04 密室の戦争




 安紀十四年八月三十一日




 危機を脱した長保基地は、最低限の指令所要員、兵器管理要員だけを配置に残し、残りの者総動員で負傷者の救護を始めた。そのうち救援の大隊、約五百人も到着し、基地だけでなく、長保市東西の市街で行われた戦闘の負傷者の救護も順番に行われた。

 最終的な死者数は、両軍ともに戦闘参加者の約七割であった。死傷者七割でもすごいこと。全滅、壊滅と言った判定を超える状態だ。それが死亡者だけで七割とは、もう表現する言葉もない戦闘だったと言うしかない。

 上陸した部隊の作戦失敗を、何らかの形で察知したからなのかどうかは分からないが、接近中のモス国艦隊はすぐに引き返した。これで大照地方の取り敢えずの脅威は本当に去ったと言える。


 水野軍曹は基地内の診療所で弾の摘出手術を受けた。本来なら長保市の中心部にある国立病院辺りに搬送されるはずが、搬送されたのは本当に生死が危うい者だけであった。他の者は基地内の診療所で手当てを受けた。大規模な戦闘だったので、それだけ危急の者が多く、それで手一杯だったのかも知れないが。

 応援に来たどこかの医師たちがいたとはいえ、おかげで水野軍曹は待たされ待たされ、待たされ続けた。その痛みに耐えて待っているさなかに、ノリの効いたきれいな軍服を着た連中から、何度か戦闘経過を聴取された。水野軍曹は、これまでに経験したことのない疲労感にだんだん襲われ、傷の痛みにも関わらずそのうち眠ってしまった。夜になってから、やっと水野軍曹は手術してもらえた。


 手術後も麻酔の影響なのか疲労なのか、水野軍曹はすぐに眠ってしまう。起きた時は講堂の天井を見上げていた。床に敷いた毛布の上に寝かされている。災害時用の段ボールベッドが備蓄されてるのに、と思ったけれど、それは本当の被災地に数日前に送ったと思い出した。

 左腕の点滴のチューブを見ていて気付いた、自分の格好に。Tシャツにパンツだけであった。周りに衝立が立てられ個室のようになっているとはいえ、二十五歳の乙女をこんな格好で寝かせておくなんて、と少し腹立たしくなり、自分で乙女だなんて思ったことに苦笑した。そして、その乙女が人を殺したことを思い出した。そうだ、私、人を殺した。十人くらいは殺したかも。殺さなければ殺されていた、いや、殺される寸前だった、死を覚悟した。でも、私は生き残り、私が殺した人は死んだままだ。その人たちだって、私と同じで任務で戦場にいただけ。死にたい人なんていなかったはず。なのに私は殺した。殺されると覚悟した時、本当に死にたくないと思ったことを思い出し、そんな自分が人を殺したことをどう処理していいのか、どう評価すべきなのか、そんなことを思いながら水野軍曹は、講堂の天井を見つめて考えていた。


 衝立の一角のカーテンが少し開いた。けど、考えに考えを重ね、とある決断に覚悟を決めようとしていた水野軍曹は気付かなかった。

「あっ、やっと起きたんですね、もうすぐ昼ですよ」

と、声がしてやっと、カーテンを開けて入ってくる久本隊員に気付いた。

「久本君、怪我はなかった?」

と水野軍曹は言ってから慌てて、

「ちょっ、入って来ないで、何か掛けるもの」

と、手を広げて下着を隠しながら言った。

「あっ、あー、ちょっと待っててください」

久本隊員はそう言ってどこかに行ってしまう。カーテン閉めてってよ、と思いながら待っていると、バスタオルを一枚持って彼は戻って来た。

「こんなんしかなかったです」

手を伸ばしてそう言う久本隊員からバスタオルを受け取り、下着を隠した。

「痛みますか?」

久本隊員がそう聞いてくる。

「麻酔が聞いてるからかな、そんなには。久本君は怪我ない?」

「はい」

「良かった」

「石井は左腕に弾がかすって、三針だったか四針だったか縫いましたけど、元気ですよ。さっきは起きてたんですけど。今はまた寝てました」

「そう、他の人、中尉や少尉は……やっぱりダメだったよね?」

「はい。基地守備隊は、その、生存者百九十九人です」

死亡者数ではなく生存者数を久本隊員は教えた。でも水野軍曹はその配慮にも関わらず、総数千三人から引き算、八百四人も死んだんだと計算してしまった。

「そう、……隊長は?」

「桑田中佐も戦死です」

「そう」

沈んでそう言うしかなかった。

 久本隊員は話題を変えるようにこう言った。

「それにしても、最後のあの黒い軍服の連中、何だったんですかね?」

「……」

水野軍曹は何も答えなかった。

「すごかったですよね、あいつらが来てくれなかったら死んでましたよね」

そう続けた久本隊員に水野軍曹は言葉を返す。

「そうね、死んでたとかじゃなくて、この基地がなくなってたでしょうね」

「あっ、そうですね」

「……」

「地下まで突入してきた敵、モスって西の方じゃブリンクとかリデン(モス国のあるシモチ大陸の西岸地方にある国。ブリンク王国、リデン国)としょっちゅう紛争状態じゃないですか、そこに配備されてる精鋭軍団の、そのまた精鋭の一部だったそうですよ。そんな連中の死体が地下だけで九百弱、生存者は三十何人って言ってたかな? で、その死者のほとんどをあいつらがやったみたいですからね、あっ、あいつら百人もいなかったみたいです。だから、ほんとあいつら凄い、凄すぎです。あいつらが来なかったら、マジで占領されてましたね」

「……」

「ゲートの外にもあの時、敵がまだ二百ぐらいいたみたいなんですよ。多分こっちの増援を防ぐために残ってたんでしょうね。あっ、そっちはアカムにいた東方軍の所属でしたけど、そいつらもあの黒い連中がやったみたいです。そっちはほとんど軽傷者ばかりで死者は少ないみたいですけど」

殺すまでの脅威だとは思えませんでした、と言う少女の声が、水野軍曹にはまた聞こえた気がした。久本隊員は話し続けた。あの戦闘を共に生き残った上官と話せるのが嬉しいように。

「それにしてもあいつらほんとになんなんですかね。人間とは思えなかったですよね、あの動き。特殊部隊? あんな超人たち集めた部隊があるんですね」

水野軍曹は何も返さず考えていた。あの少女を殴った彼女の上官だと思われる男の人。姿を見た敵は全て殺せと命令されていると言っていた。それはとんでもない命令だ。そんな命令が出るのは、彼らは敵に対して絶対に秘匿しておきたい極秘の存在だから。そうとしか思えない。でも、そこまでの極秘の存在であれば味方にも秘匿したいはず。

「あっ、軍曹もそのうち誓約書書かされると思いますけど、あいつらのこと他言無用だそうです。他言無用と言うか、基地内でも今後一切話題にするなって言われましたよ。ますます変ですよね」

水野軍曹の考えが裏付けされた。やっぱり味方にも本来は極秘の存在なんだ。でもいくら高度な極秘事項だと言っても、その保持のために味方の兵までは殺すわけにはいかないから、見逃してもらったって感じかも。彼らはどうかは知らないけど、彼らに命令する立場の人は、味方を殺してでも秘匿したいと言うのが本音かもしれない。だとしたら、話題にもするなと言うのを話していたりしたら、殺されはしないだろうけど、どこかに隔離されるかも知れない、秘密が秘密でなくなる時まで。

「こら、話題にするなって言われたこと話してたらダメじゃない」

「えっ、でも、軍曹とぐらい」

「だめ、気になるのは分かるけど、箝口令が敷かれるようなこと、私達で議論したって何も分かるはずないでしょ。だから無駄なことしないで、話すなって言うのなら話すのやめましょ」

