二章 峻厳と
1
朝。マキが学校に着くと、七尾が机に体を投げ出して寝息を立てていた。
いつもであれば、登校してすぐに男子と遊んでいるくらいに元気が有り余っている七尾が、苦手な授業以外で眠っているのはかなり珍しい。と言うより初めて見るかもしれない。
七尾ちゃんにもあんな時があるんだな。机に突っ伏したまま規則正しく背中を上下させる姿に、そんな感想を抱きながら、マキは自分の席に荷物を置く。
「なんか、昨日は遅かったみたいですよ」
ぬるっと、都が現れる。マキが来るのを待ち構えていたらしい。
「あれからあちこち連れ回されて、家に帰ったのは夜中の二時とか言ってました」
「二時⁉」
完全に深夜だ。十一時には床につくマキが完全に眠っている時間に、七尾はまだ外でお母さんと一緒だったのだ。
「なんでそんな時間まで……」
「七尾さん、スマホ忘れたって言ってたでしょう。それでお父さんとも連絡が取れなかったみたいでそのままずるずると……最終的にお父さんが警察に通報して、その流れでお母さんに繋がったそうです」
警察という言葉にマキの顔色が変わる。半年ほど前に学校に忍び込んで警察のお世話になったことは、マキの軽いトラウマになっていた。
都は話を続ける。
「それでようやく家に帰ったら、お父さんがすごく怒ってて、お母さんと言い合いが始まったみたいです。七尾さんは部屋に戻ったそうですが、そのまま朝までほとんど寝られなかったらしく……」
今はあの様子です。と七尾に向けた視線で語る。
言葉もなかった。昨日別れた時は、そんな事態に発展するなんて、これっぽっちも思わなかった。
改めて考えると、とんでもない話だ。常識的な親なら、深夜まで子供を連れ回すようなことはしないはずだ。しかも警察からの連絡がなければ、もっと遅くなっていたことは簡単に想像がつく。その場合、一体どんな時間に帰れていたのだろうと思うと、背中に冷たいものを感じずにはいられなかった。
───キーン、コーン、カーン、コーン。
朝の空気を塗り替える予鈴に、まばらに散っていた生徒がそれぞれの席や教室へと帰っていく。
マキもそれに倣って席につく。都が自分の席に戻る道すがら、七尾の体を揺らしていった。
「…………ん」
顔を上げた七尾の表情はまだ曖昧で、目の下の深い隈が疲労を物語っていた。
生徒全員が席に着くと、見計らったかのように、がらりと教室の扉が開き、杖をついた栢森が姿を見せる。
「起立」
「礼」
「着席」
お決まりの言葉とともに学校が始まった。
*
「では、本日の授業はこれまでとする」
栢森が教科書を閉じる音とともに、授業終了のチャイムが鳴る。
糸を張ったような空気が一気にほぐれ、生徒たちは体を緩ませる。友達と会話を始める者や、読みかけの本を広げる者、黙々と帰りの支度を始める者と、それぞれが別々の行動を始めるが、その心の中は皆、一日の終わりを歓迎する気持ちで繋がっていた。
そしてその頃には、寝不足だった七尾の頭も幾分かの明晰さを取り戻していた。
「なんで毎回毎回、授業のたびにテストなんかすんだよー」
七尾は背もたれに体を預け、そう愚痴る。
栢森は前日と同様、授業開始時に短いテストを実施していた。そのせいで居眠りをする機会を逃し続けた七尾は、休み時間を全て睡眠に費やす羽目になったのだ。
「でも七尾ちゃん、授業中はちゃんと起きててえらかったね」
小さく笑うマキに七尾が不満気につぶやく。
「なーんかなあ、授業が始まる前はスゲー眠たいんだけど、いざ始まると寝られないって言うか、なんか授業を聞いてたいって気分になるんだよな」
その感覚は確かにあった。栢森先生の授業にはどこか、生徒の興味を惹き付けるような言い回しや、集中を促すような声の調子が感じられた。それが特に強く感じられた瞬間は、授業毎に実施されるテストだった。あのテストが始まるといつも、試験時間特有の緊張が自分の中に張り詰める感覚がある。
過集中とでも言うようなその感覚は、テストの終わりとともに泡が弾けるように消えてしまう。そしてテストの時間だけずれ込んだ授業がハイスピードで行われるのだが、直前まで自分の中にあった集中の残滓が再び湧き上がり、それが授業の終わりまで持続するのだ。
普通に考えれば授業に置いて行かれるクラスメイトもいそうなものだが、なぜかそういう声はマキの耳には入ってこない。栢森先生が着任してまだ二日目ということも大きいのだろうが、授業が難しいとか、分かりにくいといった話はどこからも上がっていなかった。
「あの先生、生徒全員をすごくよく見ていますよ」
都がたった今まで使っていた教科書を手にしてやってきた。
「授業中も色んな言い回しや表現をしていましたが、必ず誰かが興味を惹かれるような内容だったり、分かりにくい部分を噛み砕いて短く説明したりしていました」
そう言って開いた教科書には、授業のメモ書きと栢森先生の分析のような走り書きがいくつも書き込んであった。
「げっ、ミヤお前、教科書にまで書き込んでんのかよ」
「そりゃ書きますよ、どうせ今の学年しか使わないんだから効率よく使うべきです」
