Unveil

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Unveil

 お気に入りの雑貨店を出るとスーザンはスマートフォンを確認した。ダニエルからは午前中の用事が終わったら連絡すると言われている。それまではまだ時間がありそうだ。カフェで乾いた喉を潤そうと通りを歩き出した。

 ここはカリフォルニア州、ロサンゼルスのアボットキニー。自由で個性豊かなストリートカルチャーが息づくベニスビーチから、車で数分の場所に位置する。ロサンゼルスの中でも小洒落たカフェやショップが軒を並べる観光地の一つであるが、サンタモニカなどと比べてローカル色も強くスーザンのお気に入りのストリートである。

 歩き出すと、ノンスリーブの袖から出た肩の上を、空気が撫でるように滑っていく。八月の日差しは強いが、日陰に入ると地中海性気候の乾燥した風が心地よい。

 九月の大学の入寮に入り用な筆記用具や衣類などはまだあっただろうか? と思い巡らしながら歩を進めていると、強い海風が背の高い椰子の街路樹をざわつかせながら脇を吹き抜けていって、思わず瞼を閉じた。

「――ロサンゼルスの夏は、湿気がなくて過ごしやすいよ」

 目を閉じた拍子に脳裏に懐かしい声が蘇ってきた。日本の夏は、湿度が高くて茹だる様な暑さだと彼は言った。

 父親の転勤でロサンゼルスに三年半ほど住んでいた。こちらのミドルスクールを卒業し、日本の高校入学のタイミングで帰国した二歳年下の元恋人……。

「ヒロキ……」

 ヒロキが帰国する時、お互いに前に進むために別れるべきであると、納得して自分から別れを告げた。あれから耐えがたいほどの感情の波を何度も乗り越えてきた。しかし未だにふとした瞬間に面影や声が蘇り、そんな時には胸の内側からジリジリと傷が焼かれる。

 ――別れを告げた時に見せた、寂しそうな瞳。最後に交わした唇の感触――、……。

 乾いた風が再び通りを吹き抜けて長い黒髪を靡かせたとき、スーザンは我に返ってゆっくりと息を吐いた。

 時間は乾いたビーチの砂のように、掌からさらさらとこぼれ落ちていくというのに。ふとした瞬間に記憶が舞い上がっては彼女をたちまち取り囲んで、その断片がリフレインする。



 この五月にハイスクールを卒業して、ヒロキの言った「茹だるような暑さ」というアジアの夏を初めて体感した。自身のルーツを確認しておくのも悪くないだろうと、母の提案により二人で上海に旅をしたのだ。

 スーザンは中国系アメリカ人四世であるが、すでに現地に懇意の親戚もおらず、まだ中国の地を踏んだことはなかった。

 上海は通りを歩けば空気中の水蒸気が絶えず肌に張り付いて、どれだけ息を吸っても酸素が足りないような蒸し暑さだった。それに加えて路地では屋台の蒸し篭からジューシーな肉の匂いと、どこからか澱んだ水のような独特な匂いが漂っていて鼻腔を濁らせた。それは街全体に充満して、人の営みのエネルギーのうねりのようなものと一体となって圧倒させられたものだ。

 その経験を通してスーザンは、自身のルーツというよりも、母の内面に宿るエネルギーのルーツを、ようやく掴めたような気がした。

 自身は母国は?と問われれば疑いもなくアメリカと答えるし、紛れもなくアメリカ人であると自覚している。上海の地を踏んでも、外見の近似などの血のルーツを感じはすれど、その土地に自身のアイデンティティを見出すことはなかった。

 ――しかし、このアメリカ人としてのアイデンティティは、もしかしたら母の努力の上に築かれた賜物ではないだろうか?