「はあ」

「命令違反で懲罰食らうかもよ」

「あっ、分かりました」

「石橋君にもよく言っとくのよ」

そう、彼らの為にもその方がいい。

「了解」

久本隊員がそう返した時、基地の診療所勤めの女性が昼食を持って来てくれた。

「水野さん、起きてますか? お昼ですよ」

その女性が久本隊員を見て言う。

「あっ、講堂内は今、許可がある人しか入れませんって朝も言いましたよね」

「すみません、すぐ出ます」

「次見たら報告しますからね」

彼女のその声を背中で聞きながら、久本隊員は出て行った。


 昼食後、血が滲んでいたガーゼを取り換えてもらい、お腹が膨れた睡魔が訪れた頃、麻酔が切れたのか傷が痛みだし、眠るに眠れず水野軍曹は毛布の上に横たわっていた。その水野軍曹の耳に、衝立の向こうからの声が聞こえた。

「阿川大尉、水谷です、いいですか?」

阿川大尉、知っている、指令所の指揮官の一人だ。知っているだけで話したことなどないけれど。水谷と言う人は知らない。

「おお、入れ」

「失礼します。どうですか?」

「大丈夫だが、丁度麻酔が切れたみてえで痛ぇよ、今は」

私と同じだ、と水野軍曹は思った。

「誰か呼んできましょうか?」

「いやいい、それよりなんか用か?」

「はい、病院から連絡ありました、岩井大尉の手術が終わったと」

岩井大尉も知っている。この人も指令所の指揮官の一人だ。しかも、指令所の指揮官四人の中では最年少なのに最高位だと聞こえて来ている人。見掛けたことがあるだけで話したことなんてやっぱりないけれど、同じ女性として憧れる存在だった。だからか、水野軍曹は更に聞き耳を立てた。

「そうか、それで?」

「はい、処置は問題なく終わったとのことですが、意識がまだ。意識が戻るまで予断を許さないと言うことです」

水野軍曹はそこで気付いた。阿川大尉と言い、指令所の、しかも指揮官クラスがなんで負傷しているのか。指令所まで敵は突入してたの? 指令所要員たちが独自に防戦に出ていたことを、水野軍曹は知らなかった。

「そうか」

阿川大尉の声が渋くなったように聞こえる。しばしの沈黙の後、水谷と呼ばれた人がまた話し始めた。

「あと、お昼前に浅沼大佐が戻りました」

「そうか、具合は良さそうだったか?」

「はい、あっ、で、戻るなり調査に来てる本部の連中に、例の問題になってる宣告の件、あれは岩井大尉に自分が命じてあったことだって言ってました」

水野軍曹には何のことか分からない。

「そうか」

「これで岩井大尉は責められずに済みますね」

「かもな」

「でも、これは阿川大尉や自分にも当てはまるんですけど、勝手に配置を離れて戦闘参加したことはやっぱり問題になるようです。もう少し落ち着いたら、そっちの聴取が始まると思います」

司令所の人達も戦闘に加わっていたんだ、と水野軍曹は一人納得した。

「好きにしろって言っとけ」

「はあ、そうですね。でも、言い出したのは岩井大尉だって、もうかなりの人間が証言してしまっているんで、こっちでは岩井大尉はまずいことになるかもしれないですね」

「はっ、あいつは喜ぶかもな、懲罰食らって飛ばされでもした方が」

「えっ?」

「ここにいたんじゃ結婚も子育ても出来ねぇ。どっかで事務官の空きでも出ないかなってぼやいてたからな」

「そうなんですか? 事務官やるタイプに見えないですけどね」

「まあな、でも、どっかの閑職にでも飛ばされたら、その方がいいだろよ」

「はあ」

「今回の事で思わなかったか?」

「……」

「今まで俺も考えなかったが、俺たちの判断一つで戦闘が左右されるんだ。浅沼大佐が後ろにいたとはいえ、あいつの判断でこの基地は動いてた。実際の迎撃なんてしたことのないこの国の軍隊が、迎撃どころか攻撃までしたんだ。敵を殺したんだぞ。十分戦争に発展するきっかけになることだ。どれほどの責任をあいつは背負いながら、その命令を出してたことか。そう思うと、退屈でもどっかの訓練校辺りで事務でもやらせてやりたいよ」

「それはまた……」

「さっきの例の宣告なんて、俺もあとから聞いた話だが、浅沼大佐がダウンしてからだろ? あいつ独自の判断だったんだ」

「ですね」

「そして、あれは俺も正解だと思う。この基地がどうなるかって状態の時に、敵の次の手を封じる飛び切りの一手だ」

「はあ」

「モス軍の立場で考えてみろ。順調に攻略が進んでいると思ってる敵の基地から、これ以上向かってくるなら、今からは容赦なく攻撃するぞって言って来たんだぞ。攻められて、もうダメだ、なんて状態の基地からはそうは言って来んだろ、それどころじゃないんだから。それが言って来たってことは、攻略されるような状態ではないとその基地では戦況を判断している。攻略軍は実は順調ではない、って判断が芽生えるはずだ。そしたら敵の足は止まるさ。実際、敵艦隊が反転したのはまだこっちで戦闘中だろ?」

「はい」

「すごいやつだよな、一人で次の侵攻止めやがったんだから」

「そうですね」

「俺には出来ねえことだ」

「そうですか? 今話したことって、阿川大尉も考えついたってことですよね」

「バカ、俺は起こったことから逆算してそう言うことかって、いわば解説しただけだ。あの場で、あの状況で、こんなことに頭は回らねえよ。今回指令所の指揮を執っていたのがあいつの時間だったのが一番の勝因かもな。他のやつの時間で起こってたら……、まあ、考えるのやめだ。俺もまだまだ修行が足らんってことだ」

「岩井大尉に救われたんですね……、この国も」

「国も、か……。そだな、でもまあ、実際救ってくれたのは別の連中だけどな」

「ああ、それなんですけど、基地の南の演習地を特務隊が使ってるとかって聞いてましたでしょ? 彼ら、その特務隊だったようです」

「そうなのか」

「で、その特務隊なんですが」

そこから水谷さんの声はすごく小さくなった。だけど水野軍曹には聞こえた。

「強化人間の部隊だったみたいです」

「バカ、余計なこと言うな」

「失礼しました」

「バカなこと言ってないで、岩井大尉が戻ってくるように祈ってろ」


 その後の二人の会話は水野軍曹には聞こえていなかった。どうでもいい内容だったのもあるが、水野軍曹の頭が思考モードになっていたから。

 強化人間、そう言う言葉は聞いたことがある。人造人間なんて呼ばれていることもある。それは極秘でも何でもない、ネット内でも溢れている。いわば都市伝説みたいなもの。そして実際各国で研究されているものである。しかし公になっている話では、どの国も未だ成功しておらず、現時点ではどこも研究すらしていないはず。

 肉体強化と言うのは現在でもある程度のレベルでは実現している。薬などによる筋力や持久力のアップである。最大で三割程度の強化に成功していると言う話は聞く。しかし都市伝説内で見え隠れし、ネットで囁かれている強化人間と言うのはレベルが違う。それは常人の二倍、三倍、いや、それ以上の身体能力を持つ人間のことである。

 水野軍曹がまだまだ赤ん坊くらいであった頃、南半球のとある大国が、成功したと発表した。発表した時のテレビ映像は有名で、当時、世界中の人が驚きを持って観たのである。それはとある施設の二階バルコニーで行われた発表記者会見。肝心なところは何も明かさないくせに、技術的なことをうんたらかんたら自慢げに開発者たちが説明したあと、いよいよお披露目と言うことで紹介された。すると、一階で見物人の規制に当たっていた警備員の一人が、持ち場から離れてバルコニーの下へ。と思ったら、そこからスッとジャンプ、二階バルコニーに降り立った。約四メートルの垂直飛び。それだけでも十分驚きだが、その後はその人物が様々な競技などを行う映像が公開され、それはどれも目を疑うようなものばかりでした。

 その国はその後、一年以内に更に二人が成功したと発表。そして翌年には別の二か国も成功したと発表しました。強化人間を生み出す競争時代に入ったようでした。しかしその頃から強化人間の開発途上の問題が表に現れ始める。

