺めた後、原稿用紙に再度視線を落とした。「センセイ」


「夢ってなに?」


「何でもいいのよ。警察官とか芸能人とか、なりたいと思ったことない?」


「うん……」


 判然としないカケルの反応に担任が「ほら」と胸の前で小さく手を叩いた。


「スポーツ選手とか、プログラマーとか……配信者でもいいのよ、何かあるでしょ?」


 どの候補も虚しく空振る。無言を脱せないカケルに、担任は困ったように笑った。


「カケル君もきっと憧れた瞬間があったはず。笑わないから怖がらないで言ってみて?」


 促されたカケルは目を閉じ、人生を瞼の裏で再上映する。が、無意味。憧れどころか、そこには感情の抑揚が欠けていた。無機質な日々を、何年も繰り返すだけで――いや。


「あ、なになに? やっぱりあった? だよねっ、先生あると思ってたよっ」


 僅かな反応を見せたカケルに、担任が声を弾ませた。その期待を脇にカケルは鉛筆へ手を伸ばす。

 担任の言う通り確かにあったのだ。憧れの無い人生で、願いが、一つだけ。

 一行目を書き終えたカケルは、その紙をそっと担任に手渡した。


「どれどれー……え、と、これは」


 受け取った原稿用紙に目を通し、担任の表情がみるみるうちに強張っていく。

 言葉に詰まる担任を見上げながら、カケルは書き記したものと同じ言葉を口にした。



「――センセイ、僕、普通の人になりたいです」


   

               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 結局、『しょうらいのゆめ』は宿題になった。

 自室の机で原稿用紙と向かい合ったが、どれだけ経っても一文字も進むことなく、空白のマス目がカケルを睨みつけてきた。

 三時間ほど経過したところで嫌になってきて、カケルは人生で初めて宿題をサボった。

 それきり、原稿用紙がどこへ行ったのかはわからない。

 変化が起きたのは、それから数か月後のことだった。


『俺は多分、俺の人生が誰よりどうでもよかったんだと思う』


 その独白がテレビから流れてきたのは、小学四年生の夏休みのことだった。

 いつも通りリビングでテレビをつけて過ごしていたカケルの耳が、ふとそのセリフを捉えた。

 詩織が亡くなった後の無気力なカケルは、暇つぶしによく読書や映画やアニメ鑑賞をしていた。現実に期待の持てなくなったカケルにとって、非現実の世界は魅力的に思えた。

 とはいえ、やはり暇つぶしの域は出なかったが。

 その作品を観たのは偶然だ。それまでは、既視感だらけの設定のバトルものが何やら一挙放送されているな、と欠伸を噛み殺しながらぼんやり画面を見ていた程度だった。

 にもかかわらずそのセリフがカケルの目を引いたのは、まるで、カケル自身のことを言っているように思えたからに他ならない。


『俺は多分、俺の人生が誰よりどうでもよかったんだと思う』


 ソファに座っていたカケルは、読んでいた本から視線を離し、テレビを見た。


『人生全部がどうでもよくって、このままただ死んでいくだけだと思ってたんだ』


 主人公ですらないそのキャラは、致命的なほど力の差がある敵に弄ばれながらも言葉を止めない。

 静かな声で、まるで諦めてしまったかのように、胸の内を吐露し続ける。持っていた武器は破壊され、隠し玉も使い切り、増援も見込めない。

 それは大人が見れば、あるいはチープに映ったのかもしれなかった。だが。


 カケルは持っていた本を脇へ置いた。


『でも――ッ!』


 瞳に熱が灯り、ボロボロになった装備を軋ませながら、弱者は吠える。

 裏返りかけの叫び声は、見る者が息を呑むほどの迫力に満ちた、心からの叫びだった。


『本当は嫌だった! 俺だって皆みたいにちゃんと生きたかった! だって、こんな人生――』


 カケルは当事者になったかのように息をひそめ、ただ次の瞬間を見守る。

 不思議と、次に何を言うか理解できた。


『――こんな人生、つまんねえんだよッ!!』


 目に痛みを感じて、カケルは瞬きをしていなかったことに気が付いた。微かに鼓動が高鳴っている。

 この感覚が何かわからない。わからないが、今はただ――もっと見たい。

 

