6. 朽ち古城の惨夜3
ややあって――走りから歩を緩め、息を荒らげながら姿を信者に向かい、格子に腕を凭れさせたクラムはにこやかに挨拶をした。腰帯の後ろに隠し垂らした掛け布で、信者の頭部を覆う隙をうかがいながら。
「よお」
「——な、」
「ああ扉開いてたぜ。あんた鍵かけ忘れてたろ」
小笑いして格子越しに話しかけるクラムだったが、信者は言葉に詰まらせた。そして息を飲むや、素早く短い杖を取り出し——まずい。
「ッだ、」
「おい別に逃げてねえのに、そんなもん抜かなくたっていいだろ。こんな模範囚に」
総毛立つうなじに伝う汗を感じながらも、クラムはあくまでへらへらと振舞った。両手をひらりと翻させ、殊更に素手であることを見せようとも、目を見開いた信者の表情は緩む気配がない。数秒後に何が飛び出すやもしれぬ震える杖の先を、クラムは息を飲んで見つめた——信者は、混乱する脳裏にようやく言葉を見つけ、
「だ、誰だ貴様は——」
叫んだ、その時。
「離れろォッ!!!!」
裂帛の声と共に現れた槍の穂先に、驚嘆と恐怖の表情で叫んだ信者の頭は貫かれた。投擲された槍の勢いに倒れる信者、その血しぶきを浴びながら、クラムは思わず声ならぬ快哉をあげていた。
ああ、サービク、あの悪魔! いや俺は信じてたぜ!!
これはちゃんと、助かるやつだ!!
果たして金属の擦れ合う音を立てながら現れたのは、全身に灰の甲冑を纏った女だった。荒野国において銀鉄を用いた武具は、通常流通していない。それは国に仕える兵士の武具のために使われ、なかでも灰甲冑は王に功績を認められた者の証——一般に『英雄』と呼ばれる人種が下賜される品だ。
頭部全体を覆う兜、顔も髪も見えぬフルフェイスの人物を、迷いなくクラムは女と判じた。細身で女の身体に沿う甲冑の作りもあるが、何より先ほどの声が女のそれであった為だ。
「大丈夫か!?」
「ああ、ああ、助かった!! あんた味方でいいんだよな!?」
「あなたがここの冒涜者共に浚われたなら味方だ! ……そっちは、間に合わなかったか?」
「いや大分カリカリだけど、まだ生きてる」
「!! そうか……ああ、良かった……!」
女は——英雄さまは敵の頭に初撃で槍を放る割には慈悲深いらしい。クラムが思わず目を瞠るほど、心よりの安堵を感じさせた柔らかな声音は、すぐさまに冷厳に切り替えられた。
「私はアルフルフィスという老人を探している。ここの頭目だ。居場所を知らないか?」
「あの爺か! 顔は知ってるけど場所は、俺も気絶させられて……あ」
顔をしかめかけたクラムは気がつき、——よほど弱り切っているのだろう、助けが来た今もなお、蹲ったままの男に声をかける。
「あんた、俺より先に居たんだ。居そうなところわかんねえかな? 儀式とかしてるんだろあいつら」
「……儀式場は……突き当たりの壁……に、最も近い柱の……横壁に……」
「お」
「……壁はヒミン(天の力)で編まれている。儀式はその先で……」
「! ヒミンの術者か——礼を言う! 上は混乱の最中だが私の仲間も居る、彼らと合流しろ!」
「気ぃ付けてな! スコルムがあんたを見ますように!!」
すでに駆けだしている英雄の後背に向かい、クラムは気軽な祈りと共に英雄を見送った。ここで「俺も一緒に戦おうか」「俺も手伝うぜ、剣なら多少使えるからな!」などと、微塵も申し出る気がないのがこの男であるようだ。だがそれは彼の小狡さというよりも、より客観的な判断ではあった。「槍の一投で人間の頭を貫けるような英雄様の戦いの場に、己独りが出来ることはない」——何より、今のこの状態では。
格子から一歩下がり、己の手を見るクラムの顔には既に、軽薄な笑顔がない。手を幾度も握り、開く。二、三、四……五回目、指が痙攣して動かない。同じ手で顎に伝う汗を拭う。暑すぎる、いや、熱すぎる。いくらなんでも。身体の熱さ、空回る焦り、物音を立てるべきでない状況で、格子を蹴る衝動性を押さえられない……はっきりと自覚したのは信者の頭部から迸った血を見た瞬間だ。きわめてフラットに、交ざりこんでいた——「自分も血を流したい」という羨望が。
(……発作の『かなり重い』の、来てねえか?)