 強化人間は肉体強化に耐えられると思われる素質、素養を持った者から作られる。その成功率は約一割。しかしそれは、常人の数倍の身体能力を持つ体を作る成功率である。実際は脳の方がそれに追いつかず、身体を制御できない者がほとんど。制御できない体を動かし、事故、が発生してほとんどがすぐに死んでしまう。超人的な身体能力を手に入れたもので、頭がそれを制御できる者は約三パーセントと、開発に成功した各国は公表している。その三パーセント(実際は一パーセントないであろうと言われている)の者が、成功として発表されていたのである。一人の成功の影に、公表されている数字を信じても、三百人以上の失敗があるわけである。それらのことが世間に漏れ出したり、漏れ出したがために公表され出したりすると、強化人間研究の倫理的な是非が大問題となり始めた。

 そんな中、第一号の成功者が発表から三年くらいで姿を消し、その二年後に亡くなったと発表された。その後も成功として公表された強化人間たちは次々と亡くなっていった。早い人は発表後すぐに表に出て来なくなり、一年後には亡くなったと発表された。第一号の発表後約五年が最長期間となるような状況。すべて病死とどの国も公表したが、倫理観から来る世界的な圧力に負け、研究は縮小。

 そして数年後、実情が世間に再び漏れ出した。それは、成功と言われた者も、やはり脳が実際の所ついていけていなかったようで、精神不安定状態に。そして、脳が臓器などを制御する能力に不調をきたし、死に至ると言うものであった。その後も各国で内部からの暴露が続き、最初の告発から二年、全ての国が研究の破棄を公表した。つまり、歴史としてはまだ成功していないと言うことになったのである。

 しかしその後も、噂として研究が続いていると、強化人間と言う言葉は生き続け、ネットの中では完成した強化人間が既にいると言う話がもう何年も前から持ち上がり、ほんの一隅でではあるが盛り上がり続けている。しかし、少しくどいかも知れないが先述したように、公には現在はどこの国も研究すら行っていないことになっている。


 水野軍曹はさして、いやいや、まったく強化人間の話題には興味なかった。それでも長年、マニアックな人達の世界では語り続けられている話。時には、バズッたなんてレベルでは全然ないけれど、ネットの中で多少浮いてくるブーム的な時期がある。そんな頃に偶然目につき、多少興味を持って少し調べたことはあった。なので真偽のほどを確かめたりはしていないが、大まかな経緯は知識として持っていた。当然、現在はどの国も研究していない、と公式には言っていることも。

 しかし今、衝立の向こうから聞こえた話と、真偽の分からない知識を合わせると、自分が見たのは強化人間なのかも知れないと思った。どう考えても普通の人間ではありえないスピードをハッキリ見た。いや、早すぎてハッキリは見えなかった、けれど感じた。そして、何とも言えない常人離れしたパワーも感じた。

 自分を、自分たちを救ってくれたのは、強化人間と呼ばれる人たちだったのかも知れない。いや、きっとそうだ、と思った。でもそうすると、本城国は強化人間の研究を続けていて、そして完成させていたことになる。水野軍曹の記憶では、その昔、強化人間を完成させたと言った国にも、強化人間を研究中だと言った国にも、そして、強化人間の研究を放棄したと言った国にも、本城国の名前はなかった。どういうことなんだろう、本城国は最初からずっと内緒で強化人間を作ろうとしていたんだろうか。そして内緒のうちに完成させていたんだろうか。そうとしか考えられない。

 茶色がかったきれいな瞳の少女。あんな優しい目をした子が、常人離れした肉体の持ち主なんだろうか。そうだとは思えない。けれど、最後に彼女が去る時、彼女こそあの時見た人たちの中で一番驚異的な早さだった。だって、ずっと彼女を見つめていたのに、走り出す瞬間さえ見えなかったから。

 ぶり返した足の痛みに眠ることなど出来そうにないが、水野軍曹は目を閉じた。避けることの出来ない絶対的な死に直面した今回、その恐怖は心に深く刻まれている。そして、殺されると言うのがそこまで恐ろしいものだと分かった自分が、絶対に死ぬのは嫌だと痛切に思った自分が、その恐怖を与え、殺していたという事実。これも自分への別の恐怖として刻まれている。そしてその二つの傷は、思い出す度足の傷よりはるかに痛む。時が解決してくれるかも知れないけれど、ここに、軍にいる限りは無理だろう。だから、さっき天井を見上げながら、辞めよう、と密かに決心していた、でも。

 目を開けるとまた天井が見えた。

「辞めるの、やめよっかな」

そろっとそう呟いていた。水野軍曹は、またあの瞳に会いたいと思っていた。




 安紀十四年九月二日


 去る八月三十日に勃発した、大照地方長保市におけるモス国との紛争。本城国外交省はモス国との交渉を始めたばかり、てんやわんやといった様相であった。本城国としてはこの紛争のモス国側責任者の追求と、賠償についての話をすぐにでも詰めなければならなかった。しかしモス国からは、モス国東方軍北部隊の野心ある将軍が独自にやったこと、モス国としては一切関与していないと公言した。そしてその将軍、及び関与した幹部は全て処分済み。故に責任問題は解決済みであると話に応じなかった。賠償の件は、いわば反乱を起こした将軍一派のしたことであってもモス国軍がしたことであるため、応じるとは言うものの、積極性には欠け、また、自国も貴重な人員、機材を失った被害者なのだと、なかなかすんなり応じる姿勢を見せなかった。

 そんなことで頭を抱えていた外交大臣、西郷三七男の元に突然の来客の知らせが来た。相手は、待っていたと言えば待っていた相手ではあるが、このタイミングで来るな、と言いたくなる相手であった。それはナシ国の駐本城大使、リー氏である。八月二十六日、本城国東園地方東部諸島にナシ国軍が侵攻して以来、再三再四呼び出しを掛けていたが、本国からの訓令が届いていないので話せることがない、と拒否し続けていた相手である。当該地方は現在、東部諸島の東側半分近くの島々をナシ国が占領中。二十八日に岩垣島基地を占領し、同島と初釣島の空港に空軍戦力を進出、充実させたところで侵攻は止まっている。本城軍の戦力がやっとナシ国軍に対抗できる程度、同地域に集結してきたので止まったと言う感じである。

 アポなしで大使が訪ねてくるなど聞いたことがない。忙しさもあって腹立たしい思いを抱えながらも、会わないわけにはいかないので大臣応接室に通した。頭を下げるとは思えない、占領地域を領有すると宣言でもするつもりであろう。だがどうだ? それなら本国政府かナシ国外務省が世界を相手に公表するのではないか? どちらにしても独断では話しは出来ない。西郷外相は議会出席中の総理大臣、鈴木孝知に連絡を取った。ほどなく電話してきた鈴木首相にリー大使訪問を告げ、指示を仰ぐ。しかし鈴木首相からは、何を言われても議会で議論し、元老院に伺いを立てなければ何も言えない。取り敢えず、ナシ国の言い分を聞いて何も返事はするな、としか言われなかった。まあ、予想通りのことではあるが、ますます腹立たしさが募った。


 腹の中の思いを抑えきれなかったわけではないが、西郷外相は厳しい表情で応接室に入った。これもまあ、侵攻を受けている国の者としては妥当なことであろう。

 応接室に入って来た西郷外相を、リー大使は立ち上がって殊勝な表情で迎えた。そして、モス国の非道な侵攻で多数の本城国人が亡くなった悔やみのセリフを述べた。西郷外相は爆発寸前の思いである。当のナシ国は現在本城国の領土を侵している。該当地域では無抵抗の指示が出されたので大きな戦闘は起こっていないが、それでも岩垣島基地では偶発的な銃撃戦が起こり、双方に十数人ずつの死傷者が出ている。それを棚に上げて何を言うか、と怒鳴る寸前であった。

