令和神仙譚

佐藤万象 banshow.s

プロローグ

谷川岳。標高一九七七メートル、群馬県と新潟県の県境の三国山脈に属する、日本百名山のひとつである。この山は標高が二千メートルにも満たないのだが、急峻な岩壁と複雑な地形に加え中央分水嶺との関係もあって、天候の変化も激しく遭難者の数も群を抜いて多いという。

 一般的なルートでは天神尾根を通るコースが、ほとんど危険な個所がないために、もっとも遭難者が少ないといわれている。反対に遭難者が一番多いのは、一ノ倉沢を経由しての岸壁からの登頂で、一九三一年から開始された統計によると、二〇一二年までに八〇五名の死者が出ているという記録が残っている。

 これは各国の八千メートル級の高峰十四座の遭難死者数が、六三七名であることをみてもわかるように、この飛び抜けた数字は日本のみならず「世界のワースト記録」として、ギネス世界記録にも記載されている。

 その谷川岳に、一ノ倉沢口から登頂しようとしている若者がいた。時は令和元年十二月三十一日、午後三時頃から登頂を開始してから、天候の崩れもなく順調なクライミングを続けていた。一ノ倉沢からの登頂は急勾配や断崖絶壁も多く、もっとも難攻不落なコースのひとつとされていた。

だが、この男は違っていた。彼の名は上山昇太郎という、名前からして登山とは切っても切り離せないよう名なのであった。しかし、そんな彼が何故こんな師走の大晦日に、しかもたったひとりで谷川岳に登頂しようとしたかについては、ちゃんとした彼なりの大義名分があったからだ。

 彼が登山を始めたのは大学に入って、山岳部に所属してからだから、かれこれ七・八年が経過している。そんな根っからの山男である昇太郎は、彼をよく知る人びとから質問されることがあった。

「お前はいつでも必死になって、山登りをしているようだけど、いったい何が面白くてそんなに山登りばかりしているんだい?」

 すると、彼はいつも決まってこう言うのだった。

「何がって、誰の力も借りないで自分だけの力で頂点に達した時の、何とも言えない爽快感が素晴らしいからさ。きみにもぜひ薦めたいね」

 と、いうような訳で、これまでも何回か登頂している谷川岳に来ていた。そんな中で、この年の四月三十日を以って平成天皇が退位され、翌五月一日に第一皇子である徳仁親王が即位され、元号も「令和」と改元されたのだった。

 そこで彼が考えたのは、新しい年の元日に谷川岳の頂上に立って、初日の出を眺めることが出来たらどんなに素晴らしいだろうかと。

 彼はしばらくの間そんな思いに取りつかれて、同じ山岳部の仲間たちを誘って回った。しかし、仲間たちの反応は意外と冷たいものだった。

「俺はイヤだね。せっかくの正月休みじゃねえか。郷里にでも帰ってゆっくりと過ごしたいし、ひさしぶりに友達とも逢いたいから行かねえよ。そんなに行きたければ、お前ひとりで行けばいいだろう」

 と、いうのが、大半の仲間たちの反応だった。

「くそ、なんて根性のない奴らばかりなんだ。こうなったら意地でも俺ひとりで登ってやる…。いまに見ていろよ」

 こうして、ひとり着々と準備を続けてきての今日であったのだ。

 午後十時を回った頃には、谷川岳もどうにか八割方を登りつめていた。

「よし、ここまで来れば、まずはひと安心だ。ここら辺りでひと息入れるか…」

 彼は独り言のようにつぶやくと、新たにハーケンを岩盤に打ち込むと、カタビラを掛けてザイルを固定した。上を見上げると半月に近い月が、中点よりやや西に傾きかけていた。山の天気は変わりやすいというが、今日は雪がチラつくこともなくコンデションとしてはまずまずの日和だった。

 彼は上着のポケットをまさぐると、煙草を一本取り出し口に咥えるとターボライターで火をつけた。この内部燃焼型のターボライターは、特に風に強く野外の風の強い場所でも、高速でガスを噴出して着火させるために、一度着火した炎は指を離さない限りまったく消えることはない。

 昇太郎は吸い込んだ煙草を一気に吐き出すと、煙は瞬時にして視界からかき消されて行った。こうして束の間の休憩を取ってから、彼は再びほとんど垂直に近い壁面を頂点を目指して登り始めて行った。

