『出口無きマション』

稲佐オサム

第1章 目覚めと「同じ廊下」


目を開けた瞬間、天井の白が異様に平坦に見えた。

高城悠真は、寝起き特有のぼんやりした頭で、まずスマホに手を伸ばす。午前7時12分。通知はない。カーテン越しの朝の光はやけに冷たく、音が薄い。鳥の声も、道路の車音も、隣の部屋の生活音もない。

――夏休みの朝にしては静かすぎる。


ベッドから足を下ろしたとき、足裏に触れたフローリングの感触だけがやけに具体的だった。靴下を穿き、制服ではなくTシャツに短パンのまま、玄関へ向かう。ドアスコープを覗くと、いつもと同じ共用廊下。灰色の長尺シート、消火器の赤、非常灯の緑。

鍵を回す。チェーンを外す。

ドアを引いた。


空気が変わらなかった。外へ一歩踏み出しても、部屋の中と同じ温度と匂いが続いている。廊下の角を覗くと、いつも曲がるところに、いつもの掲示板。だが、足を進めて角を曲がっても、隣の防火扉の向こうにも、また同じ掲示板がある。

「え?」


角をもう一度曲がる。灰色の廊下。同じ観葉植物の鉢。埃の溜まり方まで一致している。

四度目の角でようやく異変を認めざるを得ない。どの角にも、同じ紙が貼られた掲示板があるのだ。


貼り紙には、管理組合からの案内。「7/15 消防点検のお知らせ」。日付は一昨日。赤い丸で強調された「10:00〜15:00」。手書きの修正線までそっくりに繰り返されている。紙の端をつまむと、指先に感じるざらつきと紙の冷たさ――そして、剝がして手放すと、貼り紙は紙の重力を裏切って空中でふるりと揺れ、次の瞬間には元の位置にぴたりと戻っていた。


背中に汗がひと筋、すべる。

エレベーターホールへ急ぐ。

銀色の扉に映る自分の顔は青白い。呼びボタンを押す。応答音はやけに乾いている。

「…来い…来い…」


扉が開いた。

乗り込む。行先階ボタンの列に違和感は、ない――ように見えた。

1〜18階。どれも点灯する。15階の自室から1階へ。ボタンを押す。

ドアが閉まり、機械のうなりが動き始める。

床下の重さが、僅かに沈む感覚とともに、数字が「15」から「14」へ、さらに「13」へと降りていく。

だが、そこで数字は跳ねた。「12」を飛ばして「11」、そして「10」。

次の瞬間、「9」に変わったときだけ、表示が妙に明るく滲んだ。

エレベーターが止まる。

扉が開く。


そこは、1階のロビーだった。

…はずだった。

空間の形も、壁面の石材も、管理人室のガラス窓も、郵便受けの縦列も同じ。だが、外へ繋がる自動ドアの向こうにあるべき世界が、灰色の無で塗りつぶされていた。

薄い半透明の膜が、ドアの外にすりガラスのように張りついている。外光はある。だが、景色がない。

自動ドアに近づく。センサーが反応し、静電気をためたような息継ぎの音とともに、ドアは開いた。

足を踏み出す。

空気の密度が変わらない。地面に乗る感覚がない。

一歩の先が、どこにも接続されていない。


背筋に冷水を流し込まれたように飛び退く。

自動ドアは、音もなく閉じた。


ロビーの壁時計は、7時12分で止まったまま秒針だけがカチ、カチ、と同じところを踏み続ける。郵便受けの前に、昨日の夕刊が束で立てかけられている。日付は「7月17日」。

スマホを取り出す。アンテナは立っている。「4G」の表示。検索窓に「東京都」と入れる。読み込みのぐるぐるだけが回り、何も返さない。

メッセージアプリに、未読がひとつ増えた。

差出人:不明 件名:(なし)