 祖父母の話によれば、母は幼い頃から生まれながらの闘争本能を発揮し、必死に勉学と仕事に励み、アジア人女性という今よりももっと過酷であったはずの“ハンディキャップ”を乗り越えて企業コンサルタントとして成功している。

 彼女はチャイニーズのネットワークの中だけに留まらず、アメリカの社会の中で、アメリカ人としてのし上がり成功したのだ。

 自身がアメリカの社会の中で、何の疑いもなくアメリカ人として溶け込んでいられるのは、母がむしゃらになって積み上げて達成してきた土台があるからなのかもしれなかった。

 母はスーザンが小学校の時には実父とのすれ違いから離婚をして、前々から親交のあったラテン系の弁護士の継父と再婚した。

 母は仕事以外にも交友関係も活発で、人一倍バイタリティ溢れる女性なのだが、自分の仕事の忙しさからスーザンのケアは祖父母やヘルパーに頼り切り、胸の内の寂しさは募っていった。継父はスーザンに対してもつかず離れず、よい距離感で見守ってくれる父ではあったが、休日ですら社交に勤しむ両親を〈ブルジョワ社交アニマル〉と心の中で毒付くようになったのも、無理のないことだった。

 幼い頃から母に「親と子の人生は全く別の物よ。私は私の人生を生きるから、あなたはあなたの人生を生きなさい」と言われ、自由に――受け取り方によっては突き放されて育ったせいで少し大人びていたのだろう。ミドルスクールに上がると、ませた男の子達が声をかけてくるようになった。

 そのうちの何人かの男の子と興味本位で付き合ったこともあるが、見た目はクールに決めていても、仲が深くなるにつれて相手の子どもじみた部分や傲慢な部分が垣間見えて興醒めしてしまった。

 ヒロキに出会ったのは、そんな恋愛ごっこに飽き飽きとしていた、ハイスクール一年の頃だった。


 家の近くのスケボーパークで見かけた時、ストリート系の服を爽やかに着こなしていて、育ちの良さを感じさせた。悪く言えばその場の空気に馴染んでいないのであるが、それに気後れすることなく、一人で黙々と練習に励んでいた。その姿に学校の男の子とは違う素朴さや芯の強さを感じ、惹かれた。

 その後も度々パークに訪れてヒロキを見つけると彼を目で追っていた。恐らく年下だろうと思っていたが、話しかけてみるとやはりミドルスクールの二年生で二歳年下だった。

 間近で見る栗色の瞳は人を気軽に寄せ付けない鋭さがあり、それでいて穏やかで柔らかく、奥底には少しの寂しさを滲ませていて、一目で心をつかまれた。ようやく、ずっと探していた、パートナー――孤独な片割れを、見つけたような気がした。

 ヒロキは小学生の頃に最愛の母親を急な病気で亡くしていた。それを聞いた時、私が彼を守ると、強く思った。愛情、というものが湧いてくるのを感じたのは、それが初めてだった。

 思えば、“母親”というものに強い思慕を滲ませていた点において、二人は共通していたのかもしれない。

 しかし、喪失と欠乏という点で、それは明らかに相違していた。

 互いの家に行き来するようになって顔を合わせる事が増えると、ヒロキは言った。

「こんなこと言ったら怒るかもしれないけど、俺はスーザンのお母さん、すごくかっこいいと思うよ」

 かねてから母に対する不満を漏らしていたスーザンは、ヒロキの発言を受け入れることはできなかった。

「どうして?」

「すごく自由っていうか、自分の人生を真っ直ぐに生きててかっこいいなって。俺の母さんは、俺が産まれる時に仕事を辞めたらしいから。本当はもっと色々やりたい事あったんじゃないかな。……母親のキャリアと時間を俺が奪ってたのかなって……。今更だけど」

「でも、あなたのお母さんはとても幸せだったと思うわ。あなたの近くにいる事を、彼女自身が選んだのだと思うし」

「うーん……。でも、自分のせいで母さんがやりたい事出来なかったんじゃないかって思うと、悔しいよ」

 そう語るヒロキからは、母親から深い愛情を与えられていたという事実が如実に見てとれた。溢れるほどに―― その存在を失ってなお――注がれていた愛情を、心底、羨ましいと思った。たとえそれを失ったとしても、与えられないよりは、ずっとましだと。