「す、すごいね……」
マキも教科書には参考程度にメモ書きをすることがあるが、教師の傾向まで書いたりはしない。都の場合は、それらが至る所に記されており、教科書の内容よりも、自分で書いた文字の方が多いのではないかと思うほどだ。ここまで来るともはや病的だ。
「とても勉強になる授業で私は気に入っています。じいじもああいう風に話が出来るといいのですが、あの人は聞き手の理解度を考慮せずに一方的に話をしますからね。よくあれで教授なんてやっていたもんだと思いますよ」
失笑気味に言う都。なんだかろくな話にならないんじゃないかと思ったマキは、強引に話題を変えた。
「そ、そう言えばもうすぐクリスマスだよね! みんなはもうプレゼントとかお願いした?」
かなり無理矢理な内容だったが、誰も疑問に思わなかったのか問題なく話が続いた。
「私はまだだなー」
「私もです、ちょっとじいじにせっついてみましょうか」
それぞれが欲しいものを思い浮かべながら、あれやこれやと言い始める。
ファッション雑誌に載っていたメイクセットが欲しいとか、昨日見た無線イヤホンが高性能でかっこよかったとか、電子書籍にも手を出してみたいとか、話が少しずつ盛り上がっていく。
そんな中、ふと、七尾がつぶやいた。
「確かにもうすぐクリスマスだもんなあ、そろそろいい子にしてなきゃまずいよなあ」
「?」
その言葉の意味が分からず、マキは首を傾げる。
「なんで?」
「だってサンタが来るだろ?」
「はい?」
相変わらずその意味を理解できないマキ。都も同じ表情を浮かべている。そんな二人を見て、七尾は何かに気づいたような顔をすると、誰にも言うなよ、と声を潜めて言った。
「実はな、私のここ数年の予測だと、サンタは十二月の素行を見て、その子がいい子かどうかを判断してるんだよ。だから年末辺りはなるべく目立たないように過ごして、サンタにいい子アピールをしておくと目当てのプレゼントが手に入りやすいんだよ」
そして七尾は、にやりと笑みを浮かべて耳元から離れた。
「……………………」
得意げに笑う七尾にマキも都も何も言えない。
まさか小学五年生にもなって、まだサンタを信じている人間がこんなすぐ側にいるなんて思わなかった。純粋なのか、無知なのか、はたまたその両方なのか。早めに真実を伝えるべきか、このまま夢を見させてあげるべきか。様々な考えが頭の中を駆け巡る。
そう考えていたマキの手を、ぐっ、と都が握った。
「!」
互いに顔を見合わせて、どう対処するべきかを視線だけで正確に伝え合う二人。人と人は分かり合えないなんてよく言うが、人の心というものはそれ以上に繋がりあうのだと、マキと都は無言の会話の中で確信した。
「どした」
突然手を繋いで視線を交わす二人に、七尾が疑問の声を上げる。
マキと都は、七尾に向き直って同時に口を開いた。
「ううん、クリスマス楽しみだね」
七尾の背後で、わらわが腹を抱えて笑い転げていた。
2
本影七尾の父、本影
その六畳一間のアパートは白い煙で満たされていた。
火事によるものではない。満ちた煙の出処は、灰皿に乱暴に突っ込まれた煙草によるものだ。何本もの吸殻を生やした灰皿は、頭から触手を伸ばすイソギンチャクのように細い煙の筋を何本も上げている。
煙は天井に向かった後、行き場を無くし、仕方なく天井に留まることを選んだらしく、白く光る電球に絡みながら、くすんだ光を地面に落とす遊びを始めたようだった。
幼い大吾は、微妙にずれたおしめを不快に感じながら、ぼんやりとその光を眺めて口を開ける。もやのかかった光の筋が、なんだか美味しそうだと思ったのだ。
しかし舌に広がるはずの味はなく、代わりに感じたのは、いつもの煙草の臭いが混じった空気と、
むせ返るような血の臭いだった。
どさり。
重たい音がして、大吾の足元に男が倒れた。
仰向けのまま倒れた男は、地面に頭をしたたかに打ち付けたが、起き上がろうとする様子はなかった。
「ぁー」
大吾は倒れたまま動かない男の髪をぐいぐいと引っ張る。
この男は大好きだ。毎日俺にメシをくれるし、空気のいい外にも連れて行ってくれる。
そんな男の顔によだれを塗りたくっていると、男の腹から黒い棒のようなものが生えていることに気が付いた。
そして、その根元から滲む赤い汁が、この部屋に漂う異臭の正体だと気が付いた。
おいお前、漏らしてるじゃないか。早く取り替えてもらえよ。そのままじゃ気持ち悪いだろ。
男は答えない。それどころか、男は口からも赤い小便を漏らし始めた。
どうしたんだよお前、そんなの見たことないぞ。なんで何も言わないんだよ。もしかして泣けないのか? わかった、俺が代わりに泣いてやるから待ってろ。すぐ誰かがおしめ換えてくれるからな。それが終わったらなんか食わせてくれよ。めちゃくちゃ腹減ったからな。頼むぞ?
大吾は全身を震わせて声を上げる。自分の命を弾けさせるように、魂を爆発させるように全力で叫ぶ。
誰か気付いてくれ! 早く見つけてくれ! こいつの小便が俺にかかって二人とも真っ赤っかだ!