 怒りと驚きに、咄嗟に言葉が出なかった西郷外相とは違い、リー大使はそのまま本題とも言える話を切り出した。

「まったく、モス国のやることは千年も前から全く変わらない。我が国の懸念も正にそこなのです。モス国からの脅威なのです。その脅威に対抗する防衛行動として今現在、貴国の東部諸島に軍を展開しているのです」

西郷外相から怒りがどっかへ行ってしまった。驚きと呆れが取って代わった。リー大使にイスを勧め、自身も対面に腰を下ろしながら、

「どういうことですか」

と言うのがやっとだった。

「今申し上げた通りです。現在貴国東方海域で行っていることは、我が国の正当な防衛行動です」

「正当なとは、我が国に何の知らせもなく我が国の領海に侵入し、我が国の領土まで侵している。それが正当な行為だと認められるわけがない」

リー大使は姿勢を正し、口を開いた。

「今から言うことは今日伺った本題ではないので聞き流していただきたいのですが、貴国の東部諸島、具体的に言いますと、貴国名大山島から東は歴史的背景から見ても我が国に帰属するものです。これはもうずっと以前から、我が国が主張していることです。そしてその地が我が国の主張通り我が国のものであれば、我が国はモス国の脅威に対して何の憂いもないのです」

またそんなことを、と西郷外相は、恐らくそう言うことを言い出すであろうとは思っていたが、改めて呆れていた。

「その件は、それこそずっと以前から……」

西郷外相の言葉は、困った表情に変わったリー大使に遮られた。

「まあまあ、ですからこの話は聞き流してくださいと最初に申しましたでしょう。今日はこの件を議論しに伺ったわけではありませんから」

西郷外相はムッとした顔に変わった。

「では、今日のお話は何でしょう」

西郷外相は尋ねた、リー大使は真顔に戻りこう言う。

「やっと本国からの訓令が届きました。それに基き、貴国領土を租借したくお願いに参りました」

鈴木外相は本当に驚いた。占領地の領有を宣言、その交渉だと思っていたが、租借とはどういう……。その思いのまま口にしていた。

「租借とは、どういうことですか」

「言葉通りです。候補地はまだ本国から何も言って来ていないので今後お知らせすることとなると思いますが、現在我が国が確保している海域内の何か所かをお借りして、そこに我が国のレーダー基地、空軍基地、海軍艦艇用の港湾を設置させて頂きたいのです。ああ、これらはもちろん、モス国に対する防衛としてですよ。貴国の脅威となるためではありませんから、そこのところはよくご理解ください」

兵器など使うもの次第、モス国に対して設置したものが本城国に使えないと言うわけではない。そんなこと言われても信じられるわけがない。そもそも東部諸島からモス国までどれだけ離れていると思っているのか。対モス国と言う話し自体が既に現実味がない。そう思いながら西郷外相は話を続けた。出来るだけの情報、真意を引き出すために。

「借りると言うことは、返すと言うことですか?」

「ええ、もちろん」

「期間は?」

「分かりません、今後の話しです」

「分からないとは……。まあいいです。えー、では、租借地の扱いはどうなりますか? 貴国の領土となるのですか?」

「いえ、そんなことは考えていませんよ。あくまで貴国のものです。ただ、設置する我が国基地の敷地内は独立自治としてください。まあ、そう言う意味ではその限られた範囲だけは、租借中は我が国領土と同等となります。貴国の行政権などは及ばないとお考え下さい」

勝手なことばかり言う。

「そうですか。まあ、私では結論は出せませんから、そのお話は預からせて頂くことになりますが」

「もちろん、そう心得ております」

「その、租借云々の話になったとしても、我が国は貴国に損害を賠償して頂かないといけませんが」

「賠償とは?」

「貴国の今回の侵攻により、貴国が破壊した我が国の施設、島嶼基地のレーダー等ですがそれらと、機密保持及び、軍事的観点から我が国で破壊した我が国の基地の復旧費用。貴国侵攻に対応するため緊急動員した軍の出動費用なども当然頂かなければなりません。それと、一部で発生した小規模な戦闘での死傷者などの被害もあります」

「侵攻と言われるのは心外ですがまあいいでしょう。ええ、もちろんそれらの交渉には当然応じさせていただきます。まあ、かなりの額をおっしゃるでしょうから、基地の復旧などは我が国の企業に発注して頂けると助かりますが」

リー大使の軽い口調に対する苛立ちを、西郷外相は抱いていた。何もかも思い通りに行くと思ってやがる。そうは思いつつ、西郷外相は確認しておかなければいけないことを最後に聞いた。

「話を最初に戻すようで申し訳ないのですが、その租借の話、受け入れられないと答えたらどうなりますか」

「いやいや、そうおっしゃらずご検討ください」

ほんとに見え見えの軽い口調に腹が立つ。

「もちろん政府で検討は致します。その結果、受け入れられないと言う結論になった場合のことを伺いたい」

「いやー、困りました。訓令にはその場合のことが書かれておりませんでしたので」

「そうですか、では、リー大使のお考えで結構です。どうなると思いますか」

「いやいや、こんな重大なこと、私の考えなんて」

「いえ、個人的な意見と言うことで結構ですからぜひお聞かせください」

そう言って、厳しい表情でリー大使を西郷外相は見つめる。リー大使はやがて真顔に戻り、再び姿勢を正した。そうしてこう言った。

「では、あくまで私の考えと言うことで申します。我が国の公言ではありませんので、これもお聞き流しください」

「分かりました」

西郷外相は頷いた。

「恐らく、南方、東方地域の防衛を一時捨ててでも、該当地域に陸、海、空軍を集結。そして、かねてからの我が国の主張を実現させることになると思います」

大山島を含む東部諸島東部の領有化。やはり本当の目的はこれだ。かの国にはこの野心しかないのだ。西郷外相はそう確信した。しかし引っ掛かった。現状本城国はかなりの地域を実質占領されている。被占領地域の市民は四十万人を超えている。それだけの人質を取られているのと同じである。ここからの侵攻は武力衝突とはなるであろうが、人質のことを考えると本城国は全力で戦えないかもしれない。五分と五分ではないのだ。当然そう言うことを考慮して分析しているはず。そうすると大山島を占領するのはそうそう無理な侵攻ではない。それなのになぜ、租借なんてことを言い出して来たのか。西郷外相はそのことが腑に落ちなかった。




 ナシ国は八月二十八日で侵攻作戦を、未完で一旦終えた。本来は一気に大山島まで占領出来る予定であった。しかし想定より本城国軍の戦力充実が早かった。そして、防衛戦であっても本城国は積極的な武力使用はしてこない国だと判断していた。これは大前提であり、事実、例外的な非常に小規模な偶発戦闘が一度起こっただけで、本城軍は組織的な攻撃を一度もしてきていない。想定通り、警告するだけの軍隊、戦えない軍隊であった。ここまでの作戦の推移でそれは裏付けされた。

 しかし、同日夕刻から始められた大山島への進軍途上、本城国軍から積極攻撃を受け、動員した特殊高速船の約四割、百九十隻余りを失った。攻撃された船には乗員と兵員で合計約八千人乗っており、救助されたのは五百人ほど(本城国側で約千三百人救助)。このことはナシ国軍に衝撃を与えた。さすがに本城国も大山島は死守するつもりだと判断せざるを得なくなる状況だ。

 それでも、当初の目的は達成しなければいけないと強硬意見が現場では勝ち、ナシ国は岩垣島、初釣島にて戦力を再編成することに。そして九月一日に第二段作戦として大山島の再攻略を計画した。

 戦力再編成中の八月三十日未明、本城国の大照地方へモス国が侵攻を始めた。ナシ国は本城国の注意が分散されると歓迎。しかしモス国の作戦はすぐに失敗。ガッカリはしたが、まあ、モス国のことはどうでもいいことである。元々ナシ国の計画には当然ながら織り込まれていないことなのだから。故にそのことに関係なく作戦を実行する予定であった。