 それから五時間ほどが過ぎただろうか、上を見上げるとようやく頂点も間近に迫っていることがわかった。月も西の山並みに沈もうとしている時刻だった。

『頑張れ昇太郎…、もう少しの辛抱だ。もうすぐ頂上だぞ…』

 上山昇太郎は、そう自分を励ましながら登り続けて、そしてついに谷川岳の頂上に到達することが出来たのだった。

「ついにやったぞー。ついに俺は、たったひとりの力で谷川岳の頂上に立ったぞー。バンザーイ、バンザーイ…」

 上山昇太郎の叫び声は山々に木霊して、四方八方から彼のもとへと帰ってきた。夜明けまでには、まだ幾分の余裕がありそうだった。

 昇太郎は適当な岩を見つけて腰を下ろした。しばらく時間が経って、ここまで全力を尽くして登ってきたせいか、全身にかいた汗が急激に冷え込み体中に悪寒が走った。一日のうちで、いまの時間帯がもっとも冷え込む時間帯でもあった。

 昇太郎は寒さで全身の震えが止まらず、奥歯がガチガチと音を立てるのをどうすることも出なかった。震えながらも東の空がうっすらと白んでくるのが見えてきた。

「よ、夜明けだ…。つ、つ、ついに夜が明けるぞ……」

 震えが止まらないまま、昇太郎はそれだけつぶやくのがやっとだった。見る見るうちに東の空が明るくなり、やがて令和二年の元日の初日が登り始めた。ゆっくりと立ち上がって、昇太郎は初日に向かって両手を合わせた。体の震えは未だに止まらないままだったが、やっとここまで辿り着いたという安堵感と、いままで一度も味わったことのない従属感とが彼の全身に漲っていた。

 遠く遥かな山々の地平から登った令和二年の太陽は、周辺の山並みを明々と照らしながらゆっくりと登り切った。

 昇太郎は震えの止まらない手で、もう一度両手を合わせ初日を拝した。

「さて、こう寒くちゃたまらないや。早く宿に戻ってひと風呂浴びて、有ったかいお雑煮でも頂くか…。よし、下りよう…」

ザイルを止めてあるハーケンを確認してから、昇太郎はゆっくりと降りる準備を始めた。絶壁の岩肌に掴まりながら最初の足場の確認にはいった。岩はがっしりとしていて、昇太郎の体重を預けても動じないほどしっかりとしていた。

「よし、これなら大丈夫だ。さあ、下りよう…」

 次の左足を下ろした岩も、昇太郎の全体重を支えてくれた。そして、三段目の岩に右足をかけた時だった。見た目にはガッチリとした岩に見えたが、昇太郎が体重をかけた途端にザクッという鈍い音とともに、昇太郎の体重が掛ったまま崩れ落ちて行った。バランスを失った昇太郎もそのまま落下したが、

『ザイルは切れっこないし、ハーケンはしっかりうちこんであるから、抜け落ちる心配はないぞ。あとは何とかして這い上がる工夫をすればいいさ…』

 などと考えてはいたが、そもそもその考えが甘かった。

 昇太郎の体重に落下する速度が加わり、その落差スピードのほうが遥かに大きく最初のハーケンは、昇太郎の体重と落差速度に耐え切れず、無残にも見事に弾けて飛び散った。さらにスピードが加わって二番三番と続けざまに、ハーケンは無情にも岩盤から弾け飛んで行った。

「うわぁー、もう、ダメだぁ…。オレは死ぬんだぁ…。もう助からないんだ……。うわぁぁ………」

 わずか数秒間の時間だったが、昇太郎にはそれが数十分にも数時間にも感じられた。そして、数秒後。鈍い音とともに昇太郎の意識は途絶えた。

 それから、どれくらい経ったのか定かではないが、やがて、ゆっくりと昇太郎の意識は戻ったようだった。昇太郎は静かに眼を開いた。

「あれ、生きるのか…。オレはてっきり死んだかと思ったのに、助かったかぁ…。あれ、でも、何だかおかしいぞ。さっきまで月とか星が出ていたのに、なんでこんなに真っ暗なんだ……」

 空を仰いでみたが、星どころかまるで墨汁を流し込んだような、暗黒な領域が昇太郎の眼前を覆っていた。眼を見開いてよく見ようとしても、鼻を摘まれても分からないほどの完ぺきな闇だった。

 こんなところに、いつまでもいるわけにはいかないと思い、昇太郎は右手を動かそうとした。だが、動かそうとした右腕の感覚がまるでないことに気づいた。いや、動かそうとしても、それは右腕ばかりのことではなく体全体としても、まるで感覚を感じ取ることが出来なかった。いまの昇太郎はもはや肉体を離脱した、魂のような存在になっていたのかも知れなかった。