声とともに涙が溢れ出す。赤い汁のむせ返るような臭いが鼻に絡みつき、最後の方はもう悲鳴になっていた。
それでも大吾と男に手を差し伸ばす者はいなかった。
代わりにあったのは、部屋の隅にある箪笥にもたれかかりながら煙草を咥え、返り血で髪をかき上げる女の姿だった。
女は中身の無くなった注射器を手に、まるでこの部屋の惨状に気が付いていないかのように恍惚の表情を浮かべていた。
部屋には大吾の鳴き声と、外の風を受けて勝手に動く換気扇が、黄ばんだ羽を、きいきいと回す音だけが鳴っていた。
これが、本影大吾が家族で過ごした、最初で最後の記憶となる。
その後大吾は、様子を見に来た祖父によって保護された。
父はほぼ即死だった。母は薬物と殺人の罪で収監され、以降は祖父が親代わりとなって大吾を育てることとなった。幸い、事件があったその日に発見された大吾は、目立った傷や栄養失調などの問題はなく、身体的には非常に健康な子供であった。またよく食べる子供だったこともあり、誰よりも大きく、そして力強く成長した。
だが大吾には、自分ではどうすることもできない致命的な問題があった。
癇癪が抑えられないのだ。
不満や不快、それにまつわる怒りの感情。誰にでもあるそんな苛立ちを、大吾はコントロールすることが出来なかった。普段は温厚に過ごしていても、ひとたび癇癪を起こせば、我を忘れて暴れ回った。怒り狂う獣のように、突如訪れる嵐のように。人格を魔術のように支配するこの衝動は、大吾にとってまさに、逃れることのできない悪魔だった。
祖父はそんな大吾を厳しく躾けた。自身が師範を務める本影塾に大吾を引きずり込み、無茶苦茶な訓練で徹底的に鍛え上げた。鉄拳制裁は当たり前、反吐をぶちまけて倒れようが、鼻血にまみれて涙を流そうが、祖父は大吾に平常心を保つようひたすら言い聞かせた。
完全に虐待同然のしごきだったが、その成果か日常的な癇癪は次第に鳴りを潜めていった。それにつれて大吾にも仲間や友人が増えていき、次第に癇癪に振り回されることのない生活を過ごせるようになっていった。
だが、内なる衝動が消えてなくなったわけではなかった。
その衝動は大吾の中で熟成され、牙を剥く瞬間を待ち続けていたのだ。
高校に上がってすぐの頃だった。柔道特待生として期待されていた大吾は、その日も遅くまで練習に励み、部活仲間と雑談を交わした後、忘れ物を思い出して教室に戻っていた。その途中、使われていないはずの空き教室からの物音に気付いたのだ。お化けだったら嫌だな、などと思いながらも、もし誰かいるなら脅かしてやろうとイタズラ心が働いた。
そうして真っ暗な教室の扉を勢いよく開けると、そこには小太りの男性教師と、一人の女子生徒がいた。
教師は盛大に飛び上がって、ワイシャツ越しの腹を揺らす。その拍子にベルトの外れたズボンが床に落ちて小さく金具の音を鳴らしたが、大吾の耳には入らなかった。
大吾はただ、もう一人の女子生徒を見つめていた。
知らない女子だった。しかしその女子は、下着が露わになるほど乱れた制服を隠す素振りすら見せず、ただ赤く腫れた頬に涙を浮かべて大吾を見ていたのだ。
───助けて。
きっと、そんな事は言われていない。あの時、あの教室にあったのは、逆上して大吾に詰め寄る男性教師の声だけだったから。
だけど、それでも、許せなかった。目の前の光景を許してはならないと、自分の中の悪魔が囁いていた。
衝動が、膨れ上がった。
窓ガラスが破裂するほどの絶叫とともに大吾は教師を殴り倒した。馬乗りになり、何度も何度も殴りつけた。今まで抑えつけていた衝動を吐き出すように、自分を支配する怒りに身を任せてひたすら殴り続けた。
やがて抵抗すら出来なくなった教師の返り血で、こぶしが赤く染まった時、教室には大吾と教師の二人だけになっていた。
女子生徒の姿は無くなっていた。
その後、傷害事件として大吾は逮捕された。留置所で数日を過ごし、処分を待つばかりだったが、最終的には不処分となり釈放された。どのような処理が行われたのか、大吾には分からなかったが、高校は退学処分になった。あの時の女子生徒について聞こうとしたが、詳しい説明はなく、地元紙にも「生徒による教師への暴力行為」とだけ書かれていた。
祖父は何も言わなかった。怒るでもなく、失望するでもなく、ただいつも通りに過ごしていた。周りの友人も以前と変わらず接してくれ、本影塾の先輩に誘われて現場仕事もするようになった。
みんなより少し早い社会人になったな、と初めはそう思っていた。
しかし大吾は既に、社会や会社という組織に馴染むことができなくなっていた。
あれ以来、思い出すのだ。自分のたがが外れる瞬間を。
恐ろしかった。何かの拍子に我を忘れて、会社の仲間を傷つけてしまうのではないかと。会社の人たちはいい人ばかりだ。若い大吾にも分け隔てなく接してくれる。だが人間には必ず黒い部分がある。もしそういった場面に直面した時、果たして自分を抑えられるだろうか。この人たちを殺さずにいられるだろうか。
その自信がどうしても持てなかった。
ほどなくして仕事を辞めた。それからは人間関係の希薄な短期の仕事で食い繋ぐようになった。仕事がある日は働きに出かけ、それ以外の日は祖父を手伝いながら、本影塾で指導をするようになった。
そうして師範代と呼ばれるようになった頃から、自警団の真似事を始めた。人を欺く卑劣な行い、弱きをいたぶる不道徳な輩、他者に不利益を強いる慣習。そういったものが自分の目に入るのが我慢ならなかった。
そうした活動を、周囲は好意的に捉えていたが、大吾からすればそれは大きな誤解だった。俺はただ自分のためにやっているだけだ。
しかしそんな思いとは裏腹に、大吾に協力する者は日増しに増え、やがて街は浄化されていった。
そして大吾は出会ったのだ。
あの、いつかの女子生徒と同じ顔をした、
……………
………………………………
……………………
3
「じゃ、早速本題に入ろうかしら」
夕飯を済ませた後、六樹は電子タバコのソケットにスティックを差し込んだ。
「禁煙。忘れたのか」