 しかし本城国とモス国との戦闘中に注目せざるを得ないことが一つあった。それは本城国からモス国の侵攻軍に出された宣告であった。向かってくるなら公海上であっても問答無用で撃沈する。まさに戦闘中の相手に対しては出されてもおかしくない宣告であるが、本城国がそんなことをする国だとは考えていなかった。そのことと大照地方での本城国の攻撃の様子や、先日自軍が受けた積極攻撃などから考え合わせ、大山島攻略はかなりの損害を覚悟しなければならない、と判断された。

 さらに諜報機関からもたらされた情報では、本城国の基地制圧に投入されたのは、モス国でも最精鋭の部隊であったことが分かった。それも四中隊編成の一大隊規模。本城国大照地方のその基地周辺は現在諸々の事情で、本城軍は非常に手薄になっていることが分かっていた。にも拘らず、本城軍はその最精鋭部隊をも撃退している。これは本城軍の実力が、ナシ国の想定をはるかに上回るものと考えなければいけないことであった。

 想定外の積極攻撃を辞さない態度。そして想定以上の実力を持っていると判断できる本城軍。大山島は諦め、今の占領地域だけでも領有化しようとしても、全力で反攻してくるに違いない。その場合、今回予定していた戦力のみでは大損害を被ったうえ撃退されてしまうかも知れない。それでは侵攻した意味がないし、賠償責任だけを負わされてしまうであろう。いくら一党独裁国家であると言っても、そんなことになったら国民からの突き上げは大変なことになる。それを避けるには追加の大動員が必要になる、けれどそれもしたくはない、いや、出来ない。

 海軍は大規模な再動員で追加投入出来ないことはなかった。なんなら全軍規模で向かわせることも可能であった。しかし陸軍、空軍はそんなわけにはいかなかった。ナシ国は自国のあるアン大陸東部で国境を接する三国とずっと国境線の位置で揉めている。最近は下火になってはいるが、国境紛争が頻繁に起こっていた。中でも三国の一つアデイン国は強硬で、約七十年前の大戦で失った、アン大陸西岸までの国土を取り戻そうと常に狙い続けている。故に長大な東部国境周辺から、陸、空軍をそうは動かせなかった。

 ナシ国政府は現場が膠着状態で睨み合っているのを利用して、時間をかけて協議。ここまでの侵攻行動自体を無駄にせず、東部諸島領有化という目的を多少でも達成する着地点を探した。いや、国民が納得する着地点を。そして出て来たのが租借地を得ると言う結論であった。

 これは本城国の知らない、いや、ナシ国幹部しか知らない舞台裏でのことである。




 安紀十四年九月五日


 秋の通常議会が開かれて二日目の九月二日。午後から出席予定だった外交大臣は二時間も遅れて三時過ぎに姿を現した。その西郷外相から、まだ非公式ではある、と前置きした上で、ナシ国から東園地方東部諸島の数か所を、租借地として借り受けたいと申し入れがあったことが告げられた。それからこの話で民政院議会はこの三日間荒れていた。

 現在進行形で続けられている東園地方へのナシ国の侵攻と占領。そして勃発当日で終結したとはいえ、モス国への責任追及と賠償請求の話で幕を開けた通常議会であったが、モス国の話は片隅に追いやられていた。

 ナシ国が租借地を要求してきたことに関心が集中。多くの議員は将来的な領有化に向けた布石だと主張。断固拒否を訴えた。そしてそれは、すでに大軍を動員して一週間、なぜすぐにでも奪還作戦を開始しないのかと政府追及への声に変わっていった。

 しかし東園地方選出の議員を中心に、奪還作戦が実施されれば被占領地の住民に被害が出る、と慎重論を唱える議員たちも少なからずいた。そこに元々軍に批判的であった議員たちが同調、慎重派は半数近くになった。その議員たちは先日のモス国の侵攻時に軍が行った、公海上でも攻撃する、と言う宣告のことを持ち出した。これは国際的には宣戦布告と捉えられる可能性のあることである。軍は独断で戦争を起こすつもりであったのかと追及。このような軍の好戦的な積極姿勢を戒めるためにも戦闘行為は控え、外交交渉にてナシ国を退かせるべきと主張した。

 そんな状況であったその日の午後、またしても西郷外相が遅れて議会に現れた。そして前回同様、ナシ国のリー大使の訪問があり、件の租借地について具体的な候補地等の打診があったことを告げた。

 その内容は、東部諸島中部の要衝となる大山島内を含めた十か所の租借要求であった。人が住んでいる島は、大山島、岩垣島、初釣島、緑川島、月見島の五島。それ以外は、かつては集落があり、人の住んでいた現在は無人島である五島であった。そして、無人島の五島には、ミサイル基地を二か所、航空基地を一か所、全ての島に艦艇用の港湾基地を独自に整備して設置、そのうちの一つは空母艦隊を収容できる大規模な港湾基地にすると言うもの。また、警備、防諜上の理由として、設置予定の基地の規模に対してかなり広範囲の敷地を、つまり租借地を要求するものであった。

 これは慎重論を唱えていた議員たちの大半を、宗旨替えさせるには十分なことであった。そしてさらに続けられた西郷外相の報告で、租借期間は百年であると告げられた時、議会は断固拒否、即時奪還の声で沸騰。慎重論を唱える声など上げさせない雰囲気となった。


 九月七日、民政院議会では午後になってすぐ、挙手による採決が採られた。それは当然ナシ国の租借地要求に対するものであった。議会は昨日とその日の午前中とで、東園紛争の対処方針を決めた。それは、租借地要求は拒否、ナシ国には外交にて撤退交渉。それは有期限で、一か月以内に撤退させる。そして、侵攻後一か月となる九月二十六日に撤退が行われていない場合、軍事行動にて速やかに同地方を奪還、開放する、と言うものであった。

 圧倒的な賛成多数で可決された。




 民政院議会での可決内容は、すぐに元老院へ送られた。王宮内の元老院評議室には元老院メンバーが集まっていた。元老は六人、そして補佐を兼ねた秘書が一人ずつ。評議中その部屋に入ることが出来るのはその十二名だけである。

 元老たちが議会からの書類に目を通し終えた頃、

「まあ、これが妥当なところでしょう」

と、旧中重国の元老、重田永信が言った。それに対して、

「武力奪還と言うのは軍人のみならず、現地の一般市民にも犠牲者が沢山出ることでしょう、何とか平和解決を考えた方が」

と、旧南領国の元老、荒垣樹治郎が言う。それに、

「うん、犠牲者を出すのは良くない。武力行使は避けることを考えた方がいい」

と、旧大照国の元老、曽我畑修吉が同調する。

「何言ってるんですか、曽我畑さん。あなたの地元、大照が先日、侵略されかけたんですよ。重箱の隅をつつくようになんだかんだとあとから問題にする連中はいるが、あの時の軍の断固とした動きは正しかった、私はそう思う。東園も同様の態度であたるべきだ」

それに重田はそう言って反論した。

「そうは言うが、あの時の戦闘で二千人以上の犠牲者が出ているんだ。負傷者も含めたら三千人に及んでしまう。むごいことだ。東園地方はあの規模では済まない。桁違いの犠牲者が出てしまうぞ」

「二千人と言っても軍人でしょう、彼らはこう言ったら申し訳ないが、それが仕事だ」

「軍人と言えども本城国の国民だ。国民の命をそんな風に言うべではない。それに、東園地方では民間人も多数巻き込まれるぞ。それこそ万の単位で犠牲者が出るかも知れん」

旧東園国の元老、双城憲子が話に加わった(憲子と書いて、けんごと読む、男性である)。

「またまた、双城氏、東園はあなたの所ですよ、放っといていいんですか、悠長な。それにね、北脇では既に一万人以上死んでますよ、民間人が」

重田が吠えるようにそう言う。それに応えたのは旧北城国の元老、城山宗弥だった。

「重田さん、その言い方はどうでしょう。それに内容も不適切です。北脇市は未曽有の地震に見舞われたのであって、今の話とは根本的に違いますよ。一緒にするべきではない」

「いや、数字を出してくるからそれに……。まあ、確かに不適切だった。北脇市の話は撤回する。しかし、東園にナシ国の地を一平米でも認めるって話は絶対に承諾するべきではない。その為に武力が必要なら、それを使うべきだと言う私の意見は変わらん」


