第3章 禁忌の時間

古賀の声が消えたあと、ロビーの時計の文字盤が脳裏に蘇った。

《22:44〜23:10 廊下に出ないこと》――あの警告。

まだ午前のはずなのに、悠真の腕時計の針は、次の瞬間には「22:43」を指していた。

秒針が、かすかに震えている。

倉科が吐息を漏らす。

「…時間、飛んだ?」


三枝がスマホを掲げる。画面の時刻も「22:43」。

「さっきまで昼だったのに」

その瞬間、廊下の蛍光灯が一斉に明滅し、闇と光が交互に叩きつけてきた。


…ピー…

音が鳴る。だが、今度は一分に一度ではない。十秒ごと、いや、それより早い。

耳の奥に食い込むように、電子音が立て続けに降りかかる。


壁紙が膨らみ、裏側から何かが押している。指の形。掌の形。

倉科が叫ぶ。

「廊下に出るなって、これのこと…!」

膨らみが破れ、黒い影が床に零れ落ちる。液体のようで、影そのものが物質になったかのようだ。

床に滴った瞬間、影は立ち上がり、人の輪郭を形作る。

顔のない「住人」。


悠真は息を呑み、思わず後退った。

その影の口の位置に、裂け目ができる。

音が鳴る。

…ピー…

電子音と同じ高さで、裂け目が共鳴していた。


古賀が震える声で言った。

「音は“扉”でもあるが、“呼び水”でもある。数えられない者を、影は食う」


三枝が立ち尽くす。額に汗が滴り落ちる。

「もう数えられない…今、何回目だ…?」

影が三枝に滲み寄る。


倉科が咄嗟に悠真の腕を掴んだ。

「声に出せ! 数えて!」


「――いち!」

「に!」

「さん!」

三人の声が重なる。


音と同じリズムで、必死に声を合わせる。

「よん! ご! ろく!」

声を外した瞬間、影が牙を剥くように震える。


…ピー…

「しち!」


九回目の音が鳴った瞬間、影が揺らぎ、床に吸い込まれるように崩れた。

照明が安定する。廊下は再び灰色に戻っていた。

時計は「23:11」を指し、秒針が止まる。


全員、荒い呼吸を繰り返した。

倉科の額から滴る汗が、冷たい床に落ちて広がる。

「…これが、禁忌の時間」

古賀は口を閉ざしたまま、肩を震わせていた。


記憶の鍵


禁忌の時間を抜けたあと、三人と古賀は9階の踊り場に腰を下ろした。

倉科が古賀に問い詰める。

「古賀さん、あなたは何度も“戻れない”って言う。じゃあ、あなたはどこから来たんです?」


古賀は沈黙のあと、ゆっくりと答えた。

「わたしは管理人だった。だが、ある日を境に、この空間に囚われた。…ここは“マンションの形をした檻”だ。住人の記憶と後悔を餌にして、姿を保っている」


悠真の心臓が一度、跳ねた。

「記憶…?」


古賀の視線が悠真に向く。

「君の部屋の玄関の上、箱の中に鍵があるだろう。君はまだ、それを返していない」


母の声が脳裏に蘇る。

――「いい加減、あの人から受け取ったものは全部捨てなさい」


悠真は膝を握りしめた。

その箱には、父が家を出ていく直前に渡した合鍵が入っている。

「お前に預ける。いつか迎えに行く」と笑った顔。

しかし父は帰らなかった。数年後、事故死の知らせが届いた。


倉科が目を細める。

「“返せない鍵”が、出口を塞いでいるのかもしれない」


三枝が苛立ったように声を上げた。

「そんな個人的な過去が、どうして全員を巻き込む!? ふざけるな!」


古賀は淡々と答える。

「この異空間は一人の後悔だけでは形を作れない。住人の“継ぎ接ぎ”でできている。君の過去も、私の過去も、彼女の過去も。全部つながっている」


倉科の頬がわずかに引きつった。

彼女の目に、夜勤の病棟で亡くした患者の顔がちらついていることを、悠真は悟った。


ロビーの掲示板の貼り紙――消防点検の紙――が頭に蘇る。

同じものが無限に繰り返されていた。

記憶の継ぎ接ぎ。

偽物の現実。


悠真は立ち上がった。

「…俺、15階に戻ります。玄関の上の箱を、確かめたい」


古賀は目を伏せた。

「箱を開けたら、道が分かれる。残るか、出るか。だが、どちらにしても“戻れない”」


…ピー…

音がまた鳴った。

だが今度は、ただの電子音ではない。

遠く、どこかで扉が開く重い音が重なった。


倉科が息を飲む。

「次は、16階…」


三人と古賀は顔を見合わせ、再び階段を上がり始めた。

それぞれの胸に、自分だけの記憶の重荷を抱えながら。

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