大吾は、内心でとぐろを巻く感情を飲み込みながら低く言う。
六樹は一度大吾の方に目をやると、再び視線を落として、そのまま準備完了のライトが点灯した電子タバコを咥え、白い煙を吐き出した。
加熱式の電子タバコ特有の、ロースト感のある煙に混じった、メンソールの香りが鼻を突いた。
「……おい」
「うるさいわね、こんなんで死にゃしないわよ」
心底どうでもいいという表情。大吾はその態度に顔をしかめながら黙って席に着いた。
この日、いつものように練習を終えた大吾と七尾が、シャワーを浴びて夕食を取ろうとした時、外でエンジン音を響かせた車が停車する音が聞こえた。そしてそのすぐ後に家のチャイムが鳴らされた。嫌な予感を覚えながら玄関に向かうと、案の定そこには笑顔で手を振る六樹が立っていた。
連絡もなしに訪ねてきたことや、先日、七尾を深夜まで連れ回したこともあり、すぐに追い返そうとしたのだが、六樹は言葉巧みに大吾をいなして本影家の食卓に上がり込んだ。
最初は七尾も夕飯を共にするのを嫌がったが、お土産だと言って、流行りの菓子だの、昨日見ていたという無線イヤホンだのを順々に握らされている内に、何も言えなくなったようだった。
その後、六樹が一方的に喋るだけの夕飯が過ぎ、片付けを済ませた七尾を自室に下がらせて、今に至る。
「それで、本題ってなんだよ」
台所の換気扇で除去しきれない煙を忌々しく思いながら、大吾は机を挟んで六樹と向かい合う。
六樹は電子タバコを置き、部屋の隅に立てかけてあったバッグを手元に引き寄せる。女性ものとしては大きめのショルダーバッグは、平均的な女性よりも身長の高い六樹が扱うと、ちょうどいいサイズに見える。
六樹はその中からクリアファイルを取り出し、挟んであった紙を机の上に広げていった。何かの書類のようだが、どういった内容が書かれてあるのかは一見分からない。しかしその紙が意味するものは、大吾にもすぐに判断できた。
緑色の字で印刷されたその紙を突き出して、六樹は言った。
「離婚して」
「…………」
離婚届。自分の名前の欄が空白になった離婚届を前に、まだそんな関係だったのか、と大吾は視線を落とす。
六樹が家を出て二年。その間どこで何をしているのかも知らなかったし、探して連れ戻そうなんて気力もなかった。夫婦関係などとっくに解消されているものだとばかり思っていた。
大吾は黙って離婚届に名前を書き、その隣に捺印をする。
元々指輪もない二人だ。結婚という契約以外に、互いを夫婦と呼べるものはない。既に失われた愛情と、その時の名残である無機質な書類上の関係。それが終わってしまうことに、今更大した感動は起こらなかった。
六樹はサインを確認すると、離婚届をファイルに戻す。
「しっかし、相変わらず慎ましい暮らしね」
出された湯呑みを、ネイルの目立つ指先で弄びながら言う。
「これもあたしがこの家に来た時から使ってるやつじゃない。こんなのも買うお金もないの?」
大吾は内心で舌打ちをしながら、出来るだけ冷静に言う。
「てめえが
「人聞きが悪いわね。あんたがお金の使い方なんて分からないって言うから、あたしが管理してあげてたんじゃない」
「その結果が、金持って男とトンズラかよ!」
悪びれずに言う六樹に、思わず声を荒げた。
「金のことはいい、男のことも俺はどうだっていい。だが七尾はそうじゃねえだろ! てめえの母親に捨てられた娘がどう思うのか考えなかったのか⁉」
それだけが許せなかった。七尾のことを思えば、それ以外の全てが些末な問題だった。
肩で息をしながら、大吾は激情を必死に抑える。
六樹が出て行って以来、七尾は子供らしい姿をほとんど見せなくなっていた。それまでは甘えたがりだった七尾が、夜中に布団に潜り込んでくることもなくなり、泣き言を漏らすこともなくなり、いなくなった母親の穴を自分が埋めるように、手の回らない家事や塾の手伝いを率先してするようになったのだ。
そんな七尾の姿がどうしようもないほど痛ましく、またそんなことをさせてしまう自分の至らなさが堪らなく悔しかった。
仮初めの冷静さを取り戻した大吾は、呟く。
「てめえに母親を名乗る資格なんてねぇんだ」
「そう」
それだけだった。
「…………」
短い沈黙。その間に流れる換気扇の音が、滞留する煙草の煙を攪拌していた。
時間にして数秒、だがこんな時間もこれでお仕舞いだ。この煩わしいやり取りが終われば、もう面倒に悩まされることも感情的になることもない。離婚が成立してしまえば、六樹もここには用がないだろう。後は大吾と七尾の二人、今まで通りの生活に戻ることが出来る。そうしたら七尾とゆっくり話でもしよう。
弛緩した胸の内で大吾はこれからのことを考える。
だが大吾は気付くべきだったのだ。
この話し合いが始まった時点で、自分の心に余裕などなく、この六樹という女を前にして、本来持つべき冷静さすら失われていたことを。
「それじゃ、ナナちゃんはあたしが連れてくから」
「は?」
さも当然のような言い方。そのまま六樹は、離婚届をバッグに仕舞うと、帰り支度を始めようと立ち上がる。
「おい待てよ、何言ってんだてめえ」
困惑する大吾に、ため息交じりの六樹が、先ほど仕舞ったばかりの書類を広げて見せた。
「ほらここ、書いてあるでしょ」
そう言って指し示した欄にはこう書かれてあった。
妻が親権を行う子 本影七尾
妻が。
その隣にある夫の親権欄は空白になっていた。
「あ?」
頭が真っ白になる。つまり七尾の親権は父親の大吾ではなく、母親の六樹の。
「あんたさ、ちゃんと書類読まずにサインするのやめた方がいいよ」
六樹は広げた書類を畳んでファイルに戻す。
「六樹ィ!」
感情的に声を荒げる。そのまま手が出てしまいそうになるのを必死に抑え、それでも隠しようのない殺意が入り混じった気迫と視線で睨みつける。
しかし六樹は、そんな大吾の視線を意にも介さず嘲笑った。
「アハッ、えらいじゃん。あんた格闘家だもんね、人様に手ぇ出したらその時点で終わりよね」
弱者であることを笠に着た醜悪な笑み。そこには絶対的な強者を嬲る恍惚と愉悦が滲んでいた。
