第四話 冬瓜のすまし汁と遊女猫
とある夜、湿り気を帯びた風が、店の軒先をかすめていく。
夜限定の食堂――人でもあやかしでも、
そこへ一つ、鈴が揺れるような声が響いた。
「まあ。いい香りがすると思ったら、ここだったのね」
戸口に立っていたのは、ゆるやかに着崩した薄紅の着物に、すらりとした白い足元を覗かせた女。
「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
「ええ、一匹で」
女は笑った。歩くたびに
「少しばかり、夜風に冷えてしまってね。なにか、温かいものをいただけるかしら?」
「はい。すぐにご用意します」
ツムギはそっと頷くと、削り節で取った一番出汁に下茹でした冬瓜を落とす。うす口醤油と塩で味を調え、すりおろした生姜を入れて、香りづけに柚子の皮を添えた。
その間、ミオは小さく笑って語り始めた。
自分がまだ猫だった頃のこと。賑やかな人の声に惹かれ、迷い込んだ花街。夜毎の灯りと歌に誘われてとある若い遊女のもとに棲みついたが、彼女は病に倒れてしまう。そして彼女は残された命のかけらを猫に預けて、息を引き取った。
――ねえ、あたしの代わりに舞ってちょうだいな。あたしの見られなかった夢を、あんたが生きて。
そうして猫は、人の姿を取り『ミオ』と名乗るようになった。夜毎、香を纏い、死んでしまった若い遊女の夢を演じ続けた。彼女の舞をなぞって、爪を人の形に整えて、酔って笑って、彼女の代わりに好かれようとした。
「…でもね、気づいたら店も、客も、遊女も、みんないなくなってたの。残っていたのは、あたし一人」
ツムギは言葉を挟まずに汁椀を差し出す。澄んだ出汁の中に透き通るような冬瓜が浮かび、ほのかに柚子が香った。
「あら、やさしい香り。お客を迎える前の、支度部屋を思い出すわ」
ミオは一口、ゆっくりとすまし汁をすする。そしてふと、ツムギに視線を向けた。
「…あんたも随分古い魂ね」
調理の片付けをしているツムギの手が止まった。
「人間を食べたことがあるのでしょう?」
「………」
「いいのよ。あたしだってそうだった。望まれて抱かれ、忘れられて捨てられ、それでもあの遊女の夢を見ながら愛されたいと思った。好いた男をこの爪で裂いたこともあるわ」
ミオは笑う。
「もう一人でいるのにはうんざりよ。みんなを探し続けることにも疲れたわ」
「……あなたはもう随分と長いこと、待ち続けていたんですね」
「ええ。でも、今ならもう行ける気がするわ。あの支度部屋を、夢を託してくれた遊女を思い出したから」
ミオの輪郭が少しずつ薄れていく。舞台の明かりが落ちるように、静かに。けれど確実に。
「ありがとう。今度こそ、本当に眠れる」
ツムギは深く頭を下げた。
「――いってらっしゃい」
静かに手を振ったミオは、最期にひとつ、簪の鈴を鳴らして消えていった。
湿った夜風が、少しだけ乾いてきた。店の中には、出汁と柚子の香りがやさしく残っていた。
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