 その時、昇太郎の傍らの闇の一部がボーッと霞んだように見えた。それはゆっくりと白い霧状のようなのに形を変え、徐々に黄金色を帯びたかと思うと最終的には、金色に光り輝くひと形となって変貌を終えた。

 そのものは、音もなく昇太郎に近づいてきた。傍まで近寄ってきても強い光を放っているために、ひとの形態を取ってはいるものの、全体像としての輪郭はどうしても認識することはできなかった。

 すると、そのものは昇太郎のすぐ側までくると、ピタリと静止すると昇太郎の心に響き渡るような声でこう訊ねた。いや、正確に言えば、それは声ではなく昇太郎の心に直接伝わってくる、そのものの想念だったかも知れなかった。

『そなたは大山昇太郎ですね』

 そのものは女の声で尋ねてきた。

「そ、そうですけど、どうしてぼくの名前を…、あなたは一体どなたなのですか…」

 昇太郎はもはや何も考えられなかった。

『わらわは、この仙郷に棲むソーラ・マラダーニアと申すもの、そなたが落ちるのを見て下りてまいりました』

「ぼくはどうなったのでしょうか。さっき腕を動かそうとしても、手も足もまったく感覚がないんです。ぼくは一体どうなってしまったんでしょうか…」

『さよう、これは忌々しき事態なれば、そなたたちの言の葉を借りて申すならば、そなたはすでに生命を絶たれております。おお、なんという、誠に忌々しきことじゃ…。そなたは、それに気づいてもおらぬとは…』

「そうすると、ぼくは死んでしまったということですか…。あの高さから落下したのなら、万が一にも生きているわけがないか……」

『ひとつお尋ねいたしますれば、そなたはさほど驚かれた様子もなく、自らの死を疑う余地もなく受け止めし、純然たる振る舞いには殆幾(ほとほと)感服いたしました。それにしても、わらわの容姿を見てもいささかも動ぜぬとは、ますますもって見上げたもの…。このままにしても置けますまい。何とかせねばなりませぬ…』

「そ、それじゃ、ソーラさんとかおっしゃいましたね。あなたはぼくを生き返らせてくれるんですか…」

『それは、一度死んだものを黄泉がえらせるなどと云うことは、いくらわらわとて叶わぬことじゃ…』

「それじゃ、やっぱりぼくはこのままここで白骨化して、人知れず朽ち果ててしまうのでしょうか…」

『まだ、わらわは何も申しあげてはおりませぬ。それ故に如何にして、そなたはそのような先走った考えを抱くのでありましょうか』

「だって、ぼくは現にこうして自分の死を認めているじゃありませんか。恐らくぼくの頭蓋も内臓も、グシャグシャに砕けて飛び散っているのに違いありません。魂だけが取り残されて、こうして現在に至っているのだと思います…」

『ほほほほ…、さすがにわらわがお見受けしたとおりの聡明なお方のようですね。そなたは、まさしくこの日のために選ばれた存在なのでありましょう』

「何を云っているのか、ぼくは何のことやらさっぱり解かりませんが、とにかく、ぼくが死んだことには違いないということですね。それに、あなたはどうしてそんなに光り輝いているんですか…」

『誠にごもっともな質問ですこと…、これはわらわたちが仙郷より人界に降りた時に起こる現象で、さほど珍しいとも思いませぬが…、もう間もなく消えて失せることでありましょう』

「さっきから聞いていると、仙郷とか下りてきたとか云っていますけど、その仙郷というのは一体何のことなんですか…」

『これは失礼いたしました。それではご説明を致さねばなりませぬ。

仙郷とは、そなたたちの言の葉を借りれば、神またそれに準ずる神仙の棲みいしところ、天空高きところに在りて人界からは、見ることも触れることも出きない場所ということになりましょう』

「え、それじゃ、あなたは神さまなのですか…」

『いいえ、それは違います。それに、そのような大それたことを云われては、わらわが困ります。神とは唯一無二の存在。わらわどもよりも、より高い天におわしに遊ばされます。されど、わらわどもとて神に準ずる存在なれば、そなたをこのまま見過ごすわけにはまいりませぬ。それに本日は、地球が太陽の周りを一周して、またもとの位置に戻ってきたという、たいへん目出たき日でもありますゆえ、何とか致さねばならぬとは思ってはおりました…』

「そ、それじゃ、ぼくを生き返らせてもらえるんですか…。ソーラさん」

『それは、わらわにも到底叶えられぬこと、たとえわらわが神仙とはいえども一度生命を失いしものを、いま一度黄泉返らせることなど、神をも恐れぬ所業ではありませぬか。しかして、このままにしておくのも忍びなきことゆえ、生き返られることは叶いませぬが、仮の生命を与えてあげることは可能かと思われます。