大吾は、顎が割れるのではないかと思うほどに、歯を食いしばる。
またやってしまった。このやり口は以前、祖父の遺産を盗まれた時と同じだった。自分の浅はかさと学習能力のなさに言葉も出ない。
「それじゃ、明日にでも役所に提出してくるから。ああ、ナナちゃんの荷物まとめる時間も必要だと思うから、お引越しは来週だって言っておいて」
そう言って、六樹が廊下に続く襖を開けようとした時だった。
ぱん! と襖が音を立てて勢いよく開かれ、そこには怒りに満ちた表情で顔を赤くした七尾が立っていた。
そして、
「絶対嫌だ‼」
叫んだ瞬間、七尾はほとんど体当たりのような勢いで六樹のショルダーバッグを奪い取り、大吾の静止を振り切ってそのまま家を飛び出していった。
*
七尾は走る。
夜を抜けて、闇を抜けて、暗闇の街をただ駆ける。
どこに向かっているのかも、どこを走っているのかも分からない。それでも今は立ち止まりたくなかった。ここで止まってしまうと、もう二度とあの家には帰れないような気がしたから。
七尾は聞いていたのだ。父と母の会話の、その一部を。
あの時、自室で母に押し付けられた無線イヤホンを複雑な気持ちで弄んでいた七尾は、階下から響いた父の怒号に驚き、こっそりと様子を見に行ったのだ。どうせろくでもない話し合いがされているのだろう、と思いながら耳を澄ませた七尾の耳に入ったのは、母が自分をこの家から連れて行くという、信じがたい言葉だった。
今更どの口でそんなことを。誰がお前となんて行くもんか。そう思った直後、七尾は、はっと気が付いた。あの女の目的が自分ではないことに。
また父さんから奪うつもりなんだ。
お金。愛情。母がそういったものを、父から奪い去ったことは知っていた。父はそういった話を一切しなかったが、両親の間にあったことは七尾にだってなんとなく分かっていた。
七尾は確信していた。
きっと父さんは悪くない。だって母さんがいなくなった後、父さんは夜の道場で泣いていたのだ。
真っ暗な道場で、声を殺して、一人。
父が泣いている姿を見たのは、後にも先にもあの時だけだ。
母さんは、父さんを裏切ったのだ。そんな女に、旦那の下に置いてきた娘と暮らしたいなんて気持ちがあるはずがないのだ。父さんからお金を奪って、愛情を奪って、そして最後に私を奪って、何一つ残らないようにしようというのだ。
込み上げた怒りで顔が紅潮する。握ったこぶしに爪が食い込み、逃げ場のない力が体をわなわなと震わせた。部屋の中では母が、七尾を連れて行く旨を一方的に伝えていたが、最早黙ってはいられなかった。
襖を開いて絶叫し、母に飛びかかった。会話の内容から、何かの書類が関係していると判断して、ショルダーバッグを奪い取りそのまま外へと逃げ出した。
そうして七尾は、冬の夜を無我夢中になって走る。比較的降雪の少ない土地とは言え、冬の空気は引きつるように肌を刺す。呼吸の度に、胸に入った冷たい空気が肺を凍らせ、気道を引き裂いていく。
もうどれだけ走ったのかも分からない。乱れた呼吸に視界が歪み、前に出る足は、ぬかるみに浸かっているかのように重い。限界を感じた七尾は、徒歩へと移動を切り替えた。
「はあっ……! はあっ……!」
口を開けて空を仰ぎ、必死に酸素を取り入れる。体中の筋肉が引きつり、まともに歩くことすらままならない。だらりと腕を下げたまま、よろよろと歩く姿は、暗がりに潜むゾンビかなにかのようだった。
まるで全身に濡れた服を纏っているかのような重たい疲労。ひやりとした風が肌を撫でたが、汗が噴き出すほどに体温の上がった体には、むしろその冷たさが心地よかった。
気付けば、知らない橋に立っていた。それほど広くない川にかかる、アーチ状の短い石橋。なんとなく見覚えがあるような気もするが、多分気のせいだろう。ここがどこなのか見当もつかないが、七尾は自分のやるべきことに目を向けた。
ここまで担いで持ってきた、あの女のショルダーバッグ。
七尾は、ブランドの刺繍が目立つそのバッグを、橋から川へと思い切り投げ込んだ。
ざぽん、と音がしてバッグが水底に沈む。暗くてはっきりとは見えないが、きっと中身も全部使い物にならなくなっただろう。
「はは、やった……」
思わず口元が緩む。これで父さんと私は一緒にいられるはずだ。あの女から家族を守ったんだ。そう思うと、喜びで笑みが零れた。
そうしてポケットに手を入れると、指先にこつんと何かが触れた。無線式のイヤホンだった。七尾がクリスマスに欲しいと思っていたものだったが、あの女に先んじて渡されたものだ。
そのイヤホンもバッグ同様、川に投げ捨てる。
もったいないという気持ちもないではないが、あの女の臭いがするものは手元に置いておきたくなかった。それ以上に胸がせいせいした。あの憎らしい女にしてやったのだ。それを自分の手でやりおおせたと思うと、なんだか誇らしい気分になった。
スマートフォンを見ると、いくつも着信が入っていた。全て父さんからだ。それを見て胸が温かくなった。やっぱり私を想ってくれるのは父さんだけだ。
心配かけたって謝らなきゃ……。
そう思って父に電話をかけようと、画面に触れた時だった。
「君、こんなところで何やってるんだ」
「!」
横合いから不意に男に声をかけられ、七尾はぎょっとして振り返った。
警官だった。
濃紺色の制服のボタンを首元まで几帳面に留めた壮年の男性警官は、七尾にライトを向けて質問する。
「君、未成年だろう。高校生かな? どこの学校?」
七尾の背格好から判断した質問はやや的外れだったが、どちらにしろ行きつくところに変わりはない。いや、小学生だと知れてしまえばその方が問題だった。
今このタイミングで警察に補導されるのはかなりまずい。それは七尾の父が、保護者としての責任を問われることにも繋がる。そうなれば、あの女に付け入る口実を与えてしまうのは明らかだ。
それがどれほどの負い目になるのかは定かではないが、少なくともプラスに働かないことだけは間違いなかった。
