第6章 出口か、残留か
光の扉は、静かに脈打っていた。
白い光が鼓動のように膨らみ、縮み、まるで「誰を選ぶのか」と問いかけているかのようだった。
…ピー…
電子音が再び鳴る。
だがもう間隔は乱れていた。1分ではない。数十秒ごとに不規則に。
まるで時間そのものが「決断を急げ」と催促している。
⸻
古賀の消失
古賀の身体はすでに胸の辺りまで影に沈んでいた。
しかしその目は不思議なほど澄んでいた。
「……若い者が生きろ。私には、もう帰る場所などない」
倉科が首を振り、涙を滲ませる。
「違う! あなたの帰る場所だって、必ず――」
「ないんだ」
古賀の声は柔らかかった。
「私は、息子を失ったあの日から……“外”に立てなかった。ここに残ることが、私にできる最後の償いなんだ」
彼の輪郭は溶け、影と同化していく。
それと同時に、光の扉は一段と明るさを増した。
⸻
三枝の葛藤
三枝は拳を握りしめ、声を荒げる。
「ふざけるな! 犠牲なんて、もう見たくない! 俺が残る!」
彼は一歩、影の方へ踏み出した。
その瞳には娘の面影が焼き付いている。
「どうせ外に戻っても、娘はいない……なら俺が――」
悠真は咄嗟にその腕を掴んだ。
「やめろ! そんなこと言うな! 外に戻れば……娘さんは戻らなくても、やり直せる人生があるだろ!」
三枝の目が揺れた。
だがその揺れの奥には、絶望と僅かな希望がせめぎ合っていた。
⸻
倉科の覚悟
倉科が静かに口を開いた。
「じゃあ、私が残る」
二人が振り返る。
倉科は震えながらも、真っ直ぐな目で言った。
「私は……過去に縛られて、未来を描けない。患者を救えなかったあの日から、ずっと同じ場所で止まってる。だったら、この空間で終わる方が似合ってる」
「違う!」
悠真は叫ぶ。
「それを言ったら……俺だって同じだ! 父さんを手放せないで、ずっと止まってる!」
倉科は微笑んだ。
「だからこそ、あなたは外に出るべき。止まってる私じゃなくて」
⸻
悠真の決意
胸の中の合鍵が、熱を帯びる。
鉄の匂いと血の温かさが掌を焼く。
――父の声が蘇る。
「迎えに行く」
「お前に預ける」
その言葉が、幻のように耳に残る。
悠真はぎゅっと目を閉じ、深く息を吐いた。
「……もう、待たなくていいよな、父さん」
ゆっくりと手を開き、合鍵を光の扉へ差し出した。
金属は一瞬だけ白熱し、音もなく霧のように消えた。
…ピー…
電子音が、最後の鐘のように鳴り響いた。
扉が開く。
その向こうに、朝の街の色が広がっている。
青空。ビル群。人々のざわめき。
あまりにも当たり前で、あまりにも懐かしい世界。
⸻
誰が残るのか
だが――扉は一人分の幅しかない。
倉科が微笑む。
「行って」
三枝が顔を歪める。
「お前が未来を繋げ」
悠真は涙で視界を曇らせながら、首を横に振った。
「嫌だ……誰も置いていきたくない!」
そのとき、影に呑まれかけていた古賀が最後の力を振り絞り、声を放った。
「若い者よ――前へ!」
彼の身体は完全に影に飲まれ、跡形もなく消えた。
代わりに扉の光が大きく開き、風が悠真を強く押し出す。
倉科と三枝の姿が光の向こうに揺れ、遠ざかっていく。
悠真は叫んだ。
「必ず――また会おう!」
その声が響いた瞬間、彼の身体は光に呑まれた。
目覚め
眩しい光に包まれたあと、悠真はふっと身体の重さを感じた。
硬いベッドのマットレス。薄い掛け布団の感触。
――自分の部屋だった。
天井の白い塗装、机の上に散らかった教科書。
窓の外からは、蝉の声と車のエンジン音が重なって聞こえる。
何もかもが、当たり前すぎる光景。
だが――時計の針が目に入った瞬間、背筋が冷えた。
壁掛け時計は「7:12」で止まったまま、秒針だけがカチ、カチと同じ位置を踏んでいる。
…ピー…
耳の奥で、あの電子音が鳴った。
悠真は息を呑み、ベッドから飛び起きた。
廊下へ出る。
そこは、確かに「いつもの廊下」だった。
遠くから住人の生活音がする。洗濯機の回転音、ドアの開閉音。
現実だ――そう信じたい。
だが、掲示板に貼られた紙に目が止まった。
「7/15 消防点検のお知らせ」
……あの異空間で無限に繰り返されていた貼り紙。
悠真は拳を強く握りしめた。
「ここは……本当に戻ってきたんだよな?」
⸻
失われた者たち
エレベーターを降り、1階ロビーへ向かう。
管理人室のガラス窓は空っぽで、古賀の姿はなかった。
掲示板の隅に、ボールペンで走り書きされた紙切れが一枚だけ残っていた。
《若い者が前へ行け》
震える手で紙を外し、胸に押し当てる。
「古賀さん……」
ロビーのソファには、倉科も三枝もいない。
あの夜のことが、幻のように遠ざかっていく。
だが、確かに一緒に過ごした記憶が身体に残っていた。
⸻
母の声
そのとき、エントランスの自動ドアが開き、
買い物袋を抱えた母が入ってきた。
「あら、悠真? どうしたの、そんな顔して」
彼女の声は現実的で、柔らかく、涙腺を刺激するほど懐かしかった。
悠真は思わず駆け寄り、母を抱きしめた。
「……母さん」
「なに、急に」
困惑する母の肩の匂いは、確かに現実のものだった。
だが玄関に戻ったとき、彼は思わず立ち止まった。
玄関の上。脚立に乗らなければ届かない棚の奥。
そこにあるはずの――箱。
母が何気なく言った。
「あの箱、今朝片付けておいたわよ。空っぽだったけど」
悠真は震える声で尋ねた。
「……中に、鍵は?」
「鍵? そんなの入ってなかったわ」
⸻
終わりと始まり
掌を見つめる。
そこにはもう、合鍵はなかった。
父の声も、幻のように遠のいていく。
――だが、不思議なことに胸の奥は軽かった。
重くのしかかっていたものが剥がれ落ち、初めて深呼吸できるような感覚。
母が微笑む。
「おかえり」
その言葉は、かつて郵便受けで見た文字と同じだった。
《ゆうまへ おかえり》
悠真は小さく頷いた。
「……ただいま」
⸻
エピローグ
夜。
机の上でペンを走らせる。
ノートの片隅に、震える字でこう書いた。
《倉科さんへ あなたの罪はあの日で終わった》
《三枝さんへ 娘さんはきっと、まだ心の中に生きてる》
《古賀さんへ ありがとうございました》
そして最後に、こう付け加えた。
《俺は外に出る。もう、止まらない》
窓の外で蝉の声が響く。
秒針は動かないまま、しかし電子音だけが淡く鳴り続けていた。
…ピー…
…ピー…
それは、過去から未来へ進むための時報のように聞こえた。
⸻
【完】
『出口無きマション』 稲佐オサム @INASAOSAMU
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