第4章 16階の閉じる扉
階段をひたすら上る。
足音が石壁に反響し、汗の雫が一段ごとに床へ落ちた。
息が焼け、肺の奥が火照る。
だが「16階」が近づくにつれ、空気は冷たく沈んでいった。
踊り場に辿り着く。
「16」の数字はプレートではなく、壁に直接焼き付いたように浮かんでいる。
黒ずんだ跡は煤のようで、近づくと皮膚にざらつきを感じた。
悠真がドアノブに手をかける。
ひやりとした金属は、氷のように温度を奪った。
押し開けると、そこには――廊下。
だが、他の階と違って「音」がしない。
灰色の長尺シートも、等間隔の非常灯も同じなのに、沈黙が厚すぎた。
足を一歩踏み出すと、壁紙がざわりと震え、光が滲む。
その光がやがて形を取り、映像のように記憶を映し出す。
⸻
倉科の記憶
病院のナースステーション。
夜勤中の彼女が、点滴の速度を気にして走り回る姿。
患者の呼吸が荒くなる。アラーム音が響く。
「先生、早く!」
だが助けは間に合わず、心電図の線は真っ直ぐに伸びる。
倉科の手が震える。
「……やめろ」
壁の光景は、亡くなった老人の目をこちらに向ける。
口が動いた。
『あなたのせいで』
声はないのに、確かに耳に届く。
倉科は両手で耳を塞ぎ、肩を震わせた。
「違う、私は、あの時……!」
⸻
三枝の記憶
次に現れたのは、リビングの食卓。
書類を睨む三枝。隣で小さな女の子がスケッチブックを掲げている。
「パパ、見て!」
だが男は視線を上げない。
「今は忙しい」
子どもの笑顔が消え、椅子を降りて走り去る。
扉が閉まる音。
映像が滲み、再生が早送りのように加速する。
次に見えたのは、成長した娘の背中。制服姿で、玄関を出ていく。
「……帰ってこなかった」
三枝は壁に手を突き、うなだれた。
⸻
悠真の記憶
最後に、壁に映ったのは――15階の自分の部屋の玄関。
母が泣きながら声を荒げる姿。
「なんで捨てないの! あんな人はもういないのに!」
脚立を手にした母が、玄関上の箱を叩こうとする。
悠真は必死に止めた。
「やめろ! 父さんは帰ってくるんだ!」
だが母は顔を歪め、泣き崩れた。
悠真の目の前で、その「箱」がゆっくりと浮かび上がった。
本物ではない。記憶の像。
だが中に収まる合鍵が、冷たい輝きを放っていた。
⸻
三人とも言葉を失った。
壁に投影された後悔は、それぞれの心臓を掴んで放さない。
倉科が唇を震わせながら問う。
「……これが、16階。閉じる扉……?」
古賀がうなずく。
「ここでは“残したもの”が形になる。手放せぬ後悔が、この階を閉じている」
悠真は自分の胸に手を当てた。
心臓の鼓動が速い。
「じゃあ……この合鍵を、返したら……?」
古賀は静かに目を伏せた。
「返せば道は開く。だが、“帰れる場所”は選べない。外の世界か、この世界の奥か。戻りたい場所には、二度と届かないかもしれない」
倉科と三枝が、同時に息を呑んだ。
選択の時が近づいている――その予感だけが、16階の沈黙の中で鋭く響いていた。
…ピー…
電子音が一度、ゆっくりと鳴った。
だが今度は、音が「遠ざかる」ように聞こえた。
揺らぐ現実
16階の廊下は、沈黙が濃すぎて耳が痛むほどだった。
冷えた空気は肺の奥に重く沈み、呼吸のたびに胸の内側をきしませる。
…ピー…
電子音が遠のくように鳴った。
その残響は、まるで水面に石を投げた後の波紋のように、壁紙全体に揺らぎを与えた。
⸻
廊下の歪み
壁がゆっくりと膨らみ、模様が剥がれていく。
剥がれた下から現れたのは、コンクリートではなく「暗闇の縦縞」。
