第5章 決断の代償

16階の廊下は、もはや「建物」と呼べる形を保っていなかった。

壁は剥がれ、コンクリートの奥から光の糸が溢れ出し、それが絡み合って巨大な繭のように揺れている。

そこに映し出されるのは――三人それぞれの「後悔」。


患者を救えなかった倉科。

娘を失った三枝。

父の合鍵を握りしめる悠真。


すべてが光の繭に吸い込まれ、脈打つ心臓のように廊下全体を震わせていた。



倉科の選択


倉科はふらふらと繭に近づいた。

瞳に涙が滲み、唇を噛む。

「私は……あの人に謝りたい」

繭の表面が波打ち、亡くなった患者の姿が浮かぶ。

目は閉じられているはずなのに、確かに彼女を見ていた。


倉科は両手を組み、声を震わせながら呟く。

「ごめんなさい。私は、あなたを守れなかった。夜勤明けで、気付くのが遅れた。……ずっと後悔してた」


その瞬間、繭の光が柔らかく揺れ、患者の影は穏やかに消えた。

倉科の手の中には何も残らなかった。

彼女は膝をつき、深く息を吐く。

「……軽い。胸が、少しだけ」


古賀が低く呟いた。

「一つ、手放したな」



三枝の選択


次に繭から聞こえてきたのは、幼い少女の声。

「パパ、見て! ほら、絵を描いたよ!」

三枝の目が潤む。

「……すまなかった。本当に……すまなかった」

彼はポケットから、いつも握りしめていた小さなスケッチブックの切れ端を取り出した。

そこには、子どもが描いた稚拙な父の似顔絵。

ずっと財布に忍ばせていたものだ。


「俺は……お前より仕事を選んだ。失ったあとで、どれだけ取り返そうとしても、遅かった」

三枝はその切れ端を両手で裂いた。

紙片は光の粒となって繭に吸い込まれ、娘の影が霧のように消えた。


彼は顔を覆い、嗚咽を押し殺す。

「……ありがとう。最後に、もう一度会わせてくれて」



悠真の決断


残るは――自分。


繭の奥に、銀色の合鍵が浮かんでいる。

それは光を反射し、父の声を呼び戻す。

――「お前に預ける。いつか迎えに行く」


胸が焼ける。

父の笑顔と母の泣き顔が、同時に脳裏を駆け抜ける。

「……これを手放したら、父さんが……完全にいなくなる気がする」


倉科が顔を上げ、必死に言葉を投げた。

「違う。鍵はただの象徴。記憶まで消えるわけじゃない」


三枝も涙に濡れた顔で言う。

「……残すことが“生きてる証”だと思ってた。だが俺は、手放して初めて呼吸ができた」


悠真は拳を握りしめた。

鍵は熱を帯び、皮膚を焼くようだった。

血の匂いが立ち、指の間から赤い雫が落ちる。


古賀の声が低く響く。

「選べ。握り続ければ、お前はここに残る。返せば、扉は開く」



代償


悠真は、ゆっくりと手を掲げた。

鍵が掌の上で震え、光の繭へと吸い寄せられる。

その瞬間――


三枝が叫んだ。

「待て! 出口が開くのは一人分かもしれない!」


空気が裂け、繭の表面に「出口」が現れた。

白い光に縁取られた扉。

だが扉はひとつしかない。


悠真は凍り付いた。

「一人だけ……?」


倉科が唇を噛む。

三枝が震える。

そして古賀が静かに言った。

「出口には代償が要る。残る者が、この空間を保つ。だからこそ“誰か一人は残される”」


扉の光が強まり、周囲の廊下を飲み込んでいく。

タイムリミットは近い。


悠真の胸に突きつけられたのは、二重の選択だった。

合鍵を返すかどうか。

誰を残すか。


…ピー…

電子音が鳴った。

最後の決断の時を告げる鐘のように。



出口の条件


16階の廊下の空間が、音もなく「白」に塗りつぶされていった。

天井も床も溶け落ち、残されたのはただ一枚――

光の扉。


白い境界線がゆらぎ、そこから外の気配が微かに漏れてくる。

街のざわめき。車の走行音。人々の笑い声。

あまりに懐かしく、あまりに遠い。


悠真は息を飲んだ。

「……帰れる……」

心臓が激しく鼓動する。


だが扉の周囲には、黒い影が渦を巻いていた。

それは倉科の、三枝の、古賀の「残したもの」が形を変えたもの。

出口を守るかのように、じりじりとこちらを見つめている。



古賀の説明


古賀が一歩前に出た。

その声は掠れていたが、はっきりと響いた。

「出口は……“一つ”。選ばれるのは……“一人”。

 残された者は、この空間を支える礎になる。

 そうして、外と内の均衡が保たれているんだ」


三枝が顔を歪めた。

「ふざけるな……! みんなで帰れる方法はないのか!」


古賀は首を横に振る。

「ない。私が何度も試した。だが、均衡は必ず代償を求める。

 ――“残る者”なしに出口は開かない」


倉科が小さく息を呑んだ。

「じゃあ……誰かが、ここに残らなきゃならないのね」



三者三様の揺れ


白い扉の前で、三人の心が剥き出しになった。


倉科は、瞳を伏せて言った。

「私は……ここに残ってもいい。外に戻っても、結局同じ夜を繰り返すだけかもしれない。

 だったら、せめて誰かを送り出す役に……」


三枝が叫んだ。

「そんなこと言うな! 俺だ……娘を失った俺が残ればいい!

 どうせ外に戻っても、もうやり直せない!」


二人の言葉に、悠真の胸が締め付けられた。

「やめてくれ……! そんなふうに“自分を切り捨てる”みたいに言うなよ……!」


彼の手の中には、まだ父の合鍵が残っている。

扉はその鍵を待っているように、白い光をゆらめかせていた。



扉の声


…ピー…

電子音が鳴る。

だが今度は、ただの電子音ではなかった。


扉の奥から、声が重なる。

母の声。

友人の声。

そして――父の声。


――「帰ってこい」

――「待ってるよ」

――「お前に預けた、合鍵だ」


幻か現実か分からない。

だが扉は、悠真に選択を迫っていた。



古賀の影


そのとき、古賀の足元が影に沈んだ。

彼の身体は黒に溶け込み始めていた。

「……私が残る。これで均衡は保たれる。若い者が出ろ」


倉科が叫ぶ。

「待って! 古賀さん!」


古賀は穏やかな目で振り返った。

「私はもう、“戻れない”ことを知っている。だからこそ、ここに残る意味がある」


三枝が歯を食いしばった。

「……違う! あんたに押し付けるのは間違ってる!」


だが影はすでに古賀の脚を呑み、腰まで浸食していた。

彼の顔は苦痛ではなく、諦めでもなく――解放のように穏やかだった。



悠真の決断の時


悠真は叫んだ。

「やめろ! そんなの……俺が残る!」


倉科と三枝が同時に振り返る。

「お前が残ったら意味がない!」

「高校生が犠牲になってどうする!」


胸の中で合鍵が脈打つ。

――返せば出口は開く。

――だが、誰か一人は残される。


汗が額を伝い、指先から血が滴る。

心臓の鼓動が、電子音と重なっていく。


…ピー…

「選べ」

音がそう告げていた。

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