逃げるか? しかしこの警官の体格と筋肉の付き方から、短距離走タイプだと見て取れる。さっきまで全力疾走を続けて疲れ果てた体で逃げ切れるはずもない。
様々な考えが七尾の脳裏を駆け巡るが、打開案は見つからなかった。
その内、警官は、黙りこくった七尾に痺れを切らしたように言った。
「まあいい、来なさい。話は署で聞くから」
「!」
七尾は思わず後ずさる。それを見た警官が逃走を警戒して中腰になる。そのまま互いに膠着状態になり、緊張の糸が張り詰めた。
「……………………」
しばしの沈黙。だがそれは、予想もしていなかった第三者によって破られることとなった。
「どうかしたのかね」
はっ、と声のした方を見ると、そこには杖を手にした栢森が、月夜に光る銀髪をなびかせていた。
「あ……」
意外な人物の登場に、七尾が戸惑っていると、先に警官が口を開いた。
「こんばんは、栢森先生。夜分の見回りお疲れ様です」
見知った顔、という風に警官が緊張を解く。
「構わんよ、散歩は年寄りの嗜みだ。それでこれは?」
「はい、未成年の深夜徘徊を発見したので、補導するところでした」
「そうかね」
栢森は警官から視線を外し、七尾を見る。
「それには及ばんよ、彼女は私の生徒だ」
「生徒って……小学生⁉」
驚く警官に栢森は快活に笑う。
「高校生とでも思ったかね? まあいい、彼女は私の方で保護しよう。構わないね?」
かなり無茶のある提案に思えたが、警官はそれをすんなりと受け入れた。
「ええ、栢森先生であればお任せできます。どうぞよろしくお願いします」
それを聞くと、栢森は背を向けて歩き始めた。
あまりの話の早さに七尾は、ぽかんと口を開けて立ち尽くす。
「何をしているのかね、着いてきたまえ」
そう促され、ようやく思い出したように七尾は、杖の音を響かせる栢森の背中を追って、足早に駆けて行った。
4
栢森が立ち止まった家を前に、七尾は思わず空を仰いだ。
閑静な住宅街に門を構えたその家は、周囲の家とは明らかに趣を
木造建築のその家は、日本ではあまり見ることのない急勾配の屋根に、上側が尖ったアーチ状の窓やレース状の飾りといった、ゴシック様式を模した装飾がところどころに散りばめられている。見上げれば、屋根のてっぺんから、にょっきりと生えた煙突が白い煙を吐き出しており、風になびいた煙の束が冬の空に薄れて消えるのが見えた。
それは家というより、館と呼ぶ方が相応しかった。
まるで童話の中から飛び出してきたような洋館は、塔のように七尾を見下ろし圧倒する。
今までこんな建物に足を踏み入れたことは、一度たりとてない。近いものであれば学校の隅にある礼拝堂が思い浮かぶが、外観から人の生活を感じさせるような洋館はこれが初めてだった。
だが、七尾はこの館を知っていた。昨日も、今日も、それ以前からも何度となく目にしたことがある。
授業中、退屈に耐えかねて視線を寄せた窓の外。そこから見える景色の中に、この館はいつも佇んでいたのだ。
「ここって、栢森先生ん家だったんだ……」
学校でもこの館のことはたまに話題になる。すごいお金持ちが住んでるとか、呪われた幽霊屋敷だとか、眉唾物の噂話ばかりだが、まさかその正体が自分の担任の自宅だったなんて。
そう思えば、この辺りの道に見覚えがあるのも納得だ。ここは学校からほど近い場所に位置する住宅街なのだ。
「何をしている、早く入りたまえ」
先を行く栢森が、あんぐりと口を開ける七尾を急かす。
蔓が絡みついたビンテージ色の強い鉄扉を抜けて玄関に向かうと、『子どもひなんじょ』『110番の家』と、大きく書かれたステッカーが、扉の端にいくつか貼られてあった。
どう見ても雰囲気に合わないと思ったが、口には出さずに黙ってお邪魔することにした。
「わあ……!」
館の中は外観に負けず、すごかった。
真っ先に訪れたエントランスホールは、学校の教室二つ分ほどの広さがあり、この館の大きさを感じさせる。天井からは豪奢なシャンデリアが吊られ、白い漆喰で塗られた壁がシャンデリアの光を反射して、オレンジ色の光を優しく部屋中に広げている。
壁には人物画や宗教画といった絵が飾られ、古めかしい調度品──アンティークと言うのだろうか──なども見て取れた。奥に進むと、高級なホテルのような大きな階段が二階に続いており、その先にもゲストルームなどの個室があることが窺える。
栢森は二階には向かわず、一階のエントランスに隣接したリビングルームの扉を開く。そちらにも家の雰囲気そのままのソファやテーブルが設置されてあり、やはり様々な芸術品があちこちに配置されている。その中にはなんだか奇怪な形をした壺や、背筋が凍りつきそうなグロテスクな姿をした怪物の像などもあったが、不思議とこの部屋には温かく落ち着いた雰囲気があった。
その正体はきっと、じんわりと熱を放つ大きな暖炉と、屋敷の中にうっすらと漂う、花や果実の甘い香りによるものだろう。
どこか艶のある青草のような香りが混じった、複雑で不思議な芳香は学校でも何度か感じたことがある。
あれは栢森先生の服や髪に染み付いたものだったんだなと、七尾は非日常の空間に、ぼんやりとそんなことを思う。
栢森は七尾をソファに座らせ、そのままリビングから姿を消す。七尾は手持ち無沙汰になりながら、部屋の絵や置物なんかを見回していたが、美術や芸術に明るくない七尾からするとどれもよく分からなくて、結局最初と同じようにソファで待つことしか出来なかった。
しばらくすると、栢森がトレーを手に戻ってきた。トレーにはお揃いのデザインのポットとカップが載せられ、それぞれ金の刺繍のような意匠が施されている。
「外は寒かっただろう」
栢森はテーブルに受け皿のソーサーとカップを置くと、ポットの中身を注ぎ入れた。ホットココアだ。湯気とともにカップを満たすココアの香りが、暖炉の熱とは違う甘い温もりを部屋中に広げていく。
「さあ、飲みなさい」
「…………いただきます」
七尾はおずおずと、ココアの温もりが移ったカップに口をつける。
「苦っ!」
想像と違う味に思わず顔をしかめた。てっきり甘いものだと思っていたココアはほろ苦く、舌の上にビターな味わいを広げていった。