 ずっと片手間に見ていたはずのこの物語と、カケルは今、初めて出会った。

 カケルのような人間は、世界でたった一人なのだと思っていた。普通じゃないカケルは誰にも共感されず、誰にも共感できないのだと。だが――


『なあ、まだ間に合うだろ。俺の人生、もっかい始めようぜ。――そうだろッ!』


 叫び、立ち上がった脇役。その一挙手一投足は、カケルの心を激しく揺さぶった。

 共感ではない。感動ではない。この感情にどんな言葉が似合うか知らない。

 ただ、自分を根幹から揺さぶられる感覚があった。


 揺さぶられた。揺さぶられたのだ。


 それからのカケルは食事も忘れ、一挙放送が終わるまでただ作品を見続けた。


「――――」


 最終話が終わり、エンドロールの最中も、カケルは脳の奥が痺れる感覚に浸っていた。

 自分が今した経験が何なのか理解できず、呆然と痺れ続けていると、不意に視界が滲んだ。

 何か入ったかと目を擦る。手の甲を見ると、そこには透明な液体が付いていた。


「泣いてる」


 その液体があまりに意外で、カケルは思わず間の抜けた声を出した。


「僕、これで泣くんだ」


 自分の手をぼんやりと見続けるカケル。不意に、詩織の言葉を思い出した。


『それでもいつかきっと出会う。カケルのための、何かにね』


「――そっか」


 エンドロールが終わり陽気なコマーシャルに切り替わる。しかし映像は滲んだままだ。


「お母さん、死んじゃったんだなぁ」


 瞳から溢れる透明な感情は、後から後から、カケルの頬を濡らし続けた。



 そう。忘れるはずがなかった。この一瞬があったから、カケルは――


   

               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 

 バリン、とガラスが破裂するような音と共に、カケルに巻き付く黒鎖が爆ぜた。

 それは破壊的な音でありながら、雛鳥が殻を破るような爽やかさを孕んでいた。

 小さな花火のように白く光り、華やかに破片を飛び散らせ、カケルの帰還を祝福する。追想していた意識が現在に戻ってくると共に、失われていた力がカケルの全身に漲った。

 だがその力にも構わず目を瞑り、カケルは過去を噛みしめる。


「――――」


 もう七年も前だ。不覚にも忘れていた。だが忘れるはずがなかった。

 これがあったからカケルは物語と出会ったのだ。数多の作品を観るようになり、そして好きになったのだ。

 なによりこれがなければ、小説家になりたいと思うこともなかった。

 カケルという人間の原点。それがこの記憶だ。


 ポケットから割れたメガネを取り出すと、掌の上に置いてその赤ぶちを眺める。

 思えば、このメガネを買い始めたのもあれからすぐ後だ。

 物語にどっぷりハマったカケルが、いわば早咲きの中二病を患うまでそう時間はかからなかった。そんな中二病――厨二病のカケルが最初に目を付けたのが、目の前にあるメガネだ。

 ある日突然、メガネが何か特別な強化パーツのように思え、どうせ特別なら見た目も特別にしてやろうと近所のメガネ屋を探し回り、珍しいながら好きな色だった赤ぶちのメガネを購入したのである。

 物語が好きである限り赤ぶちメガネを掛け続ける、という誓いとともに。


「カケル」


 弾ける黒鎖が男爵にも見えていたのだろう。その声には驚きが混じっていた。

 振り返り、カケルは穏やかに微笑む。


「迷惑かけてごめん。でもおかげで答えは出た」


 言って、ぱん、と合掌をした。カケルの掌の間に、薄い黒渦が生じる。


ぼう、男爵」


 左手で持ったメガネを渦に投げ込み、出てきたそれを右手でキャッチする。そのレンズは既に傷一つなく、赤いフレームは新品のように鮮やかだ。

 高々と天を指し、赤メガネを掛けなおすと、カケルは口元を歪めて笑った。


「俺たちが目指すのは――ハッピーエンドだ」

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