第34話 闇への潜入
アルスが誘拐されてから二日後の夜更け。
遠くで鐘が鳴り、夜霧が窓を曇らせていた。
宿屋〈サンフラワー〉の一室。机に広げた地図の上で、ルーナは震える手を握りしめる。
「もう待つのはやめましょう。今度は、わたしたちが奪い返す番よ」
その一言で、一室の空気が引き締まった。
ナミが灰かぶりの猫亭で得た情報のメモを読み上げる。
「闇オークションの会場は王都北区の地下水路跡。招待制で、合言葉を持つ者しか入れません。主催は黒牙商会の首領ヴァイゼン・クローフ。貴族とも繋がりを持つ、危険人物です」
ルーナの喉がごくりと鳴る。
「覚悟はしていたけれど……想像以上に大きな敵ね」
「アルス様のような希少魔物は、王族筋や貴族の間で高額取引されるそうです。最悪の場合、研究用や闘技用として――」
その言葉に、ルーナの瞳が怒りで震えた。
「そんな目には遭わせない、絶対に!」
机を叩く音が響き、ニッケとベルも頷く。
「もちろんです! 絶対に取り戻しましょう!」
「悪い奴らの好きにさせるもんですか!」
ルーナの胸に熱が宿る。
「ありがとう……あなたたちがいるだけで、勇気が湧いてくるわ」
ナミが地図の上に指を置いた。
「作戦はこうです。ルーナ様が変装し、買い手として会場へ。偽造証書と招待状は既に用意済みです。わたくしは別ルートから潜入し、支援を行います」
「その準備の早さ、時々怖くなるわ。でも今は、あなたが心強い」
「光栄にございます。それと闇市場の調査は同時に騎士団にも伝えてあります。彼らが動けるよう、時間を稼ぐのです」
「分かったわ、ナミ」
「ニッケ様、ベル様。地上で待機し、脱出用の馬車を確保してください」
「了解!」
「私も魔法で援護するね!」
会議が終わると、皆が散っていく。
部屋に独り残ったルーナは、掌に収めたシャチのガラス細工を見つめて呟いた。
「あなたがいないと、世界がこんなに静かに感じるなんて……。だから――もう一度、あなたと笑いたいの」
夜の鐘が鳴る。
「行きましょう、ナミ。闇が相手でも、もう怯えない」
「お嬢様もお強くなりましたね。私も全力でお仕えいたします」
二人は黒衣の外套をまとい、夜霧の中へと消えていった。
夜が深まると共に、王都はまるで息を潜めたように静まり返っていた。
月明かりすら薄雲に隠れ、路地を照らすのは揺らめく灯火だけ。
そんな薄暗い王都北区の片隅で、ルーナとナミは黒衣の外套を翻し、影のように歩いていた。
「……この先に、例の地下水路の入口があるはずです」
「分かったわ、ナミ。周囲に気を配って」
ナミの小声にうなずいたルーナは、外套の下で胸元のシャチ細工を握りしめる。
冷たく硬いその感触が、アルスの温もりを恋しく思い出させた。
(もうすぐよ、アルス。必ず、取り戻すから……)
やがて二人は古びた倉庫の裏手へ辿り着く。
そこには崩れかけた石畳と鉄格子で覆われた井戸口のような穴があり、地面には何度も削られた奇妙な刻印が残っていた。
「ここね……」
「間違いありません。ここが買い手たちの通用口です」
ナミが小声で呪文を唱えると、彼女の掌に淡い青光が宿る。
その光を鉄格子に触れさせると、錠前が静かにほどけた。
「開きました。ですが、中は完全な暗闇です。……お嬢様、本当にお一人で潜入なさるのですか?」
「ええ。合言葉を使って入る以上、わたしが先に行くわ。あなたは例の裏口から別ルートで」
ルーナが外套のフードを深くかぶると、銀髪がわずかに覗いた。
その姿はもはや公女ではなく、夜の密買人。
「ナミ、あなたの存在が何よりの支えよ」
「……お嬢様の信頼に報いるためにも、必ず成功させます」
二人が静かに頷き合った、そのとき――
地上の路地に、不気味な馬車の音が響いた。
ガラガラと車輪が石畳を削り、黒い仮面をつけた商人たちが次々と地下口へ降りていく。
彼らの手には招待状と刻印入りの紋章灯。
「始まったようですね」
「ええ。――今がチャンスよ」
ルーナは彼らの列に紛れ込み、仮面の買い手として地下水路へと消えていく。
背後で、ナミが一瞬だけその背中を見つめ、低く呟いた。
「どうかご無事で、お嬢様……」
そして、ナミも影のように反対側の通路へと姿を消した。
王都の地の底で、禁断の取引が始まろうとしていた。
合言葉を告げ、重たい扉をくぐると――そこは、金と欲望の匂いに満ちた異界だった。
天井の高い地下ホール。
無数の燭台と魔導灯がゆらめき、床一面に敷かれた赤絨毯の上を、仮面をつけた貴族たちが行き交っている。
ワインの香り、笑い声、金貨の擦れる音。
それら全てが、闇の都のような熱気を放っていた。
「……すごい人の数。これほど多くの人が、平然と闇に手を染めているなんて……」
冷ややかな空気の中にあって、ルーナの心臓だけが痛みを訴える。
彼女はフードの奥で唇を噛み、己の震えを押し殺した。
そのとき――中央のステージがまばゆい光に照らされる。
浮かび上がったのは、絹のような身振りで両手を広げる男だった。
「レディース・アンド・ジェントルマン! 今宵もこのオークションに足を運んでくださり、誠にありがとうございます!」
朗々と響く声。男の名を呼ぶざわめきが、会場のあちこちで湧き上がる。
黒牙商会の首領――ヴァイゼン・クローフ。
「まずはこちらから!」
ヴァイゼンが指を鳴らすと、鎖の音とともに一頭の魔物が引き出された。
銀糸のように輝く毛並み、真っ直ぐな角。だがその首には、冷たい黒鉄の枷がはまっていた。
「こちらはユニコーンの中でも極めて希少なプラチナユニコーン! 観賞用にも、あるいは――
場の空気が一変し、仮面の下から熱を帯びた視線が集中する。
次々と札が上がり、金貨の数字が狂ったように跳ね上がる。
「金貨五十枚!」
「六十!」
「八十!!」
人々の声は歓声にも悲鳴にも似ていた。
ルーナはその光景に息を詰まらせる。
(命を、数字で取引してる……?)
胸の奥がきしむ。
目の前の煌びやかな光景が、途端に血のように赤黒く見えた。
ヴァイゼンの口元が歪む。
「落札――金貨八十枚!」
銀の鎖が再び鳴り、プラチナユニコーンはドクロの指輪をはめた男のもとへ引きずられていく。
ルーナの指が震えた。
拳を握りしめ、冷たい汗が掌を伝う。
「これが……闇のオークション……」
その後も見たこともない異形の魔物たちが次々と舞台へ運ばれ、歓声と札の音が止むことはなかった。
現実離れした狂騒に、ルーナは耳を塞ぎたくなる。
だが――次の瞬間、司会者の声が会場を震わせた。
「さて……お待ちかねの目玉商品はこちら! 未知の魔物――シャチでございます!」
スポットライトが一斉に向けられる。
鎖に縛られ、尾びれを打ち付ける音。
そこにいたのは――アルスだった。
その瞬間、ルーナの心臓が大きく跳ねた。
(アルス……!)
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