それはまるで、誰かの心臓の鼓動を直接覗き込むような脈動だった。
倉科が短く息を呑む。
「……また、来る」
影の住人たちとは違う。
今度は、現実そのものが歪んでいた。
床に走る線が波打ち、照明が天井から垂れ下がる。
電球の光は水のように滴り、床に落ちては音もなく消える。
三枝が頭を抱えた。
「だめだ……時間がわからない……数えられない……!」
彼の視界には、きっと無数の時計が浮かんでいるのだろう。
腕時計、壁時計、デジタル表示。どれも秒針が逆回転し、狂ったように動いていた。
⸻
倉科の動揺
倉科は壁に手をつき、必死に呼吸を整えようとした。
だが、耳の奥で心電図の音が甦る。
ピ――……ピ――……
規則正しいはずの電子音が、不規則にねじれて響く。
「私じゃなかったのに……先生が来なかったから……」
唇から漏れた呟きは、彼女自身への言い訳でもあり、懺悔でもあった。
壁の光景がそれに応えるように、白布に覆われた遺体が廊下いっぱいに並んだ。
冷たいシーツが風もないのにふるりと揺れ、顔の形を浮かび上がらせる。
『お前のせいだ』
声はない。だが空気が直接鼓膜を叩く。
悠真は思わず倉科の肩を掴んだ。
「違うだろ! あんたのせいじゃない!」
その声で幻はわずかに揺らぎ、遺体の影が薄れた。
だが倉科は震える指で自分の耳を押さえ、ただ必死に首を振っていた。
⸻
三枝の崩壊
その横で、三枝が膝から崩れ落ちる。
彼の周囲にだけ、違う世界が広がっていた。
床に色鉛筆、散らばるスケッチブック。
「パパの顔、描いたんだよ!」
笑う娘の声が、壁の隙間から湧き出るように聞こえてくる。
三枝は泣き笑いのような顔で空を仰いだ。
「もう一度だけ……会わせてくれ……頼む……」
その瞬間、床の影が裂け、幼い少女の影が立ち上がった。
顔のない黒い影。だが、その肩の小ささ、背丈は間違いなく彼の娘の年頃だ。
三枝は震える手を伸ばす。
「……戻ってきてくれ」
だが影の少女は、父の手を掴む代わりに、ゆっくりとその腕を沈めていった。
三枝の前腕が床に飲み込まれていく。
「やめろ!」
悠真が駆け寄り、三枝の腕を掴んで引き上げようとする。
だが床は生き物のようにぬめり、吸い付く。
⸻
古賀の言葉
そのとき、古賀が低く叫んだ。
「抗うな! 引き戻すな! “残したもの”が引きずり込んでいるだけだ!」
その声は鋭かった。
彼の目には、諦めと警告が同時に宿っていた。
「手放さねば、この階で永遠に閉じ込められる!」
悠真の心臓が強く脈打った。
――合鍵。
玄関上の箱。
手放すべきものは、自分にもある。
彼は三枝の腕を掴んだまま、自分の胸の奥に問いかけた。
「……俺も、捨てなきゃならないのか」
⸻
空間の崩壊
…ピー…
電子音が鳴った。
だが今度は、耳元ではなく胸骨の奥で鳴った。
心臓の鼓動と重なり、全身が内側から震えた。
廊下の照明が一斉に落ち、闇が押し寄せる。
床も壁も天井も消えかけ、ただ“後悔”の光景だけが残る。
倉科の亡き患者。
三枝の娘。
悠真の父の合鍵。
それらが空中で絡まり、ねじれ合い、巨大な影の渦となっていく。
古賀がかすれ声で告げた。
「これが……16階の正体だ。“閉じる扉”は……お前たちの後悔そのものだ」
悠真の手の中で、幻の合鍵がじりじりと熱を帯びていく。
握り締める指先に、血の匂いを含んだ鉄の味が広がった。
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