そんな七尾に、栢森は丸いチョコレートの入った小皿を差し出す。
「甘っ!」
差し出されるままに口に運んだチョコレートはとんでもなく甘く、口の中に残るココアの苦みを強引に塗り潰していく。
「ピュアココアは初めてかね」
目を白黒させる七尾に、栢森は心底愉快そうな顔で言った。
「これは、甘味と交互に楽しむものだ。抹茶のようなものだと思えばいい」
「そんなこと言われても知らないよ、抹茶だって飲んだことないし」
喉を引っ掻く甘さにえずきながら、苦いココアでそれを中和させる。
「先に教えてくれりゃよかったのに」
「驚きとは学びの足がかりだ。その経験が知識となり、また次の学びに繋がるのだ」
「だからって意地悪するのは違うだろ」
「だが現に君はひとつの学びを得た。どこかのお茶会に招かれた折に活かすといい」
「ちぇっ」
上手く言い返すことも出来ず、七尾は言われた通りにココアとチョコレートを交互に味わう。口の中で混ざりあった二つの味が、ちょうどいい塩梅で溶けてゆくのを感じながら、なんだか複雑な気持ちでカップを空にする。
しばらくすると、冷え切っていた頬が、じわりと熱を帯び、体が胃の中から温まるような満腹感でいっぱいになった。
「はあ……」
ため息とともに、七尾は今日の出来事を思い出す。
父のこと、自分自身のこと、そして、母のことを。これから一体どうなるのだろう。あの女はこれで諦めるだろうか。父さんと協力してやっていくしかないのだろうけど、私に何が出来るのだろうか。
様々な考えが頭の中でぐるぐると回転するが、温かく落ち着いた部屋の中では、明確な解決策や落としどころを見つけ出す前に、思考はどこか遠くに飛んで行ってしまう。
「あ、電話……」
そうした中で、七尾は父に電話をしようとしていた事を思い出した。警察に声をかけられたことや、栢森先生に出くわしたことで、すっかり忘れていた。
あれから時間も経っているし、かなり心配をかけたんじゃないだろうか。そう思ってスマートフォンを取り出そうとした七尾だったが、栢森がそれを制した。
「心配はいらない、保護者には既に連絡してある」
「え?」
栢森は口をつけていたカップを置いて、言う。
「学校付近で君を保護したので、後ほど送り届けるともな」
そう言われてスマートフォンを見ると、最後の着信はこの家に入ったくらいの時間で終わっていた。どうやらお茶を淹れに行った時に、連絡も済ませていたらしい。
「あ、ありがとう、ございます」
七尾はおずおずと頭を下げた。
栢森は、チョコレートを口に含んで頷く。
「なにか事情があるのだろうが、こんな遅くに夜道を歩くのは感心しないな」
「……すみません」
「今夜のように、私が君を見つけられるとも限らない」
「はい……」
「今後は深夜に出歩かないと誓えるかね」
「……………………」
答えられなかった。家で起こっている問題を考えると、その誓いを守れるという確信がなかったのだ。取りあえず首を縦に振るか、建前だけでも口にしておけばいいのだろうが、生来の生真面目さがそうすることを咎めていた。
「……ふむ」
俯いたまま黙り込んだ七尾に、栢森は顎を擦る。そうしてしばらく少考してから言った。
「ではこうしよう、行く当てのない夜はここに来るといい」
「え?」
突然の提案に顔を上げる七尾。
「目的もなく、夜道を彷徨うよりはいいだろう。それとも、寒夜に凍えて一人、影を探して回るのが君の趣味かね」
「いや、そんなことは……」
皮肉っぽい言い回しに思わずたじろぐ。
「でも迷惑なんじゃ……」
「かまわん」
七尾の躊躇いを切って捨て、白い老人は言う。
「迷える者がいる限り、この家はいつでも開かれているのだから」
5
ジャー。
トイレの水音を背に、壁のスイッチを押すと、照明が消えて元の暗闇が広がった。
夜の帳が下りた廊下は、数歩先も見渡せないほどの暗がりが、黒い霧のように辺りを埋め尽くしており、今にも得体の知れない何かが飛び出してきそうな気配を漂わせている。
そんな闇の中、都は眠い目を擦りながら廊下に足を踏み出した。
ぎっ、
と、板張りの廊下が小さく軋む。
一歩、前に出る度に鳴るその音は、暗闇に潜む何者かが上げる呻き声のようだ。
都は右目をぴったりと閉じ、左目だけをうっすらと開いたまま進む。
ぎっ、
自分の部屋へ向かう都は、暗がりの中、淀みなく歩を進める。
このマンションに越してからまだそれほど間はないが、廊下を中心に部屋割りがされているこの家は、動線がハッキリしているため、夜間の移動もそれほど苦にならない。壁に手をついてさえいれば、目を閉じていてもおおよその位置は分かる。
そのため、こんな視界が利かない夜中でも、トイレに行って戻るくらいは簡単だ。
ぎっ、
そう、簡単なのだ。
簡単なはず、なのだ。
「………………」
都の足が廊下の途中で止まる。自室まであと数歩もない位置で立ち止まった都は、たった今、自分が歩いて来た廊下をゆっくりと振り返る。
何かの気配を感じたような気がしたのだ。小さな息遣いのような、暗がりに混じる人影のような、そんな気配を。
だが背後には何も無く、ただ真っ暗で無音の景色が広がっていた。
「…………」
無音。
ただ無音。
真っ暗な、一人ぼっちの廊下には、自分のほかに動くものはない。暗闇が全てを食べてしまったかのように音を失った廊下は静かで、それゆえに、きーんという耳鳴りのような無音の音が響いていた。
どこまでも果てしなく感じる暗闇は、まるでそこだけ濃いグラデーションがかかっているかのように、自分の輪郭を浮き彫りにする。自分の存在を、くっきりと感じるほどのその感覚は、まるで何者かの視線が形になって、直接触れているようだ。
だがそれだけだ。感じるものはそれだけで、それ以外には何もない。気のせいだと思ってしまえばなんてことのない、夜の暗がりが生んだ不気味な錯覚というだけだ。
そのはずなのだが、
「…………」
都は、じっ、と暗がりを凝視する。まるでそこに何かがいると確信しているかのように、警戒の強い視線を廊下に送る。
