31. 血に縛られし者たち3

 ぐん、と。襟首を引かれて空いた空間に槍は突き抜け、地面に亀裂を走らせ、その衝撃で掻き消えた。それが遠のく、滑るように流れる視界の中、クラムはついに快哉の声をあげ、振りむいた。己の襟首を噛み、子犬のように運ぶのは揺らぐ影の狼であり——その先で、砕け散った光粒の中に、槍の磔から解かれた影の男が頽れていた。その許へとたどり着き、すぐさま消えた狼に勢いを殺せず、よろけるようにクラムはディアンの元に膝をついた。


「やっ、……と壊れたか!! よしじゃ逃げようぜ!」

「——逃げてどうする」

「あ? 決まってんだろ、俺と流しの猟兵やんだよ。取り分は俺九、あんたが一な。それぐらい迷惑料貰わねえと割に……」

「私が、憎くはないのか」

「……まだなんか、三百年前がどうこう……あのなあ!!」


 ディアンの背を支えながら、クラムは横目に英雄を見やり——彼女はヒミンの要たる心臓を押さえ、咳き込みながら膝をついている——油断なく目を離さぬまま、苛立たしく言い募った。


「だから俺は、先祖なんて知らねえの!! 関係もねえ!! だいたいな、はっきり言って——俺が憎いっつうなら、銀眼だからって散々爪弾きしくさった連中だよ!! 兵士諦めてもまともに働けねえで、どんだけいらねえ苦労したことか……!!」


 英雄もまた、こちらを見ている。暗がりの中にある銀眼の輝きが、執念であるのか、怒りであるのか、誇りであるのか分からないが——クラムは辛く、己の銀眼を顰めた。そのどれもが、己の眼に無いものだ。かつての、珍しくもない己の茶の眼には憧れだけがあり——それが抜け落ちただけの銀眼になった。


「ただな、もう今ならわかんだよ……俺は、運が悪かった。目の前に銀眼の英雄さまが居るんじゃもう、しょうがねえだろ。言い訳できやしねえ……」


 頼むから立ち上がらないでくれ、とも、どうか立ち上がってくれ、とも。双方の感情でクラムは英雄を見つめ——瞼を強く閉じ、開けた。


「銀眼にだって可能性はあって——俺にだって、まだ選べる。あんたが居れば、俺だけじゃ間に合わない時にだって間に合う……現に俺たちは、間に合ったんだ」


 クラムはディアンの眼前に回り込み、その両肩を押さえて——淡い金眼を鋭い銀眼の視線で打ち据えた。瞼を臥せようとする金の瞳を許さぬように、肩を強く揺るがせて。


「いいか!? あんたがボケて間違えてたとしても! あんたは『俺』を助けたし、『俺』もあんたを助けてんだよ!!」


 哮る声に金の瞳が見開かれ——ディアンの身が、魂が震えた。今、本当の意味で、初めて——彼にクラムの言葉が届いていた。


「どうしても命が要らねえんなら、俺が要るからよこせ!!」


 とう奪われた営みの。

 その続きが。


「血を吸え!! ディアン!!」


「俺と来い!!!!」


 在る筈の無かった続きが、連綿と紡がれ。

 今、己に手を伸べている。


 望外の感情に胸の詰まり——唇を震わせ。咢を開き。

 吸血種は、その人間の血を吸った。 




 その一瞬前には、クラムは一応、気づいたのだが。


(あ)


 だが既にディアンの牙は首元深くに入り、痛みが奔り——クラムは安らかに気絶した。




 酷使し、逸りすぎた心臓の落ち着き……萎えた脚に漸うと力の戻り。立ち上がった英雄は——リムハ・アルはその光景に、兜の内で吐息の笑いを洩らした。


「……そこはこう、一緒に立ち向かうものじゃないのかな……しまらないなぁ……」

「誓う」


 独り言であった言葉に、思わぬ返事があり。彼女は思わず声の主を見た。——月明りを背負う影の中に力ある金眼の輝き。地に落ちた影法師は静謐に燃え揺らぎ、溢れんばかりに充ちた力が見て取れるようだ。しかしその吸血種には勝ち誇る様相もなく——クラムを抱き支えるまま、言葉を続けた。


