1 シリウスの欲しいもの 1

 繁栄と喧騒。行き交う馬車が、道路の土砂を容赦なく飛ばす。路肩に座り込む者たちに、土砂と馬の糞尿がかかる。一つ裏の路地に入るとこれだ。雨上がりはいつもこうだ。ルカは茶色い汚れに戸惑う子ども達に近寄る。

「……大丈夫?」

 子ども達は無言だ。子ども達は瞳を開いているのだが、それは何を映しているのか。ルカにはわかりかねる。虚ろで、拒絶的。今この時、子ども達に自身が認識されているのか、それすら不確かだ。

「……ねえ、答えてよ」

 頬の汚れを丁寧に拭きながら、ルカは更に声をかける。だが、言葉が帰って来ることは無い。背の高い建物が増え、路地はほの暗い。特に雨上がりの曇った夕方は石炭を燃やす煙が力を授け、さらに暗い。

 ルカの白いハンカチ。綿で作られた上質なハンカチを見た周囲のチンピラが、物騒な物を持って寄ってくる。

「おいおい、お兄さん。ガキ共に恵むくらいなら俺に金目のものを置いていきな」

 汚い笑みを浮かべ、ナイフをこちらに向けてくる。生気のない瞳をしていた子ども達はすぐに立ち上がり、その場を去る。危険が迫っていると認識し、行動に移す。逞しく生きているようだ。ルカは男の発する異臭に鼻が曲がりそうである。

「……」

「おらおら。どうせどこぞの貴族のぼっちゃんだろう。こんなところに一人で来たのが間違いだったな。金目のものをよこすなら命だけは助けてやってもいいぜ」

 男はナイフをルカの頬に近づける。ルカは目を細める。

「……危ないなあ」

「おいおい、ぼっちゃん。危ないどころじゃねえぜ」

 男の黄色い歯が近づく。ルカはナイフよりもそちらが恐怖であった。

「……」

「お前、自分がどういう状況だかわかっていないなあ。身体にわからせてやらなきゃいけないか?」

 恐怖に震えていないルカの様子が、男にとっては不服であるようだ。ふとルカは自身のコートの裾に視線を向ける。茶色いが泥がついている。先ほどしゃがんだ際についたのだろう。汚れには無頓着のルカだが、小言を言ってくる兄の顔が浮かび苦笑いをしている。男の怒りは頂点に近づく。

「おら、さっさと金目のものを出せ」

「嫌ですよ。近づかないで下さい」

「……なんだとこら」

「そんな危ない物を、ただ通り過ぎた人に向けるなんて野蛮です。あの子ども達だって表さないだけで恐怖を感じているんです。生活に困っているのなら、しかるべき場所に出向いて支援を仰いでください」

 ルカはまっすぐ男を見ている。眼前にあるナイフではなく、男の目を。

「……てめえ!」

 男は怒りのあまりナイフを振り上げ、ルカに向けて勢いよく下ろす。

 そして、周囲に甲高く響き渡る金属音。男は衝撃のあまりしびれた手からナイフを落とす。ルカと男の間には、手垢一つなく、銀色に輝く長剣。長剣を握りつめるのは、白い美しい手だ。持ち主が口を開く。

「まだ続けるか?お前の無傷は、保証できねえけど?」

 暗い路地を照らす、聞き心地のよい声。ルカはこの声が大好きなのである。

「くそ!」

 古今東西、小物の悪役が吐き捨てていく台詞を堂々と残し、男は闇の中に消えて行った。力量を図る程度の能力はあるようだ。無駄な争いが始まらないことを、ルカは喜ぶ。

「シリウス、ありがとう」

「……ぎりぎりまで見守っていたがな、ナイフ持っている男にすごむなよ……命がいくつあっても足りないぞ」

 シリウスはそう言うとため息をこぼす。短髪の黒髪、そしてはっきりと相手を見据えるまなざし。視線を向けられたルカは満面の笑みを浮かべた。それはもう、にっこりと。

「その通り。だからやっぱりシリウスは俺と一緒にいなくちゃね」

「……」

 ルカの言葉に対するシリウスの感情は、その表情から読み取ることは出来ない。ルカはお構いなく話を続ける。

「今だって、シリウスがいなかったら……きっと死んでいたよね」

「……俺がいなかったら、そもそもお前はこんなところには来ない」

 シリウスの言葉に、ルカは肩を落とす。

「……そうかも」

「出かけるなら、もっと安全なところを選べ。そして、こんな暗い路地に入るな。目的地に着くまで馬車を降りるな」

「はいはいはい。ねえ、路地が駄目なら……どこか郊外でシリウスのイゾルテ『アルテミス』に乗せてよ」

 シリウスは口をあんぐりと開ける。

「どうしてそうなる」

「俺、『アルテミス』が大好きだから!」

「……」

 ルカが『アルテミス』を好んでいるのは知っている。そして、シリウスもまた、ルカと共にイゾルテ『アルテミス』を乗り回す一時は心休まる時間なのだ。

「そうだな……今度、建設中の帝都縦断鉄道の工事でも見に行くか?建設現場周辺は常に工事の騒音が響いているから、『アルテミス』の音も迷惑にはならないだろう」

 イゾルテ『アルテミス』は起動すると轟音を響かせ、風を切り、地面を駆け抜ける。現在活動している帝都中心部で起動するわけにはいかない。

「やったー!いつがいいかな。今度の集会が終わったら、長めの休みがあると思うんだよなあ」

「また信者が集まるのか。金の民は集会が多いな」

「最近、さらに増えているよ。メイジーが帝都の各地で歌を歌うようになってから、信者が爆増。今はもう五千人くらいいるらしい」

「すごいな。一大勢力だ」

「うん。だからいろいろ忙しいんだよ。でも俺、てきぱき働くね。シリウスと鉄道見に行くの……楽しみだから!」

「……ああ。俺も、楽しみにしている」

 シリウスの口元がほころんでいる。ルカはその様子を見て、シリウスの感情を読み取る。

「そろそろお腹が空いてきたし……何か食べに行こうよ」

「そうだな」

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