右目を強く閉じたまま、左目だけを薄っすらと開いて、不自然に歪んだしかめっ面のような表情で。
都には秘密があった。
右目の視力が失われてからというもの、この瞳は得体の知れないものを映すようになったのだ。
初めは気のせいだと思った。視力を失ったと言っても、光を感じることはできるし、形は不明瞭でもぼんやりと何かがあるな、と感じ取れるほどの感覚は残っていた。そのため検査入院の間もこの感覚に慣れるために、眼帯を着けずに常に両眼を開けて生活をしていた。
しかし、ある時から、影のようなものが視えることに気が付いたのだ。それは一瞬のことで、その時は気のせいと片付けられる程度のものだった。だがそれは日増しに頻度を増し、やがてはっきりと像を結ぶようになったのだ。
それは人の形に見えた。だが人ではありえないものだった。なぜならそれは、他の人には見えておらず、正常に機能する左目でも全く見えないものだったのだ。
全身を血に染めて叫ぶ女。堤防から何度も飛び降り続ける男。首を吊って目玉が飛び出た子供。ぐずぐずに腐った体を引きずって呻く老人。
それらは至る所にいた。病院にも、学校にも、通学路にも、そして夜の暗がりの中にも。
幽霊だ。直感的に結論づけた。
関わるべきではない、と。
それ以来、都は眼帯をして生活をするようになった。光が眩しいから、と周囲には説明することにした。
わらわやマキに相談するべきかとも思ったが、自分で制御できているのであれば、わざわざ余計な心配をかけることもないと判断した。見ることさえしなければ、あの存在はこちらに関わってくることはないのだから。
だが都は既に気付いてしまっていた。夜道やお墓などで不意に感じるあの、肌が粟立つような感覚が、気のせいではないということを。
いるのだ。あの怖気は、それを肌で感じ取っているということなのだ。
ぞわり、と鳥肌が立つ腕を押さえて、都は廊下を睨みつける。
いる。この廊下にも、何かが。
関わるべきではない。その結論に変わりはない。しかし、家の中で感じたこの不気味な感覚を放置するのは、純粋に気持ちが悪かったし、自分の住む家に何かがいるのであれば、それを確かめないのはなんだかよくない気がした。
「ふー……ふー……」
緊張で呼吸が荒くなる。乱れた吐息に引きずられそうな心を、どうにか理性で押さえつける。
そして都は、閉じていた右目をおそるおそる開いた。
「………」
白く、濁った瞳が露わになった。
視力の失われてしまった瞳。光を感じるばかりの白濁した器官。そして、この世ならざる存在を認識する、異界のレンズ。都は右目を通して、透過された世界を視る。暗闇のフィルターで閉じられた、夜の帳を暴く。
「…………!」
なにもなかった。
白い右目にも、黒い左目にも、映るものはない。あるのはただ、濃い影が伸びる静かな廊下だけだった。
「……はぁ」
内心で張り詰めていた緊張をほぐすように、ため息を吐く。小さく震えた手のひらが、じっとりと汗で濡れていた。
通りすがりの浮遊霊というやつだったのだろうか。
不気味さを感じながらも、何もいなかったことに都は安堵する。
そうして再び歩き出し、自室の扉に手をかけた。
…………ぎっ
足音。
「!」
思わず振り返った。
その足音は、たった今歩いてきた廊下の奥。その暗闇から聞こえてきたものだった。
そして、
じっ…………
と、何者かの視線が、暗がりの中から都に向けられた。
「………!」
それは錯覚などではなかった。ちりちりと焼けつくようなその感覚は、確かに都に向けられた視線そのものだった。それに気付いた瞬間、全身が総毛立った。
視線を浴びた都は動かない。いや、動けなかった。闇の奥に潜む何者かから浴びせられた、じっとりとした視線に、指先ひとつ動かせなかった。
くすくす………
真っ暗な廊下に忍び笑いが響く。子どものような、少女のような、静かな声でそれは笑う。都に向けて不可視の笑みを投げかける。
気付けば周囲の影が深くなっていた。墨汁のように濃い闇は、粘ついたタールのように、べったりと素肌にまとわりつく。温度が数度下がったかのように、冷たい気配が充満する。
「はあ……はあ……」
浅く繰り返される呼吸。白い吐息が立ち昇っては消えてゆく。それ以外に視界に映るものはない。ただ誰かの視線だけが、静かにこちらを見つめていた。
「はあ……! はあ……!」
恐怖に呼吸が覚束ない。視界が歪み、意識が次第に薄れてゆく。平衡感覚が失われ、よろけて壁に手をついた。いや、それは床だった。自分が倒れたことに気が付かず、床を壁だと思ったのだ。
捻じれた視界の中で頭を上げると、自分の周囲をぐるりと覆う壁と床が、真っ暗な闇の中に伸びていた。ぐにゃりと歪む視界には、それが自分を閉じ込める円筒の檻にも見える。
そんな閉塞感の中で都は、ふ、と感じた。
淀んだ水と、冷たい石にこびりつく、青臭い苔の香りを。
放置され忘れられた、溜井戸の空気を。
くすくす……くすくす……
意識が流れるように消えていく。
その中で都が最後に感じたのは、自分の右目から溢れ出す、どろりとした黒い水の感触だった。
……………
………………………………
……………………
*
「都さん、都さん」
自分を呼ぶ声に目を覚ますと、パジャマ姿の祖父が困った顔で、こちらを見下ろしていた。
「こんなところで寝ると風邪を引きますよ」
そこは廊下だった。どうしてこんなところで寝ていたのだろう。
冷え切った体を起こし、フローリングの冷たさに身震いする。
「ほら言わんこっちゃない、また夜更かしして寝ぼけていたんでしょう」
そうなのだろうか、眠る前の記憶が曖昧でよく思い出せない。
「僕がいなくてもお部屋までは戻れますね? ちゃんと暖房をつけて寝るんですよ」
都は、こくりと頷いて、部屋に戻る。
そして祖父の言いつけ通りに暖房を入れて布団に潜り込むと、そのまま朝まで一度も目を覚ますことなく熟睡した。
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