「ディアン・ノスフェルグとして、誓う。善き民を害さない。二度と——新たに戦士を生み出すことは、しない。この者が私の最後の、眷属であり——守るべき最後の主だ」


 そして、——己に向かい深々と頭を垂れる吸血種に、彼女の瞳は見開かれた。


「見逃して欲しい。これ以上、彼も、お前も、傷つけたくはない」


 ……およそ吸血種のする仕草ではない。驚きもあったが、何よりも……心を抉られる痛みの中で、リムハ・アルは懸命に微笑を湛えた。


「……きっと、そうなんだろうな。あなたは、きっとそうしてくれる」


 彼女は歩み出す。吸血種の視線を感じながら、しかし、邪魔はされまい——そう確信のあるまま、彼女は王猫の亡骸へと歩み寄っていく。


「彼は私を買いかぶってくれたが……実際、私はこの眼のせいで排斥されたことはそう無いんだ。灰甲冑の、良い里親がいたからね。でも、銀眼であることにどれだけ割を喰ったか分からないやつが、そうまで信じるんだ。あんたは本当に、善い者なんだと思う」


 やがて王猫の亡骸を行き過ぎた先には——彼女が最初に携えていた槍が、落ちている。


「……羨ましいよ……『お母さん』もそうだったらよかったのに……」


 その囁きはあまりに小さく、溢した彼女自身にすら聞こえていなかったが——槍を拾い上げ、英雄は吸血種へと向き直った。その瞳の宿すものの明らかさに気づいたのだろう。ディアンはより深くクラムを腕の内に抱え——影が速やかに膨れ上がっていく。


「——すまない。君が本当にそうで、そうかもしれないと思えているとしても」


 英雄は槍の柄を両手で握り、柄尻を強く地へと打ち据えた。裂帛の響き、白々とした硬質の槍は、まるで束ねられた繊維が崩れるようにほどけ——己が光であると思い出した鋭い輝きたちが、次々に、英雄が腕を掲げた背後へと浮かび、連なっていく。


「陛下に灰甲冑を賜った者として——我が長槍の誓いは、吸血種を余さず許さぬこと」


 英雄は、唱え。


「……全ての力を以て彼を守り、私から逃げ果せるんだ——化け物!!」


 腕を迷いなく振り下ろし——瞬間。

 狼が、影より溢れ出た。




 黒毛金眼の狼どもは次々に軌跡へ身を挺す。光の槍をその身に貫かせては、黒靄をくゆらせ消えていく。英雄はただ一本の細槍を握り駆け出した。湧きあがり、倒れ消える狼たちの合間に、ただ一匹、大口を開けた崖へと駆けこまんとする一頭が居る!


 英雄は息を静め。狙い——見定め。

 逃がるる背に向かい、呼気鋭く、渾身に投擲し——槍は弾かれ、光が砕け散った。


 英雄の眼に、狼の背に身を起こす、盾を持つ人影が一瞬映り。

 その一瞬の後に、狼は崖下へと消え去った。




 ——独り、残され。

 鼠共の骸を避けながら、ゆっくりと英雄は崖際へと歩んでいく。見下ろした亀裂の中には、ただ見通せぬ闇があるばかりだ。崖を見上げてゆけば、まるでここでは何も起きなかったかのよう、素知らぬ夜空が見下ろしている。風が浚う血腥さも一時のこと。やがて鳥獣の訪れ、虫々が食いつくし、風化して。ここにはただ元のように、空いた岩窟ばかりが残されるのだろう。


 だが、今ではない。

 それは今ではないのだ——




 英雄は頽れ、嗚咽した。

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