 但し、仮の生命とは申せども、そなたはその段階にてすでに人間にはあらず、わらわたち神仙の一族に属することになり、時を超えて困っている人びとを助けなければなりませぬ。それでもよろしいのですね』

「時を超えてって…、そんな力はぼくにはありませんよ…。ソーラさん」

『その心配には及びませぬ。わらわが、そなたに仮の生命を与えるのと同時に、「翔時解」と申す法力を伝授いたしますゆえ、それを用いればどのような時代にも瞬時にして行けるのです、さあ、これからそなたはどこでもよい、自分の好きな時代に翔んで困っている人びとを助けなさい。これはわらわからそなたに与える最初の試練と思いなさい。さあ、お往きなさい。自分の好きな時代へ…』

「あ、ちょっと待ってください。ソーラさん、ぼくが往く前に本当のあなたの姿を見せていただけませんか…。まだ輝きが止まらないので、眩しくて完全には見えないんですけど…」

『これはわらわとしたことが、たいへん失礼をば致ししました。未だ下界光が消えていないとは、まったく解かりませんでした。重ね重ね失礼をば致しました。直ちに解きますれば少々お待ちくだされませ…』

 ソーラはくるりと一回転したかと見るや、たちまち羽衣伝説に出てくるような天女の姿に代わっていた。

「あ、それがソーラさんの本当の姿なのですか…。まるで、子供の頃に絵本で読んだ天女さまみたいだ…。何という美しさだ……」

 昇太郎はうっとりとして天女姿のソーラに見とれていた。

『そなたはわらわの、この姿になにか不服でもお持ちなのですか…』

「いえ、とんでもありません。あまりにも美しすぎて、ただ見とれていただけです」

『ほほほ、それは何よりでござりました』

 ソーラは満足そうに微笑んだ。

『さあ、これからそなたはどちらに往くかは存じませぬが、出かける前に仙郷にてゆっくりとお休みになられてからお出でなさりませ、わらわがいい夢を見させて差し上げましょうほどに、さあ、参りましょうぞ』

「その前に、ひとつお尋ねしてもいいですか…」

『どのようなことでござりましょう。何なりとお聞きくだされませ』

「あなたたちの棲んでいる、仙郷とはどのようなところなんですか…」

『ほほほほ、よほど気になると見えますのね。昇太郎どのは…』

「それはそうですよ。何しろ、初めて往くところですから…」

『仙郷というところは、人界のように戦いとか人を殺めることとか、それらすべての醜い事柄から一切解放された、人界でいうところの天国よりもさらに穏やかな、ひと言で云い表すことなどできないほど、素晴らしいところでございますゆえ、どうぞ、楽しみにしていてくださりませ。

 それから、昇太郎どの。そなたはもはや神仙の一族になられた身ゆえ、口から言の葉を発することはお控え遊ばされては如何かと存じます』

「え、じゃあ、ぼくもソーラさんのように、相手の心に直接言葉を伝えることができるのですか…」

『はい、そのとおりです。これはわらわたちの法力で内言法と申します。これを用うれば人のみにあらず、いかなる動物とでも心を通じ合うことができましょう』

「でも、どうやったら、自分の思いを相手に伝えられるのか、ぼくにはまったく解かりません…」

『造作もないことです。相手に伝えたい自らの想い考えていることを、心の中で強く念ずれば、それだけでいいのです。ただ、それだけのことなのです。さあ、昇太郎どのもわらわに向けて、念を送って戴ければわかると存じます』

「果たして、ぼくにできるのかなぁ…」

 昇太郎は、そういうと眼を閉じてソーラに向けて、自分の想いを必死に送り続けた。

『ソーラさんは、なんという素晴らしく綺麗なひとなんだろう…。まるで女神さまのようだ…。きっと世界中で一番美しい方なのだろうな…』

 すると、昇太郎の念を感じとったソーラは、思わずその輝くような頬や耳まで真っ赤に染めた。

『し、昇太郎どの…、そのような念を送られては、わらわは…、わらわは……』

 いまにも消え入りそうな表情で、ますます止まるところを知らぬほど、その頬の朱の色は強まっていった。

『もう、いいでしょう。ソーラさん、ぼくをその仙郷とやらに連れて行ってください。さあ、往きましょう…』

 こうして、ソーラは昇太郎を連れて天空高く舞い上がって行った。


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