「あなたのお母さんはあなたにたっぷり愛情を注いでいたから、そう言えるんじゃないかしら。私の母は、違うわ。あの人は私のことなんかどうでもいいんだから」

 多少口調が強くなってしまったが、ヒロキは気にすることなく笑って返した。

「でもさ、どうでもよかったら普通、俺に直接あんな事言う?」

 ヒロキの言っていることが何のことかは、すぐに分かった。

「あの人、避妊のことだけはうるさいのよ。私だってまさかあなたに直接言うとは思わなかったわ」

 ヒロキを自宅に招いた時に、母から食事中懇々と避妊の重要性と望まない妊娠がどれだけ多くの女性を苦しめているかについて説かれたのだが、その事を掘り返されたのだ。

「でも、それは娘の人生ために絶対に譲れないことだからだろ? どうでもいいと思ってたら、そんな事俺に言わないよ」

「あの人、女性の権利に関しては熱くなるから。……それに、きっと、自分が後悔したんじゃない? 子供を持ったこと。だから……」

「そんなことない――」

「あの人は子供よりも自分の人生を優先する人なのよ。――ごめんなさい。やめましょう、もうこの話は」

「…………」

 その時は、困ったように黙り込んだヒロキの顔を見ることができなかった。

 ヒロキが自分と母親との間に空いた溝に、だれよりも心を痛めてくれていたのは分かっていた。ただ、感情が追いつかなかった。

 あの人の生き方も、切り拓いてきた人生も、確かに尊敬に値するものかもしれない。しかし、もう少し、母として一緒にいて、こちらを見ていて欲しかった。そしてそんな幼少期からの思いは、心の奥底に沈んで、彼女の自意識の中に消えることのない小さな深い空洞を作り出していた。

 今もその思いには変わりはない。しかし、あれから時が経ち、ふと社会を客観的に見渡してみると、この人種差別や女性差別が根強く残るアメリカという男性中心の資本主義社会で、母が自分との時間を犠牲にして、他の男性と同等に――いや、それ以上に、多大な時間を注ぎ込まなければ、道を切り開き、現在の成功を手にすることはできなかっただろう。その矛盾は、母の責に帰すべきだろうか?

 そう考えると、自分が抱えていた孤独や葛藤は、この社会構造自体の問題ではないかと思えてくるのだ。ヒロキの母親にしてもそうだ。キャリアを断念したのは、決してヒロキのせいではないはずだ――。

 母と二人で行った上海の最終日の夜、そんなことを語り合いたくて、連絡先からヒロキの番号を画面に表示した。

 しかし結局通話ボタンを押すことはなく、そんな未練を断ち切るために、ヒロキの連絡先を消去した。




 アボットキニーの中でもお気に入りの街角のカフェに着くと、やはり長期休暇なだけあって店内は観光客らしき人々も多く賑わっていた。

 座る場所があるか確認するため、店の横の路地のテラス席を見に行くと、二つほど先の席のノートパソコンを開いているアジア系の青年に目が留まった。白いティーシャツが路地に映えていて、なぜかとても馴染み深い雰囲気の青年だと思った。

 その瞬間、街の騒めきが消えて時間が止まった。


 ――まさか……? しかし、見間違うはずはない。


 スーザンは引力に吸い寄せられるように、その青年の元に歩み寄った。彼の前に立ち、久しく口にしていなかったその名を呼ぼうとすると、胸の辺りでごろりと熱い空気が詰まったようになり、吐き出すまでに数秒を要した。


「……ヒロキ……?」


 ヒロキは顔を上げてスーザンと視線を合わせると、目を大きく見開いて立ち上がった。

「――スーザン……!」

 スーザンは立ち上がったヒロキを見上げた。表情は相変わらず純朴で穏やかだが、目元は少し凛々しく精悍になり、肩や胸周りの骨格も当時より青年らしくなっている。身長も、別れた時から比べるとまた伸びたようだ。

