19. 獣害の悪兆2
「——おい、クラム! お前今寝てるだろ!!」
がくり、と。カウンターの天板についた肘がずれ、クラムは半分落ちたままの瞼をなんとかこじ開けた。ランタンの灯る酒場の騒ぎはいつも通り、いやいつも以上に賑やかだ。老主人と見慣れた常連たちも勿論いるが、あれこれと得物を佩いた見慣れぬ男たちの集い、なんともむさくるしい……あれ、俺いつここに来た?
「……? …………」
「おい零れる零れる零れる!! 置いてから寝ろ!」
「いやあ、見たことねえほど疲れてんな……」
「クラム、大丈夫か? 酒より水かこりゃ」
「馬鹿おめえ……まだ飲める……」
「置けってだから!」
クラムの右隣で、彼が手放さぬ杯を支えてそう怒鳴ったのはザムで、その隣でルスはクラムを気の毒そうに眺め、クラムの左隣のハシは逆に、楽し気にクラムの有様を眺めている。仕事を終えた馴染みの荷運び男たちは、ちょうどサービクの賭博場から出てくるクラムとかち合ったのだ。
最後に会ってより実に十日以上、毎日のように酒場で顔を合わせていた贔屓の負け犬拳闘士が姿を見せなかった。その上風の噂では、何を好き好んでか猟兵になってしまったという。口に出さないまでも、彼らの中で『まあクラム死んじまったのかなぁ』という予感があった中での再会だ。寝起きそのものの顔をして『いや俺サービク戻んの待ってたいんだけど』というクラムの控えめな抵抗を無視して酒場に引き摺るに、十分な感動と口実をもたらしていた。
ここからしばらく、クラムたちはただ益体もなく飲んで話すばかりなので、ここで語られねば誰に知られることもない、密やかな余談をする。
揃って飴色に焼けた肌色をした、この荷運び男たち三人のうち最も年若い弟分、齢二十五のルスは混血者であった。自分たちを置いて蒸発した父親が吸血種であったと、病床の母が今際の際にそう言ったのだ。
だがルスはこれまで他人の血を飲んだことはないし、殊更飲みたいと思ったことも無い。加齢も成長も人並みを外れず、この先の人生においては四十を越えた辺りから「お前は年齢よりすこし若く見えるな」と謂われがちとなる、その程度だ。
そんな彼が「強いて言うなら。飲まなければならない状況になるなら飲んでみたい、かもしれない」と思っていたのが、クラムの血であった。無論、当人にも兄貴分の二人にも言ったことはない。だが賭け試合でクラムが殴られ、血を流すのを見るといつも妙に腹が空くし、試合後に一緒に酒やら飯やらを喰えば、これも妙に腹が減るのでいつもよりうまい。食費は嵩むが、食いたい盛りの若者にとって、なかなか嬉しいことではあった。
これがきっと、吸血種や混血に、血を飲まれるために生まれてしまった造血種、銀眼というものの体質なのだろうと。はじめこそ複雑な心境もあったルスだが、独りで納得し、有難くいつもよりうまい飯を食っていた。
しかして、はて? と。今この時、ルスはこの場でただ一人、少しの違和感を覚えていた。「それ」がないのだ。あの空腹が招かれる感覚が無い。クラムの纏う、これという香りがあるでもない、しかし確かにあった、匂いとも気配ともつかぬものが無い。
まるで自分も食べてよいはずだった菓子が、どこともしれぬ戸棚にしまわれてしまったような——ただまあ、それは別に殊更好きな菓子でもないので、惜しくもないような。そして恐らくは、あの菓子は二度と見つからない、という確信があるような。そんなように思いながら、ルスはクラムの横で、いつもどおりの酒を飲んでいた。
この話を彼は生涯誰に話すでもなく、この余談もこれで終いとなる。
「——おいおい! ひょっとして負け犬様じゃねえか!」
酒場に、嘲う野太い声が響いたからだ。
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