 重田氏はその後も徹底抗戦を訴えた。ナシ国が租借要求してきた場所一つ一つについて、その地に設置予定の基地がどういうもので、本城国にとってどういう脅威となるか。また、統一国家としての本城国となってからは、二百年ほど前に一度、初釣島から東はナシ国となったことはあるが、その後数十年の間に取り返し、その時は現在のナシ国の西部諸島の西部三分の一は本城国領であった。七十年前の大戦時に再び初釣島近くまで攻め込まれたが、撃退。そして大戦後に創設された国際連盟にて現在の領海に決定。これは重要なこと。国際連盟にて、我々はそれまで百数十年我が国の領土としてきたその西部諸島の島々を手放すこととなった。大戦終了時、我が国が奪還していたにも拘らず、ナシ国の古来からの領土であるという主張を国際連盟が聞き入れたため。故に今の領海はナシ国に既に譲歩した上で、国際連盟にて正式に認められた国境である。約七十年の時を経て、再びナシ国に譲歩するのは国家の尊厳を傷つけることになる。そんなことになれば、北から再びモス国が脅かしてくるであろうし、南からゴウ国もやってくるかも知れない。

 熱心にそう説き続ける重田氏に、一人、また一人と、同調する元老が出て来た。そして休憩を兼ねた夕食で、皆がおにぎりなどつまみ始めた頃には、武力奪還反対を口にするのは荒垣氏、双城氏の二人だけであった。


 ほとんどの者が食後の飲み物を手にしだした頃、

「それにしてもナシ国はなぜ租借なんてことを言い出したんでしょうね」

と、城山氏が誰にともなく言った。

「なぜとは?」

曽我畑氏が尋ねる。

「いえ、普通なら領有を宣言すると思いませんか? 現に占領状態にあるんですから」

元老たちは顔を見合わせた。すると、

「そんなことを言ったら我々が全力で奪還に来ると分かっているからだろ。ナシ国にしたって大きな被害が出ると分かってる戦闘は避けたいだろうからな」

と、重田氏がそう答える。

「でもリー大使は南部軍、東部軍を引き抜いてでも交戦、大山島まで取ると言ったんですよね。実際そんなことされたらその通りになってしまうでしょう。こちらの全軍合わせても、ナシ国軍の半分ほどですから」

城山氏は続けた。

「そんなことされたら大山島どころか本土までやられるよ」

と、呆れたように重田氏。

「ですよね、ではなんでリー大使にそんな脅しみたいなこと言わせておいて、領有ではなく租借なんでしょう、そこが私は気になります」

「だから、こっちが全面攻勢に出たら大損害を被ると分かってるからだとさっき言っただろ」

「でも、脅し通り増援を出して来たら、こちらは戦端を開きませんよね。と言うか、開けませんよね。でしたら脅し通りの動きを見せるだけで簡単に領有できてしまうのに、なぜそれをしないのか。そんなことは向こうでも分かっているはずなのに」

その城山氏の発言に重田氏は応えず、しばしの黙考の後、話は終わりとばかりに明後日の方を向いてしまった。

 ごにょごにょと元老たちは今の話を論じ始めた。でも答えは出ないようであった。すると、これまで全くと言っていいほど意見を述べずに聞いていた国王、御前安憲が口を開いた。

「追加の戦力を用意出来ないのだろう」

皆が安憲王の方を見る。

「どういうことですか?」

城山氏が尋ねた。

「先月の二十八日以来、来るべき次の状況に備えていろんな情報を揃えましたよね」

「はい」

城山氏がそう答え、重田氏以外の全員が頷いた。

「その中にナシ国近隣諸国の戦備状況がありましたよ」

「……」

「ナシ国が一番神経を尖らせているアデイン国は、二年前にゴウ国の対空ミサイルのライセンス生産権を得て、かなりの規模で量産しています。そして昨年、ゴウ国の防空システムも導入しています。自国産の戦車も昨年新型に変わり、それもかなり量産されています」

「……」

「アデイン国の南のタンチーオ国、八年前に民族問題のごたごたの際にナシ国に掠め取られた国土奪還の為、アイテン国の協力の元、軍備の増強を続けています。また、チネッパ国は北の広大な領土を先の大戦でナシ国に奪われて以来、今なお取り戻すことを考えています」

「そんなこと、これまでずっと続いていること、今に始まったことじゃないですよ」

重田氏が話に加わった。

「そう、常に睨み合っていて、緊張が続いている状態です。ナシ国としてはそこから軍は引き抜けないでしょう。今は特に」

「今は、とは?」

「昨日のニュース見ていないですか? ここに届いた情報だけでなく、報道までされていますよ」

安憲王は重田氏を見て言った。

「いえ、見てないですが何か?」

「以前から予定されていたことかどうかは分かりませんが、アデイン海軍とタンチーオ海軍が合同で、外洋大演習をするとか。その集結の為、ワンマータイ国の港に向かっているそうですよ」

ワンマータイ国はナシ国の南の隣国。特にナシ国と揉めていると言うことはない。先の大戦でもナシ国はワンマータイ国には一切手を出していない。しかしそこの港に睨み合っている二国の艦隊が集結するのは、ナシ国としては警戒しないわけにはいかないであろう。

「それは……」

重田氏はそう言うと、秘書にその資料をよこせとばかり手を出した。安憲王は続ける。

「先月二十八日までに、ナシ国の南方艦隊の空母三隻の北上を確認。西部軍の地上部隊の多数が西岸の主要な軍港に集結。その兵員を乗せたと思われる強襲揚陸艦各一隻を含む三艦隊の出港も確認。おそらく今東部諸島に展開している兵力で大山島までを一気に占領。そしてそれらの後続を加えることで領有化を我が国に迫る。それがそもそもの予定だったのでしょう」

「……」

「しかし、こちらの東方艦隊が大山島攻略のナシ国船団を海上で撃退した。そして、大照地方では紙一重の所ではあったけれど、モス国の侵攻も止めた。長保基地は本当に善戦してくれて、自分たちが窮地にあったにも拘らず、その機知でモス国の第二段作戦であったと思われる艦隊を見事に追っ払ってくれた。と同時に、一度戦闘となれば国土を守るため、いかなる攻撃も辞さないという断固たる意志を、モス国だけでなく世界に示してくれた。いやあ、領海内にレーダー波が届いただけで攻撃とみなすと言うのは、見事なバランス感覚をもった判断だったと思う。批判的な意見が多いけど、私は称賛したいくらいだ。大げさかもしれないけれど、彼らがこの国を救ってくれた」

「国際的には十分宣戦布告となる内容ですよ」

曽我畑氏がそう言った。それに安憲王はこう続ける。

「いや、局地戦の真っ最中に、その相手部隊になされたものだとギリギリ判断できる範疇での最大限の脅しだよ、あれは。だから見事なバランス感覚だって言うんだ。向かって来ていた艦隊に、領海内に入れば攻撃する、と言っただけでは弱い。しかしあの時、アカム港では空母艦隊一が出港中と確認されていた。その艦隊への攻撃を言及していたら、それは問題、行き過ぎだった。なぜなら、その艦隊はあの時点ではまだ、長保基地が戦う局地戦への参加意思が不明瞭であったから。それを攻撃すると言ったら、あの状況でも過剰防衛であり、あのあとこちらがモス国への侵攻を企む上での先制攻撃だと見られてしまうかもしれない」