 ヒロキは首元に手をやって(――昔から、困った時にする仕草だった)言葉を探している様子だったが、空白の間を埋めるように口を開いた。

「あー……、元気?」

 ようやく口にした言葉はなんだか拍子抜けするほど間が抜けていて、いかにもヒロキらしいと思えた。

「どうして、ここにいるの?」

「親父がロサンゼルスに呼び戻されて働いてるんだけど、夏休みで遊びに来たんだよ」

「ヒロキは、日本の学校に通ってるのね?」

「うーん。まぁ、そうだね。話せば長くなるんだけど……。とりあえず座りなよ。何飲む?俺、買ってくるよ」

「そんな、自分で買ってくるわ。ここで待ってて」

 立ち上がろうとするヒロキを制して店内に向かって行き、振り返るとヒロキの後ろ姿が目に入った。

 日に焼けた首元に浮く黒いほくろ……。よく知っている。彼の癖も、身体の特徴も。

 スーザンは喉の奥につかえていた熱い空気をゆっくりと吐き出した。


 ベリー系のスムージーを持って席につき、スーザンが一口それを含み一息ついたところでヒロキは口を開いた。

「実は俺、学校、辞めたんだよ」

「えっ?」

 唐突な洋樹の言葉にスーザンは顔を上げた。

「やっぱりなんか居心地悪くてさ。耐えられなくて辞めた。それで通信制に転入して、水族館でアルバイトしてるんだ」

 そこに至るまでには色々な悩みや葛藤があったのだろうが、彼はいつもそういった類のものは微塵も見せずに飄々と語る。

 集団行動が苦手なことは以前から承知していたが、学校を辞めてしまうとは。

「お父さんはLAにいるんでしょ? こっちのハイスクールに入ることは考えなかったの? ――その、こっちの大学に入るなら、ハイスクールも州立学校を卒業した方が入学が簡単なはずじゃない?」

「まぁ、そうなんだけど。アルバイトが楽しいからね。色々学べることも多くて。家の近くや水族館の生物や生態についても色々勉強してるんだ」

 ほら、と差し出されたスマートフォンを覗き込むと、海洋生物の写真や観察日記などが、日本語ではなく英語で書かれたサイトが表示されていた。

「これ、ヒロキが書いてるの?」

「そう、英語の勉強にもなるし。大学はこっちの学校に入ろうと思ってるから」

「もしかして、カリフォルニア大学?」

「いや、工科大学の方。テクノロジー以外にもサイエンスや基礎研究にも力入れてるから、自分には合ってるかなって。狭き門だけど」

 そういって頭を掻くヒロキの目はとても活き活きとしている。

「ヒロキなら絶対に入れると思う。応援してるわ」

「スーザンは?」

「九月からカリフォルニア大学のバークレー校に入るわ」

「おめでとう」

「ヒロキ、変わらないわね。とても、充実しているみたい。目が輝いてる」

 ヒロキは「そう?」と首を傾げる。

 こうして話していると、体に良く馴染んだ空気が二人の間に流れてくる。

 ふいにテーブルに置かれたヒロキの手に、触れたくなった。

 スーザンは自身の内側からじりじりと焦がされるような熱が蘇るのを感じ、スムージーを一口含んだ。喉から胸元にかけてひんやりとそれが滑り落ちていくのを感じながら、ヒロキに気づかれないように静かに長い息を吐いた。

 その存在を前にすると、折り合いをつけたはずの感情が昂っていくことを思い知らされてしまう。その確信はスーザンをひどく困惑させ、焦らせた。

 ――それにもし、ヒロキがまたこちらに帰ってくるのだとしたら……。

「ヒロキは今、付き合ってる人はいるの?」

 ヒロキは一瞬動きを止めると、ん――……と唸った。

「まだ付き合ってはいないんだけど……」

「好きな人はいるのね」

「うーん、まぁ、……」

「ヒロキの好きな人ってどんな人なの?気になる」

 スーザンが尋ねると、ヒロキはまた唸って空を仰いだ。ヒロキの視線が想像の中のその人に向けられていると思うと、ざらりと胸がひりつくような気がした。

「やたら気が強くて自信家なんだけど、嫌味がないっていうか……変な人だよ」

 ヒロキはそう言って苦笑した。気が強くて、自信家――。その言葉に、なぜか母の顔が思い浮かんだ。

「そっか……。その人と上手くいくように、祈ってるわ」

 動揺で声が震えそうになるのを隠すようにスーザンはにっこりと笑った。

 と、その時、手元のスマートフォンが小さく震えた。画面を見ると、ダニエルからのメッセージが入っていた。

「そろそろ行かなきゃ。これから彼と待ち合わせなの」

「そうなんだ。どんな人?」

「うーん、……陽気で、明るい場所に導いてくれる人、かな」

「そっか。よかった」

 ヒロキは短く答えると、屈託ない笑顔を向けた。


 その後ヒロキも店を出るとのことで、ともに席を立つと、ヒロキは道の駐車スペースに止めてあるバイクに向かった。アメリカ大陸をバイクで走るのが夢だったので、レンタルしてこれからまた少し走るのだと言う。

