第二話 鮭の塩焼きと片目の鬼
風が冷たい夜だった。季節が冬に舞い戻ったかのように、木々も寒さに震えている。
カウンターの奥でお米を炊いていたツムギは顔を上げる。
「いらっしゃいませ」
戸口に立っていたのは大きな影。ひと際高い背丈に、ぼろぼろの外套から覗く節くれだった腕。片方の目は潰れて塞がり、残る一つの目だけが暗い光をたたえていた。
「…ここは飯が食えるのか」
低くしゃがれた声。年老いた鬼であることがすぐにわかった。
「ええ、どなたでも。お腹が空いているなら、どうぞおかけください」
鬼は無言のまま、重い身体を引きずるようにしてカウンターに腰を下ろした。
湯気の立つ湯呑を出しながら、ツムギは尋ねる。
「何か食べたいものはありますか?」
「……鮭が食べたい。塩で、焼いたやつだ」
「かしこまりました」
カウンターの奥でツムギが七輪を取り出す。炭に火を入れ、焼き網に大ぶりな鮭の切り身を乗せる。じゅうっと香ばしい音が立ち、脂の乗った身が塩とともに焼けていく香りが、ゆっくりと店内に溶け込んでいった。
器に盛られた鮭の塩焼き。ツムギはこんがりと焼けたそれと、白飯、味噌汁、漬物をカウンターに置いた。
「どうぞ召し上がれ」
鬼は無言で箸を取り、一口、二口。そして、小さく息を吐いた。
「……ああ、俺はこれが食べたかったんだ」
「思い出の味ですか?」
「ああ、まだ人間だった頃の。百年…いや、もっと前かもしれん。村にいた頃は、漁で獲った魚を母親がこうして焼いてくれた。塩を強く振るのがあの人のやり方だった」
「鮭が一番おいしかったんですか?」
「そうだ。だがそれも…俺が鬼になった夜で終わってしまった」
鬼はもとは、ある漁村の漁師だった。だがある年、村に疫病が流行り、その責任を擦り付けられるようにして海の神の怒りを鎮める『人柱』として差し出された。
理不尽な死を迎え、
「それから何十年も山を
鬼は、ぽつりと零す。
「最期に、あの味が食べたかったんだ」
ツムギは目を伏せる。その手は、鬼のためにもう一度、七輪の炭火を整えていた。
二度目の鮭の切り身が焼き上がる頃、鬼の輪郭は既にぼんやりと滲み始めていた。あやかしとしての時間が尽きようとしているのだ。
「……ありがとうよ。お前のおかげで、最期に自分の名を思い出せた」
「お名前、教えていただけますか?」
「リキ、と呼ばれていた」
ツムギは微笑む。
「リキさん、もう一皿どうぞ」
リキは、ふっと笑った。その顔は、店に来たときの暗く恐ろしい表情ではなかった。鮭の塩焼きに箸を伸ばし、一口食べる。
「…やはりうまいな。……母さん、」
その言葉とともに、リキの姿は静かに空気に溶けて消えていった。
ツムギは空になった器をそっと片付ける。
「――いってらっしゃい」
店の外では、ゆっくりと夜明けの気配が滲む。けれどこの場所にはまだ、夜の気配が強く残っていた。
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