元老たちは顔を見合わせる。

「それでは、公海上でと言うのも同じでは?」

今度は城山氏が尋ねた。

「海上警備隊の報告ではあの時長保基地からの指示で、付近にいた巡視船二隻を接近中の艦隊の進路上、領海内ギリギリに進出させたようだ。そして接近中艦隊からのレーダー波を検知せよと言われていたそうだ。戦術レーダーの照射は兵器使用と同じ、攻撃だとみなすことが出来る。平時なら文句を言って終わりってところだが、局地戦を戦っている最中に、その戦場に向かう敵艦からであれば話は違う。敵が公海上であろうと、領海内にいる船に照射すると言うのは砲弾を撃ち込んだのと同じ、と解釈しても何ら問題ない。明らかに現在進行中の局地戦に関与する行動だと判断し攻撃できる。そしてそこから解釈を広げていくと、同海域に向かってくるモス国艦艇は、全て同様と判断され、追跡され、どこかで戦闘に関与する行動だとみなされる動きをしたら攻撃される、公海上であっても。そう考えるしかなくなってしまうだろう」

安憲王はそこまで言って席を立った。そしてコーヒーカップを持って壁際のワゴンに向かう。しゃべり続けたので喉が渇いたか。普通なら秘書が駆け寄り注いで来るところだが、安憲王は普段からそう言うことに秘書を使わない、秘書はその場を動きもしない。

 安憲王がワゴンでコーヒーを注ぎ足しているところに、重田氏が問いかけた。

「では国王は、我が軍が東園でもそう言う積極攻撃をしてくるとみて、それをナシ国が恐れているとお考えですか?」

コーヒーを注ぎ終えた安憲王はそれを一口含み、自席に戻りながら答える。

「既に積極攻撃はしたじゃないですか、それも大照地方での紛争前に」

「……」

「ナシ国にしたら、いくら広大な領土を占領された後であっても、武装を積んでいない、あっ、船内にいる兵士は武装とは見ないと言うことでね、えー、ああ、非武装船としか外観上は見えない船を、本城国が攻撃するとは思っていなかったんですよ。いや違うな、攻撃出来ない国だと思っていたんですよ。それが進撃中の船を攻撃してきた。それも艦砲などで脅し程度に数隻攻撃するとかいうレベルではなく、その先鋒集団に向けて海、空から多数のミサイルで攻撃してきた。その結果、船団の約四割、百九十隻あまりを失った。これだけでも十分ナシ国には想定外のこと。だからその時点でブレーキがかかったんですよ」

「そんな、あれだけの戦力を動員して来て、それでは戦闘する気はなかったみたいじゃないですか」

荒垣氏がそう言った。

「そう、まずは意表を突いた大量の高速船団で電撃的に侵攻。意図が見え見えとなっても本城軍は攻撃しない。そしてそれはその通りになった。それに連動して出せるだけの艦隊を出し、戦闘機隊が進出。もう大規模戦闘に発展するしかないと言う状況、本城軍は二の足を踏んでまたまた攻撃して来ない。本来はここまでに大山島を占領している計画だったのでしょう。そして二の足を踏ませたまま領有化を認めさせる」

「まさに舐められてたってことか」

重田氏だった。

「そう言うことです。領土野心を持たず、軍隊は自国防衛の為だけの装備とし、縮小しましょう。国際連盟が各国の軍備拡張、そして兵器の高性能化、高威力化を危惧して、もう二十二年前になるかな? そう提唱した。そして軍備を防衛使用に限定する軍縮条約を作った。皆さんご存知の通り、その条約にサインしたのは五か国のみ。先進国、軍事大国と呼ばれるカテゴリーに含まれる国の中では我が国だけだ。それでも我が国は条約で約した通り、自国防衛に必要な数と認められる範囲に軍を縮小した。軍務省を廃して、王政府内の国防庁とし、組織も縮小。まあ、内閣府ではなく王制府内にしたことを危険視する国はあるけれど、かなりの縮小を実施した。演習も大規模なものは年次計画で公表する数回のみ。弱体化していると見られて当然でしょう」

「それでも最新技術を常に導入し、レベルも各国に劣らないものだ。それはさっきからおっしゃっている戦闘で証明されている」

重田氏がまたそう言った。

「そうです。軍の努力の賜物です」

そう応えた安憲王に重田氏は食いついた。

「では、租借地の要求は拒否して、すぐにでも奪還作戦を実施すべきです。かの地にいるナシ国軍に時間を与えないためにもすぐに」

それに安憲王はしばし考えてからこう言った。

「それはどうでしょう」

「ためらう理由がおありですか」

「この評議中に何度も聞こえて来た話ですが、ここからの武力衝突は多大な犠牲が伴います。それは避けたい」

「そんな、国土を侵されているんですよ、国王までがそれを放っておくと言うんですか」

重田氏の声はまた熱くなる。

「放っては起きませんよ、もちろん」

「何か考えて見えるんですか」

「そうですね、少し整理しましょう」

「整理?」

そう聞き返したのは双城氏だった。

「そうです。まず、ナシ国も戦闘は望んでいないと思っています。特に大規模なものは。その証拠に、こちらの積極攻撃の姿勢を見て、リー大使に租借地案を提示させた、領有化の宣言ではなく」

「……」

「それに先程、軍から衛星での監視状況をもらいましたが、今この時点で、増派されて来ていた空母艦隊等は全て引き返しています。おそらくさっき言った昨日のアデイン海軍とタンチーオ海軍の合同演習の動きに対応するものでしょう」

「なら敵に増援はない、やるべきだ」

重田氏が口を挟む。

「まあ慌てずに聞いて下さい。えー、ナシ国が領有ではなく租借したいと言ってきた真意を考えましょう。それは多分、さっきから何度も言っている通り、領有と口にしたら我が国が武力奪還に踏み切るであろうと考えを変えたからです。つまり、戦闘を避けたい。しかし、あれだけの大動員をして行動を起こしてしまった以上、何も無しで引くわけにはいかない。ナシ国は富国党が一党で支配する独裁とも言われる専制国家ですが、それでも国民の政府批判の鬱憤があまりにも溜まり、暴発することを常に恐れている。最近は経済発展の低迷から国民の所得が減少、その鬱憤が溜まり始めていると言われていました。ナシ国は市場経済も全て国策ですからね。で、そのガス抜きで今回侵攻してきたのでしょう、国民の関心がナシ国にとっての西部諸島拡張、いや、奪還に向くように」

安憲王はコーヒーを口にする。誰も何も言わずそれを見ていた。カップを置くと安憲王は続けた。

「まあまた同じ話はしませんが、とにかく当初の目標は達成されず、領有は難しい。そう判断したナシ国政府は、ガス抜きに足るものを考えた。それが租借地じゃないですか」

「と言うことは、租借地の話は譲らないと言うことになりませんか?」

曽我畑氏が尋ねる。

「そうです」

「では、国王は租借地を認めるつもりですか?」

今度は双城氏である。

「はい」

「何を言ってるんですか、それは絶対ダメです」

そして重田氏。

「まあ聞いて下さい。認めますが、今要求されている通りに認めるつもりはありませんし必要もありません」

「それは……」

そう割り込んだ重田氏を手で制して安憲王は続ける。

「全面拒否して武力衝突に突入することは、絶対に避けたいと思っています。それが第一です。その為にはガス抜きに付き合うしかない。逃げの妥協だと言って下さって結構です、実際そうですから。でも、ガス抜きに足りる最低限しか付き合うつもりはありません」

「……」

「リー大使から具体的なことが提示され、昨日からいろいろと調べ考えていました。そして私が考えた返答としては、租借地は二か所のみです」

「……それはどこですか?」

双城氏が尋ねる。

「まず岩垣島です」

「えっ? 岩垣ですか」

「はい、岩垣島の北東部の国有公園は先の大戦時の飛行場跡です。まあ、プロペラ機時代の飛行場ですからかなりの整備拡張は必要だと思いますが、そのくらいはやるでしょう。そしてその北側の入り江、その飛行場に物資を届けるための軍港跡です。飛行機を運んで来た空母なんかも入港していた港ですから広さは十分でしょう。ここも国有公園内ですからずっと使用されておらず、根本的な改修が必要でしょうが。まず一か所目はその辺りです」