 ヒロキがバイクにまたがると、スーザンは伝え残していた思いを、なんとか伝えられないかと言葉を紡ぐようにして話し出した。

「ねぇ、ヒロキ。最近自分のキャリアを考える中で思ったんだけど……あなたのお母さんがキャリアを断念したのは、やっぱりあなたのせいではないわ。家庭をケアしながらキャリアを積むのが難しい、この社会や企業に問題があると思うの。私の母にしても、家族を犠牲にする働き方をしなければ、今の地位を築けなかったんじゃないかって……。だから、大学では社会学やフェミニズムを通して、女性や子どもが犠牲にならない社会や企業の在り方を考えたいと思ってる」

 近頃考えていたことが、話し出すとこんなにもすんなりと言語化されるものかと自分でも驚くほどだった。こんなことはダニエルにも話したことはない。

「少し話が長くなってしまったけど……つまり、あなたが自分を責める必要なんて少しもない」

 黙ってスーザンの言葉を聴いていたヒロキは、ツーリング用の手袋を外すと手を差し出した。目の前に差し出された手を握り返すと、

「ありがとう。今日、会えてよかった。応援してるよ」

 と、ヒロキは握手の手に力を込めて言った。

 バイクで去っていくその背中を見送っていると涙が溢れそうになるのを、唇を噛んで堪えた。

 彼はもう手の届かないほど前に進んでしまったというのに、自分だけが過去の幻影に囚われているような気がする。

 その時、再びバックの中でスマートフォンが鳴った。スマホの画面を確認して通りを見ると、ダニエルが運転席から手を振っていた。


「やぁ、随分と暗い顔してるじゃないか。もしかしてさっきの爽やかイケメンバイク野郎が、元カレのヒロキ君?」

 助手席のドアを開けるなりダニエルは揶揄うようににやっと笑った。

「見てたの?声もかけずに、悪趣味ね」

「彼が立ち去るちょっと前に着いたんだよ。まぁ、ハグなりキスなりしてるようだったら飛び出して行ったかもしれないけどね」

「あなたにそんな権利、ないじゃない」

「はは!まぁ、そうならなくてよかったよ。とりあえず乗りなよ。話はたっぷり聞くぜ?」



 聞いてもらいたいわけではなかったが、ダニエルに尋ねられるままにヒロキとの会話を振り返っていると、重く沈んでいた気持ちが徐々に回復してきた。

 先ほどのヒロキとの再会がもはや遠い夢物語のように感じられ、現実に帰ってきたような安心感がある。

 ダニエルはこの秋入学する大学の学生で継父の法律事務所のインターン生として何ヶ月か実習をしていた。その時に大学の案内や受験、入学の相談相手として紹介された。知り合ってかれこれ半年くらいになるだろうか。