本文は一行だけ。

――「出たいなら、音を数えろ」


喉がひくつく。

ロビーの空気の静寂の中に、かすかな音があると気づいた。

…ピー…

…ピー…

等間隔の、電子音。どこかの火災報知器でも、心電図でもない。1分に一度、短く鳴る。

時計は動かないのに、音だけが時間を刻む。


エレベーターの扉が、ふたたび開いた。

足音。

スニーカーのソールが石床を擦る音とともに、黒いジャージの上着を羽織った女性が現れた。二十代半ば、肩までの髪を雑に結び、目の下にうっすらとクマ。

「…あなたも、今朝から?」

彼女の声は、想像より落ち着いていた。


悠真はこくりと頷く。喉から言葉が出にくい。

「高城、です。15階」

「倉科。4階。看護師」

彼女は胸ポケットからボールペンと付箋を取り出し、スッと自動ドアの金属枠に線を引いた。青いインクが金属の冷たさにささくれ、かすかな音を立てる。

「印を付けても、数分で消える。でも“完全に”ではない。消える直前に、必ず一回だけあの電子音が鳴る。私が気づいた法則」

…ピー…


二人は同時にロビーの天井を見上げる。そこにスピーカーは見えない。

倉科は短く息を吐いた。

「外は、ない。足を出すと床が床じゃなくなる。私は自転車で押してみたけど、前輪だけが沈んで、後輪はここに残った。意味がわからない」

「メール、来ました?」

「え?」

悠真はスマホの画面を向ける。

倉科の目が細くなる。

「私にも、さっき同じ文面が来た。アドレスがない。返信もできない」


ロビー中央のソファに腰を下ろすと、クッションは人間の重さを受け止めたが、沈み込みが戻る速度が妙に遅かった。まるで時間の粘度だけが濃くなっている。

倉科が言う。

「他にも何人か。上層階にサラリーマンの男性、11階に小学生の姉妹と母親、管理人室には…誰もいない。名札と鍵束だけ」

「出入口は、ここだけじゃないですよね。非常階段は?」

「試した。上に行っても下に行っても、同じ風景に合流する。階段の段数を数えたら、奇数で終わるはずが偶数で終わった。二回目は逆になった」

倉科は短く笑った。乾いた音。

「物理の授業で習った世界が、ここでは機嫌を損ねてる」


ロビーの隅の掲示板に、誰かの書き置きが磁石で留められているのに気づく。B5の紙。ボールペンの筆圧が強い。

《外に出るな。窓を開けるな。22:44〜23:10 廊下に出ないこと。音を数えろ。――古賀》

古賀、という名前に見覚えがある。昼間に管理人室で座っている、白髪交じりの男性だ。

「古賀さんは?」

「見てない。でも、この紙が昨日はなかったことは、覚えてる」


…ピー…

三度目の電子音が鳴った。

悠真は自分の鼓動を指先で数え、音と心拍が微妙にずれているのを感じた。音の方が、少し遅い。

「音を数えろって、どう数えるんでしょう」

「一分に一回。時計は止まってる。でも、音は鳴る。仮に三回目で印が消えるなら、三分。法則があるなら、出口も“法則の外側”にあるはず」

倉科は立ち上がり、郵便受けの列に歩み寄ると、ひとつの受け口に指を差し込んだ。15-07。悠真の部屋番号。

中に紙の感触。取り出すと、薄いメモが折り畳まれている。

《ゆうまへ おかえり》

文字は、幼い。だが、懐かしい癖。

胸の奥がざわつく。

「誰が…」


ロビーの奥、管理人室のドアが、内側からコト、と鳴った。微かな乾いた衝突音。

二人は目を合わせる。

倉科が顎で合図を送る。

悠真が先に進む。ドアノブに触れると、金属が体温を吸っていく。回す。

そこは無人の小部屋。デスク。古いPC。棚には名札。

そして壁の奥に、もう一枚のドア。

表札はない。

ドアの表面には、鉛筆で書いたような薄い線で、四角が三つ、縦に並んでいる。

上から「1」「4」「9」と数字。

エレベーターで滲んだ「9」の表示が脳裏に浮かぶ。


…ピー…

四度目の音。

倉科が呟く。

「平方数…?」


悠真は、メモを握りしめたまま、9と書かれた四角に指を置いた。

金属でも木でもない、紙でもない、肌理のない冷たさが指先を撫でる。

次の瞬間、指先に柔らかい抵抗が生まれ、四角がゆっくりと沈み込んだ。

管理人室の奥が、わずかに暗くなった。

空気が入れ替わる――音も風もないのに、匂いだけが変わる。湿った土の匂い。


「離れて」

倉科の声に、悠真は半歩退く。

暗さの奥から、何かが、こちらへ。

光ではない。影でもない。

“外側”の輪郭が、こちらへにじんでくる。

その形は、扉であり、窓であり、そして――


…ピー…


五度目の音が、異様に近くで鳴った。

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