「はあ、で、もう一か所は?」

双城氏が続けて聞いた。

「緑川島か球磨島ですね。レーダー基地でもミサイル基地でも好きにしてもらいましょう」

「いや、どちらも岩垣島、いえ、大山島に近いですよね。もっと東、月見島とかその周辺の無人島では? 月見島周辺には十キロほどはある無人島がいくつかありますから、そこの方が良くないですか?」

また双城氏が尋ねる。

「いえ、東の方の島は月見島も含めて当然ナシ国から近く、こちらの領海に入ってすぐに辿り着いてしまうところです。そんなところに拠点を作られたら物資人員の輸送が簡単に出来てしまいます。それは面白くありません。あえて東部諸島中部の島を選んだのは、ナシ国の輸送状況を監視しやすいためです。平時にいつも目を光らせておくわけにはいきませんが、中部域まで来る船は監視できる時間も長く、目も多くなります。その為です。同じ理由で監視が行き届きにくい無人島は全て排除したのです」

「……なるほど、分かりました」

双城氏はそう言った。

「あと、租借期間ですが、十年で交渉します」

「馬鹿な、今の二か所にしろってだけでも猛反発、到底受け入れるとは思えないのに、百年を十年だなんて、実現可能だと思ってるんですか? さっき言って見えた飛行場の整備だけでも下手したら十年かかりますよ」

重田氏がまた食いつく。

「ええ、そうでしょうね。ですから十年で交渉を始めると言うことです。百年は国際的な観念では無期限を意味します。まあ、租借に当たっては正式に条約を結ぶなり、契約書を交わすことにはなるでしょうから、そこに百年と書かれていれば無期限とは現実的にはならないでしょう。しかし、観念的に無期限だと捉えられる契約を結んだ国だと世界的に認識されたくはありません。ですから最終的には九十九年で構わない。そう思っています」

「そんなの一緒だ」

独り言のように重田氏が言った。

「その代わり十年の提示から折れていく格好で、租借地二か所は強く主張し、認めさせる努力を最大限します」

「はあ、それをナシ国が認めるとは思えませんけどね」

また重田氏だ。

「かも知れないです。それでも、こちらは譲歩しても岩垣島、緑川島、球磨島の三か所までにしなければと思います」

「それを拒否されたら武力奪還ですか?」

荒垣氏が尋ねた。

「そうしたくはありませんが、考えなければいけないでしょう、それも」

「……」

「しかし、楽観論ではなく、私は租借地二か所、九十九年以内、これで妥結できると思っています」

「楽観論ですよ、それは。無理だ」

と重田氏。

「いや、ナシ国政府が、富国党がメンツを保つにはこれで十分だと思います。本国から租借地要求を公に提示して来ず、リー大使にさせているのがその証だと考えます。公に提示したら、その内容を承諾させなければ、世界的にも自国民に対してもメンツが保てません。そうしてしまったらナシ国政府はメンツを保つため硬化するしかない。そして妥結しなければ戦闘になる。これは避けたいのです。だから外部に内容が漏れないようにリー大使にだけさせている。それを逆手に取ると言っては言葉が悪いですが、利用させてもらって交渉するわけです」

「なるほど、それなら」

などと元老たちが言い始める。そこに重田氏の声が被さった。

「皆さん、良策が見つかったって感じになっているが、これは敗北ですよ。一方的に侵攻されて、結果、二か所とは言え、それも限られた範囲だと言うかもしれないが、まぎれもない我が国領土が奪われると言うことですよ。それが分かってますか? これは敗北だ」

元老たちは黙ってしまった。しかし少しして、

「諸外国から見れば領土を奪われた敗戦と言うことになるでしょう。しかし、東部諸島の大半を領有化すると言うナシ国の当初の目的は阻止し、ほんのわずかな土地を提供するに止めた。そう考えたら我々の勝ち、そう思うしかありません」

と、双城氏が言った。

「そんなの自己満足だ」

「いや、この際自己満足でいい。その程度で大勢の国民の命を失わずに済むのであれば、敗戦国だと思われるくらいなんでもない」

曽我畑氏が双城氏に同調した。

「そんな、我が国のプライドはどうなる」

重田氏は譲らない。

「敗戦と言っても本城国がナシ国になってしまうわけじゃないです。それならプライドの為に大勢を犠牲にすべきではないです」

今度は城山氏だった。

「でも国民は世界で肩身が狭くなるぞ、戦いもせず負けた国の人間だと」

重田氏は本当に強硬であった。

「大丈夫ですよそんなに心配しなくても。いずれ世界も国民も分かってくれますよ、ナシ国だって勝ったわけじゃないと」

荒垣氏もそう言った。これで重田氏以外の元老は全て、安憲王の考えに同意した形となった。元老院は多数決である。方向性はこれで決まった。議会決議の上、内閣が提示してきたものは却下と言うことになるが。


 被占領地の国民の為にも早急に交渉を始めなければいけないと言うことで、元老院は夜を徹して安憲王の案を具体的に、詳細に詰めていく作業に入った。交渉の進め方まで詳細に決めていかなければならない。重田氏は、やはり武力衝突となっても奪還すべきだと言う考えを変えられず、この作業は手伝えないと早々に評議室から出て行った。

 翌朝、鈴木首相、西郷外相、民政院議長、熊井戸恭代の三人が元老院に呼ばれ、元老院での決定事項を伝えられた。その日の議会は議長不在の為、あらかじめ早朝より午前中は休会とすることが伝えられていた。

 本城国の民政院議会は非公開で行われている。しかしこの件は租借契約成立までは絶対に外部に漏れては困るので、議員には伏せて、首相、外相と、元老院で交渉に当たることになった。議長が呼ばれたのは、契約成立まで元老院は件の議会決議に決裁をしない、と言うことにしたので、決済が出ないことで騒ぎになるであろう議会を治める心づもりをしてもらうためであった。

 首相、外相には厳しい注文が出た。特に外相にではあるが、交渉内容が厳しいと予想されるのに加えて、大至急での妥結を求められた。決裂とはならないように注意しながら、リー大使を数日で結論を出さなければいけないという風に誘導しろとのことであった。これは大仕事になりそうである。


 そしてちょうど一週間後、西郷外相を筆頭に、鈴木首相、元老たちの努力が実り、租借契約の内容が決定。すぐに文書が作成され、異例ともいえる速さで、ナシ国全権大使リー氏と鈴木首相が署名して契約書が交わされた。その内容は安憲王が考えた通り、租借地は岩垣島と球磨島の二か所のみ。そして、機略縦横を駆使した役者ぶりを発揮した西郷外相の活躍により、租借期間は七十年となった。十分に長い期間ではあるが、要求された内容を考えると、良くもここまで縮小した契約で済ますことが出来たものだと言うほかはない。

 契約が交わされた日の夜から、ナシ国軍は西側の島から順次撤退。住民も順番に解放されていった。撤退は三日間で完全に終わった。後は契約に基ずく租借地設置のための人員が来ることになっているが、それはまだ少し先のことだ。

 元老院が画策し西郷外相たちが奮闘した舞台裏を、知らされることのない民政院議員たちは、租借地要求拒否の議決が破棄されており、元老院の強権で契約が結ばれたことを知って憤った。元老院、そして国王の大権が優先されるとは知っていても納得はしなかった。そのことはそうは時間を置かずに国民も知るところとなり、戦いもせず領土がナシ国に取られたとの声が大きく国内を駆け巡った。王宮にはしばらくの間デモ隊が抗議に詰めかけ、首都は騒然となることもあった。安憲王を始め、元老たちは非難の声を浴びながら、他に手はなかったかと悩むこともあった。しかし、国務を預かる者たちには次から次へと考えなければならないことが舞い込む。そうそうそちらに気を残しておくことも出来ず、本城国を明日に導くために働くのであった。

 事後処理はこの後もしばらく、いや、延々と続くのであろうが、兎にも角にもこの晩夏の紛争は、終わった。



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