「……で、彼に好きな人がいて、悔しいから彼氏がいるなんて言ったのかい?もしかしてそれって僕のこと?光栄だなぁ」

 助手席に座るスーザンに、ダニエルはハンドルを握りながら揶揄うような笑顔を向けた。

「彼氏、とまでは言ってないわ。仕方ないじゃない。ヒロキに変な気がかりを残したくなかったのよ」

「やれやれ……。君はとんだ嘘つきだな。彼に僕から伝えといてやろうか?『ヘイ!ジャパニーズボーイ!君への未練のせいで彼女はまだ手も握らせてくれないんだぜ』って」

「それは、ヒロキのせいではないわ。あなたみたいな軽くて浮ついたタイプ、私の好みじゃないってだけで」

「……あのさ、一つ聞いておくけど、僕にも傷付くハートがあるってこと、知ってた?」

「それは意外だわ」

「……オーケー。君の好みの指数においては、彼にはどうやら敵わないと認めよう。だけど、一つずば抜けて優っているものがあるかも知れないぜ」

 スーザンが訝しげな視線を向けると、ダニエルはニィッと笑顔を向けた。

「君を、そんなに哀しそうな顔にはさせないってことさ」

 見え透いたキザな台詞に、スーザンは呆れて窓の淵に腕を乗せ頬杖をついた。

「そう言うと思ったわ……」

「でもさ、人生ってのは生まれた時から死に向かって歩いてるんだ。もともと儚く切ないものだろ?日常を喜劇的に歩める相手こそが、運命の人だと僕は思うけどね」

「それだったら、あなたみたいな陽気な人は誰とパートナーになってもいいってことになるんじゃない?」

 ダニエルは少し考えると、キッパリと否定した。

「いや、違うね。僕の楽天的な大らかさは、君のような辛辣さの前でこそ一層輝くんだ。君のやたら辛辣なところも僕と一緒なら、ほら、コントのようにコミカルになる」

「私は、あなたとコメディアンになるつもりは全くないわ」

 スーザンは極めて冷淡に応答したが、ダニエルは突然噴き出して、脇腹をくすぐられたようにからからと笑い出した。

「君って最高!」

 スーザンは可笑しくてたまらないというように笑い続けるダニエルから目を逸らしてため息をつく。

「あなたって、とんでもない自信家か、マゾヒストかのどちらかね」

「どちらもだよ。特に、君の毒には胸の底からゾクゾクしちゃうね」

 ダニエルはおどけて肩を震わせるような仕草をすると、それにさ、と付け足した。

「君は大して信頼していない相手にそんなに辛辣な態度は決して取らないと思うな。適当に合わせて楽しそうに振る舞うだろう?」

「…………」

「とにかく、今日は君の二度目の失恋記念日だ。とことんまで付き合うぜ。……ってことで、サンディエゴまで、どう?」

「それじゃ日を跨ぐことになるわ」

 ダニエルは仰々しく咳払いを一つすると、生真面目な顔を作って胸に手を充てる。

「ご明察。僕はそれを、心から望んでいるんだけど」

「オレンジカウンティで食事をしたら家まで送って」

「……ちぇ、つれないなぁ」


 その時ふと上海の最終日の夜、シャンパンを前にして含み笑いをする母の顔が思い浮かんだ。

『ダニエルとは最近どう?』

『別に……どうもこうもないわ』

『あなた、どうせまだヒロキのことが忘れられないんでしょう?』

『…………』

『可愛くて賢明な子だったものね。心配していたのよ。いつになく入れ込んでいるみたいだったから』

 母の言葉に苛つきを抑えられず、スーザンは語気を強めた。

『別れてよかった、て言いたいの?』

『そんなにムキになるってことは、まだ引きずっているのね』

『……自分の娘で遊んで面白がらないで』

『言ってるでしょう?心配しているのよ。恋愛に関していえば、相手に入れ込みすぎるのはよくないわ。ある程度の距離感が必要なのよ。情熱に縛られては、相手のことも、自分のことすらも見えなくなってしまう。こんなことあの時あなたに言っても、反発するだけだったでしょうけど』

 そうして母はシャンパンを口に含んでことり、とグラスをテーブルに置いた。グラスに注がれたシャンパンの気泡は規則正しい隊列を組みながらグラスの底から水面へと浮上する。

『でも、そうね……、忘れられない人の一人や二人いた方が人生、深みが増すってものよ』

 そう言って笑う母の目尻には、長い皺が刻まれていた。

 がむしゃらにキャリアを積み上げ、人生を切り開いて全てを手に入れたように見える彼女にも、心の底から望んでいても手に入れられなかったものが、あるのだろうか……――。

 掌の中の記憶はいつかほとんどが溢れ落ちて、モノクロ写真のように風化していくのかもしれない。でも、きっとふとした時に鮮明に現れて、痛みとともに甘い感傷を甦らせるのだろう。

 窓を流れていく空をぼんやりと眺めていると、隣から何やら陽気な口笛が聞こえてきた。振り向くとダニエルと目が合い、おどけたように器用に片眉を上げて、反対の目でぱちっとウインクをした。その仕草がおかしくて思わず苦笑し、再び空を眺めた。

 

 ねぇ、ヒロキ。あなたとの日々がとても愛おしい。だけど――



 ――Good bye. My precious.

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