最悪の想像に、クラムは生唾を呑んだ。思えば時間感覚が狂っている。最後に薬を飲んでから、どれほど時間が経ったのだろう。血を興し、結果として発作も促す増血の薬やら魔法やらをかけられていても状況としてはおかしくない。
しかし今一つ確信が持てないのは、かつてのような激烈な苦痛、皮膚の不快感や感覚の狂いが生じていないためだ。あの時は、数日をかけて不快感や疼痛が深まっていった末に、身体と感覚の全てが『壊れた』。不安も焦りも、今の比ではなかった——いや、今のこの憶測もまた、発作を悪化させるものに違いない。
今、肝要なのは、今はまだ動けることだ。深く息を吸い、口から強く吐き切り、クラムは格子戸から出ようとし——振り返り、襤褸の男を見下ろした。
「あのよ、俺もう行くけど。動かないなら置いてくぜ」
突き放す言葉にも、やはり男は身じろぎをしない。クラムは再び、深いため息をつき——その口端が笑んだ。
「……まあ、ちんたらしてたって、あの英雄さまはどうにも、負けるって気がしねえや」
そう笑いぼやくと、クラムは男の腕を持ち上げ、腕の内に入り込んだ。その下に己の肩を組み入れ、持ち上げようとし——気がつく。男の腕が妙に長い。己が屈んで膝をついているとはいえ、力ない男の手の甲が、地面に完全に触れているのだ。この縮こまった男は、己より相当上背がある——そんな男に肩を貸す道理があるだろうか。クラムは間近にある、髪に埋もれた男の耳に向かい、苛立たしく小声を叩きつける。
「おい自分で立って歩けよ! いくらあんた細くたって俺じゃ背がぜんぜ……ん……」
異音が、クラムの間近で聞こえた。ぎちぎち、とも、ごぎり、とも形容しがたい、それでいて生理的な恐ろしさを引き起こす——これは肉と骨が強く軋んでたてる音だ。この痩せきった男の骨か肉が、無理やり動かしたことで裂け折れてしまったのか。一瞬、身を凍らせたクラムだったが、その背骨にかかる重みが軽くなる。項垂れていた男の顔が見る間に遠くなり——焦りすら忘れて、クラムはぽかりと口を開けた。
男の顔の高さは、立ち上がったクラムが少し見上げる程度の高さではある。異常なのはその姿勢だ。腰を深く折り曲げ、だらりと前傾して項垂れている。それでなお、その高さなのだ。
「で、でけぇな」
思わず己の口をついて出た言葉を聞き、クラムは我に返った。呆けている場合ではない。男の襤褸袖ごと腕を握ると、格子戸へと駆け寄り、大きく蹴り開ける。男の歩みは確かに鈍いが、やはり痩せ過ぎているためだろう。男の重さは上背にしては頼りなく、思っていたよりは、腕を引いて速足で歩くのに支障がない。檻を出て、儀式場を目指す英雄とは逆、外へ出る道へ向かおうとし……クラムはふと、足もとに転がる信者の死体を見た。そういえば——こいつの最期の言葉は、奇妙ではなかっただろうか。
『誰だ』『貴様は』
(俺を知らなかった……ってことは、すれ違わなかった奴がまだいるのか。7人どころじゃなさそうだ)
内心にぼやき、クラムは信者の死体の横を、鈍く歩く男の腕をより強く引き、出口を目指し歩きゆく。そのため、彼は、檻の外に転がる錠前には——引き千切られ、人の指に握りつぶされた跡のあるそれには、ついぞ気づかぬままだった。後にはただ足音だけが響き——やがてそれも消え去った。
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